奇跡なす者たち⑥
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私は、情けなく崩れ落ちるようにして地面に降り立った。力がすっかり抜けたように、なんとか両脚で降り立ったけれど、そのまま膝をついてしまう。肩で呼吸をする。逆流しそうなほどの圧力が喉奥からやってきていた。けれど、どうにか自分を押さえつけて、冷静さを取り戻そうと努力した。
「――――アリサ!」
ウィルの声が、した。
彼の駆け寄る足音がして、私の背に、そっと温かで大きな手が添えられた。
「大丈夫か、アリサ」
私はゆっくりと顔を上げる。隣に、ウィルの顔があった。心配そうな瞳で私を覗き込んでいる。ついさっき、
背中合わせで言葉を掛け合ったことも、なんだか遠い出来事のような気がする。それくらいに、あの漆黒の炎の中を貫くことは、重く、苦しいことだった。でも、ウィルの顔がまた見られた。声が聞けた。
「ありがとう、ウィル……、私は、大丈夫よ……」
私は呼吸をする。激しく上がった息が、少しずつ、収まっていく。
そして、私は正面に目を向けた。
すでに、周囲を覆っていた黒い炎の渦は消え去っている。遠くではまだ戦いの音が聞こえるけれど、私たちの視界は晴れていた。そして、私たちの少し離れた地面に――彼は倒れていた。私はウィルに目配せをすると、ゆっくりと立ち上がり、彼に近づく。
「…………まったく、ひどいことを、してくれるじゃないか」
ハルカは言った。
彼の胸元には――深く、剣が突き刺さっていた。
力の抜けきった彼の身体からは、黒い血が噴き出してくる。それは水溜りのように広がっていく。それは先ほど燃え上がり、黒炎となったが、今はそんな邪悪さが失われいた。命が抜けていく、そんな広がり方だった。私はハルカを見下ろす。
「ぼくは、おまえの兄、だぞ、いいのか、殺して……」
「何度でも、私は言う。あなたは、もう私の兄じゃない。ハルカは死んだの。ずっと前に……」
「この声を、聞いてもか、この顔を、見ていてもか」
「ええ」
「何のために、強くなれた……? どうして、戻ってこられたんだ? ウィルか? 大切なものが、出来たのか。だったら、言ってやる…………。どれだけ大切なものができたとしても、いつか去っていくぞ、消えるんだ。泣き虫のお前に、それが耐えられるのか。そのとき、父と母、そして、兄が死んだときと同じ、悲しみがまたやってくるぞ」
彼の血は止まらず、広がっていく。強い言葉でも、私を恫喝するような強さは、もうない。それでも、彼は縋りつきたくなるような、心の内側をえぐるような言葉を使ってくる。でも、私は揺らがなかった。とても冷静に、彼の言葉を受け入れられた。その意味や、自分のこれまでとこれからを重ねたうえで、自分の言葉を選ぶことができた。
「――――ええ。私は、泣き虫だわ。これからも、ずっと」
いったいどれくらい泣いた。父さんと母さんが死んだとき、ハルカが死んだとき。私はいったい、どれくらい泣いたのだろう。泣き続けて、泣き続けて、延々と泣き続けて。最後に、私は復讐の炎のために立ち上がった。そして、師匠のところへ行ったのだ。私はそれから、もうずっと泣いていない。
でも、涙が出そうなくらい、心が痛むことはある。
私の傷は、癒えていない。
誰と出会っても、癒えることは無い。
二度と。
「父さんと母さん、ハルカ……大切な人たちを失ったことは、悲しかった。大きな傷は、今も私の中にある。私はこれから一生、その傷に泣き続ける。涙が出るとか、出ないとかじゃない。心が泣き続ける。これからも、誰かを失う時が来たら……同じように、泣いてしまう」
「…………だったら、もう、やめちまえばいいじゃないか。投げ出しちまえばいいじゃないか。孤独は、闇は、気持ちよかっただろう。なんにも、考えなくてよくて、ただ、ぶっこわせばいいだけなんだから……」
「もう、私は孤独じゃない。私の傷に、水を与えてくれた人たちが、いるの」
傷は治らない。
どれだけ時間が経っても癒えない。
でも。
「たくさんの出会いが、私の心を、吹き返す手助けをしてくれたのよ」
その傷に、温度を与えてくれた人たちがいる。孤独であろうとしても、ずっと私に寄り添ってくれた人たち、寄り添おうとしてくれた人たちがいる。すっかり枯れてしまった私の心を揺り動かし、柔らかくして、いろいろな感情を教えてくれた人たちが。報いるとか、恩があるとか――それ以上に、私はそんな新しい眩さの中に、いたかった。
