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奇跡なす者たち①



「お姉ちゃん、待ってて……もう少し、だから」

 ヘヴスルティンク魔法学院の姿が見えてきた。すでに瓦礫と、倒されたクレイドールの粉塵によって、道は決して平坦ではなかったが、本来であれば、学院に直通する本通りを歩いているはずだった。ケイトリンは必死にクリスティンを運ぶ。幾度となくクレイドールに阻まれたが、クリスティンを背負いながらも、一瞬だけ指で雷を放つなどして、クレイドールを一網打尽にした。時折噛み付かれそうになれば、クリスティンをすぐ傍に寝かせてから、剣で断ち切った。遠方に見える影は、そもそもこちらにやってこないように、雷魔法の魔法射撃によって射抜いた。もうしばらくは襲われる危険はないだろう――そんな風に息を吐けるまでクレイドールを殺し、それから再びクリスティンを背負って、学院へ歩き出すのだった。

「…………お姉ちゃん、大丈夫?」

「……ケイトリン」

「お姉ちゃん?」

「あなたは、強くなったわね」

「――――」

 優しい声だった。

 ケイトリンは思わず立ち止まってしまいそうになった。けれどかろうじて、ここまでずっと歩き続けてきたその力が、ケイトリンの心に反して歩くことをやめないままで、ケイトリンは止まらなかった。けれど、そのたったひとことが、ケイトリンの心に、まるで水が染みていく紙のように、じわりじわりと広がっていくようだった。クリスティン――姉のこんなにも優しい声を、もしかしたら、ずっと久しぶりに聴いたのかもしれなかった。

「急に、どうしたの、お姉ちゃん」

 遠くで戦いの音が聞こえる。瓦礫の炸裂する音、クレイドールの嘶き。

 けれどそれらから切り離されたように、ここだけは姉妹の時間が流れていた。

「ケイトリン、今更こんなことを言っては、ずるいと思うでしょう。けれど、私を、もう少しだけ愛して」

「……何言ってるの」

「私を少しでも愛しているのなら、もう少し、我慢して、パーシヴァル様のところへ――」

 自分を背中から前に腕を回している姉の腕は、とても細かった。クリスティンはもしかすれば、とても冷たい女に受け止められるかもしれなかった。けれど、本当はもっと細く弱く、折れやすいのだ。だから――だから両親が死んだとき、パーシヴァルに縋った。パーシヴァルが私たちに与えるもので、その心を埋め合わせた。そうすることで平穏になり、以前よりもずっと表情が良くなった。一人で立てるようになった。だけど、本当は、とても放っておけない姉なのだ。見ていて痛々しくなるほどに。ケイトリンは泣きそうになった。

「お姉ちゃんの馬鹿」

「ケイトリン」

「私は今までもこれからも、ずっとお姉ちゃんを、愛してるよ」

 




 学院の本通りを越えて、ヘヴルスティンク魔法学院に到着する。正門から入ると、まるで宮殿のように大きな広間がある。ケイトリンは、息も絶え絶えに「やっと着いた……!」と声を上げる。パーシヴァルは確か、ハルカ・フレイザーの『やろうとしていること』――それが何かはケイトリンには知らされていない――の内では、ここに留まっているはず。パーシヴァルは、表向きでは「学院生と教員に指示をして、謎のクレイドールの襲撃に対して指揮を執っている」立場でなくてはいけないからだ。だから、きっと学院長室に――。そして、階段の方へ、再び姉を背負いながら歩き出そうとした、そのときだった。

「おお、クリスティンではないか――」

 頭上から声がした。

 その、声は。

「パーシヴァル様!」

 ケイトリンの背中から声が上がる。

 ――パーシヴァル。

 広間の階段、その上の吹き抜けからこちらを見下ろしていたのは、銀のローブに身を包み、また不敵な笑みを宿したパーシヴァルだった。クリスティンは思わず声を上げ、ケイトリンの背中から、ゆっくりと降りる素振りをする。抱えていたケイトリンは少しだけ不安な気持ちになりながらそれを離し、クリスティンを自由にした。クリスティンは影を引きずりながら、パーシヴァルを仰いだ。

