エピローグ③
ヒストリカさんの家を離れ、私はひとり、街の中を進む。時折、街の復興のために作業するひとたちを見かけたけれど、進んでいく中で、人の姿はなくなっていく。当たり前だった。私が目指す『場所』には、もう何もない。復興のために作業するものすらないのだから。そうして辿り着いたのは――もはや誰も住んでいない廃屋。
私の家だった。
「…………まだ、無事だったのね」
もう、随分と長くここには誰も住んでいない。五年前に、ハルカの死を知らされた私は、修行のためにヒストリカさんの家に移り住んだ。この家には――美しい思い出ばかりだから、復讐に身を投じた私には、あまりにも眩しすぎたし、苦しすぎた。ここに残っているのは、あの頃の私の残滓。時間の経過で荒んだ外観と、無造作に生い茂る雑草の群れが目に付く。
「――――――――」
もし、私とハルカが、ハイブリッドとして宿業を受け継がなかければ。私たちが殺戮の運命を背負っていなければ、ここで、どんな風に過ごしたろう。両親に愛され、兄に愛されて。そして、復讐の炎に身を焦がすことなく、当たり前のように学院に通っていた、のだろうか。そこにいる私は、きっとたくさん笑っていたに違いない。でも、それはもう有り得ない未来で、今、ここにいる私が現実で、真実だった。両親はもういない。ハルカも、もういない。たくさんのひとに力をもらって、再び私は未来に向けて歩こうとしている。だとしても――――、私は、空を仰いだ。
「やっぱり、ここにいたか」
――声が掛かる。
ゆっくりと私は視線を下ろし、声のした方を見た。
そこにいたのは、私にとって、誰よりも大切な人だった。
「…………ウィル」
ウィルフレッド・ライツヴィル。
「おはよう、アリサ」
「…………おはよう、ウィル」
■
私とウィルは、私の生家に足を踏み入れる。
荒れた家だ。もちろん、家具が倒壊したりとか、穴が開いているといったことはない。五年前に私が家を出たときから、何も変わっていない。けれど、明らかに空気が沈み、淀み、薄暗かった。街であれほどの戦いがあったのに、ここだけは、その余波を受けていなかったようだ。埃が積もりに積もっている。私たちは、いろいろな想いでそれらを見渡した。
「初めて入るよ」
「そう、だったかしら?」
「アリサは、この家のこと、話さなかっただろ?」
「……そうね。この家のことは、思い出したくもなかった」
両親のものは処分されていない。そして、当然ハルカのものも。私はあの日、ハルカの帰りを待っていた。ハルカが帰ってくるものだと、信じていた。私が戦いに身を投じることなど知らないあの日の私にとっては『ハルカが帰ってこない』ということすら、頭を過りもしなかっただろう。食事をするテーブルには、ハルカの帰りを待っていたらしい痕跡がある。兄と妹の皿が、その上に今も残ったままだ。私は自分が使っていた皿に触れる。つうっ、と指でその表面をなぞれば、埃の束が指に絡みつき、なぞった部分だけ真っ白な皿の表面が浮き上がる。私はその埃をじっと見つめた後、指で払い退けた。
「――止まったまま、だわ」
「アリサ」
「あの日、から。ハルカが帰ってこないと知った、あの日から、ずっとこのままだったの」
この場所の時間は、ずっと止まっていた。
そして、私の時間も。
「ここにいると、優しかったハルカを思い出す。それに、両親のことも。――あんな風になってしまった、けれど、ここは私にとって幸せな時間が、あった。確かに、あったのよ。もう戻ることは無いとしても、それでも」
私を呼ぶ声が、この家に、この部屋に、残っている。染みついている。記憶と思い出は、あらゆるものの中に秘められて、留まり続けている。この皿一つ、その棚一つ。そこに触れて、穏やかな日常を送っていた私と、私の家族が、瞳の裏で息づいている。荒れ果てても、鮮明に。
『アリサ』。
『アリサ』。
『アリサ』――――。
母と父、そして、ハルカ。突然いなくなった両親への悲しみは、消えることは無い。そして、ハルカは――……。
私の敵だった。最後には、私の手で決着をつけなくてはならなかった。ハルカが為そうとしていたことは、あまりにこの世界にとって理不尽で、私の大切な人たちのため、その人たちにとっての大切なもののため、止めなくてはならなかった。だから、最後には彼に刃を向けた。後悔はない。ハルカとの戦いに自分で幕を下ろしたことは、誇らしく、晴れやかな気持ちだ。
でも、それでも。
