表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/56

エピローグ②

 ヘルヴィニアの街中には、至るところに復興のための人手が溢れ、そのためのテントや仮の野営所が設置されている。私が目を覚まして二週間。まだ戦いが終わってからそれほど経っていない。この街と、そしてここに住まうひとたちが、以前のような穏やかさに戻るには、まだまだ時間が掛かりそうだった。私と師匠は、一際大きな野営所を訪れた。入り口には仰々しく騎士たちが並んでいたが、私と師匠の顔を見るなり、すぐに畏まった様子を見せる。

「邪魔するぞ」

 師匠が野営所へ進み入る。中は、大きなテーブルが中央に設置され、街の地図が広げられていた。復興の計画とその進捗がまとめられているようだった。その地図を見ながら会議をしていたらしいひとたちが、一斉にこちらを向く。その中には――――ヘルヴィス王とロヴィーサ王妃の姿もあった。王様は私の顔を見ると、微笑み、会議の一時中断をその場に言い渡した。ヘルヴィス王とロヴィーサ王妃だけがこの場に残り、他のひとたちは野営所から出て行った。

「すまない。大事な会議だったか」

「いや。ちょうど休憩をしようと思っていたところだ――――それより、おはよう、アリサ君」

 ヘルヴィス王が私に言った。

「ありがとうございます……っ、うわ!」

 私が王様に答え終わったと同時に、ロヴィーサ王妃が私に抱き着いてきた。

「アリサ、よかった。無事で……」

「王妃……」

 しばらくの間、私たちは抱き合った。抱き寄せ合った。いろいろな思い出が蘇る。そういえば、私がいっとき随分と心を砕かれた時、このひとと出会った。それは私にとって、とても幸運なことだったと思う。あの出会いが無ければ、そういう出会いの先に私がいなければ、今、ここに私はいなかったかもしれない。その温もりが、こうして抱き合うことで私の中に今もあることを教えてくれる。

 少しして身体を離す。私は、ここまで背負ってきた荷物から、剣を取り出した。

 邪竜に挑むとき、王妃から借り受けた剣だった。

「あの、こちら、お借りした剣です」

「まあ。きちんと返してくださるのね。ありがとう……大切に使ってくれて」

「心強かったです。本当に、ありがとうございました」

 この剣は、ただの剣ではなかった。確かに王妃の魂そのものがそこにあった気がした。剣の達人として名を馳せる王妃の一振りが、私の背中を支えてくれたかのような、そんな煌めきがあのとき、私の戦いにひとつ、強さを分け与えてくれたといってもいい。その剣と、王妃と、戦いを共に出来たことは誇らしかった。

「もう身体は大丈夫なのかい?」

 ヘルヴィス王が私を気遣う。

「はい。長らく、ご心配をおかけしました」

「いや、いいんだ。アリサ君に複雑な事情があったとはいえ、君にいろいろなものを背負わせてしまったし、国のために命をかけさせてしまった。それは、僕たちの王家の人間としても不徳の致すところだ。本当にすまない」

「いいのです。あれは、私自身のための戦いでもありましたから」

「……感謝する。アリサ君がこれから穏やかに過ごしていけるよう、国も城も、支援を惜しまないつもりだ」

「ありがとうございます」

 ヘルヴィス王とロヴィーサ王妃が、ヘルヴィニアにとってどれほど大きな存在か、この戦いを通じて強く感じた。五年前や、学院に入学したときは、この二人と関わることになろうとは思わなかった。けれど今こうして、向かい合って話が出来る。縁というのは不思議なもので、もしこの二人と出会わないままハルカや邪竜と対峙していたら、負けていたかもしれない。それほどの存在感と包容力があった。

「ヒストリカも、ご苦労だったな」

「なんだヘルヴィス、柄にもなく褒めて」

「僕はいつも君を褒めていると思うが……」

「冗談だよ。ありがとう。復興のこと、国のことで手伝うことがあれば、いつでも言ってくれ」

「助かりますわ。もちろん『彼女たち』のことをお願いした時点で、もうあなたには随分と世話になっているけれど」

「それは構わない。私から言ったことだからな」

 師匠と王様、王妃様の会話が進む。『彼女たち』のこと、とはいったいなんのことだろう。

 少しだけ会話をして、私と師匠は野営所を出た。王様と王妃様という、国を背負って先頭に立つ二人が、自分の下の者たちや騎士団に任せず、あんな風に街中で働いている。その姿が眩しかった。