「パーシヴァル様――――」

 クリスティンは、艶やかな声を上げる。

 声が響く。

 遠くで戦いの音が聞こえる。

 クリスティンの瞳は、パーシヴァルの姿を見初めた瞬間に、色づき始めた。

 だが。

「――――」

 パーシヴァルの瞳は。

 今もまだどす黒く濁っていた。

 ケイトリンは、クリスティンの後ろで。

 それに気付いた。

 お姉ちゃん。

 ケイトリンが手を伸ばそうとする間際。

 それより早く。

 クリスティンの胸が、斬撃によって切り裂かれた。







 ケイトリンには、その血飛沫さえ、ゆるやかに膝を折り、前のめりに倒れていく、その一瞬一瞬さえ、とてもスローに見えた。クリスティンはこちらを背にしていて、表情までは見えなかった。ケイトリンは立ち尽くした。頭が真っ白になり、言葉を失い、全身の血が一瞬で凍りついたようだった。大広間の色合いまで、その視界にとらえているもの全てが、真っ白に塗り潰されていくようで――そしてその中に、姉の身体から噴き出す鮮血が、あまりにも鮮明にケイトリンの内側に刻み込まれていった。静かに。しめやかに。クリスティンの身体は床に崩れ落ちる。

 広がりゆく血溜まり。

 動かない。

 動かない。

「ああああああああああああああああああ!」

 ケイトリンはクリスティンに駆け寄った。一歩を踏み出す、そのたった一歩が凄まじく長く感じるような、距離。ほつれる脚、呼吸が覚束ない、叫び声。しゃがみこんでクリスティンに触れる。倒れた彼女の顔にまで血だまりが広がり、長かった金髪が血に浸かる。ケイトリンは叫んだ。何をしたらいいのか、何をすればいいのか、何を言ったらいいのか、何もかもわからないまま。何度も何度も呼んだ。お姉ちゃん。お姉ちゃん――。

 何も答えない。

 静かに、口を閉ざしている。

「おねえちゃん」

 嫌だ。

 嫌だ。

「おねえ、ちゃん」

 ケイトリンの靴に、ローブに、手に、血が広がる。

 クリスティンの身体が冷たくなっていく。

 口元にあった呼吸が、遠くへ消えていく。

 どうして。

 こんな。

 項垂れるケイトリンの頭上から、声が掛かる。

「クリスティンはよくやった。本当によく使えた」

 笑い声混じりの言葉。

 ケイトリンは、ゆっくりと、声の主を見上げる。

 パーシヴァル。

 見下ろす、どす黒い瞳。

「だが、もう用済みだ。使えそうだから拾ってやったが、やることは終えた」

 ケイトリンの開けっ放した口が、少しずつ閉じていく。喉から何か、膨大な熱量が、震える痺れが、溢れてきそうになる。奥歯を噛み締めた。彼女の眼差しが少しずつ黒々しくなり、眉間にしわが寄っていく。眼差しが、睨みつける力強さに変わっていく。ケイトリンは腰の剣を抜き取り、片手で雷を地面に放った。瞬発的な魔法浮遊で空中へ浮き上がり、こちらを見下ろしていたパーシヴァルの元へ飛び上がる。

「パーシヴァル――――ッ! よくも――――」

 彼女の剣激がパーシヴァルの喉元を狙った。

「よくも、お姉ちゃんをっ――――!」

 しかし。

 あっけなくそれはパーシヴァルが瞬時に抜いた剣によって止められた。びくともしない剣。ケイトリンは次の瞬間、すぐにパーシヴァルの腹部を狙って雷を放つ。――が、それもまたパーシヴァルは素早い身のこなしで避けられた。そしてケイトリンの腕を掴むと、一度持ち上げ、まるで物を放り投げるように、再び階下へと叩きつけた。ケイトリンは肩から落下し、床に全身を強く殴打する。剣が手から離れ、滑って転がった。

