滅びの讃歌⑤
パーシヴァルの拳が炎を纏い、そのまま私に接近し、殴り掛かってくる。私はそれを、屈伸する格好で躱し、地面を再び蹴って右方へ飛び出す。彼の左わき腹を狙って、剣を入れた。パーシヴァルの銀色のマントが微かに切れた程度で、次の瞬間には、すでにパーシヴァルは私とは距離を置いて、遠くに佇んでいる。「ほう」とパーシヴァルは髭を撫でた。
「先日、一戦交えたときは大したことはないと思っていたが」
「…………」
「ハイブリッドの力とは、これほどまでに凄まじいのか」
「逆に、あなたは随分と弱く見えるわ、パーシヴァル」
「たわけたことを」
しかしこれは、嘘でも虚勢でもなかった。先日の一戦は憶えている。夜、駆け出した私が出会ったパーシヴァルと、その場で剣を交えたこと。――しかし、結果は惨敗。私は惨めに地面に背をつけ、転がり、炎はパーシヴァルのそれに呑まれた。準備を怠ったわけでもない、いつでも私は全力で戦う準備は出来ていた。それなのに、あのとき、私は確実なまでにパーシヴァルに敗北したのだ。五年間の修行の意味が、私の脳内で明滅する。あのとき、パーシヴァルの剣は、炎は、私には見えなかった。あらゆるものが遠く、霞みかかり、取り留めもなかった。
それが、どうだ。
パーシヴァルの炎は、止まって見えた。
その少しずつ少しずつ動き出す指先に、炎に、剣に、私は何呼吸の隙間があったろう。パーシヴァルの微笑みが、あまりにも滑稽で笑い出したくなった。いつでも、殺せる。本気を出せば、簡単に殺せる。そう思った。いつでも、この次の瞬間にパーシヴァルの胸に剣を突き刺してもいい、首を斬ってもいい、そのまま炎を叩き込んでもいい。相手があまりにも弱すぎるということは、こんなにも難しいことなのかと悩ましい。選択肢があまりにも目の前に広がり過ぎて、それを選び取ることの方に難儀する。あんなにも弱かった私の炎。この男に一度負けた炎。でも、こんなにも、パーシヴァルは。パーシヴァルの剣を自らの剣で軽く凌ぐ。パーシヴァルはそれが隙だともう片手の拳に炎を纏わせ、殴り掛かってきた。巨大な拳だ。しかし――私は手のひらに火球を瞬時に生成すると、パーシヴァルの拳に直接ぶつけた。火球と火拳が衝突し、摩擦し、火花を散らす。巨大な拳の炎は確かに強力で、常に炎の力を放出し続けているようだった。が――造作もない。火球でその拳を押し返そうとすることに、何の重さも感じなかった。それを感じたのか、パーシヴァルは上空に飛び跳ねるようにして衝突を回避する。拮抗していた火球は、そのままパーシヴァルのいなくなった空間に発射され、王の間の壁に激突した。爆発し、粉塵が舞う。壁が粉砕され、風が入り込んだ。
パーシヴァルが着地する。
私は息を吐いた。
「……パーシヴァル、時間の無駄だわ」
弱い。
みんな、とても弱い。
私は、勝ちたいなんて思わない。
邪魔なだけだ。
そこにある、意味の解らない微笑みが不快。
「もう辞めましょう。あなたは私には勝てない」
「ハイブリッドの力に頼った、小娘風情が」
「頼った? 違う。これが元々の私なのよ」
「ふん。ほざきよる」
「パーシヴァル。私はこのまま、ヘヴルスティンクを陥落させる。私のあらゆる炎を使って、この学院を燃やし尽くす。あなたは私には勝てない。結局、あなたは負け、学院は塵と化す。戦うだけ時間の無駄と思わないの」
「思わんな。君こそ、もうこの学院は仇ではないというのに、なぜ燃やし尽くすこと?」