「アリサ、いつか私のところへ、剣術を習いにきてくださらない?」

 別れ際に、ロヴィーサ王妃が私を誘った。

「はい、喜んで」





 街を歩きながら。

 時折空を眺めながら。

 地面を見ながら。

 師匠が誰かと話すのを見つめながら。

 私の肌を、風が撫でていくのを感じながら。

 ひそやかに思う。


 皆、どうしてそんなにも優しいのだろう、と。

 世界はまだ、この私を、優しい場所にいさせてくれている。

 あれほどに人を傷つけ、あれほどに人を狂わせたというのに。

 まだ、私に、ここにいていいのだと笑ってくれる人たちばかりだ。

 私がずっと見てこなかったもの。願いを追いかけてばかりで見過ごしてきたもの。それは、世界にはたくさんのひとがいて、私が知らなくても、その人自身の歩みを続けてきた。この街には、この国には、そして世界は、そういう人たちの集まりで出来上がっている。そのたったひとつが私でしかないから、世界がどうあろうと、私がここに在ることを許してくれている、のかもしれない。あれほどのことをしたとしても、私はちっぽけで、多くの人にとって無関係であろうから。

 何も知らないな、と思う。

 多くの人がこれほど優しい理由を、強い理由を。

 あれほどの死地をくぐりぬけても、私は無知で、弱いのだろう。

 この風の穏やかさと、空の高ささえ。

 今まで、気に留めたことすらないのだから。



 ――――でも今は、それらを感じられる。

 感じることに、心が湧き立つ。

 それらを居心地がよいものだと思えるほどに、柔らかな余裕が胸にあった。





 戦いで傷ついた者たちが集う大きな病院に、私と師匠は向かった。

 一番奥、一般の傷病者とは違う区画の病室に、彼女たちはいた。

 クリスティンと、ケイトリンだった。

 ベッドで横になるクリスティンに、横付けした椅子に座り、クリスティンの手をじと握りしめるケイトリン。私たちの姿に気が付くと、クリスティンはゆっくりと身体を起こし、ケイトリンもまたこちらへ身体を向けた。クリスティンは身体のそこかしこに包帯が巻かれている様子だったが、聞けばヘルヴィス王による治癒魔法での応急処置が功を奏し、命に別状はないらしい。ケイトリンも戦いこそしたが、身体には特に影響はないようだった。

「…………ヒストリカ、そして、アリサ・フレイザー」

 クリスティンが神妙な面持ちと、戸惑うような声色で私たちの名前を呼んだ。

 そして。

「アリサ、ちゃん……」

「ケイトリン……」

 私たちは名前を呼び合い、見つめ合った。ケイトリンの眼差しは、奥底に涙が掠めるかのような、しかし優し気な感触のある、曖昧なものだった。お互いに何も言わないまま、少しして「私、席を外しますね」と言って、ケイトリンは部屋を出て行った。私にはケイトリンの気持ちがすぐに分かった。後で話そう――と、そう瞳が告げていたから。ケイトリンが扉を締めた音が響くと、師匠は、ケイトリンが寸前まで座っていた椅子に腰かけ、クリスティンと目線を合わせた。

「具合はどうだ。治癒魔法がうまくいったとはいえ、痛むところは痛むんだろう」

「……少しばかり痛むところはありますが、平気です。安静にしていれば、時期によくなるでしょう」

「そうか。良かったな」

 師匠とクリスティンは、学院の同級生だという。クリスティンとは、一連のハイブリッド事件で衝突したようだけど、それでも――師匠の言葉遣いは、とても慎ましく、温かだった。クリスティンを責めたり、追い詰めるような雰囲気は微塵も無かった。

「アリサ・フレイザー…………」

 クリスティンが私を見て、私の名前を呼ぶ。

 私はしばらく口を閉じるしかなかった。どんな言葉をかければよいのか、迷った。今、彼女に対して憎しみも怒りも無い。ただ、クリスティンはパーシヴァルの駒として、ハルカの駒として、私を煽り、学院で敵対した。あの頃は彼女のことを本気で憎らしく思っていたし、殺す対象とさえ認識していた。それを思えば、ここで何のわだかまりもなく、全て終わったものとして話すというのが果たして『正しい』のか、分からなかったのだ。

 沈黙が私たちの間にやってくると、師匠がつらつらと話をする。クリスティンとケイトリンの姉妹は、両親を亡くし、パーシヴァルに育てられたこと。パーシヴァルの存在を拠り所にした二人は、彼の命令には逆らえなかったこと。特にクリスティンは、パーシヴァルに心酔しきっていたこと。――――そして、クリスティンのその大きな傷は、他でもなくパーシヴァルによるものだということも。師匠が私に話す内容を、クリスティンは、じっと聞いていた。表情ひとつ曇らせず。