「雑魚が。お前も姉と同じところに送ってやるわ!」

 パーシヴァルの声が響く。

 ケイトリンは倒れたまま、拳を握った。

 悔しい。

 悔しい。

 悔しい。

 こんな、こんなことのために、私は姉を奪われたなんて。姉は、こんなひとのために生きていたなんて。両親を失って、ずっと私は姉の傍にいたのに、姉は心の拠りどころを、こんなひとに求めたなんて。最後の最後に姉を殺すような、何もかも無駄に還してしまうような、そして、それをけらけらと笑う奴に、姉の時間は、命は蝕まれていたなんて。こんなにも怒りが湧いているのに。動けない。動かない。勝てないなんて。

 アリサちゃん。

 あなたも、こんな、気持ちだったの。

 悔しさ。

 惨めさ。

 どうしても、負けたくない相手がいるのに。

 勝てない。

 唇を噛み締める。

 血の味がする。

 涙が止まらなくなる。

 負けたくない。

 でも、私は、あなたほど強くないんだよ。

 あなたなら、もしかしたら、何もかもを終わらせられたのかもしれない。パーシヴァルを狙い、元凶であるハイブリッドを狙い、そのために生きてきて、何のしがらみもなく自由だったあなた。私はあなたが眩しかった。両親を失って姉にしがみついた。姉のために、生きてきた。姉が間違った道を進んでいるのに、私はそれを裏切れず、反対できず、がむしゃらについていくことしかできなかった。でも、アリサちゃんは違ったのだ。自分と同じように大切な人を失っても、逃げなかった。それが復讐という道だとしても、心のままに、自分の思う通りに、心の従うままに生きていた。私のように、姉に嫌われたくないなんて、ただその一心で自分の想いから目を逸らした自分とは、何もかもが違う。

 アリサちゃんは、あんなにも気高かった。

 なんで、裏切ったんだろう。

 あんなにも美しい子を。

 私を、友達と言ってくれた子を。

 ケイトリンはゆっくりと立ち上がる。

 姉の倒れた姿が、目に映る。

「おねえちゃん――――」

 私は。

 こうならなきゃいいと、願っていたんだ。

 まだ、間に合う?

 『アリサが戻ってきた時に、ケイトリンちゃん、君がいてくれたらずっと嬉しいはずだ』――。

 ウィルの声が聞こえる。

 お姉ちゃん。

 私は、お姉ちゃんを、失いたくない。

 だから。

 お姉ちゃんを裏切る。

 私は嫌なんだ。

 自分の想いから目を逸らすのが。

 悲しかった。

 ずっと悲しかった。

 だから、ずっと嫌だったんだ。

 だから。

「戦うよ」

 ケイトリンはゆっくりと、身体を起こす。

 転がった剣を拾い、歩き出そうとしていたパーシヴァルを睨みつけた。重い腕。動かない身体を、必死に操ろうとする。崩れ落ちそうになる膝をどうにか立たせながら、剣の切っ先をパーシヴァルに向けた。肩で大きく息をする。唇から流れた血が、ケイトリンの顎から伝い、下へ落下した。パーシヴァルはそんなケイトリンの姿を見て「ほう」と感嘆の息を漏らした。

「なかなかしぶといな」

「――当たり前、です」

「姉の復讐か。アリサとかいう娘と同じことをするわけか」

「まだ、お姉ちゃんは死んでいない」

 かすかだが、きっと息はある。

 まだ、間に合う。

 アリサちゃん。

 私はあなたに許されようとは思わない。

 だけど。

 力を貸してよ。

「私も、あなたを、倒す」



 ――その、瞬間だった。

 パーシヴァルの立つ位置の右方の窓が、豪快な音を立てて炸裂する。パーシヴァルが振り向くより先に、そこから侵入してきた小さな体が、パーシヴァルの顔を、強靭に、殴り飛ばしたのだった。炎を纏った拳。その拳はパーシヴァルの顔に極めて強烈に入った。パーシヴァルは呻き声を上げると、大きく仰け反り、床に転がる。そして、彼を殴り飛ばした小さな体が、ゆるやかにその側へ降り立った。

