奇跡なす者たち③
遠く激震する戦いの音、強大な足音、強靭な唸り声に悲鳴。それらが遠く遠くに、少しずつ霞みがかっていく。ウィルが立っている場所が、世界の境界とは少しだけ外れた位置に移動したかのような感触に陥る。それが何を示すのかはわからない。しかし、確実に目の前の――――ハルカ・フレイザーという存在そのものに対する認識がもたらしたものであろう。何か特別な能力が世界を覆ったのではなく、ウィルの中で、今、目の前の存在と相対しているということだけに、全神経が集中していたのだ。ウィルはまだ、剣を構えなかった。
ハルカ・フレイザーは笑っていた。
ウィルは気絶したアリサに目配せをする。
安らかさとは程遠い、意識の断絶の内側で未だに痛みを感じているかのような、眉を寄せた表情。その無意識の奥で何を考えているのか、何を見ているのか。ウィルはアリサの頬を人差し指で軽く撫でた。この表情が、ただの安らかな眠りだった頃は、アリサにとって、いったいどれくらい前のことになるのだろう。五年、いや、もっと前から? アリサには血が通っている。あんなに赤茶に眩しかった髪は、今は黒に染まってしまっていた。それでも。温もりはあった。まだ、アリサは人間だった。ウィルは奥歯を噛み締めると、眠っているアリサから目を逸らした。
そして。
ハルカ・フレイザーと向き合う。
「ウィルフレッド」
彼は途轍もなく穏やかに言った。穏やか過ぎて恐ろしいくらいだった。悪の権化。かつて王様とヒストリカから教わった、殺人鬼の伝承。人間を滅するため、世界を制圧するため、遺伝子も何も関係なくこの世に生まれ落ちる絶対の存在――ハイブリッド。その一端を担う存在として、裏で総てを操り、アリサを操り、何もかもを騙し、こうしてヘルヴィニアを戦に叩き込んだ張本人。そのはずなのに、彼の言葉はあまりにも艶めかしく、しかし平坦で、同時に『受け入れやすすぎる』穏やかさに満ちていた。心の隙に入り込んでくるような柔らかさ。ウィルは身構えた。
「ありがとう」
――だが、生まれた言葉は意外な言葉だった。
ウィルは怪訝な顔をする。
「……ありがとう、だと?」
「うん。ぼくはね、どうやったらアリサを絶望に叩き落とすことができるのか、それだけを考えていたんだ。生まれた瞬間に、後に生まれてくる妹に、ハイブリッドの力を半分奪われてしまったと悟ったその瞬間から、ずっと。そのために、父と母を殺した。そして、僕も殺したんだ」
本当に何の抑揚もなく話す。しかし、感情がないわけでもない。人間としての『基本形』に忠実。ウィルはアリサと一緒にいたことのハルカを知らないが、伝え聞いた限りでは、もっと優しく、誠実で、精悍なものだと感じていた。もちろん、今の目の前のハルカも、優しげで、誠実そうだ――――だが、決定的に違う。
「でも、それだけでいいのか、と思っていた。まだ足りないかもしれないと」
「――――それが、俺」
「そう。もちろん、君をぼくたちの仲間にできたら、一番よかった。君もぼくの駒になって、アリサを最後に裏切らせたら、それが一番、切り札になり得たのかもしれない。でも、そうはできなかった」
「ふん。あんたの駒なんか、俺はごめんだ」
「わかっている。だからよかった。裏切りの役目はケイトリンに任せて、君は、むしろ逆にアリサにとって真っ当な仲間として頑張ってくれた。君が、ずっとずっとアリサと一緒にいてくれたから、アリサに迷いが生まれたんだ」
「……迷い」
「アリサはひとりでよかった」
ハルカはウィルを真っ直ぐに見つめた。
その瞳。
ぞっとするほどに恐ろしい瞳。
黒々しい宇宙。
吸いこまれる。
その美しさの中に。
言葉まで混じる。
罵倒。
扇情。
突き刺すような。
しかし、それすら。
「アリサがずっとひとりぼっちであったなら、アリサはこんな目に合わずに済んだ」
ウィルは絶句する。
ハルカの声そのものが、ウィルを包もうとする。何かが実際にウィルを包んだわけでもない、近くにいるわけでもない。しかし、ウィルは立っていることすら難しくなるほどに、その言葉に、追いやられる。無機質さの中にある不透明感。見えない何かの重苦しさ。それらが矢のように突き刺す。重く、鈍く。あんなにも平坦な言葉遣いだというのに。心が折れそうになった。残響する。脳を食い荒らそうとする。ハルカの声ひとつひとつに意志があり、ウィルを追いかけまわす。
「おまえのせいだ、ウィル」
ウィルは唇を噛んだ。
響く、脳に、骨に、胸に。
おまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだ。
ここは、学院の広場。
それなのに。