「失う怖さに怯えているよりも、今は、ただ、一緒にいたいの。未来のことは、どうなるか、わからないわ。でも、今、この瞬間、話をしたい……そういうひとたちが、たくさんいる。たくさんいるの」
だから、投げ出せる、はずがない。
壊したくなんか、ない。
私が何を言おうと、ハルカは言葉を跳ね返そうとする。
彼は、どこか勝ち誇ったように笑った。
「――――ぼくと、父と母、その死の上に、幸せを築くわけだな」
「…………」
「応援するよ。よかったな、父と母、そしてハルカ、大勢の人間の死があって、お前は大切なものに、出会えたわけだ、『死んだおかげ』で手に入った幸せ、そりゃ、喜ばしいよなあ」
ハルカは笑顔で言った。
「アリサ、それでいいのか? 父と母、そして『ハルカ』の死のおかげで得た喜びに、歓喜していいのか」
私は、その眼を見つめる。
――それは、私の未来に対するひとつの課題だった。私は、仇である『ハイブリッド』さえ殺すことができたなら、そのあとは、どうなろうと知ったことではなかった。だから、たくさんのひとたちとの出会いに幸福を覚えたことや、そして――ウィルへ想いに気付いたとき、それは私にとって大きな重力となった。大切な人たちの死。それらを意味あるものに、していいのか。『大切な人たちが死んだおかげ』で、私が幸せになっていいのか、と。
私は、何か言葉を探した。
それに対する答えは、出ていたはずなのに。
言葉が見つからなかった。
その、瞬間だった。
「――――黙れ」
私の後ろで、声がした。
ウィル。
彼は、ゆっくりと、私の方へ歩いてくる。そしてハルカに迫ると、ハルカの胸倉を掴み。
思い切り、殴り飛ばした。
拳を、ハルカの頬に叩き込んだのだ。
「ッ――――」
ハルカは吹き飛ぶ。
胸に剣が刺さったまま転がって、うずくまる。
そんなハルカを見て、ウィルは言った。
「何が、死んだ者のおかげなものか。アリサは、どう生きていようと、どんな人生を送ろうとも、絶対に幸せになったんだ。そのまま家族が生きていても、たとえ……たとえ、突然いなくなったとしても、どっちの人生に進んだとしても、アリサは、幸せになれるんだ。だから、誰かが失われたおかげでも何でもない。アリサは、アリサとして生まれた限り、周りがどうであっても、過去がどうであっても、幸せになれるんだ」
迷いのない、言葉だった。
私は息が詰まった。
私は、ずっと復讐のために生きてきた。『ハイブリッド』を殺すのだと。そんな、もしかすれば残酷だったはずの道でも、どうにか私が私のままでいられたのは、ウィルがいたからだ。いつも私は、ウィルの言葉を、きっと灯火のようにして生きてきたのだ。私が決めたことであっても、いつだってウィルの支えさえなければ、きっと決められたはずがない。さっきだって――そう。私が闇に堕ちても、ウィルは光で照らしてくれた。そんな言葉に、いったい私は、どれだけのものをもらったのだろう。
「ウィル…………」
私は、天を仰いだ。
私の命は、ハルカと分かつようにして、本当はこの世界に殺戮をもたらすために生まれた。父さんと母さんが、もし生きていたら。そしてハルカが、私の大好きなハルカのままだったら。そして、私たち兄妹が、殺戮のために生まれるという役目を背負っていなければ。私は、別の優しい生き方をしていけた、と思う。穏やかに、静かに生きていけたと思う。
でも、そんな道はもう、無い。
今から、そんな想像をしたところで、戻ってこない。
だけど。
だけど…………。
私はまだ、生きている。
だから私は――この道で、どうにか幸福な道を歩みたい。自分の手の届く範囲で、大切な人たちと共に在る道を選びたい。だから、そこに喜びがあるとしたら、それは……『いなくなってくれたおかげ』じゃない。
私を、生んでくれたこと。
もういなくなったひとたちが『生きていてくれた』おかげ、なんだ。
私は、父さんと母さんが死んでから生まれたわけじゃない。生きていたときに生まれた。その延長に私が今を生きているのなら、それは、いなくなったおかげじゃない。生まれたのなら、そのあと、何を幸せとするかは私が決めればいい。どんな風に、どうやって幸せになるか、それは私が決めればいい。だからウィルの言う通り、私がここに在るという、ただそれだけの理由で、私は幸福だと感じてもいいんだ。そうなる可能性と、未来がある。そうでなければ、こんなにたくさんの出会いに、恵まれたはずがない。
私の中に、たくさんの顔が浮かぶ。
愛おしいひとばかり。
大切な、想いばかり。
私は、ぽつりと言った。
「――――…………ありがとう」
■
「――――そうか、それがお前の行く道なんだな」
ハルカが、倒れたまま言う。
