奇跡なす者たち②
死んだ。
皆、死んでいく。
私の心の内側で渦巻く、黒い炎。居心地の良さも何も感じない。生ぬるい風。
思い出すのは、ハルカの顔だった。
ハルカは、私の全てだったのだ。
本当の小さな頃、両親が死んだ。ついさっきまで、つい昨日まで、当たり前のようにいてくれた父と母が死んだ。二度と会えない。その意味が解らないほどに子どもだった私は、次の日も、その次の日も、毎日毎日、誰構わず「お母さんは?」「お父さんは?」と尋ねて回った。誰もが私を悲しい目で見た。切なげな目で。同情の目で、憐れみの目で。少しずつ、少しずつ私にもわかった。両親はどこかへ行った。もう二度と会えないところへ。私にそのことを強く刻み込んだのは、ハルカだった。もう、お父さんとお母さんには会えないんだよ――。私は大声で泣いた。その日から、私にはハルカしかいなかった。ハルカがいてくれることが、私にとって生きることだった。
ハルカは優しかった。途轍もなく優秀で、魔法だって誰よりも上手だった。誠実で、努力家で、何においても決して手を抜いたりしない。常に周りを見て、率先して動き、その精悍な眼差しはいつだって私の憧れだった。ハルカが自分の兄であることが誇らしかったし、そんなハルカの妹であることが、私にはずっと誇りだったのだ。
だから。
だから、あの運命の日。
『死亡した試験生の名前は、ハルカ・フレイザー』……。
きっとあのとき、何もかもが、捻じ曲がったんだ。
それからずっと泣いて、泣いて泣いて、何度も泣いて、叫んで、ハルカの名前を何度も呼んで――ひたすら、涙を流して。それから、学院を潰して、ハイブリッドを殺すと誓うようになって。けれど、あのとき、私は終わっていたんだ。ハルカが私の全てだった。そんなハルカが死んだのだから、あのとき、私は一度死んだのだ。今の私は、生ける屍。偶然生き永らえただけの、馬鹿な娘だ。ハルカが生きていたとしても、私は死んだ。死んだままだ。誰にも勝てなかったのも、何の意味もなかったのも、操られていたのも、全部、死んでいたから。私の命に意味はない。誰かの縋ったとして、誰かの手を取ったとして、それすら全て、虚構だ。私は、もう、死んだのだから。
明滅する誰かの顔。
思い出せない。
思い出したく、ない。
×××……。
男の子の顔が見える。
私の手を、ずっと引いてくれた誰かの顔が。
でも、そんなの。
どうせ最後に。
壊れるんでしょう。
■
私は緩やかに身体を起こした。
パーシヴァルの一撃を思いきりくらってしまい、学院長室のガラス窓を突き破って、外へ放り出されたらしい。地面に落下する寸前に、水魔法で炎を消したが、一瞬だけ気を失っていたようだ。身体に目立った外傷はない。――だが、なぜ、あのパーシヴァルの炎などという弱いものを受けてしまったのだろう。彼は弱い。今の私にとってみれば、パーシヴァルなど瞬殺できる。それなのに、なぜ。私は汚れた手のひらを見つめた。
ゆっくりと立ち上がり、空を見る。
クレイドールの群れ。
それなのに、吸い込まれそうなほど青い空。
その向こうに、黒煙と、悪魔型らしき巨大な足音。
人間の声。
悲しみ、叫び、痛み。
いろいろなものが、私の精神に聴こえる。
壊れてしまえばいい。
どうせ、意味なんてない。
どうせ壊れるのだから。
何もかも、炎に。
パーシヴァルにやられっぱなしでは、それこそ癪に障る。
今度こそ、殺しに――…………。
そうして歩き出そうとする。
その、瞬間だった。
「アリサッ――!」
私の名前を呼ぶ声が、後ろから聴こえる。
とても、馴染んだ声。私はすぐには振り返る事が出来なかった。そのとき、全ての音が消えた気がした。戦いの音、喧騒、叫び、威勢、崩壊。それらが立ち消え、私の名前を呼んだその声の残滓が、耳に残り、波紋を広げた。身体に響き渡り、居座ろうとする。――確かにそれは、馴染んだ声。居心地の良かった声。
けれど、今は。
不快だ。
私は、ゆっくりと振り返った。
そうだ。