「そんなものは関係ない。確かに、ハルカは生きていた。ハルカの死を隠匿し、ハイブリッドなるものを密かに養成して、様々な悲しみを生み出したこと。そのために、この学院を、あなたを、必ず燃やし尽くすと決めていた。けれど、この学院がやったことに対する報いとして燃やし尽くすつもりはない。もう、そんなものはどうでもよくなった」
「ならば大人しく、私の栄光の糧となれ」
「何度も言わせないで」
私は右手に炎を纏わすと、それを振り払うようにして大きく振るった。
遠心力で鋭い錐のようになった炎が、パーシヴァルに一斉に襲い掛かる。
パーシヴァルはそれを難なく剣で振り払った――――が、振り払って床に落下した炎の錐は、まるで遺志を持つ生きもののように床の上を疾走し、パーシヴァルの周囲を駆け巡った。それらが縦横無尽にパーシヴァルに襲い掛かり、炎の渦のように包み込もうとする。炎はあまりにも自由な動きすぎて、パーシヴァルはそれを追尾できず、対応が出来ない。
「ぐおっ――――……!」
初めてパーシヴァルが声を荒げた。
「熱い? パーシヴァル」
「小娘がっ……!」
彼はすぐに自分の足元に炎を勢いよく噴射して、噴煙を起こし、私の炎の渦を吹き飛ばした。同時に、その噴煙は煙幕となり、彼の姿を見えなくする。――――後ろだ。私は振り返り、剣を思いきり振るう。大きな金属音が響き、パーシヴァルと鍔迫り合いになった。じりじりと剣が拮抗する。私を睨みつける彼の顔が目の前にある。その最中だった。パーシヴァルは息を吸い込む動作をする。私はほとんど本能的に、剣を弾き、後ろに飛んだ。。パーシヴァルは勢いよく吸い込んだ息を、ふうっ――と吐いた。パーシヴァルの吐息が、まるで膨らんだ風船のように業火となって、その場に噴出されたのだ。本来魔法は指先によるものだが、パーシヴァルは口から炎魔法を扱って見せた。さすが学院長といったところか。
「でも、そんなものは、ただの手品よ」
大きく後ろへ飛んでいた私は、最大火力を剣に纏わせて、それをパーシヴァルの吹き出す炎の中心へ投げ込んだ。私の火力の方が格段に上であった。私の炎を纏った剣が、パーシヴァルの炎の中心へ、まるで柔らかい球を押し潰すように突進していく。そちらからは見えないはず。パーシヴァル、くらえ――私が床に降り立つのと、パーシヴァルの声が響くのは同時だった。炎が弾け飛び、パーシヴァルは後ろへ大きく仰け反った。血飛沫が飛ぶ。パーシヴァルはどうにか床へ転がらず着地を決めたが、銀のマントが血に染まっていた。
「剣がかすめたのは、肩だったようね。残念。炎の勢いで少しずれたのかしら」
「ふっ、調子づくからだ」
「黙りなさい。次の一撃で、あなたは負けるのよ」
「やってみろ」
この期に及んで、パーシヴァルは醜い笑みを絶やさなかった。この男の、その執念。いつ何時であっても私を見下そうとする、その黒々しい性懲りもなさだけは一流だろう。彼は片手に、大きな火球を作り出す。最大出力か。私も同じように、右手に炎の固まりを作り出す。魔力を練る。炎の渦を回転させるようにして、挑発に乗らず、イメージを膨らませた。以前の私よりも、ずっと質の高い火球を作り上げられている自信があった。おそらく――パーシヴァルの骨すら残らない炎だ。
「パーシヴァル――これで、終わりよ」
私は火球をパーシヴァルに放つ。
パーシヴァルもまた、火球を私へ放つ。
その、瞬間だった。
「アリサ!」
右から。
声が聞こえた。
アリサ。
誰?
