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滅びの讃歌④


 ロヴィーサの剣は、人間型のぐにゃりと曲がったような躯体に一撃を与えることが難しかった。必ず連撃を食らわせなければ切り裂けない。たった一回の攻撃では、必ず避けられる。避けられたうえで、避けたあとの一瞬の隙をもう一方の剣で斬り裂く。そうして初めて人間型に一撃を与えられた。一回の攻撃で切り裂けさえすればそれだけ体力は消耗しないが、二回でやっと一撃――という重ね合いの攻撃では、二回分の動きと体力を使わなければならず、一方でクリスティンの攻撃を凌がなければならず、ロヴィーサは圧倒的に不利な位置にあった。

「どうして諦めないのですか」

「そちらこそ」

 着地して体勢を立て直そうとする、その瞬間に地面から氷柱が立ちあがり、ロヴィーサを揺らす。だがロヴィーサは揺れたというのなら揺れに任せて、倒れるのなら倒れるに任せて、大人しく氷柱の頂上から落下するのだった。相手はロヴィーサは氷柱の頂上からどのように動くかを予測している。だとすれば、氷柱から大人しく落下することで、その裏をかくことができると踏んだのだ。氷柱から落ちて、地面の寸前で剣を突き刺して身をよじり、着地する。氷柱はそのまま障害物となる。

 その瞬間。

 氷柱が目の前で破壊され、人間型が突っ込んできた。

 殺してもきりがない。

 真正面の人間型を切り捨てる――切り捨てたことで、氷柱が隠してくれていた自分の位置を、クリスティンに教えてしまうこととなる。遠くで、どの氷柱よりも高い氷柱の頂上に立っているクリスティンは、冷静な眼差しで、こちらに手のひらを向けた。開いた手のひらから冷気が白く舞い、細かな氷の礫となって一斉にロヴィーサに向かってきた。ロヴィーサはそれらを全て、剣の一閃で斬り捨てる。もう一度クリスティンの方を見ると、すでにいなかった。

 右方からクリスティンが迫っていた。

 ロヴィーサは咄嗟に片方の剣を捨て。

 一本の剣を両手で握り締める。

 横薙ぎの剣を受け止め、鍔競り合った。

 クリスティンの瞳を間近に見つめる。

「残念」

 ロヴィーサは言った。

 クリスティンは眉を寄せた。

「何がですか」

「あなたはお強いです」

「ありがとうございます」

「できれば、敵として剣を交えたくはなかった」

「何として、剣を交えたかったのですか」

「仲間か、友人として。もう叶いませんか?」

「ヒストリカと同じことを言うんですね」

「あらら、先を越されていました」

 刃がじわりと擦れて、小さな音が、まるで耳鳴りのように響いている。

 お互い話しながらでも、まったく手を抜かず、刃と鍔の交わる位置で常に押し合って、拮抗していた。

「無駄です。あなたたちの考え方も、無駄……戦っても無駄なのです。不必要なものばかりが溢れているというのに、どうしてあなたがたは不必要なものばかりにこだわるのですか。パーシヴァル様が、きっと全て終わらせてくださるというのに。抗っても、無駄だというのに」

 剣が、小さく、小さく刃を擦らせて。

 指の力が重さに耐え切れない予感を燻らせ、解放を求める。

「無駄なものですか」

 クリスティンの背後から、人間型が突っ込んできている。

 ロヴィーサは思いきり力を籠めて、鍔迫り合いの剣をクリスティンに押しやった。その圧力に押されて、二人の身体は離れ、クリスティンは少しばかり仰け反る。その反動で、やはりロヴィーサも同じように仰け反った。――その一瞬の挙動の中で、ロヴィーサは剣を投げた。剣はクリスティンを通り過ぎる。

「どこに投げているのです」

 ロヴィーサの右方から人間型が迫っていた。

 ロヴィーサの両手にはもう、剣がない。

 だが。

 すでに、鼓動は共鳴していた。

 ロヴィーサは笑った。

「――――ヘルヴィス!」

 クリスティンは、はっとして目を見開き、後ろを向く。だがすでに遅かった。クリスティンの投げ飛ばした剣を受け取ったヘリヴィスが、クリスティンに斬りかかっていたのだった。反応の遅れたクリスティンは、咄嗟に剣で塞ぐも、ヘルヴィスの万全な体制の剣激に防ぐだけの体制はとれず、押し負けて後ろに吹き飛ぶ。後ろとはすなわち――今、まさにロヴィーサが人間型の攻撃を受けかけた場所であり、吹き飛んだクリスティンは、人間型の片手の殴打の直撃を食らった。