忘れていた。
記憶から削ぎ落とされていた。
自分から、封印したのかもしれない。
名前すら。
顔すら。
もう、きっと私には必要ないから。
だから。
私は、彼と対峙する。
「ウィル…………」
私の手を引いてくれた人。
ここまで、ずっと傍にいてくれた人。
ウィルフレッド・ライツヴィルだった。
■
「アリサ……無事だったか」
ウィルは安堵の声を漏らした。そうだ。パーシヴァルの火球を思いきり受け止めてしまったのは、その寸前に、彼が学院長室へやってきて、私の名前を叫んだからだった。おそらく私は、ウォルを特別視している。ケイトリンと手紙をやりとりしたように、きっと『以前の私』にとっては、誰よりも大切な人だっただろう。だから、名前を呼ばれて反応してしまった。だが冷静になれば、それほどのことでもない。『以前の私』はもういない。
だからウィルは。
もう、特別なんかじゃない。
「敵の心配をしているの」
「敵じゃないだろ? アリサはアリサだ」
「馬鹿なことを。私はもう、アリサじゃないわ」
「じゃあ誰だよ」
「わからない。私が何者かなんて、どうでもいいでしょう」
私は空を見上げた。空を舞い踊るクレイドール。遠くに見える幾つもの煙、灰、粉の竜巻。悪魔のいななき。戦いの音色だった。それらとは断絶されたところに、二人はいる。あまりにも静か。この男はもう、特別じゃない。かすかに残っている記憶と、少しだけ間違えかけた想い。それらはすべて、どこか心の内に残っているようで、しかしそれらはとても無機質な映像のようだった。私はそれらを、自分のことのように取り出すことができない。
「もしかしたら今、誰かが、死んだのかもしれない」
「……アリサ」
「それらも全部、私が引き起こしたのよ」
私は、ハイブリッドだ。何もかもの渦の中心。ハルカが作り出した糸に手繰り寄せられ、何もかもを悟った。この私は、このために生まれたのだ。何もかもが殺され、失われ、墜ちていく様を見届けるために。私には、それだけしかない。それだけ、たったそれだけのために呼吸が続いていることの、無為さ。この男は、そんな無為な私を、アリサとまだ呼ぶのだろうか? どうして、そんな無意味なことをするのだろう。
「アリサ……俺は、お前に謝らなくてはいけない」
「…………」
「俺が事件の推理を語った晩、お前を――たったひとりにさせてしまったことだ」
憶えている。この男から、私の兄であるハルカ・フレイザーが、自作自演によって死を演出し、今も生き永らえ、全ての計画を弄したこと。私はそれを信じられず、信じ切れず、逃げ出した。私のためを想って語ったこの男の言葉を、初めて信用せず、疑い、飛び出したのだ。そして、パーシヴァルに負け、ハルカと再会した。
「俺は、お前を一人にするべきじゃなかった」
彼は切なげな顔をする。
「絶対に、傍にいてやらなくてはいけなかったんだ」
ウィルフレッド・ライツヴィル。
私は、今、その瞳に何も思わない。
しかし。
この男がいたから、私はまだ生きているのだろう。
この男がいなければ、きっとずっと昔に、折れていたのかもしれない。
それでも。
もはやそれは、過去の話だ。
「あなたが、気に病む必要はない」
私は切り捨てるように言う。
「もう、傍にいてもらわなくてもいい。それは、過去の私。もう私は、あなたの知っているアリサじゃない」
「だけど今、俺の名前を呼んだだろう」
しかし今度は、
彼は、私の言葉に、柔らかく、目を細めるのだった。
「ウィルって呼んだ。その呼び方、間違いなくアリサだ。俺の知っているアリサだよ」
この状況で、なぜそんな笑い方ができる。
私はハイブリッドだ。この世界に災厄をもたらすために生まれた魔法使いなのだ。その気になれば彼なんて瞬時に殺すことができる。今、ヘルヴィニアを闊歩するクレイドールも全て、私という存在が生み出したのだ。人間にとって、この世界にとって、私は脅威そのものだというのに、なぜ、それを前にして笑うことができる?