「パーシヴァル、やっと、一撃だわ」

 すでにぼろぼろの身体だったが。

 瞳に、炎を宿す。

 精悍な眼差し。

 メリアだった。





「――――この、ガキが」

 パーシヴァルは殴られ倒れたところから、しかし優雅に立ち上がり、体勢を立て直す。銀のローブを翻しながら、剣を構えた。メリアもまた剣を構える。メリアの身体は見るからに正常ではなかった。何か、圧倒的な力によって叩きのめされた跡があった。先ほどの急襲も、かなり無理をしたのではないか。ケイトリンが一瞬、その佇まいを見ただけでそういったことがわかるほど、メリアも余裕ではないことが見て取れる。しかし、メリアの表情は決して気圧されておらず、むしろ奮い立ったような強さが宿っていた。

「不意打ちを食らったが、なんだその身体は? 指一本で砕けそうだな」

「早く、連れてきて」

「なんだと?」

 パーシヴァルが表情を歪める。

 メリアは、ケイトリンに、一瞬、本当に一瞬、目配せをした。

「――『連れてきて』『それまで、耐えるから』『私も、連れてくるから』」

 それは。

 ケイトリンに言っている、のか?

 もはや、わからない。姉のこと、アリサのこと。いろいろなことがケイトリンの中で渦巻いていた。だが、メリアの言葉は強くケイトリンの中に反響した。何の考えがないわけでもない。確かな考えに基づいてのこと。メリアが知っていて、けれど、ケイトリンに何かを――託している? ケイトリンでしか知らないこと? 連れてきて。誰を? この場で、ケイトリンでなければ連れてこられない、誰か? メリアが、連れてきてほしい、ひと。

「わかった――――」

 それはきっと、また別の希望だった。

 何か、この場の流れを変える者。

 祈るように、縋るように。

 ケイトリンは倒れている姉の姿を一瞥する。

 お姉ちゃん。

 お姉ちゃん……。

 涙が流れそうになる。

 でも。

 でも。

 立ち止まることは、できない。

 パーシヴァルとメリアが剣を交えはじめる。

 その最中、ケイトリンは駆けた。





「パーシヴァル――」

 メリアは彼に剣を向けた。

 パーシヴァル・イグニファスタス。

 メリアたちを誘拐し、地下室に閉じ込め、非道な実験を繰り返した計画の首謀者。もちろん、その核心にいるのはハイブリッド――すなわち、ハルカ・フレイザーだが、メリアにとっては、ハルカ・フレイザーはどうでもよかった。彼は突然現れた黒幕でしかない。メリアにとって長く恨みつらみを募らせ、復讐心を滾らせた相手とは、紛れもなくパーシヴァルだった。パーシヴァルを殺すためにここまで生き延びたも同然。メリアは、大広間の階下で倒れているクリスティンを一瞥する。彼女もまた、メリアにとっては憎むべき相手であった。だが、あの状態ではもう倒す理由もない。そしてあのクリスティンの妹、ケイトリン。すでにメリアの言葉をきちんと受け止め、走ってくれたようだが、利害は一致している。ケイトリンも敵ではあったが、今、確実に同じ方向を向いていた。