私のことを、呼ぶのは。
その声。
この声は。
私は不意に、その声の方向を向いてしまった。
この部屋の扉から、こちらへ入ろうとする。
男。
あの、男は。
あのひとは。
その、不意の一瞬の所為だった。
私の集中力は霧散し。
火球の勢いが弱まる。
ふと気付けば、パーシヴァルの火球が目の前にあった。
■
ウィルが学院長室に入り込んだ瞬間に見たもの。
それは、アリサがパーシヴァルの火球をまともに食らう瞬間だった。
一瞬、目があった気がした。
――しかし次の瞬間、アリサはパーシヴァルの火球に押しつぶされ、その勢いは学院長室の窓ガラスをぶち破り、アリサもろとも外へと突き抜けていった。轟音が響き渡り、唸り、次第にフェイドアウトする。それから、まるで木が倒壊していくかのような、大きな破裂音、鋭い音が響き渡った。ちょうどその窓の下は、木々の茂り噴水のある、学院の憩いの広場。もしやアリサは、ここから落下して、木々のある茂みに墜落したのではないか。ウィルは駆け出そうとした。その勢いを、パーシヴァルの呼び掛けが食い止める。
「ウィルフレッド・ライツヴィル」
「パーシヴァル!」
「いいタイミングで来てくれて助かったぞ」
「……ちょうどいい」
ウィルは立ち止まり、剣を構えた。
パーシヴァルもゆるやかに立ち上がり、指先をウィルへ向ける。
「あんたに確認しておきたいことがある」
「なんだ」
「親父は……ターナー・ライツヴィルは、どこにいる?」
ウィルはパーシヴァルを睨みつけた。パーシヴァルは指先を、すっと下げ、口元をゆっくりと歪ませると、じりじりと、しかし溢れ出すように、最終的に高笑いを始めた。ウィルは微動だにしなかった剣を構えたまま、その切っ先を常にパーシヴァルの首元を狙うようにしたまま。パーシヴァルは笑いを終えると、顎に手を当て、高圧的な眼差しで不敵に微笑んだ。
「死んだ」
鋭い一言であった。
「ハルカが殺したよ」
「……そうか」
「なんだ、意外と薄い反応だな」
「覚悟はしていたよ」
ウォルは奥歯を噛み締めた。
しかし、覚悟はしていたとはいえ、真実は堪えた。
だが。
「……それでも、俺は諦めていない」
「何を?」
「親父が残してくれたものを、だ」
「そのしぶとさ。お前たちが密やかに何か動いていたのは――ターナーの遺志だというのか?」
「その通りだ」
ウォルは思い出す。全ての始まりは、ターナーの手紙であった。あの手紙がなければ、自分たちはここまで来られなかった。あの手紙が、引き金になった。あの手紙がなければ、真実は闇の中のままだった。アリサは、ずっとずっと帰ってこない兄の帰りを待ち、彼の行方がどこにあるのかすらも知らないまま、無垢なまま、待ちわびただろう。それはそれで、幸せだったのかもしれない。復讐に身を焦がさずに済んだのかもしれない。あるいはアリサなら、兄の行方を調べるために、そのままヘヴルスティンクに入学を決めたのかもしれない。けれど、あの手紙がなければ、糸口はなかった。ハイブリッドという存在も、経過も、なにかもが解らないままだった。あの手紙が始まり。そしてその始まりの延長上に、今の戦いがある。アリサは闇に落ち、ヘルヴィニアは炎上している。――――だから。
「だから、その遺志を意味のあるものにしなくてはいけない」
親父の死を。
あの手紙を。
意味のあるものにする。
このまま燃え尽きて、アリサも救えず、炎が痛みのままに全てを焼き尽くすのであれば、それは、ターナーの死を無意味にしてしまう。あの手紙を、間違ったものにしてしまう。それではだめなのだ。今、生きている自分たちで戦い、生き延びて、何としてでも、幸福を掴み取らなければいけない。今は苦しくてもがいても、挫けそうになっても、全てを意味のあるものにしなければいけないのだ。ターナーは殺された。無意味に。虚しく。理不尽に。けれど。
