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エピローグ①

 










 ――――――――――――――――。










 ゆるやかに、静かに、穏やかに。

 私は目覚めた。



 瞼を開くとき、これまであまり感じたことのなかった軽やかさがあった。

 光の多さ。一度に入り込んでくるたくさんの眩さは、痛いほどだったのに、それでも開くことに躊躇いは少しもなかった。まどろみはすぐに打ち消える。

 遠くで小鳥の声。

 風の音。

「……………………」

 ゆっくりと身体を起こす。

 見知らぬ部屋だったけれど、そこは明らかに病室だった。ベッドに寝かされていたようだ。すぐ傍にあった窓は微かに開けられ、カーテンがそよ風に揺らめいた。その揺らめきに、私は目を奪われる。些細なこと、本当に些細なこと。薄い色のカーテンが、ただ風のリズムに揺らぐことでさえ。

 不思議な感覚だった。

 私はそこで、初めて自分の身体のことを思った。

 手のひらで少しずつ、肌の表面を擦ったり、首元を撫でたりして、自分の身体と思考がきちんと繋がっていることを確認した。肌はまだ微かに熱を持たないけれど、首元に手を当てれば、ときどき脈を打った。どくん、どくん、と……。確かに脈動する。私の身体に、血を送っている。

 自分の手のひらを見つめて。

 閉じたり開いたりを繰り返す。

 そして、ようやく実感が湧く。

 私は――生き延びた。

 信じられないくらいに穏やかな部屋、穏やかな空気だった。

 あれほどの戦いが、もう過去に終わっているなんて。

「…………私は」

 叩き斬った。

 あの、邪竜を。

 ――最後の記憶は、そこで終わっている。自分の願うままの、思うがままの、たくさんの力。あれほど出し切っての魔法を使ったことなどない。だから――どうなったのか分からないまま、記憶は途切れて、まるでここに流れ着いてしまったかのようだった。

 それでも、カーテンと窓の隙間からそれは垣間見える。

 建物の正面通りに、人通り。

 ひだまり。

 人の声。

 そこに。邪竜は、いない。

 戦いの音は聞こえない。

 ――――終わった、んだ。

 私は、深く息を吐いた。呼吸が喉を通り、口から抜けていくその感触。その微かな震えにさえ、どことなく懐かしい心地がした。ただのひと呼吸。たったひと呼吸。吸って吐いてというただそれだけの行為に、途轍もない大きなものを感じた。たったそれだけのことをすることを、忘れ続けていて、ようやく自分の身体がそのことに落ち着いていいのだと――教えてくれているような気がした。

 息が出来る。

 私は、生きている…………。

 その意識にじわりと染み入ったような不思議な気持ちでいる中。

 扉がゆっくりと開いた。

「アリサ…………」

「師匠…………」

 揺らめく金の髪、麗しい眼差しが私を見据える。――ヒストリカ師匠だった。彼女は目を見開くと、私に歩み寄り、じわりと――抱き寄せた。彼女の指が私の背中をぐっと押さえつけるようで。けれど、そのどれにも優しさがあるようで、どうしようもない気持ちにさせられた。

「おはよう、アリサ」

「…………おはようございます」

「よかった、目覚めて」

「…………ご心配をおかけしました」

 抱き寄せた師匠の声が、私の耳元で静かに鳴り響く。

 その声のひとつひとつに、いろいろな感情が宿っていた。目覚めたばかりの、まだ朦朧とする私の意識と感覚の中に、じんわりとその声が馴染んでゆく。そのまま、何も言わず、私たちは身を寄せあう。布越しであろうとも、触れ合うだけで伝わりきる温もりが確かにそこにあった。師匠の傍に戻ってこられた喜びの、何よりの証。私の微妙に揺らぐばかりの体温に、ゆるやかに熱が注がれてゆく。じっと、しばらく、私たちはそのままでいた。私も、そのままでいたかった。