私は自分の手に炎を纏わせた。
黒い炎。
「けれど、あなたの知っている私は、あなたを攻撃したりしないでしょう」
「そうかもしれない」
「殺すわよ」
同じだった。今の私の目には、パーシヴァルと同じように、彼の動きが予測できる。彼の佇まい、足の位置、手の位置、それら全てで彼がどのように動くかが想像できた。それを思えば、一気に距離を詰めて炎を叩き込むことも造作ない。あるいは剣で叩き切ることも簡単だ。――それは彼とて分かっているはず。それなのに。
「殺してみろよ」
ウィルは剣を構えた。
その微笑みは何だ。
「――――死んで」
私は呟き、一歩を踏み出すと、地面を蹴り、瞬時に彼に近づいた。炎を手のひらに溜め込み、撃ち放とうとする。――しかし、彼は素早かった。私が動き出すのとほぼ同時に地面に風魔法を放ち、その反動を持って空中に浮遊していた。私は右手を空に向け、人差し指を立てる。魔法射撃。まるで光線のような炎を空を飛ぶ彼に撃ち放つ。彼も負けじと、空中で風魔法を連発し、私の炎を躱した。――彼の風魔法を抑制されている。余分なものがない。空中浮遊をするのに必要なだけの風を確実に、丁寧に丁寧に練り上げ、弾き飛ばしている。魔法射撃も、際どいどころで、しかし徹底的に避けられてしまう。私は炎を地面に撃ちこみ、同じように空中に浮遊した。一気に彼に詰め寄り、彼の肩口に向かって剣を抜き打ちする。彼もまた、剣を腰から抜き、私の剣を防いだ。
ここだ。私は、自分の剣と彼の剣が衝突した位置を支柱にして身体を捩り、彼の顔に右足の蹴りをくらわせようとする。彼はそれを身をかがんで躱し、私に風球を撃ち放つ。もちろんそれも計算済みだった。剣を持たない側の手で横方向へ小さく炎を噴射し、その勢いで移動する。彼の背後を取る。振り向きざま。完璧なタイミングだった。私は片手に瞬時に火球を練り上げ、彼の背中に撃ち放った――――。
はず。
だった。
「!?」
私の身体が落下する。
火球が、私の手から離れなかった。
火球を彼の背中に解き放った、はずなのに。
私は地面にすっと降り立つ。
彼もまた、私と少しだけ距離を置いて、地面に着地した。
「どうしたんだ」
「――――――」
今、魔法を撃つことができなかった。
魔法に失敗した?
そんなことが、あるの?
ハイブリッドである、この私に?
「今、俺を、殺せただろ」
ウィルは私に言った。
癪に障る。
「……少し、しくじっただけよ」
「そうか。本気で来い」
「挑発しているの」
「いや、俺は、お前と戦ってみたいだけだ」
「私と?」
「ああ」
「死にたい、ということ?」
「違う。俺は生きたい」
「だったら、どうして」
今の私は、ハイブリッドだ。ハルカと力を二分して生まれた存在とはいえ、伝承にも語られる最強の魔法使いなのだ。その片割れと、戦いたい? どうして? 私には理解できなかった。彼の何もかもが。腹立たしい、苛立たしい。それ以上に、目を逸らしたい。現れた瞬間に、彼は私にとって不快だった。何か、私の存在を揺らがすような。心を打ち崩そうとする異分子。自分にとって脅威にしかならない存在。さっきから、理解の及ばないことばかりを言う。私は、最強の魔法使いの片割れ。それなのに、どうして、戦いたいなどと。
「お前を救うために、戦いからは避けられないと思った」
「……私を救う?」
「ああ。別に、お前と戦いたいというのは、自殺しに来たわけじゃない。俺は生きるんだ」
「馬鹿な。生きたいのなら、逃げたらいいのに」
「逃げるわけにはいかない」
彼は剣を下げ、私を指差した。
「お前と生きたいんだ、アリサ」
「――――――――」
「だから、俺は本気だ。お前と戦うことで、お前を救う」
私の心臓が、脈を打つ。
誠実な眼差し。
吸いこまれるような。
美しい瞳。
真っ直ぐすぎる視線。
「私、と」
「そうだ。俺はお前に、生きていてほしい」
胸が痛む。
頭痛がする。
生きる?
生きるって何?