彼は、私の、兄、だった。
「ご、めんなさいっ…………」
私は、その場に崩れ落ちた。
口元を押さえて、溢れ出る嗚咽を塞ごうとした。それでも、無理だった。
私の目から。
とめどなく涙が流れ落ち始めた。
「アリサっ!」
ウィルが、崩れ落ちた私を抱き留める。背中に手を回してくれて、擦ってくれる。それでも、私は収まらない。視界がぐちゃぐちゃになるほどに、涙が流れ続けて、止まらなかった。私は、この五年間、一度として泣かなかった。ハルカが帰ってこないと知ったあの日から、ずっとずっと泣き続けて、復讐を決意した日に涙を枯らし終えた、はずだった。もう、私の身体には涙を流すことなどないと、私は思っていた。
「あぅ、ぅ……っ、あぁ…………っ…………」
それでも、涙が止まらない。心が、揺さぶる。私の命が揺れていると思うほどに、瞼の裏から、ただひたすらに、零れ落ちていく。自分の手が濡れて、拭っても拭っても、収まりが聞かない。呼吸さえ怪しくなって、自分が、自分で分からないほどに。とうとう、自分の手で拭うことすら難しくなって、私は、抱き留めてくれたウィルの胸に顔を寄せ、預けるようにして泣いた。
「頑張ったな、アリサ……お前は、本当によくやった、頑張った……頑張ったよ……」
ウィルが私を抱きしめて、頭を撫でる。その温もりも、私の涙を刺激する。
もういなくても、私を裏切っても。
最初から、想いが寄り添っていたわけではなくても。
私を紡いだ思い出の中には、確かに信じた姿がある。それが、私の胸に残る家族。それさえ嘘だって切り捨てたら、もう私には何も残らない。戦いに駆けた人生も、これから生きていく未来も、その道筋の先にあるのだから。だから、どうしようもなく、切なくて、悲しい。もういない、もういない、もう帰ってこない。戦い終えた今だから、全てが決着した今だから、否応なしに心が受け止める。もう、本当にいない。お父さんも、お母さんも、ハルカも。もう、いない、もう、いない。
「あっ、……っ、……ああ……ぅ、ああぁ、ああああ……!」
私は、ただ泣き続けた。泣いて、泣いて、泣いた。たくさんのひとと話をして、勇気をもらったけれど。それでも、このときだけは。このあとのこと、未来のことは、ひとまず忘れて。この身体が望むままに、心が望むままに、ウィルの胸に何もかも預けて、みっともなく、情けなく、泣き続けた。
■
私とウィルは、私の家を離れ、街を一望できる小高い丘へ登った。木造りの柵が取り囲み、休むためのベンチもある、ちょっとした公園だった。その柵に寄り掛かり、私とウィルは隣同士で街を見下ろす。遠くに学院があり、城が見える。その向こうに城壁があり、連なる山々があり、空がある。私たちの間に風が通り抜け、太陽の眩しさに少し目を細める。
「あの家は、綺麗に片付ける」
私は、ぽつりと言った。
「取り壊したりはしない。あの家には、思い出が詰まっているから。だからもう、時間を止めたままにはしないわ。掃除をして、整理整頓して……自分の気持ちに整理をつけようって、思う」
「……そうか。お前がそうしたいっていうなら、それがいいさ」
「そのときはウィル、あなたにも、手伝ってほしいの」
「分かった。手伝うよ」
私は、ウィルを見つめる。
――ウィルは、変わらなかった、と思う。私はこの五年間、そして学院に入学してからの戦いを経て、成長できた、と思う。大切な人たちも出来た。勇気をくれる人たち、励ましてくれる人たち。いろいろな出会いを経て、以前の自分ではない、新しい私に出会えた。でもウィルは……変わらない。私と出会ったあの日から。ウィルの心の内を窺い知ることはできないけれど、それでも、私の目に映るウィルは、ずっとずっと変わらない。あらゆるものを、まるで風みたいに受け流したり、穏やかに受け止めて。その柔らかさは、ずっと変わらずそこにあった。ウィルは、本当に変わらなかった。
「…………ウィル、これまで、本当にありがとう」
「うん?」
「――改めて、言わせて。あなたには、たくさん助けてもらった。五年前、あなたに出会わなければ私は壊れていたわ。それからも、いつだって傍にいて、私を支えてくれた。隣にいてくれた。どれだけお礼を言ったって言い足りない」
ウィルに、きっとお礼を言ったことはある。でも、それはそのとき、ウィルが私にしてくれた何かに対して。その時々、その一瞬一瞬に対して。でも、本当は――ウィルからもらったものの大きさを思えば、私の言葉は少なくて、とても足りなくて。それは、何度も何度も言えば取り返せるようなことじゃないほどに、膨らみ続けてきた。それでも、伝えなきゃいけない。