「…………クリスティン、また、お前の処遇については城から通達があるだろう。おそらく死罪ではないし、ほとんどの罪がパーシヴァルによるものとして処理されるだろう。だが、お前とて無罪とはならない。それなりの罰は受けることになるだろう」

「……覚悟しています。いくらでも、どれほどでも、償うつもりです」

「……それが分かっているなら、私から今更責めたりしない。互いに生きていてよかったよ」

「ありがとう、ヒストリカ……」

 師匠が笑顔でクリスティンへ言った。クリスティンは本当に人が変わったかのようだ。パーシヴァルに裏切られたからなのか、それとも……。私を慮ったり、師匠へお礼を言ったり。戦いをくぐりぬけて、心境が変わったのか。クリスティンは師匠との会話もそこそこに、私を見る。

「アリサ・フレイザー……あなたも無事だったのですね、良かった」

「……そんな言葉を、あなたから聞くことになるとは思わなかった」

 今、こちらを見たクリスティンの顔には、あの頃のような冷徹さは無かった。私が向き合い、敵対していた頃のクリスティンは、鋭い眼光に、刃物のような雰囲気が纏わりついていた。しかし、まるでそういったものたちが抜け落ちてしまったかのように、今のクリスティンには、力強さも、冷ややかさも無い。私を呼ぶ声も、ひどく弱弱しかった。

「そう、でしょうね……。あなたにとって私は忌むべき相手。それは今も変わらないでしょうから」

「…………」

「ごめんなさい」

 クリスティンは私へ謝罪をした。

 これまでのあらゆること、全てを含めての、一言だった。

 私は一度、口を開きかけて、すぐに閉じる。

 それから、少しだけ逡巡をして。

 ゆっくりとベッドに近づき、クリスティンへ言い放った。

「勝手に私の心を決めないで。あなたのことは今、恨んでもいないし、忌み嫌ってもいない」

「…………」

「――――私も、多くの人を傷つけた。たとえ、ハルカの策略で闇に堕ちていたとしても……、だから、あなたのことを責められるはずがない。そんな権利は、ないから」

「そう、ですか……」

「それに、あなたが健やかな方が、きっとケイトリンは喜ぶはず」

 私は、ケイトリンのことを考える。

 兄を失った私。ずっと前にいなくなって、思い出の中で輝いているだけのハルカが、黒々しい存在として再び目の前に現れ、そして、消えた。大好きな家族を失ったのだ。だから、ケイトリンの家族が生きていてくれたことは、ケイトリンの笑顔にもきっと繋がるのだろう。私の気持ちなど、この際、どうでもいい。私が罪を負っていてもそうでなくても、クリスティンのことを今更責めるなど、出来るはずもない。

「……ありがとう。ケイトリンを、思いやってくれて」

 ケイトリンの名前を出すと、クリスティンは少し驚き、そして、ゆっくりと微笑んだ。

「――私は、パーシヴァル様に連れ添いました。心の拠り所として、パーシヴァル様を選んで、彼の願いを叶えることが私の願いでもあって……それが私自身の幸せでもあったから。……けれど、私は本当に大切なものを見落としていました」

「…………」

 クリスティンのベッドの傍。小さなテーブルに置かれた花瓶に、黄色い花が華やいでいる。そして、クリスティンのために用意された日用品も、持ってきたであろう本も……。それら全てに、クリスティンは微笑ましい、温かな眼差しを向けている。

「私には最初からケイトリンがいました。両親を失って、絶望の淵にいても、ケイトリンはずっと傍にいてくれた。それを、私は気付きもしないで……あの子に、酷いことばかり……。こんな風に、パーシヴァル様を失ってから初めて、こうしてケイトリンにつきっきりで看病されて初めて、あの子の大きさを知るなんて……」

「――それに気付いたなら、もうやるべきことは分かるだろう。大事にしてやれよ」

 師匠が、花を見つめながら言った。

「……はい」

 クリスティンは噛み締めるように返事をする。クリスティンの冷徹さは、ケイトリンの笑顔に温められた。それは、私にも覚えがあった。あの子の存在、あの子の笑顔には、何もかもが溶けていく。溶かされる。クリスティンがそのことに気付いたのなら、どんなことがあっても、きっと大丈夫なのだろう。きっと、ケイトリンも笑える。クリスティンも、新しい道を歩めるのだろう。