こんな、虚ろな世界で。
生きていたって、何の意味もないと。
証明されたくせに。
絶望しかない。
無意味な命。
どうせ滅びていくのに。
どうして。
「うるさい!」
私は叫んだ。
彼に向かって火球を撃ち放つ。撃って撃って、何度も何度も撃ち放った。彼はそれを横方向へ全力疾走することで躱す。――彼は、殺さないと駄目だ。私を乱す者。私の心を撃ち砕こうとする。私にとって邪魔なんだ。私は彼を追いかけた。絶対逃がさない。彼は後ろ手に、こちらに魔法を放つ。竜巻が私の元へ鋭い針のようにやってくる。だが、手加減していることが見え見えだった。そんなことで、私に勝てると思うのか。
私は高出力で地面に炎を撃った。
勢いよく地面から飛び立ち、彼に瞬時に迫る。
剣を抜き、彼の首を狙って。
一閃。
躊躇なく。
やった。
――はずなのに。
「どうして」
私の剣は、彼の首の寸前で停止した。
どうして。
どうして。
どうして。
今、私。
「アリサ」
「――」
彼が私を呼ぶ。
違う。
こんなことは、有り得ない。
私は、次いで彼に炎を撃とうとした。
彼の腹部に手のひらを押し当て、零距離で、炎を撃ち放ち、爆発させようとした。
それなのに。
魔法は出ない。
使えなくなった?
違う。
寸前まで当たり前に使えた。
私は後ろに飛んで、ウィルと距離を取る。
風が吹く。
「どうした」
「…………」
「殺してみろよ」
ウィルは剣を鞘に収めた。
彼は自分の両腕を広げ、胸を開放する。
無防備に。
「ほら」
「……舐めないで」
私は自分の手のひらを、彼に向けた。
火炎放射。
いつも通り、やれる。
造作もない。
基本中の基本。
それなのに。
心臓が高鳴る。
汗が吹き出し、額から流れ、鼻に伝う。
手のひらが震えた。
彼の身体に、心臓にかざしたはずの手のひらが、大きく揺れる。
どうして?
どうして、こんな。
震えが止まらない。
頭が痛む。
眩暈がする。
胸の奥に、刃物が入っているかのように痛い。
痛くて、溜まらない。
彼を殺そうとすると、痛い。
私は頭を押さえた。
「どうして、殺せないの……こんな、こんなことが……」
「アリサ、お前は、それでもアリサだ」
「何を、知ったような、口を」
「だから、今までずっと一緒に過ごしてきた俺を、殺せるわけがない。アリサはそんなにひどい奴じゃない」
「うるさいッ!」
「アリサは優しかった、ずっと」
「黙れ! 黙れ、黙れ!」
私はむやみやたらに、闇雲に魔法を放った。
巨大な火球が彼の元へ放たれる。
だが。
彼は一歩も動かなかった。
私の火球は自然と外れ、彼のずっと向こう側で爆発する。
爆風が彼の髪を振り乱すが、それでも。
ウィルは、私を見ている。
動じない。
「アリサ」
私の名前を、呼ぶな。
甦ってくる。
私の中に。
私は頭を押さえて、膝を突き、うずくまった。
ウィル。ウィルフレッド・ライツヴィル。私がハルカを失ったとき、彼は――ずっとずっと、傍にいた。何も言わなかった。慰めも、励ましも。ただ、私の日常を支えるためだけに一生懸命になった。泣き疲れた日に、ベッドまで運んでくれた。温かな飲み物を出してくれた。何も言わず、笑ってくれた。そして、私の意志を全て尊重した。涙が枯れた頃に、立ち上がって、復讐を誓った日。それに力を添えてくれた。あの日、ハルカがいなくなったと知った日。私は生まれ変わった。そして、それからの私の生に、ウィルは必ずいた。そして、そのひとつひとつ、全部全部、彼は笑っていて。私は彼の導きによって、ここまで、やってきて。――今、ここにいる。
そんなこと、本当はどうでもいい。
今の私には、どうでもいいんだ。
それなのに。
明滅する。
身体の内側から、何かが叫ぶ。
「うっ……あ…………」
「アリサ!」
彼が私に駆け寄る。
私の背中に手を添えて、顔を覗きこもうとする。
どうして。
こんなときまで、優しいの。
あなたは。
「…………ウィル」
「アリサ?」
「…………私は、あなたが」
そのとき、痛みに耐えかねた体が。
私の意識を途絶えさせた。
■
「やっぱり、たえられなかったね」
ウィルは、気を失ったアリサゆっくりと寝かせた。
そのとき。
声が響く。
ウィルは眉間にしわを寄せた。
ゆっくりと立ち上がり、剣を抜いた。
「――――会いたかったぜ、お兄さん」
「……こんにちは、ウィルフレッド・ライツヴィル」
ウィルは彼と対峙する。
黒の佇まい。
不敵な笑み。
死んだ瞳。
漆黒の髪。
ハルカ・フレイザー。