「ありがとう」
ウィルは、私の言葉に、少し驚いたような顔をする。
それから、軽く息を吐いた。
「どういたしまして」
そして、笑った。
ウィルの微笑みが、そこにいてくれるということの強さ。
心地よさ。
それを、今ほど感じ入ったことはない。
「――――俺も、アリサにお礼を言わなくちゃいけない」
「ウィルが、私に?」
「ああ」
ウィルは、私から視線を外すと、遠くの景色を見た。学院、の方を見ているのか。それとも、その向こうの空を見つめているのか。その横顔には、いろいろな意味と感情が見え隠れする。風が通り抜けて、ウィルの髪が細やかに揺れ動く。
「俺も、同じさ。親父からの手紙を受け取ったとき、きっと親父は――帰ってこないだろうって、すぐに気付いた。俺もガキだったからな。当然、壊れそうになったよ。でも、アリサ……お前が、いてくれたから」
「私が、いたから、……なんだというの」
「俺は壊れずに済んだ。生きる意味を見失わないでいられた。俺は、お前の復讐の手伝いをすると言っていたけど、本当は……別に、それが復讐でなくてもよかったんだ。俺は、アリサが俺の傍でずっとずっと泣き続けていたあの日、決めたんだよ。この子の願いを叶えてやろうって。それが復讐なら、復讐でもいい。そうでない道を選ぶなら、それもいい。ただ、アリサの願うままの道を、支えてやろうって」
「ウィル…………」
彼は、彼自身の手のひらを見つめて。
それから、ぎゅっと握る。
そして、私に視線を向けた。
「だから、ありがとうアリサ。お前の存在こそ、俺の支えだ」
ウィルの声が、私の中でこだまする。響き渡る。その眼差しを、その声を。その指を、その顔が、私の中へ溶けていく。――そうして、私は強く思う。たくさん失って、失い続けて、それでも私はここに立っている。そうして私はウィルと、こうして言葉を交わし合い、同じ時間を共有している。同じものを、見つめている。それを、これまでどんな風な言葉で表現したらいいのか、分からなかった。でも、今なら分かる。私は今、幸福の中にいるのだと。
「ウィル、私はあなたが――――好き」
自然と、言葉が漏れた。
恥も、躊躇も無かった。
「私はあなたと、これからも一緒に歩んでいきたい。隣にいてほしい。私が、また間違えそうになったら、正してほしい。涙を零しそうになったら、抱きしめてほしい。同じように、あなたが迷いそうになったら、私があなたの手を取りたい。あなたが寂しかったら、あなたを抱きしめたい。……あなたと寄り添って生きていきたい……私の未来に、あなたがいてほしいの」
想像できない。
私のこれからの道に、ウィルがいないことを。
ウィルが、私の傍にいてくれること。
笑っていても、泣いていても。
たとえば苦しくて、悲しくても。
傷跡が、時折私を苛んでも。
ウィルがいれば、何もかもが、幸福に進むのだと、確信めいた予感がする。――――いいえ、そんなの、ただの理屈だった。私は、ウィルが好きだ。好きで、好きで、どうしようもないほどに、好きだった。だから、傍にいてほしいだけなのだ。
ウィルは、やっぱり驚いた目をする。
そして呆れたように笑う。
「どんな言葉も、全部アリサが先に言うんだな」
彼は私に手を差し出した。大きな、手のひらだった。これまで、私を導いてきた手のひら。そして、どんなときも守ってくれた手のひらだった。その手のひらに、私は手を重ねる。そこにあった温もりは、私のずっと知っている温もりだった。
「――俺も、同じ気持ちだ。どうか、俺と共にいてほしい……アリサ」
■
私の中に、灯り続けている炎があった。
始まりは、灼熱の炎。自分を痛めつけながら、誰かを傷つけながら、それでも成し遂げたい復讐のために、心をすり減らして火にくべた、情念の炎。それは確かに私の願いを照らし、生き抜くための力だった。
でも、私の心に今あるのは――――優しい炎。私の傍にいてくれた人、大切な人たちから分け与えてもらった温もりが混じり合って出来た、心地のよい、穏やかな炎だった。時折揺らめき、輝いて、私に教えてくれる。近くにいる、と。あなたの胸の炎は、変わらずここにあると。それは、これからも私の未来を照らしてくれる。温めてくれる。
私の中に、灯り続けている炎がある。
灯り続ける、炎がある。
ハイブリッド・ブレイズ 終