 ハルカ・フレイザーは、あちらで勝手にやってくれればいい。

 こいつを殺すのだ。

 メリアは一歩を踏み出し、跳ねるようにパーシヴァルに距離を詰めた。腹部を狙って剣激を放つ。パーシヴァルは不敵な笑みを隠さないまま、それを剣の柄で防ぎ、手首を捻るようにして拳をメリアに叩き込もうとする。メリアは小さな体で俊敏に動き、上に跳ねるようにして躱しながら、パーシヴァルの頭上を飛び、首元を狙う。パーシヴァルはもちろん対応する。身体を右に捻って避けると、メリアの剣を手で鷲掴みにした。彼の手にはめられたグローブは、剣の刃すら一切の恐れなしに掴む。メリアは目を見開く。パーシヴァルは剣を掴み、メリアの身体ごと遠心力を使って遠くへ放り投げた。空中で体勢が崩れるメリア。それを狙って放たれるパーシヴァルの業火――を、メリアは自らもまた火球を放って対抗する。しかし、パーシヴァルの強力な炎に、メリアの火球が勝てるはずもない。パーシヴァルは、白い歯を見せて笑った。

 ――が、それは囮だった。メリアは火球を放つと、速やかに自分の足許の空中にもう一発小さな炎を噴射させ、魔法浮遊を行った。パーシヴァルの業火が身を隠してくれるギリギリのラインを滑空し、パーシヴァルの視界に入らないところを狙い移動する。自分の炎が消え、メリアの姿がないことに気付いたパーシヴァルは、不意に右方から剣の一撃が迫ってきていることに気付いた。際どいところをパーシヴァルもまた剣で防ぐ。だがメリアは、激突した剣と剣、その衝撃と圧力を支点に身体を回転させ、パーシヴァルの顔面を蹴り飛ばした――。

「ぐっ!」

 メリアの身体は、確かに――つい先ほど、アリサによって徹底的にやられた、はずだった。だが、そのギリギリの状況の中でも身体は、想いを乗せれば動くのだった。自分の過去は、もっともっと、辛かったはずだ。こんなことよりも、ずっとずっと重く、苦しく、壮絶だったはずだ。それを肯定するわけでも、乗り越えたと叫ぶわけでもない。だが、こんな程度では立ち上がった意味もない。自分の命を賭して、復讐を誓い、戦うことを選んだわけではない。身体は動く。メリアは、パーシヴァルが一瞬だけよろめいたのを好機とし、二度、三度目――と、その顔面に殴打をくらわせる。よけきれないパーシヴァル。いける。

「終わりよ、パーシヴァルッ!」

 そう叫び、剣で、パーシヴァルの首元を狙った。

 刃が。

 一閃。

 した。

 ――と思われた。

 メリアの首が、パーシヴァルの手に掴まれていた。

「調子に乗るなよ――」

 パーシヴァルはメリアの首をぐっと勢いよく持ち上げ、吊るすようにした。その勢いで剣を落とし、唸った。メリアはもがき、どうにか手でパーシヴァルの身体に炎を放とうとする。だが、それよりもずっと強い力で、パーシヴァルはメリアの首を締め上げた。グローブの締まっていく音。喉の奥、首の奥、圧迫感が広がっていく。メリアは自分の首を絞めるパーシヴァルの手を必死で掴み、解き放とうとする。だが、その力は強い。呼吸が押し殺されていく。

「っ、かはっ……」

「ハルカの目論見で生かしておいたが、お前らはもういらん」

「……ぐっ……」

「つまらん人生だったな。メリアよ」

 人生。

 つまらない、人生。

 メリアは、押し潰されそうな意識の中、思った。

 私の人生って、なんだった。どんな生き方をしてきたんだっけ。忘れてしまった。思い出そうとすれば、もしかしたら思い出すことができるのかもしれない。けれど、そうまでしなきゃいけないくらいなら、きっと必要のない記憶だったんだ。必要なときになれば、きっと思い出す。でも、もしかしたら、つまらない人生だったのかもしれない。何かと比べれば。当たり前のような日々と比べれば。でも、比べることに何の意味がある? 今、思い出せるのは、大事なこと。大事なこと。――私の人生が、つまらなかったかどうかは、これから、決めるんだ。そのために、こいつを殺すと決めた。復讐すると決めたんだ。そうすることが、私たちの未来を、生を、拓いていくことだったのだから。