 師匠は、ベッド脇にあった椅子に腰かける。

「――――アリサ、お前は十四日間も眠り続けていたんだ」

 そして、あの戦いが終わったあとの話を、私に聞かせてくれた。

 ――私が叩き斬った邪竜は、瞬く間に光に包まれ、消滅した。その光の爆発的な眩さは、地上に蔓延る様々なクレイドールを一挙に呑み込んでゆき、最後には一匹もいなくなった。寸前まで街に吹き荒れていた嘶きも、そのとき、一瞬で消え去ったのだという。多くの光は収縮して破裂して、そこには青空が広がっていた――。私が身を預けるベッド、その傍にある窓辺の柔らかなひだまり。カーテンの向こうに透けて見える光の束は、それを物語っていた。何もかもが消え去って、穏やかな空と、穏やかな空気が姿を見せてくれたことを。

 私は、瓦礫に横たわり、眠っているところを見つけられたという。

 最初は死んでいるかに思われたみたいだけれど、呼吸はしていて、戦いの傷跡はあれど、生命に支障はないとみられ、この医療院に移された。私はいつ目覚めてもおかしくはない状態だったというのに、昏々と眠り続けた。ただひたすらに、静かに眠り続けたのだ。

「必ず目覚めると皆信じてはいたが、もしや目覚めないのではないかと心配する者もいた。だから、こうして目覚めてくれてほっとした」

「そうですか…………」

「なに、責めているわけじゃないさ。きっとアリサにとって必要な時間だったんだ。ずっと戦い続けていたからな」師匠は口元を緩めた。「ヘルヴィニアが襲われてから――という話じゃない。アリサは、ハルカ・フレイザーの入学試験のあの事件から、今までずっと戦っていたんだ。身体を休めた日も、どれほど眠っても、お前はきっと、ずっとずっと戦い続けていた。自分とも、正体も知らないハイブリッドとも。そこに渦巻く策謀とも。そんな戦いの糸を、自分の力で断ち斬った。決着をつけたんだ。ふっと糸が切れたように、身体と心が求めたんだろう。安らかな眠りを」

 私は自分の手のひらを見つめた。

 夢すらも見ない。

 深い眠りだった。

 目が覚めたとき、自分の身体があるということは当たり前だったけれど、私はこの瞬間、それが途轍もないことのように思えてならなかった。長い眠りの中で、生命に揺らぎが生まれたかのように。それでも――私は指を折りまげ、伸ばした。

 生きている。

 確かに私は生きていた。

 師匠と会話して、温もりを分け与えてもらったかのように、自分の身体に熱が通っていることを、確かめられた。私の深く長い眠りは、まるで境界線のようだ。戦い続けた私と、戦いを終えた私。そこで何かを一度振り出しに戻すかのような眠り。これまでとこれからの、境目。

「皆さんは……ご無事でしたか?」

「ああ。皆、元気だよ。ヘルヴィニアも含めて、各国各領の再建に大忙しだ。皆それぞれ、自分にできることを、最善のやり方でやっている」

「よかった…………」

 私は、世界のことを想った。私が邪竜を斬って十四日。あのときの街の様子は、戦いの燻ぶりは、記憶に刻み込まれていた。荒れ狂う地面に、クレイドールの粉塵がいたるところに待って、地響きが収まらない。戦う者と、敗れる者。その光景がよぎった時、私の安堵の呼吸に陰りが差す。私が尋ねたのは、私にとっての仲間たちのこと。けれどその裏には、きっと無事で済まなかったひとたちもいるだろう。戦いに傷ついて、多くの物を失ってしまったひともいるだろう。