深い沼に叩き落とされたような感覚さえする。
冷たく、足のつかない。
深い。
「黙れ」
ウィルは、剣で空中を横に一閃した。
鋭い音が響く。
「俺を惑わそうとしたって、そうはいかない」
「惑わすつもりはないさ。本当のことを言っている」
「それが嘘じゃないか」
「嘘なものか。ウィル――――君と出会ってしまったために、アリサはずっと苦しくなった。アリサが歩んだ道が、ずっと残酷で苦しいものになってしまっていたんだよ。君が、アリサの『心の拠りどころになってしまった』がために」
「俺を追い詰めたい、でまかせだ」
「アリサは孤独に、ひとりぼっちで復讐に進むべきだった。今のアリサは、いろいろなものに挟まれて、苦しくて苦しくて仕方がないだろう。見なよ、そこで苦しんでいるアリサを。そうしたのは、全部君だよ、ウィル」
もし、俺がアリサと出会わなければ――。
ウィルは想像した。
どうなっていただろう。
父親を失った日。父が帰ってこない、あのとき、アリサに出会った。あのとき、自分とアリサの運命は交わった。あの日、出会わなければ。もし、ほんの少し、たった一時間だけでも自分の時間がずれていたら、アリサと出会うことはなかったかもしれない。そうなったら、いったいどうなっていただろう。アリサは延々に学院の門の前でハルカを待ち続けたかもしれない。そして帰ってこないまま、捜し歩いたのかもしれない。ターナーの手紙も知らないまま。その先のアリサの未来はウィルには想像できない。何らかの手掛かりを掴んで、勝手に「ハイブリッド」という存在を復讐の相手だと定め、力を付けるのかもしれない。 けれど、そんなものは全て仮定だ。
ウィルはアリサと出会った。
それは、ターナー・ライツヴィル――父親がハルカに悟られぬように出した手紙がもたらした出会い。それはハルカには予想しえなかったことのはずだ。だがハルカは、自分の計画を軌道修正し、ターナーの手紙すら計画のうちにした。ひとりぼっちで生きていくはずだったアリサを、もっと苦しめるために、ウィルをその役目に陥れたのだ。
ハルカは、指をぱちんと鳴らした。硬いものを細長い錐のようなものでひっかく、甲高い不快な音を立てながら、ハルカの手の内で黒い炎が湧き上がった。邪悪な炎。燃え盛る色合いの中に光が見えない。一滴の赤もない。完全無欠な黒。だが確かにそれは燃え盛る炎だった。嘆きの色。明滅する瞬きすらない。濁りのない絶望だった。ハルカはそれを火球として膨らませ、ウィルに向かって解き放つ。凄まじい勢いで放たれる熱気に、ウィルは気圧され、一瞬行動が遅れた。地面を蹴り出して魔法浮遊をするも、ローブの端をもぎ取られ、熱流の風にバランスを崩す。――――その刹那に、ハルカは空中に投げ出されているウィルに近づくと、腕に炎を纏わせ、ウィルの腕を掴もうとした。殴るのではなく、燃やし尽くそうとする意志だった。ウィルは瞬発力のある風を一瞬だけ噴射して体勢を立て直すと、ハルカの首の側面を狙って剣を振るう。だが、ハルカは手のひらに作った炎でそれを受け止めるのだった。炎そのものが質量を持ち、剣の一撃を受け止めるなど――ウィルは唖然とする。ハルカは剣先から炎を伝わせ、邪悪な炎がウィルの手元まで瞬時に忍び寄った。
冷たい。
冷たい炎。
ウィルは咄嗟に剣から手を離してしまう。そのあまりの冷たさに背筋まで凍った。そのとき、ハルカと目が合う。微笑み。ハルカは微笑んでいた。ハルカはウィルの首を掴んだ。「ぐっ!?」そのまま二人は落下し、ウィルは地面に叩きつけられる。ハルカはウィルの上に跨り、彼の首をじわりと閉めた。ハルカの手のひらはぞっとするほど冷たかった。
「っ……ぐっ……」
「ウィル、この世界はどうなると思う」
「……なん、だと?」
「この炎が覆う世界を、想像してごらん。燃え盛る炎は消えない。熱が何もかもを包み、逃れられない。海も大地も皆、焦げる。人々は嘆き悲しむ」
ハルカの生み出した炎が、この世界を覆う。その冷酷さ、あまりにも冷たい炎が世界に大きな打撃を与える場面を――そこに青空は当然ない。あるのは、暗く昏い、地平線。延々に、永遠に。これほどまでに冷たい炎が、いったいどんな温もりを生むというのだろう。この炎は、天に輝く日の星さえも凍らせるような気がした。ぞっとするのではなく、何かが忍び寄るような冷やかさ。ウィルはハルカの手を解こうと、彼の手を掴み、力を込めた。
「ウィル、君はここで死んだ方がいいと、そう思わない?」
「…………」
「冷たい未来。この炎に凍りつかされる未来など、愛想が尽きたりしないの」
「…………」
「もう諦めても、いいと思うけどなあ」
諦める?