 会話もそこそこに、私と師匠へ部屋を後にしようとする。

 間際、クリスティンが私に言った。

「アリサ・フレイザー……ケイトリンと、どうか仲良くしてあげてください」

 その声色は、学院のクリスティンではなく、ケイトリンの家族としてのものだった。

 私は振り返り、迷うことなく返した。

「安心して。ケイトリンは、私の大切な友達。大好きな友達よ」






 ――廊下に出ると、私はぎょっとする。

 ケイトリンがいたからだ。

 私とケイトリンが見つめ合うのを、師匠が気に留める。

「……積もる話もあるだろうから、二人で話すといい。アリサ、私は一度家に戻る。ケイトリンと話が済んだら、私の家に来てくれ」

「わ、分かりました……」

 師匠は私の頭を軽くポンポンと撫でると、その場から去っていった。

 そして、ここにケイトリンと私だけが残った。

 おそらくケイトリンは、私たちがクリスティンと話が終わるのをここで待っていたのだろう。だから、きっと私たちの話も聞こえていたに違いない。だとしたら、私がクリスティンに最後言った言葉も、聞いていると思う。私は、どうしようもない、今まであまり感じたことのない気持ちに苛まれた。心がふわりとざわつくような、そわそわとするような気持ちだった。

「アリサちゃん、ここで話すのもなんだから、屋上にでも、行こっか」

「……うん」

 それから私たちは、何も喋らないまま、病院の屋上へ上がった。落下防止用の鉄格子があるだけで、特に何もない。少しだけ高さのある病院だから、空が少しだけ近く、また街を見下ろすことが出来た。作業をしている人々、歩いている人々、集まって話をしている人々。そうした様子を遠くに見据えながら、私とケイトリンは鉄格子に寄り添って、隣同士で並んだ。

 そして、ずっと黙っていた。

 ケイトリンも何も話さない。

 私も、話をしない。

 ただずっと黙ったままでいた。隣に、ケイトリンがいる。その事実に、私はどうしようもなく言葉が詰まった。後ろ暗さでも、後ろめたさでもない。ケイトリンには話をしたいことがたくさんあって。本当に、本当に、たくさんあって。あまりにもありすぎるから、何を言おうか、口と喉が戸惑っているみたいで。そうして黙っている間に、いろいろな思い出だって蘇ってくる。

 ケイトリンと出会ったときのこと。

 それほど前のことではないのに、随分と前のことのように思える。

 そのとき知った、それまで知らなかった感情は、今もここに繋がっている。

「ケイトリ――――」

 私が、ようやっと口を開いた、その瞬間、だった。

 ケイトリンが、正面から抱き着いてきた。

 その勢いに押されて私は腰を抜かし、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。尻もちをついて、同じようにケイトリンも崩れ落ちたけれど、私の身体は離さない。ぎゅっと――――ケイトリンは私を強く、強く強く、抱き締めた。抱き寄せた。ケイトリンの頬が私の頬に触れる。息遣いと、身体の震えまで、私に伝わってくる。

「ごめんね」

 ケイトリンは、静かに言った。

「私、アリサちゃんに酷いこと、した……」

 ――――ケイトリンは、泣いた。抱き合っているから、ケイトリンの顔は見えなかった。けれど、その息遣いも、喉が詰まるような嗚咽も、耳元で響き渡る。私はケイトリンの肩越しに空を見つめる。少し自分の唇を舐めた。それから、ゆっくりと片手でケイトリンの頭を撫でた。こういうとき、そうやって相手の頭を撫でてあげることがよいことなのか、分からなかった。でも、私はそうしたかった。そうしたかったから、そうするだけだった。ケイトリンの頭を撫で、髪を撫でる。

「……そうよ、私はケイトリンに酷いこと、されたわ」

「アリサ、ちゃん」

「でも」

 私が闇に堕ちていく、そのひとつの要因となったのは、ケイトリンの裏切りだった。私の初めての友達。そのケイトリンが、実はパーシヴァルやクリスティン、ハルカの手の者で、私を追い詰めるために差し向けられた刺客だった。それは、ケイトリンに心を開きかけていた私にとって、確かに大きな傷跡を残した。それは、本当だ。でも、戦い終えて、こうしてケイトリンと抱き合っていると、穏やかにその傷を思い返せる。その傷を、どこか愛おしく思える。

「あなたが敵だと知ったとき、悲しかった。とても、苦しかった。でも、今は……あなたが私にとって、それほどまでに大事な人だったんだってこと、教えてくれたみたいで、嬉しいの。失ったとき悲しくなったり、自分の近くで、笑ってくれないと苦しい――そんな風に思えるくらいの友達と出会えたって、ことだから……」