 その渦中に、私がいた。

 ハルカの策略に蝕まれ、ハイブリッドとして覚醒して。

 私は殺戮の願いに加担してしまったのだ。

「……………………」

「償いをしなくてはいけないと、そう思っているのか」

「師匠」

「いったいどれだけ長い間、お前の傍にいたと思っているんだ? 分かりやすい奴だな」

「…………償わなければいけません」

 そうしなければ、自分の気持ちが収まらない。

 何もかも、私が弱かったからだ。

 私が弱かったから、ハルカの願いに利用され、多くの人々を傷つけてしまった。きっと、死んでしまったひともいるだろう。大切な人を、失ったひとびとも。それに、あの闇に溺れていただけではない。ハルカを失ったと知ったあの日から、五年間……、そして、復讐の一心で入学して以降、どれだけ多くの人を傷つけたのだろう。長く、大きく、私がやってしまったことの大きさは爪痕を残している。考えただけで、どうしても身体が震える。もっと私が強かったら、もっと私の心が強かであれば……、考えれば考えるだけ、泥沼に飲み込まれていく。

「お前がそうしたいならそうすればいい。それでアリサの気持ちが収まるというのなら。けれど――私はアリサだけが背負うものじゃないと、そう思っている。アリサが償うのなら、私だって償うさ」

「そんな……師匠が何をしたと言うんです」

「逆だ。私は、お前に何もしてやれなかった」

 師匠は切なげに笑った。

「…………」

「戦いの技術を教え込んだだけだ。私にやってやれたのは、それだけなんだ。お前という子の五年間を、私は戦うためだけに使わせてしまった。それだけの時間があれば、より多くのことを教えてやれたというのに」

「何を言っているんですか」

 私は、そんな表情の師匠を前のめりに否定する。

「――それは、私が願ったからです。師匠に、戦いの術を……復讐のための技を、乞うたからです。師匠は、私のそんな願いを受け止めくれた。だから、私は……ここまで生きてこられた。師匠に何も教わらなければ、あのとき一緒に過ごさなければ、私はもっと早くに死んでいます。だから…………」

 私は、これまで、一度として師匠を疑ったことはない。私が復讐を為すために、師匠の家を訪れたあの瞬間から今日まで、常に師匠は私の憧れであり続けた。このひとに着いていけば道を違えるはずが無いと、信じ続けてこられた。だから私は、あの一瞬一瞬を信念として、戦うことができたのだ。そこに後悔は無い。

 私の言葉に、師匠は額を抑える。

「…………すまないな。戦い終えたばかりのお前に、気を遣わせてしまった。だが、本当の気持ちだ。これは私の心からの願いなんだ、アリサ。お前の心にわだかまりが残るならば、それを解いてやる手伝いがしたい。それを想うことくらいは、許してくれないか」

「…………師匠」

 師匠は息を吐く。

「――ふふ、なあに、これからどうしようとか、罪を償うとか償わないとか。そんなことは今すぐに決めなくていい。どうだ、これから街へ出ないか。皆、少しずつ復興に向けて動き出している」

「街を壊したのは、私です。私が出て行って、気分を害しませんか?」

「お前は責める者は誰もいない。お前はハルカに操られ、心を蝕まれ、手先となってしまっただけだと、皆知っているし、納得もしている。もちろん、ヘルヴィニアに住まう人々の全員がそうだとは言えない。だが、もしお前がそんな風に謗られたとしても、守りたいと願う奴らばかりだ。それでも、行きたくないか?」

 ベッドの端に微かに飛び出していた私の手を、師匠は手に取った。両手のひらで包み込み、温もりを伝えてこようとする。まだ、長い眠りから覚めたばかりの私の肌に、それらを分け与えようとする。この手のひらは、師匠のものだけではないと、私はどことなく悟った。師匠の向こう側で待ってくれている、私の知っているひとたちの熱量を、ここに感じ取った。私は、まだ少しだけ残る戸惑いを覆い隠しながら、その誘いに乗ることにした。これだけの言葉を渡されて、断ることなどできやしない。

「分かりました…………私も、街を見てみたい」

 それに。

 会いたい人たちもいる。







 ヘルヴィニアの街は、快晴の空の下、人々が行き交い、言葉を交わし、働いていた。

 何もかも途上だった。復興が進んでいるようでもあるし、まだ道半ばのようでもあった。瓦礫と、クレイドールが崩れ落ちた欠片の残骸。煤と、抉れ上がった地面。へし折れた柱、ねじれたように歪んだ住宅。炎や煙は消えたとはいえ、まだ、街の姿には戦いの残り香が陰を落としていた。