諦めるだと?
何を?
世界を?
未来を?
「――――――――ぐっ、……う…………」
そのとき。
誰かの、苦痛に蠢く声がした。
首を絞められながら、ウィルは耳を澄ませた。
苦しみ。
嘆き。
悲しみ。
アリサ……。
横目で、気絶しているアリサを見た。
地面に倒れたまま、長い黒の髪を乱したまま、昏睡している。
黒髪。
あの赤茶色の髪が、絶望に染まった色。
そんな風に、いろいろな色が、黒く染まるのだろう。
このハルカ・フレイザーの望む世界は。
ウィルは歯を食いしばった。
「諦めるわけねえだろ」
「……ウィル」
「俺はな、ハルカ。お前を一発ぶん殴らないと、気が済まねえんだよ」
■
私はそのとき、闇の中にいた。
黒い、遠くまで光のない空間。
自分の身体の感覚がない。
微かに目を開いていて、黒々しい世界を見つめている、視覚だけが確か。
私は、確かにここに立っている。
そうして。
目の前に、黒い髪の女が現れた。学院のローブを身につけ、目の色のない女。この場所を満たす黒色がそのまま瞳に色に宿ったかのような、黒。溢れ出る瘴気。ぼうっと浮遊感のある佇まい。そんな女が私を見つめている。女は口元に微かな笑みを宿して、私に問うた。「アリサ、どう、気分は?」――女の声は遠くまで響いた。
「何も感じられない。あなたは、誰」
「私は、あなた。『ハイブリッド』として生まれ落ち、しかし、あなたの心の内側で隠れていなければいけなかった、殺人者の魂。あなたが今日まで十五年間、ずっと忘れていた、生まれてきた意味」
女は、まるで私に抱きつきなさいと言うように、両手のひらを左右に広げて見せた。私、は、アリサ――少しずつ思い出してくる。私の名前は、アリサ。アリサ・フレイザー、だった。彼女の声は私によく馴染んだ。自分の手のひらをそっと持ち上げてみる。そこには確かに手があった。傷だらけの指。曲げ伸ばしたらきちんとその通りに動く指。暗闇の中でもまだ見える自分の身体。何も感じられないと言った、自分の声も、どことなく聴こえる。
「私は、殺人者として生まれてきたのね」
「そうよ。あなたは、人間を殺戮するために、生まれ落ちた」
「……そう、ね」
私は笑った。笑うことができた。
「もう、それでいいわ。なんだか、疲れた」
「じゃあ、明け渡してくれない?」
黒い女が、ゆっくりと私に迫った。
そして、私の頬にそっと手を添える。まるで冷たい器のような、氷のような肌触り。冷たい。生気の感じない、指。女は私の頬を撫でると、ゆっくりと指先をずらして、私の唇に触れた。上唇と下唇を、彼女は人差し指で丹念になぞった。何かをいつくしむように、愛おしく思うように。私は何も言えない。そうして迫った彼女の顔面。黒い瞳。彼女は私で、私は彼女だから、背丈も何もかもが同じだった。こうして顔を寄せ合うと、目線があまりにも近すぎて、驚く。何もかもが鏡、なのだ。
彼女はそう言った。
明け渡して、くれない?
私は彼女と見つめあう。
「何を?」
「あなたの、全てを」
「何度言えばわかるの。私は、すでに明け渡している。何もかもを。だから『あんな風に』なったでしょう。ハルカに、そしてあなたに、心も身体も許した。私の炎は黒く染まり、髪も染まり、言葉も染まった。殺戮に何の躊躇もないわ。好きにしてくれていい。私はもう、どうでもいいの」
「嘘を吐かないで」
彼女は囁くように言う。
「じゃあ、なぜあなたは『ここにいる』?」
「…………」
「心も身体も明け渡したなら、ここにあなたがいるはずがない。私しかいないはず。なぜこの、精神の内側の世界に、私とあなたがいる? 答えは簡単。あなたはまだ、私に何もかもを許していない。まだ、未練がある。生きたがっている。殺戮など、どうでもいいなどとは思っていない。何かをまだ見つめ続けたいと、そう願っている」