 ヘルヴィスは、クリスティンを吹き飛ばした人間型を切り捨てた。

 先ほどまで辺りに乱立していた氷柱が、水になって地面を濡らした。

 クリスティンは地面に倒れ、起き上がれそうになかった。

「……ごめんなさい。ヘルヴィスは、先ほどわたくしが抱えて、あなたとお話している時点で、目を覚ましていたのです。ただ、意識がないふりをしていた。あとは、クリスティン、あなたがどれだけわたくしにばかり意識を向けて、ヘルヴィスの強襲をいかに不意打ちにできるか。それが狙いだったのです」

 ロヴィーサは、ヘルヴィスの肩を借りて、クリスティンの元に近づく。

 クリスティンはどうにか立ち上がろうともがくも、痛みのために四つん這いで、息を切らしていた。ヘルヴィスは自分の傷を全て治癒で治していたので、万全の状態だった。クリスティンは二人を見上げる。ヘルヴィスはクリスティンを寝かせると、脚に手を当てた。

「安心してくれ。応用で痛み止めの魔法を掛ける。でも、怪我だけはまだ治さない。少しだけ、足止めだ。君の足が止まれば、少しは君たちの狙いのための動きも止まるだろうと思ってのことだ」

「……随分、優しいのですね。痛み止めとは」

「誰かに痛みを味あわせたいわけじゃないんだ」

「…………」

 ロヴィーサとヘルヴィスは並んで、クリスティンの傍に座り込んだ。

「……クリスティン、あなたの力を貸していただきたいのです」

「私の力、ですか」

「何もかも見透かしたように行動するパーシヴァルやハルカ・フレイザーを止めるのには、不意打ちが必要だと思うのです。予想外の何かで一撃を加えなければ、きっと向こうは動揺しない。失敗しない。あなたが協力してくだされば、あの二人はまさかあなたが裏切りとは思っていないでしょうから、きっと何かしらの反応をする。失敗や隙を誘発できるかもしれないのです」

「……浅はかな」

「クリスティン」

「まさか、私がこうして戦いに敗北したからといって、心まで変わったと思わないでいただきたい」

 クリスティンの眼鏡には、片側にひびが入っていた。

「今も私は、パーシヴァル様を想っています」

「……そこまで」

「説得など無意味です」

「クリスティン、あなたは」

 その瞬間。

 クリスティンの瞳が鋭くなった。

 ヘルヴィスとロヴィーサは咄嗟に剣を抜き、二人の後方に振り切った。

 人間型が二体いた。

 二人の一撃でそのうち二体の腹部を切り裂き、身体が分裂して吹き飛んだ。――だが、またしても今度は左右から人間型が二体迫っており、二人はそちらに目を向け、剣を構えなければならなかった。ロヴィーサが舞うようにして二体を切り刻むと、今度は上から人間型が殴り掛かってくる。ヘルヴィスは半月を描くように剣先を浮かせてそれを斬り捨てた。

「――――クリスティンッ!」

 ヘルヴィスが彼女の寝ていた方向に目を向ける。

 クリスティンは、脚を引きずり、肩を押さえながら、あちらの方向へ歩き出していた。

「馬鹿な。君の身体は、痛み止めの魔法を撃ったとはいえ、怪我をしているんだぞ!」

 クリスティンは無視して、どこかへと歩いていく。

 ヘルヴィスはそちらに駆け寄ろうとしたが、人間型の猛攻に阻まれた。ふと気付けば、そこらじゅうに人間型が溢れていた。およそ十体。身体の限界まで、剣術の限界までを引き出しても極めて難しい局面に、ロヴィーサとヘルヴィスは囲まれてしまっていた。人間型と人間型の隙間から、クリスティンが、今までの冷徹な佇まいから一変して、惨めな姿であってもどこかへ歩いていこうとする姿が見える。ヘルヴィスとロヴィーサは剣を構えて、人間型に対抗する構えを見せた。

 クリスティンが向かったのは、ヘヴルスティンク魔法学院のある方向だった。

 






 ウィルがケイトリンの剣激を後退して避けたとき、彼女の後ろ側――そのずっと向こうの、今もまだクレイドールの襲撃を受けつつある街角の一瞬に、その姿は映った。黒髪の少女。見慣れたローブに、見慣れた歩き方。それに目を奪われてしまったために、追撃してくるケイトリンの攻撃を、寸でのところに至るまで対応しきれず、ウィルは精一杯に体を捩って、どうにか諌めたのだった。その結果バランスを崩すと、地面に手をついてしまい、ケイトリンの剣がしゃがんだような体勢のウィルを真上から叩きつけようとする。ウィルはそれを、剣身の真ん中あたりを手のひらで支えるようにしてどうにか受け止めた。