 医療院の建物から、師匠に連れられて外に出た私は、しばらく立ち尽くす。

「…………………………………………」

 私が直接手を下したわけではない。しかし、その渦中にいたのは私なのだ。唇を噛み締めて、入り口から真っ直ぐに伸びる道を見つめた。私の中にざわめきが残るというのに、空は真っ青に塗られ、太陽は照り輝いている。師匠は眩しそうに手でひさしを作りながら、街を見つめた。

「いい天気だな」

「はい……」

「そうだな。――まずは、学院へ行こうか」

「いきなり、ですか?」

「別に、校舎を練り歩こうというわけじゃない。ただ、お前に会いたがっている子たちもいるからな。顔を見せてやってくれないか」

「……分かりました」

 師匠が私を見下ろす顔は、常に堂々としていて、爽やかで、私を気圧されてしまう。何を言っても、このひとに連れられていく方が、きっといいのだと、心から理解できてしまう。私たちは、街をゆるやかに歩きながら、ヘヴルスティンク魔法学院へ向かった。学院前の正門は崩れ落ち、地面が盛り上がり、穴だらけだった。この位置からでもよく見える学院長室。――そこには大きな穴が開いて、室内が剥き出しだった。私の中に、戦いの記憶がこだまする。

「師匠、パーシヴァルは…………」

「……死んだ」

「そう、ですか」

 パーシヴァルには、結局、勝てなかった。

 ハイブリッドとして闇に堕ちてやっと、あの男と渡り合えたことを思い出す。卑劣な男。狡猾な男。だが、その力量は本物だった。世界を壊し、新しい秩序の中で王として君臨するのだと、そう息巻いていたのを思い出す。だが、彼はもういない。

「とどめを刺したのは、メリアとハヴェンだ」

「……あの、二人が」

「あの二人にも、大きなことをさせてしまったな」

「…………二人は、今、どこに?」

「心配するな。元気にしているよ。ちゃんと会わせてやるから」

 私たちは、学院に入り、校舎を抜ける。いたるところで、学院生たちが作業をしていた。全壊ではないとはいえ、クレイドールに蹂躙され、戦いの被害を被った校舎は、ひたすらするべきことがある。ローブを身にまとって駆けまわる学院生たちに、私は、不思議な気持ちにさせられた。会話をする学院生たち。真面目に作業はしているけれど、ときどき笑顔が漏れる。――友達、同士? 仲間同士? そんな姿をときどき見かければ、落ち着かない気持ちになった。後ろ暗さでもない、昂揚感でもない、ただ、不思議な気持ち。

「アリサ、あれだ」

 校舎を抜けて、私たちが辿り着いたのは、演習場だった。

「ここって……」

「そう。――ハルカたちが入学試験を受けた、屋内演習場だ」

 建物を外から見つめる。硬質な雰囲気。ここが全ての始まりだった。ここで、ハルカは自殺に見せかけて――多くの人を惑わし、世界を騙し、殺戮の世界を為そうとした。あのときから、ここに繋がっている。あのときが、今、この私に繋がっている。私は、思ったよりも冷静に、その建物を見つめることができた。

「大丈夫か? アリサ」

「はい……むしろ、私自身がびっくりしています。もっと、動揺するのかと思っていました」

「私は、大丈夫だって思っていたぞ」

「そうでしたか?」

「だって、ハルカを打ち倒したんだろう。そして、自分であの闇から立ち上がった。今更、発端になった演習場を見たくらいで、動揺するようなことはないだろうって、思ったのさ」