死んだことは、覆らない。
もう、生き返ることはない。
だったら。
無意味にしてはいけない。
それは「死んだおかげ」であるとか「殺されてよかった」ということではない。もう、二度と戻らない。悔やまなくてはいけない。悲しまなくてはいけない。けれど、永遠に悲しいままではない。その事実を、力に変えなくてはいけない。ウィルは思った。もう死んだ者は生き返らないのであれば、何とかして、その「死」を、大切なものにするのだ。前に進むために。どうしようもないことを、どうしようもないと嘆いてばかりではなく、意味のあった死にする。それが、死んでしまった者が、確かに生きていたという証だからだ。
「――――俺は、アリサのために生きる」
アリサの気持ちに添うこと。
アリサがこころよい気持ちで生きられるようになること。
それこそが、ウィルの生きる目的であった。
それを成し遂げることが、ターナーの死を意味のあることにすることだと思った。
「きれいごとだ」
「ありがとう。褒め言葉として、受け取るよ」
ウィルは剣の構えを解くと、風魔法を、パーシヴァルの足元に放った。
赤い絨毯が捩れ切り刻まれ、爆発するようにパーシヴァルを包む。
パーシヴァルが火球を放ってそれを振り払うと、ウィルの姿は消えていた。
「小娘の方に行ったか。まあいい。あとでいつでも殺せる」
■
ヒストリカは燃え上がる街を駆けていた。悪魔型の姿が遠方に見えるのを、時折確認しながら、そして、逃げ遅れた人々を助けながら、アリサとハルカが移動していったと思われる方向へ移動する。転がっていた剣を護身用に持ち、時折現れたキャットヘッドやドッグヘッドを薙ぎ払った。「腕は鈍ったが、あの程度なら造作もないな」ヒストリカは首を鳴らし、街を走る。
瓦礫の倒壊が激しい区画があり、ひときわ強い悪魔型の歩いた形跡を感じる。その中に、まだ炎が微かに地面に居座っている場所があった。ヒストリカはその瓦礫の裏に回る。そこに、ぼろぼろのまま横たわったメリアを発見した。
「メリア」
呼びかける。
返事がない。
「メリア!」
「……うっ……くぅ、っ……」
ヒストリカはメリアの傍に寄り添う。
軽く肩を叩いて、耳元で声を掛ける。
呼吸はあった。ただ、随分と辛そうだった。
「大丈夫か」
「あなた、は」
「私はヒストリカ。知らないとは思うが、そうだな、アリサの先生だ」
「お姉ちゃんの」
「……アリサにやられたのか」
「……行かなきゃ」
アリサの名前を出すと、思い出したように目を見開き、体を起こそうとする。しかし、当然よろめき、倒れてしまいそうになった。「おい」ヒストリカはそれを抱き締めるようにして受け止めた。――軽い。ヒストリカは驚く。メリアの身体は、まるで中身などない風船のように、ふわりとしていた。触ったら割れてしまいそうな、手を放したら浮き上がってしまいそうな、そんな軽さ。ヒストリカが抱き留めても、メリアは動き出そうとする。
「馬鹿、その身体で何ができるというんだ」
「お姉ちゃんを、殺すの」
「アリサを? なぜ」
「ハイブリッドだから」
――『私は、ハイブリッドを殺します』。
ヒストリカの脳裏に、数年前のアリサの声が甦った。
ひっそりと暮らしていた自分の元へやってきた、鋭い目をした少女。
真っ先に、ハイブリッドを殺すことを目標にしていると語り、ヒストリカに剣と魔法の指南を求めた。あのときと、今のメリアが完全に重なっていた。声も、瞳も。そして、ぼろぼろになっても、どんなに苦しくても、ハイブリッドを殺すという執念に飲まれていることも。そのためには何の犠牲も厭わないところまで。なぜそこまで? なんてことは、絶対に訊かなかった。それが当たり前だからだ。アリサはあのとき、兄を失っていた。全てを失ってどん底にいた。