「アリサちゃん…………」

 私は、ケイトリンの身体を、少しだけ引き離す。案の定、彼女の顔はくしゃくしゃで、目から頬、顎に掛かるまで、たくさんの涙で濡れていた。真っ赤な頬に、私は顔が綻ぶ。

「私を、友達だって、言ってくれるの? まだ、友達だって、思ってくれるの……?」

「同じ言葉を、あなたにも返すわ。あなたは、私を、まだ友達だと、思ってくれる?」

 私は、ゆるやかに手を伸ばして、ケイトリンの涙を拭った。

 熱かった。

 ケイトリンの涙も、私の指も。

「うんっ……もちろんっ……ありがとう……アリサちゃん…………ありがとう……」

 ケイトリンは、やっぱり涙を流したけど、最後には、私に笑いかけてくれた。寮で初めて会ったとき、私を『変な人』と言って、握手をして、私もケイトリンのことを『変な人』だと思った。そのとき見せてくれた笑顔と、目の前にある笑顔。同じケイトリンの笑顔だけど、私はきっと違う想いで見つめている。今は、もっともっと、大切にしたい笑顔だった。ケイトリンには、笑っていてほしい。いつまでも、ずっと。そう思わせてくれる相手に出会えた。私は、それだけでこれまでの何もかもを肯定できた。



 泣きじゃくったケイトリンも、少しは落ち着く。屋上にあったベンチに腰掛けて、いろいろな話をした。

 これからのこと、これまでのことも。あれほどの戦いがあり、様々な苦悩を乗り越えた後だから、そんな話は少し暗いものになってもよさそうなのに、そんなことはなかった。素直に、何のわだかまりもなく、私たちは笑いながら話が出来た。

「あのときはびっくりしたなあ。学院で、様子を観察してきなさいって言われた女の子が、いきなり新入生挨拶で『学院を潰します』なんて言うんだもん。凄い子だなあって、役目とか、そんなの全部忘れて驚いちゃったよ」

「あれは……学院への牽制のつもりだったの。私にも、いろいろ目的があったから」

 『私の目的は、この学院を潰すこと。そして、五年前に兄を殺した、ハイブリッドをこの手で殺すことです』――今思えば、よくあんなことを言って見せたものだと思う。周りも何も見えていなくて、ただ一心不乱に復讐だけを追い求めていた自分。

「あのときのアリサちゃんは、ずっと怖い顔してたよ。常に怒っているような感じ」

「……そんなに怖い顔だった?」

「うん。私は良かったけど、他の同級生たちは、もう絶対近寄れない雰囲気だった」

「今は?」

「……ふふ、全然怖くないよ。可愛い顔してる」

「可愛いって…………」

「ホントだよ。アリサちゃんは変わったね。もし新しい学院が始まったら、きっと皆驚くと思う」

 魔法学院はパーシヴァルやクリスティンという要を失った。これからは、ヘルヴィスを筆頭としたヘルヴィニア城が一度学院の全権を引き取り、少しの休止期間を経て、新たな形でスタートすることを目指すようだ。あれほど非道な男だったパーシヴァルだが、そうはいっても学院長。学院の運営そのものは見かけ上、上手く回っていた。それが一度完全に立ち消えて、まったく新しく生まれ変わるというのはそう簡単なことではないとは思う。でも、多くの学生が、再び学院に通うことを望んでいる。

 私も、きっと学院に通うのだろう。

 特待生の制度で、方々の都市へ回ることを許されたが、それもきっと無くなる。私も他の同級生やケイトリンのように、このヘルヴィニアの学院で過ごすことになるだろう。――だが、その姿が想像できなかった。

「……学院で、私はちゃんと過ごしていけるのかしら」

「アリサちゃん?」

「私は……ハルカが殺されたのだと知らされた五年前から、ずっとハイブリッドを殺すことだけを心に決めて生きてきた。学院に入学したのだって、勉強したり、学んだりするためじゃないのよ。ハイブリッドの手がかりを探すのに都合がいいし、学院を内側から潰してやるって、本気で思っていたから」

 学ぶって、なんだろう? 私が学んだのは、復讐を成し遂げるための方法と技術だった。剣の技と、魔法の技。師匠から、一心不乱に学び取ればよかった。でも、ここから私が向かうのは、同じように何かを学ぼうとするひとたちの集まり。そして、きっと教師もいるのだろう。そこに私がいることになるなんて。

「だから――改めて、学院で学んでいくということが、ちょっと不思議な感じがする」

「そっか」

「学院って、楽しいのかしら?」

「楽しいよ。少なくとも、私は楽しみにしてる。だって、これから友達といろんなことが出来る。いろんなひとに出会って、知らないことを知ってゆける。それって、素敵だと思わない? 想像してみて。私とアリサちゃんが、一緒に何かをするところを」