私とウィルは、横並びでそれを見つめていた。もう、彼の言葉に惑わされるほど、心に重いものがない。傷だらけのハルカ。治癒魔法を使う可能性もなくはないけれど、その瞬間を見逃さないように、こうして見つめている。何か、変な動きをしたら、その瞬間に私とウィルは動き出せる。
「……アリサ、ぼくは、この世界を滅ぼすために生まれた」
「……………………」
「そのために、ありとあらゆる計画を立てたんだ」
「……何が言いたいの」
彼の身体が、黒々しい光が燃え上がった。
一瞬。
閃光。
私とウィルが腕で眼前を覆った、そのたった一瞬のうちに。
ハルカは立ち上がっていた。
彼の周囲は、黒い煙が立ち込め、黒い光が舞い、渦巻き、異様な威圧感を発していた。私とウィルはいつでも魔法を放てるように手のひらを前方へ向ける。――ハルカは、高笑いを始まる。喉から絞り出すような高笑い。胸元から流れ出る血は収まりきらない。それがそのまま、ハルカのおどろおどろしい光に混じる。
「ぼくは、こいつを呼び出そう。世界を灰とする、邪竜のクレイドールを――」
目を見開く。
ハルカの周囲にあった黒々しい炎が、さらに威力を増して、回転しながら天空へ迸った。一直線に空へ向かった黒い光。それが、別の空からやってきた黒い光と交差する。
「悪魔型が、それぞれの場所へ向かい、召喚陣を敷いていたんだよ。その力が集い――これまで誰も見たことがない、邪竜を生み出したんだ。これが、ぼくが最後にやりたかったこと。ぼくたちが本当になすべきことを、この空からやりとげてみせる。世界を、燃やし尽くしてやるんだ」
様々な方向からやってきた黒い光が、空の真ん中で、集い、重なる。
ひとつ交わるごとに、大きく光り。
空を、黒く染めていく。
ひとつ、またひとつ。
そして。
強く、弾けた。
空の中央で、大きく黒い塊が爆発した。
「――――なんだよ、あれ」
ウィルが呟く。
爆発した黒い塊の破片が、何かを象るように形を作っていく。破片同士が繋がり、大きく、巨大な何かを作り上げていく。強大な身体、腕。そして、翼。長い尾。強靭な口。光を一切寄せ付けない、完全な漆黒。想像をはるかに超えた大きさのそれが、空に君臨し、そして――――天に向けて、咆哮した。
耳をつんざくような、凄まじく、鋭い、鳴き声だった。
天と地を震わす、何もかもを吹き飛ばすような、嘶き。
「…………邪竜のクレイドール」
私は、ぽつりと呟いた。
竜は、古の伝承に語られる獣だ。その姿を模したクレイドール。圧倒的な大きさ。そしてハルカが生み出した最後のクレイドールということなら――あの巨大な体躯の中には、尋常ではない力が封じられている。燃やし尽くす、と言った。だとしたら、あの竜は……間違いなく、この大地に攻撃をする。
「ハルカッ……!」
私が、振り向き、声を上げる。
ハルカの身体は。
朽ち始めていた。ハルカの身体は緩やかに、まるで砂で出来上がった彫刻が風にさらわれ風化していくように、端から静かに形を失い始めていた。だが、ハルカは笑っていた。私たちを見守るような優し気な微笑ではない。自分の成し遂げるべきことは為し終えた――そんな、変わらない邪悪な微笑みだ。
「ぼくが消えても、ぼくがいなくとも、世界を殺戮で覆いつくす。そのために、あれを生んだ。どうにかできるというのなら、どうにかしてみればいい。それでどうにかなったとしても、少しだけ、世界が滅びるのが後回しにされるだけだ。また悲しみが繰り返されていく。それでいいというのなら、戦えばいい」
「ハルカ…………!」
「ぼくは一足先に、去ろう。どちらにせよ、ぼくの役目はこれで終わった」
「…………」
「さようなら、アリサ」
ハルカの身体は、全て、風に乗って消えた。
跡形もなく。
私は、何もなくなったその場所を、眺めた。
時間が、流れていく。
遠くで、大きないななきが聞こえる。
咆哮。
「…………――――」
私は、深い息を吐いた。深い、深い呼吸だった。まだ私の中に燻ぶっているもの。ハルカがいなくなった。完全に消えた――――私は悟った。随分昔に、私の好きなハルカは消えていたから、もちろん涙など出ない。虚勢でもなく、強がりでもなく、悲しみは一切なかった。でも、少しだけ、虚しい気持ちになった。自分の中にずっとあった一本の芯に、ひとつ、決着がついた。その、心の中の隙間だったのかもしれない。
私は唇を噛んだ。
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そして、見上げる。
まだ、まだ終わっていない。