今、この子も同じなのだ。
メリアの額の切り傷から、つうっと伝うように血が流れる。
メリアの目に入り、片目を閉じ、手でこする。
「……メリア」
ヒストリカはその手を止めて、代わりに、自分の指で優しく血を拭った。
「メリア、落ち着け」
「邪魔」
「その傷では、戦うことすら無理だ」
「それでも――」
メリアは、ヒストリカを振りほどき、駆け出そうとした。
しかし、傷だらけの身体では、走る事すらままならなかった。
一歩、その一歩だけを踏み出して、その場に倒れるように崩れ落ちる。
それでも。
再び立ち上がろうとする。
「負けたくない」
ヒストリカはその姿を、見つめていることしかできなかった。
凄まじい精神だった。その傷では戦うことはできない。治癒魔法を使えばどうとでもなるが、それ以上に、魔力と気力は削られているはずである。もし、アリサにやられたのであれば、ハイブリッドの強靭な魔法と渡り合ったことになる。その重さは計り知れない。体にも大きな負荷が掛かっているはずである。それなのに、再び戦いに赴こうというのか。
アリサ。
ヒストリカは目を閉じる。
遠くでいななきが聴こえる。
風の音が。
炎の音が。
ヒストリカは思い出す。
アリサは、確かに、復讐に駆られていた。その瞳に漆黒を宿して、ハイブリッドのことだけを想い続けてきた。ヒストリカは確かに、彼女に己の技術の全てを叩き込んだ。剣と魔法。自分は怪我でもう戦えはしなかったが、知識と経験だけは幸いにしてあり、それらをアリサに伝えることはできた。だが、アリサの心の闇だけは、自分には拭えなかった。あの娘が復讐を遂げたとき、どうなるのか。アリサの未来は、破滅的だった。復讐を肯定する、否定する――というレベルの話ではなく、アリサが閉じ込められているどん底から、どうにかして救えないか。ヒストリカはそれだけを考え、五年間を過ごしたのだ。
けれど。
自分ではアリサは救えなかった。
そのことは、強く自分に傷として残っている。
だから、ウィルフレッドに託した。
もう、アリサを救えるのは、ウィルしかいないのだ。
なら。
メリアも、自分にはどうしようもないのではないか?
ヒストリカは考えた。
一瞬、躊躇した。
けれど。
「負けたくない――っ……」
メリアは、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら。
歩いていこうとする。
折れた腕をかばいながら。
時折、苦しそうに嗚咽を吐いても。
進もうとする。
ヒストリカは駆け出して。
メリアを後ろから抱きしめた。
「メリア」
「離して」
「すまない」
「離してよっ」
「私がお前を、望むところに連れていく」
「…………」
メリアは目を見開いた。いきなり現れた女に、唐突にそのような言葉を吐かれるとは思わなかっただろう。ヒストリカは想った。いきなりこんな言葉を言われても、不可解だと思う。自分が言う立場にあるとも思わない。ヒストリカは目を細める。メリアの身体は、抱きしめると、本当に軽く、薄く、脆い。この娘が今まで受けてきた傷は計り知れない。失ったもの、消えていったもの、それらを想えば、ここで止めることや、ここで言葉を掛けることすら烏滸がましいのかもしれない。だが、ヒストリカは知っていた。
今、メリアは、あのときのアリサと同じだった。
救ってやるとか、そんなこと、あのとき考えたのか?
いや、考えなかった。
ただ、見ていられなかった。
放っておけば、必ず後悔する。
この子の未来までを守るとか、救い出すとかではなく。
今、目の前にいるこの瞬間。
この子の痛みを、少しでも取り除いてやらなくては。
同情だろうか?
メリアの人格に対して、とても失礼だろうか?