 ――何かを探したり、何かを学んだりする。私も、師匠の元でたくさん学んだ。でも、それは孤独だった。ひとりだった。ひとりで学び、ひとりで技術を磨いたのだ。そんな風にして何かをしていく生活に、友達がいる。剣の稽古をケイトリンと一緒にやったり、魔法の実験、魔法の研究も、ケイトリンと一緒にする。学院で生活を送ったことが無くても、その景色だけは想像が出来た。だって、ずっとケイトリンは笑っていてくれたから。これからの未来をどれほど想像しても、どこにいても、ケイトリンが笑ってくれていたから。だから、私は確かに思った。それは、とても、とても素敵なことだ。

「――楽しみ、だわ。とっても……」

「……取り戻せてよかった、ね。そういう、未来を」

 ケイトリンが切なげに笑った。もしかしたら、だけど。もしかしたら、私とケイトリンはこうして再び出会わず、どちらかがいなくなっていたかもしれない。そうなったら、こうして友達として手を取り合うことも、一緒に学院で日常を送る、そんな未来を描くこともできなかった、かもしれない。それを思うと、とても怖くなって、切なくて。だからこそ、今、確かに目の前にケイトリンがいて、話が出来て、笑い合ったり、未来について思いを馳せることができるのが、途轍もなく尊いものと思えた。

「……ありがとう、ケイトリン。これからも、どうか、友達でいて。ずっと、ずっと……」

「……うん、こちらこそ、ありがとうね、アリサちゃん……」

 私とケイトリンに、日常が戻ってきた。多くの人を傷つけて、たくさんの人を戦いに巻き込んでしまったけれど、それでも、私はここにいる。ケイトリンが笑って、私もその微笑みに心を許しながら、確かにその日常の温もりに身を預けられる。その穏やかさに、どうしようもなく胸がこそばゆくなる。私は、ケイトリンにたくさん教えてもらった。友達という存在の大きさを。そして、そんな大切な友達と、ただ日常を送り、未来に夢を見る心地よさを。





 ケイトリンと長く話をした私は、師匠の言った通り、彼女の家へ向かった。ヘルヴィニアの街から外れた、あまり人の寄り付かない辺境の森にひっそりとある一軒家だ。ここに訪れるのも、久しぶりだった。それほど大きな家ではないが、敷地は広い。家の裏手には空き地があって、そこで私は長く修業を積んだ。そして、この大きくない家に私も住まわせてもらったのだ。

 感傷もそこそこに、私は師匠の家の戸を叩いた。

「師匠、言われた通り来ました……」

 少しして、中から足音が聞こえる。

 ――師匠の足音ではないな、と気付いたときには、すでに扉が開いていた。

 顔を覗かせたのは――ハヴェンだった。

「ハヴェン?」

「お前か。元気そうじゃんか」

「どうして、ハヴェンが師匠の家に」

「ああ、それは――まあ、ややこしい話になるからな、入れよ。ヒストリカも待ってる」

 ハヴェンに導かれて、私は師匠の家に入る。何度も入った家だから、すでに勝手は分かっているし、家の中も私の知っている師匠の家と変わりはない。けれど――いつも食事をしているテーブルについていたのは、師匠、そして、メリアとハヴェンだった。

「メリア…………」

「こんにちは、アリサお姉ちゃん。もう、元気なんだね」

「え、ええ。でも、あなた……」

「驚いただろう?」

 動揺する私を見て、師匠が言った。

「この二人は、私が面倒を見ることになったんだ」

「師匠が?」

「ああ。もちろん、自立するまで、だけどな。そこまで大きな家ではないが、二人が眠れる部屋だってある」

「そうですが…………」

「ま、五年間、どこかの誰かさんを育てた実績もある。今更、苦労することもないさ」

 師匠がウインクして、私に笑顔を見せた。それから「お茶を出してやろう。ゆっくりしていけ」と言って、キッチンの方へ回っていった。テーブルにはメリアとハヴェンが残る。私は、メリアに目を向けた。すでに出されていたらしいお茶を飲んでいる。ハヴェンも椅子に座って、そんなメリアを見ていた。想像よりもずっとリラックスしている様子が見て取れた。

「メリア、それに、ハヴェンも……怪我とか、身体は大丈夫なの?」

「ありがとう。わたしたちなら平気。大人たちが手厚く治療してくれたし、もうどこもなんともないよ。ね、ハヴェン」

「ああ。メリアはともかく、俺はこの前の戦いでそれほど傷を負っちゃいねえからな」

「そう。よかった……」

 メリアとハヴェン。

 この姉妹との出会いは鮮烈だった。二つの気質を使って私の前に現れた。そして、この二人から非道な学院の実態を耳に入れたのだった。それからここまで、数奇な因縁が繋がっている。ハルカの一件も、そして学院の一件にも。あまりにも残酷な道を歩まされた二人は、まだ私よりもずっと幼く、いとけない。そのことに、胸が強く締めつけられる。