「そうですね……そうかもしれません」

 見ている景色や、風景の、私の心への入り方が変わったような感触がした。少しだけ外に出るのが怖かったとしても、今、こうして街を通りすがり、因縁のある場所にやってきたとしても。どこを見ても、穏やかだった。心が暗い方向へ湧き立たない。感情が過度に冷え切っているわけでもなく、すんなりと、何事もなく目の前の景色を受け入れることができている。そういう意味では、変わったのだろう。これまでの戦いや旅路と、こうしてここに立っている私の間で。

 演習場の扉を開いて中に入る。

 演習場内にいたのは、五人の学院生だった。――ヘイガーさん、アーニィさん、ウルスラさん、ステラさん、ヲレンさん。この演習場でハルカと共に学院入学試験を受け、事件を目撃した五人だ。結局のところ、彼らは加害者でも何でもない、ただの受験生に過ぎなかった。彼らはすでに作業は終わらせたようで、壁際に座り、話をしているようだった。

「アリサ・フレイザー」

 こちらに気付き、名前を呼んだのは、ヘイガーさんだった。

「皆さん……」

「どうやら元気そうね。よかったよかった」

 アーニィさんが、歯を見せてにっこりと笑う。

 私は先輩たちをゆっくりと見回す。そして、それぞれと最初に出会ったときのことを思い出す。あのときの私は、どんな風だっただろうか。それほど古い出来事でもない。学院に入学して、そのときは『容疑者』だったこの先輩方に直接会って問いただすのだと息巻いていた。

「ちょうど、あの事件の話をしていたんだ。僕たち、とんでもないものを見てしまったんだなってさ」

 ヲレンさんが言う。あの事件の話をした――というのに、それほど重苦しくもなく、どこか吹っ切れたような言い回しなのは、もう過去のことに出来たから、なのだろうか。ふと、ステラさんに目を向ける。ステラさんは、あの事件がトラウマになっていたはず。ウルスラさんからも、ステラさんの前ではあのときの事件の話はなるべくしないように――と、出会った当初釘を刺されたのを思い出した。

「そうですよ。とんでもない幕開けだったわ。ねえ、ステラ」

「うふふ、そうですね。ウルスラ」

 ――けれど、ステラさんとウルスラさんは、そうやって目配せし合いながら、微笑んでいた。どうやら私がずっと会えないでいるうちに、あの事件のことを乗り越えられたようだ。ヘルヴィニアでの戦いを生き抜いたから、なのか。ただ、私はその微笑みを見られただけで、どことなく許されたような気がした。

「――あの、皆さん」

 私は、先輩たちを見つめて、ぎゅっと拳を握る。

「ごめんなさい」

 そして、頭を下げた。

 ……それから、ゆっくりと顔を上げ、思うままに言葉を紡ぐ。

「――ハルカは、私の兄です。そんな兄の邪悪な計画の始まりに、皆さんを巻き込んでしまったこと。皆さんの記憶に、計り知れない傷跡を残したこと。妹として、謝らせてください。……そして、そんな兄のための復讐を誓って、皆さんの前に現れたとき、きっと私は……無礼で、浅はかな態度ばかりだったと、思います。それも、一緒に、謝りたいのです。本当に、ごめんなさい……」

 再び、頭を下げる。もし、私がハルカの妹でも何でもないただの人間で、ハルカが自分の身体を燃やしたあの試験会場に居合わせたとしたら。そして、それが巡り巡って、自分たちの故郷であるヘルヴィニアを壊しにやってくる、計画の始まりだとしたら。何もかも複雑で、心に深い暗がりを残すだろう。耐えられない者は耐えられないかもしれない。こうして言葉や態度で何もかも許されるとは思わない。ただ、許されなくても伝えなくてはならないことはある。だから、頭を下げ、そのまま、下げ続けた。

「アリサちゃん、顔を上げなさいって」

 ゆっくりと私に近づいて、肩に手を置いたのは、アーニィさんだった。彼女の手が、私の身体を押し上げて、下げていた頭を上げさせる。アーニィさんは、さっきまでと同じように、陽気に微笑んでいた。