けれど、ヒストリカの胸は痛くて痛くてたまらなかったのだ。
「……よく似ているよ」
「誰と」
「昔のアリサと」
「一緒にしないで、ください」
ヒストリカは笑った。
この強気な感じ。
そっくりだ。
ヒストリカは、メリアのひざ裏に腕を入れて持ち上げ、横抱きにした。
「メリア。いいか。その執念では、アリサには勝てない。誰にも勝てやしない」
「あなたに何がわかる」
「わかるさ。私はあのアリサを育てたのだから」
「…………」
「メリア、お前の相手はアリサじゃないよ」
「……」
「今、アリサは闇に囚われている。でもね、私は信じているんだ。『あのアリサは』負ける」
「…………」
「アリサは負けると、信じている」
救い出せなかったとて、もう見捨てたわけもなかった。
闇に囚われたアリサは、必ず負ける。
ウィルの手か。
あるいは、自分自身によって。
そして本当のアリサは、必ず勝つ。
「メリア。お前も、そのまま戦い続ければ――必ず負ける。そういう風にできているんだ。だから、大切なものを忘れてはいけない。復讐に囚われてはいけない。私は、アリサの心の拠り所になれなかった。アリサがあんな風になってしまう前の、ブレーキにはなれなかった。でも、その役目はウィルがしてくれる」
メリアは、ヒストリカの瞳を見つめた。
美しい瞳だった。
「メリア。お前に、そういう人はいるか? 弟がいるんだろう? 一緒にいたくはないか」
「……ハヴェン」
「そういう名前だったか。確か、囚われているんだったな。助けたくないか」
「…………」
「……こんな生易しい言葉では、お前が今まで越えてきた痛みを拭うことはできないことはわかっている。けれど自分を追い詰めすぎないでくれ。『それだけでは勝てない』。いいか。目的の相手を倒せるかどうか、という話じゃないよ。メリア、お前の歩んでいく未来は、絶対にひとりでは辿り着けない。私は、メリアの心の拠り所を見つけるための、手伝いがしたいんだ」
「よりどころ、……」
「お前には、これだけは譲れない存在って、あるか?」
ヒストリカはメリアを抱いたまま、歩き出す。
前を向いたまま。
「ハヴェン……」
メリアの手が、ヒストリカの服の裾を強く掴んだ。
「それが答えだな」
ヒストリカは、瓦礫の道を歩いた。
ゆっくりと。
戦いを避けながら。
ヒストリカが気付いたとき、メリアはヒストリカの服の袖を強く握り締めたまま、すうすう、と寝息を立てていた。きちんと聞いていてくれただろうか。私の言葉を。想いを。もし届かなかったとしても、それはそれで構わない。それは、言葉で伝えなくてはいけないものでもない。言葉はきっかけに過ぎなくて、それは少しずつ、少しずつわかっていくものだと思う。ヒストリカはメリアを見つめる。この子、いくつだろう。それでも、ずっと幼い。可愛い寝顔だ。アリサによく似ている。アリサも、あんなに殺気立っていたけれど、とても可愛いらしい寝顔をしていた。常に意識の上で復讐を考えていたから、余計に、だ。
この子の未来が、明るいものになりますように。
ヒストリカは、学院へ向かった。
そこに、メリアの弟、ハヴェンがいる。
■
メリアは眠りの中で想う。
まだ、途絶えてはいない。
戦いへの意志を。
復讐の願いを。
しかし、今、目の前にやってきた女――ヒストリカの言葉に、揺れているのは自分でもわかった。痛み。身体の重さ。アリサによってつけられた傷が、その揺らぎを生み出してしまったのか。勝てない。勝てない。なんで、勝てないの。あんなに痛かったのに。こんなにも、苦しいのに……――――そんな痛みだけが、そんな苦しみだけが胸を貫いていた。
けれど。
心の拠り所。
そんなものは、考えたことがなかった。
メリアは眠りの寸前に、ヒストリカの顔を見つめた。顎のライン。流れるように美しい金髪。そして、精悍な眼差し。濁りのない眼差し。このひとは、本気でそう言ったのだ。私の心の拠り所を見つめるための、手伝いがしたいと。心の拠り所って何? わからない。そんなものは、考えたこともない。何かに寄りかかること、何かの傍にいること。そして、それを温かいと思う気持ち。そういうものは、みんな失ってしまった。あの日に、皆が死んでいった日に。燃やし尽くされた日に。
だけど。
ヒストリカに抱かれたとき、それを温かいと思った。
譲れないもの。
自分にもしそんなものがあるとするなら。
まだ、諦めたくない。
その信念と。
ハヴェンだ。
ハヴェン……。
私の弟。
今まで一緒に生きていてくれた弟。
その姿が、一瞬浮かんだ。
これが、拠り所というものなのだろうか。
ただ、今、とても会いたかった。