「ま、勝ててよかったじゃねえか。何もかもに、よ」

「ハヴェン……」

「あのバカでかい竜に負けたら、地獄の底まで追いかけて、ぶっとばしてやろうと思ったくらいだ」

「……勝てたわ。でも、あなたたちと出会っていなければ、勝てていなかったかもしれない」

 あのとき、確信したこともある。邪竜のクレイドールを前にして、私が戦い抜けたのは、メリアとハヴェンの出会いがあったからでもあるのだ。もちろん、メリアとハヴェンとの出会いだけが力となったわけではないけれど、この二人と出会ったことが、私の戦いの道筋を決定づけた。その出会いを未来に繋げたかったから、私は自分の力を信じられたのだ。

「ハヴェンは、少し丸くなったわね」

「……かもな。一時、頭に血が上りまくっていたが、結局俺は気付いたんだよ。俺のやりたいことは、メリアのやりたいことだと。メリアがもう、こうして穏やかに生きるというのなら、俺だってそうするんだ」

「……そうね。ありがとう、ハヴェン」

「なんでお前が俺に礼を言うんだ?」

「どことなく、言いたかったの」

 ここまで、私は「ありがとう」ということに躊躇の無い人間だったろうか? でも、伝えたいと思ったときに伝えなければいけない、ということは、この戦いをくぐりぬけて知ったことだ。いつ会えなくなるか分からないから、というのも、少しだけあるのかもしれない。でも、そんな後ろ暗い理由よりもずっと、言葉で交わし合えるこの時間の喜びを、全身で感じ入っているからかもしれない。

 私はメリアに目を向ける。

 この子の存在は、私の心を幾度も揺さぶり続けた。もしかしたら、私は自分自身を重ねていたのかもしれない。自分より幼いというのに、非道な扱いをされ、復讐に身をやつし、ひたむきに覇道へ向かおうとする。そんな彼女を、闇に堕ちた私はいたぶり、攻撃しては傷つけた。あの記憶は、私の脳裏に今も残っている。

「メリアは、これからどうするの」

「どうしよう、かな。ヒストリカさんが面倒を見てくれるっていうから、甘えようって、思う」

「……それがいいわ。師匠は、本当に頼りになるから。たくさん甘えて、学んだらいい」

「うん……いいひと、だね。ヒストリカさんは。ちょっと、お母さんに似ている、かも」

 メリアもハヴェンも、両親を失っている。だからこそ、学院の策略に巻き込まれた、ともいえる。とにかく、悲惨だった。彼女たちは、愛情も、温もりもほとんど知らないまま、ここまで来てしまったのだ。私の胸が詰まる。でも――師匠なら……、と素直に思う私もいる。だって、私もそうだったから。

「わたしたち、身寄りのない子どもたちが集まる施設に入る予定だったんだけど、ヒストリカさんが、自分が引き取りますって、騎士団に直接言ってくれたんだ。面倒見ますって……嬉しかったなあ」

 メリアは、細く微笑んだ。

 微笑んだのだ。

 出会ったとき、メリアの顔に表情は無かった。ずっと、感情がすっぽり抜け落ちたかのような眼差し。でも、今目の前にいるメリアは――もちろん、まだ少しぎこちないけれど、口の端が微かに持ち上がって、目を細めていた。それは、間違いなく微笑だった。笑顔になるための、確かな兆しだった。その心を開いたのは、師匠の真摯さ、なのだろう。

 私はそんなメリアを見て、少し気持ちが落ち着いた。

「私も、ときどき、ここに来るわ。もっと、あなたたちと話がしたい」

「ほんとうに?」

「本当よ。嘘を吐いてどうするの」

「……うれしい。ありがとう、アリサお姉ちゃん」

 メリアは、上目遣いで私をじっと見つめて言った。そのとき、少しだけ思う。私にはハルカという兄がいて、その兄に随分と可愛がってもらった。もちろんそれはハルカの計画の内で、本当の意味で兄は私を愛してはいなかったかもしれない。でも、私がたとえば姉だったとして、妹がいたら、こんな風な視線で、誰かと可愛らしいと思えていたのかもしれない、と。私はメリアに自分自身を重ねてもいたけれど、どこか、境遇で重なった別の家族の一員かのような、そんな気持ちでいたのかもしれない。