「――――ま、だ」

「?」

「まだ、おわ、らない」

「なんだと?」

 メリアは、締められていく喉のまま、強く強く、叫んだ。

「ハヴェン――――――――――――っ!」

 その、次の瞬間だった。

 パーシヴァルはその気配に気づき、メリアの首を離すと。

 後ろを振り向いた。

 そこに。

 天窓の逆光によって陰った、ひとりの影。

 剣を振りかぶり。

 斬りかかる者。

「パーシヴァルッ――――!」

 その剣激に対応すべく。

 パーシヴァルはメリアを突き飛ばし、炎を放つ。

 だが。

 そのたった一瞬。

 たった一瞬に。

 ハヴェンの後ろから、ハヴェンを通過するように、パーシヴァルに向けて雷が放たれる。

 ケイトリンの魔法射撃。

 極めて細い、細い細い、針のような一撃。

 パーシヴァルに直撃し、彼は一瞬、動きを乱す。

 そして。

 放られたメリアとて、決してそれだけに終わらなかった。

 解き放たれ、しかし薄れそうだった意識の中で。

 左手の人差し指を、パーシヴァルに定め。

 放つ。

 炎――。

 雷と炎が、パーシヴァルを包み。

 その衝撃にたじろいだパーシヴァルを。

 ハヴェンの剣が、貫いた。





 パーシヴァルが、声のない悲鳴を上げ、膝を突く。ハヴェンに突き刺された剣。銀色のローブが赤黒く染まっていき、普段の余裕ある表情が苦渋に歪んだ。

「この……ガキッが……!」

「そのガキを甘く見たてめえが悪いんだよ」

「くそが……」

 怒声を張り上げるも、パーシヴァルは、大きく息を切らし、その場に倒れる。血が広がっていき、パーシヴァルは目を閉じる。言葉が失われ、その場が静かになる。パーシヴァルは、刃に倒れた。メリアの放った一撃もまた同時にパーシヴァルの身体に広がり、炎に包まれる。ハヴェンは一発、パーシヴァルの顔を蹴りあげた。反応はなく、身体が転がり仰向けになる。ハヴェンの剣は突き立ったかたちとなる。炎の中の黒い影は、動き出す気配もない。それはハヴェンたちの勝利を意味していた。ハヴェンは後ろを振り向くと、倒れているメリアの元へ駆け寄った。

「メリア」

「……ハヴェン」

「ぼろぼろじゃねえか。パーシヴァルとまともにやりあったのか?」

「ううん、これは――アリサお姉ちゃんにやられた」

「けっ、聞いたぜ。あいつハイブリッドになっちまったんだってな」

「聞いていたんだ」

「ああ、こいつからな」

 ハヴェンはゆっくりと後ろから追いついてきたケイトリンに目配せをする。

 メリアはケイトリンに笑いかけた。

「ありがとう。連れてきてくれて」

「ううん。私こそ、あなたの機転がなければ、きっとわからなかった」

 メリアにはそれしかなかった。メリアの告げた『連れてきて』――叫びは、ハヴェンを連れてくること。不意打ちを与え、パーシヴァルに一閃を食らわすものだったのだ。ケイトリンだけが、彼の居場所を知っていた。パーシヴァルに戦いを挑む間際に、クリスティンがパーシヴァルに斬られたのを見た。そのとき、ケイトリンはパーシヴァルに刃向うと予測したのだ。だからこそ、ケイトリンをハヴェンのところへ向かわすことができた。