「そりゃま、あたしたちにとっては大きなことだったし? 五年も経って、アリサちゃんがものすごい剣幕で私たちの前に現れたのも、びっくりしたけど。……でも、もう終わったことなんだから。そんな、ねちっこく後から責めたりしないって。ね?」

「ああ。俺たちのこと、もう少し信用してくれ」

 ヘイガーさんが続ける。

「それに、たった今、この五人で『これから』のことに話が弾んだばかりだ。俺たちはようやく、あのときの事件に縛られないように生きられる。あの事件の延長上にいるばかりの俺たちではないと、な」

 にこやかな眼差し。

 この先輩たちは、あの事件を目の前で見た。それから、学院に口封じをされたり、その光景が後を引いたりして――常に、ハルカの影を感じながら過ごしてきたのだろう。けれど、もうそうしなくなってよくなった。その微笑に。話し方の中に、そういう柔らかさがあった。私が何も言えないでいると、ステラさんが私に告げる。

「あなたのおかげです」

「ステラさん……」

「アリサさんは、ご自分の願った決着をつけたのですよね? だから、私たちの今がある。私たちも、自分たちの街を守るために戦い抜くことができました。もう、それでいいのだと思いますよ」

「…………」

 自分の願った決着……。

 私が五年前から狙いすました道を思うと、予想もできないところに着地した気がした。……それでも、今、自分が願った通りの決着に辿り着いたということには、疑いようが無かった。五年前の私に、今、この私に起きたことを伝えても、信じないだろう。それほどにあらゆるものが覆ったところへ、私はいる。でも、そのことに何のわだかまりも、後悔も無いのは、間違いなかった。

「そうね」

 ウルスラさんが続けた。

「これもきっと、何かの縁。あの事件をきっかけに私たちは結びついた。でも、あの事件が終わったあとだって、こうして友達でいられる。『あの事件があったから』という理由だけじゃないところで、繋がりが続く。戦い抜いたことを分かち合える。こういうのって、とても大切なことだわ。アリサさん、私たちの縁を守ってくれて、ありがとう」

 彼女は、私を見て、笑った。





 師匠と一緒に演習場を出る。

 私は、穏やかに息をした。

「強いな、あいつらは」

 師匠が、今出てきた演習場の扉を振り返りながら言った。強か――間違いなくそうだった。あの先輩たちの姿を見ていると、一層、自分が幼く思えた。私は意気揚々と彼らの前に現れ、『ハイブリッド』を殺すための挑戦状を叩きつけ、彼らの素性を訝しんだ。そんな私の前でも、彼らはいつも物怖じしなかった。私がこれからも何年か歩みを進めて、彼らのように強く在れるか、自信は無い。

「皆さん、優しいですね」

 ――けれど、自分が惨めに思えることもない。

 彼らの優しさは、私とは関係ないところで生まれた強さだった。過去に起こった何もかもを、それは過去だと切り捨てて、今在る喜びに花を咲かすのだ。だから優しくいられる。私にだって、優しくしてくれる。

「師匠。私も……優しくなりたいです」

 思うままに零す。

 皆、どうしてそんなに優しいんだろう。

 世界は、どうしてまだ私を優しい場所にいさせてくれるのだろう。

 不思議なことばかり。

 まだ、私に、ここにいていいのだと。

 ありがとう、と。

 そんな風に、笑ってくれるひとたちばかりだ。

 私は、生きることを決めた。

 だとしたら。

 私が優しくなることは、それらに報いる、何もかもの第一歩だった。

「あははははっ! お前がそんな風に言うなんてなあ」

「師匠。私は真面目に……」

 笑い飛ばした師匠。

 それから、私の頭を軽やかに、ぽんぽんっと叩いた。

「大丈夫。何も心配はいらないさ。アリサは優しい子だ。ずっとずっと優しい子だった。どんな戦いを潜り抜けても、どんな風に歩いてきても、ずっと優しかった。それだけは自信を持っていい。アリサが願うものは、もう手に入っているよ」





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