「私からも、お礼を言わせて。ありがとう……」

 私は祈った。

 どうか、どうかこの二人の未来が、穏やかで、健やかでありますようにと。





 メリアとハヴェンを家に残して、私と師匠は家の裏手の空き地に立っていた。

「…………そこまで昔の話でもないというのに、なんだか懐かしいな」

「はい……」

 この空き地で、私は師匠にたくさんの技を教わった。剣術から体術、魔法の使い方からコントロール、魔法射撃、その出力と制御の仕方も。そして――戦い方も、全て。この空き地に、敵に見立てた目標物を置いて、それをひたすら斬っては、魔法で撃ち抜いた。もうその痕跡は、この空き地には残っていない。「もう修業の道具は要らないだろうから、処分したんだ」――師匠は、空き地を見渡しながら、私の考えたことをすくいとったように言った。

「今も覚えている。お前が、ものすごい形相で私の元を訪れた日のことを」

「…………」

「いやあ、怖かったな、あのときのアリサは。まるで私を殺しにきたのかと思ったよ」

 ハルカが死んだと知らされ、長く泣き続けた私は、かつて精鋭部隊で名を馳せた師匠の存在を知り、復讐のため、この家を訪れた。復讐したい相手がいる。私にしかない願いがある。そのために、師匠を利用してやろうと、あのときは考えた。今思えば、随分と身勝手で、不器用なほどにまっすぐで、一心不乱だった。

「あのときは、復讐のことで頭がいっぱいでした」

「そうだな。でも、今は――穏やかな顔をしている。年相応の、可愛らしい顔だ」

「……師匠のおかげです」

 復讐でいっぱいだった頭に、余白が生まれた。そこに、未来のことや、大切な人を入れておくことができるようになった。自分のことだけじゃない。自分を支えてくれる大切な人たちのために、自分の気持ちや想いを使うことができるようになった。それは、間違いなく、師匠のおかげでもあった。

 ――『ヒストリカさんは。ちょっと、お母さんに似ている、かも』……。

 メリアがぽつりと零した言葉。

 その気持ちに、私は覚えがあった。私も、幼い頃に両親を亡くしている。それはハルカの仕業だったけれど、誰が犯人だったとしても、どんな理由があったとしても、私は両親を亡くしたことに変わりはない。そして、ハルカを親のようにして育った。でも、そのハルカも失って――そんな最中に出会ったのが、師匠だった。

 師匠は優しかった。いつでも、ずっと優しかった。もちろん、私が希って修業をつけてもらっていたのだから、厳しいこともあった。でも、それでも最後には私に寄り添い、傍にいてくれた。眠れない夜も、挫けそうな日も、ずっとずっと私の近くで、その優しさをありったけ注いでくれたのだ。

「あなたは、私のもうひとりの、お母さんです」

 師匠は、私の言葉に、一瞬驚いたようだった。

 けれど、すぐに目を細めて、ちょっと照れくさそうに笑った。

「……ありがとう、アリサ。お前と過ごした五年間は、かけがえのない時間だった」

 じわりと、脳裏に思い出が駆け抜けていく。幸せだった、のだろうか。ただ、復讐を追い求めた私は、師匠の下で暮らすことの意味を、何も分かっていなかった。でも、確かに言える。私はこのひとに、たくさん守られていた。ただ、自分の願う道に力添えしてくれる誰かに、ひたすら愛情を注がれていた。だから、あの時間は幸せだったのだ。

「私も……師匠の元で過ごした五年間は、何事にも代えがたい、大切な、大切な思い出です」

 その道が復讐に繋がっていたとしても、戦いに繋がっていたとしても。

 あのとき私は、間違いなく幸せの中にいたのだ。思い出せる。師匠のひとことや、小さな動作も、時折見せた切なげな眼差しも。その全部、私が歩んでいこうとする道を照らしてくれている。私が今、たくさんの大切な人を『大切だ』と思いながら再びこの足で立てているのは、師匠のおかげなのだ。

「なに、別にどこか遠くに行ってしまうわけじゃない。私はメリアとハヴェンを面倒見ながら、ずっとここに暮らしている。アリサだって、学院に通うんだろう? いつでも会える。――今度からは『師匠と弟子』じゃなくて、友人としてな。だから、私のことは、もう師匠とは呼ばなくてもいい」

「…………ヒストリカさん」

「ああ。それでいい。またそのうちな、アリサ。いつでも会いに来い。ここは、お前の家でもあるのだから」

「はい。ありがとう、ございました……」

 ヒストリカさんは、私の頭を撫でて、少しだけ私を抱き寄せた。

 私も、ヒストリカさんの背中に手を寄せて、その温もりを改めて噛み締める。ここまで、いったい何度、このひとに抱き締めてもらっただろう。温もりを分けてもらっただろう。もう『師匠と弟子』ではない――とはいうけれど、私の心の内は決まっている。ヒストリカさんは、永遠に私の師匠で、もうひとりの母で、憧れの人だ。それは、呼び方で変わることじゃない。どこまでも、いつまでも、ヒストリカさんは私の道標だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