「……だから、私も、呼んであげたよ」

「――?」

 そのときだった。

 城の大広間に入り込んでくる誰か。

「遅くなった。呼んで来たぞ――」

 そこには、ヒストリカとロヴィーサ、王国一の治癒魔法の使い手、ヘルヴィニア王・ヘルヴィスの姿があった。





 重傷のクリスティンにヘルヴィスが治療に向かう中、ハヴェンとメリアは、少し離れたところで、順番がやってくるのを待っていた。メリアは仰向けに寝転び、ハヴェンはその横に座っている。ボロボロだったメリアだが、命に別状はない。意識もはっきりしている。もしかしたら、あのアリサが、手加減をしたのかもしれない。余裕の表れだとしても、殺しはしなかった。――もしかしたら、希望はあるのかも。

 ハヴェンは「クリスティンのことは許さねえが、あのまま死なれちゃ、恨みも言えねえ」と、少し不満げながら、ヘルヴィスとヒストリカ、そしてケイトリンに囲まれているクリスティンを見ている。確かに、自分たちがあれほど憎しみをたぎらせた相手は、パーシヴァルたち――そこにクリスティンも含まれているはずだった。けれど、メリアはどこか穏やかな気持ちだった。

「……ハヴェン」

「どうした」

「身体、起こして」

「うん? 横になっていた方がいいんじゃねえか」

「いいから」

 ハヴェンはメリアを抱き上げるように、身体を起こす。メリアはそれから、ハヴェンの顔をじっと見つめ、ゆっくりと彼に抱きついた。ハヴェンは何も言わなかった。メリアは彼の肩に顔を当てて、静かにその温もりに埋まった。どうした? とハヴェンは尋ねる。メリアは何も言わなかった。

 ハヴェンと、作戦上の都合で離れたことはあったけれど、さっきまで、あんなにも二度と会えないことを嘆いたことはない。普段はそんなことは考えたことはなかったのに、ヒストリカの言葉や、魔法が使えないと知って思い出したのも、皆、ハヴェンのことだった。強気な生き方をして、ひとりでも大丈夫だと思えて突っ走ってきたけれど、本当は、このハヴェンというたったひとりの弟がいたから、自分はここまで生きてこられたのだ。

「ハヴェン、ありがとう……」

 ハヴェンは照れも笑いもしなかった。

「俺は逆に謝らなきゃいけないな」

「なにに?」

「見ろ、俺は無傷だ。だけどメリアはぼろぼろだ。俺は自分が恥ずかしい」

「……馬鹿だなあ、私は、ハヴェンが無傷であることが、今は一番嬉しいよ」

 心からそう思った。

 ヒストリカは、心の拠りどころだと言った。今までずっと、メリアは自分が与えられた痛みのために、殺されていった仲間のために、復讐を遂げるつもりでいた。誰の痛みも関係ない、紛れもなく自分たちのために。けれど本当は、弟のために戦ってきたのかもしれない。あるいは、弟と生きてきた過去に報いるために。弟と生きていく未来を勝ち取るために。――こうして再び隣り合って、その温もりを感じていると、そう思う。魔法は失われた。けれど、別にそれでもいい。戦わなくていいのなら。戦いが終わるのなら。穏やかに生きていけるのなら。

「ハヴェン、ずっと一緒に生きてくれて、ありがとう……」

 やはりハヴェンは照れなかった。

 だが、少しだけ笑った。

「何言ってんだ、メリア。俺はメリアの弟だぞ。傍にいるのは当然だろ?」





「私とメリアで突入する際、ちょうど、クリスティンが斬られるのを見た」

 ヘルヴィスの手のひらが、仰向けに寝かされたクリスティンの傷にかざされ、白い光が傷を癒していく最中、ヒストリカはぽつりと語った。ケイトリンは祈るように両手を組み、その様子をじっと見つめている。ロヴィーサは、いつでもクレイドールなどの急襲に応戦できるよう、ひとりだけ立ち、腰の剣に手を添えていた。しかし、その場にいる誰もがクリスティンの回復に視線を向けていることに変わりはなかった。

「メリアが私に、ヘルヴィスを呼んでくるように言ったんだ」

「――そう、だったんですか」

「しかし、パーシヴァル……」

 ヒストリカは、少し離れたところで、倒れているパーシヴァルを見た。今もまだゆるやかに燃える炎に包まれ、倒れたままあっけなくその最期を迎えていく男。ヒストリカにとっては学生時代からの知っている学院の頂点に立つ者だった。非道な計画をハルカと共に行い、メリアたちを苦しめた男。一連の事件の首謀者に当たる人間。その最後が、計画を進めるために駒として利用していたケイトリンの一撃と、ハヴェンの一撃、そしてメリアの炎に焼かれているとは、皮肉な最期だった。ヒストリカは、クリスティンを見る。彼女とは学生時代に友人ではあったが、少しずつパーシヴァルに入れ込んでいくところを間近見ていた。だからこそ、もしかしたら、再び手を取りあえるかもしれないと思える瞬間がやってきたことは、喜ばしいことだった。

 ヘルヴィスの治癒の光が、クリスティンの血を払っていく。綺麗な顔に張り付いている傷や煤、汚れや血が、光によって浄化されるように剥がれ落ち、散っていく。そしえ、まるで眠っているかのような姿まで治癒することができた。ヘルヴィスは治癒を辞める。クリスティンは目を閉じたまま、すうすうと静かに寝息を立てていた。

「もう、大丈夫だ……」

「お姉ちゃんは、生きて、いるんですか」

「ああ。今は、何か――吹っ切れたように眠っているみたいだけどね」

「お姉ちゃん…………」

 ケイトリンは、大粒の涙を流して泣き始めた。嗚咽を漏らして、咳をして、ヘルヴィスにお礼を言おうとしながらも出来ず、大声で泣き始めた。クリスティンは生きていて、今、静かに眠っている。ケイトリンはクリスティンの顔を見つめながら、何度も何度も「お姉ちゃん」と呼んだ。ヘルヴィスとヒストリカ、ロヴィーサは、静かに目を合わせ、人息を吐いた。この姉妹は確かに、一連の事件に与していたが、それはパーシヴァルの意志があまりにも通り過ぎていた。そうなるように、パーシヴァルは一切を支配下に置いたのだ。罪は償わなくてはならないかもしれないが、責められない。ヘルヴィスは笑った。彼はゆっくりと立ち上がると、ロヴィーサと共にメリアの元へ歩いていく。メリアの傷を治すためだった。

 ヒストリカは、ケイトリンを見つめた。

「クリスティンは、きっとしばらく目覚めないだろう」

「…………」

「だが、生きている。ケイトリン、お前も、クリスティンも」

「……――はい……はい……っ」

 ヒストリカはゆっくりと手を伸ばし、ケイトリンの涙を拭った。温かな涙。いろいろなものが決壊した涙だった。このクリスティンが斬られたときも、もしかしたら涙が流れていたのかもしれない。けれど今ここにあるのは、そんなものとは全然違う種類の涙。安堵、喜び。ヒストリカはケイトリンの傍にいて、彼女がじっとクリスティンを見つめている、その横顔を見ていた。ケイトリンの涙をとても喜ばしいものに思った。何かいい方向に動き出していくような、そんな予感があった。少なくともこの姉妹は、きっと……。

 ヒストリカは立ち上がる。

 正面の大扉に近づき、外を見た。騎士団の尽力か、一般の魔法使いたちの頑張りか、空を舞うクレイドールの数は減ってきている。遠くに見える悪魔型の荒れ狂う姿だけが、このヘルヴィニアの目に見える脅威だった。――だが、今はどこにいるかわからない、ハルカ・フレイザー。彼の動向だけが、気がかりだ。アリサを使い、この世界を破滅へと導くということだが、悪魔型の動きだけでは、まだ彼の計画は序の口もいいところだ。

 どうなるのだろう。

 この世界は。

 私たちは。

「アリサ……ウィル……」

 ヒストリカは、愛おしい自分の弟子たちを想った。

 それでも。

 きっと。

 あの二人なら。

 あの二人ならきっと……――。




 


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