「今の、見たか、ケイトリンちゃん――いや、見えるわけないか」

「何を言っているんですか」

 剣でじわりと互いを牽制する。

「アリサだ。アリサが、どこかへ向かっている。多分、学院の方だ」

「……だから、どうだというんです」

「今、表情がぴくぴくとしたぞ」

「そんな馬鹿な」

「嘘だよ」

「――っ、冗談を話している暇があるんですか」

「だったら、君も、冗談めいた攻撃で自分の心を偽るのをやめろ!」

 ウィルはがら空きのケイトリンの足を腰を捩って回した右足で引っ掛け、ケイトリンの体勢を揺らした。足をくじかれて倒れそうになったケイトリンを、ウィルは、地面に風を撃って、直激を少しばかり緩和した突風を吹き起こす。ケイトリンはそれに巻き込まれ、ウィルから大きく突き放されるようにして、遠くへと吹き飛んだ。地面に叩きつけられる前に魔法浮遊の要領で地面に雷を撃ちこむも、対応が間に合わず、地面に転がる。ウィルは緩やかに剣を構えた。

「君の相手をしている暇はない。アリサに会いに行くんだ。だけど――」

 ケイトリンも、剣を突き立てて杖のようにしながら、ゆっくりと立ち上がった。

「アリサが戻ってきた時に、ケイトリンちゃん、君がいてくれたらずっと嬉しいはずだ」

「…………」

「ヒストリカさんと一緒に、カルテジアスまでアリサに会いに行っただろう。俺はあの旅の途中、君がアリサの友達になってくれてよかったって、何度も思ったよ。それに、カルテジアスが襲撃されて戦いに行かなきゃいけなくなったとき、君は俺に言ったよな。無事に帰ってきてくださいね、アリサのためにって」

「…………」

 ケイトリンはゆっくりと立ち上がった。ローブが土に汚れていた。

「今、俺は同じことを君に言う。君もこちら側に戻ってくるんだ。アリサのために」

「……そんな、こと」

 ケイトリンは剣をとり、ウィルに向けた。

 が、その手は震えていた。

 ウィルはそこで黙り込んだ。手が震えているのは、何のためだろう。怯えているのか、何かが怖いのか。わからない。ただ、ケイトリンの表情は、先ほどまではただひたすらにウィルを攻撃するための勇ましさに溢れていたというのに、こうして言葉をぶつけてみれば、何かに惑うような、何かに迷うような、表情に薄らと溶けた暗がりが見え透いているのだった。

「無理です」

「どうして無理なんだ」

「怖い」

「何が、怖いんだよ」

「失うのが」

「何を失うんだ」

「お姉ちゃんを」

「姉――クリスティン先生、か」

「考えるだけで、駄目なんです。想像するだけで、身体が全然動かなくなる。わかりますか、この気持ちが」

 ケイトリンは苦痛に歪んだような表情でウィルを見つめた。それは、先ほどのウィルの不意の攻撃によって受けたダメージによるものとは思えなかった。先ほどの一撃と、あるいは先ほどの着地の失敗で、それほどまでの痛みを誘うことはできない。だとすれば、今、こうしてケイトリンが何かに表情を揺らがせているのは、その精神の問題としか思えなかった。姉を失うのが怖いと、ケイトリンはそう言った。ウィルには何のことかわからなかった。ただ、それが彼女の表面にこうしてじわりと滲み出るように現れているという事実は、不穏な予感をウィルに過ぎらせた。

「アリサちゃん側に付くということは、お姉ちゃんを裏切ること、だから」

「……クリスティン先生を、裏切れないのか」

「だって、裏切ったら、嫌われちゃう」

「何言ってるんだ。嫌われたくないから、君はこんなことをしているのか?」

「いけませんかっ」

 ケイトリンの雷撃が、ウィルに迸った。ウィルが軽い身のこなしで後退し、地面を何度か蹴って避ける。雷撃は地面に不発で激突し、熱で地面を黒く染め上げた。ウィルは剣の構えを解き、ケイトリンの雷撃をひたすら躱すことに専念する。ケイトリンはほとんど自棄のようで、緻密な戦略も計画性もなく、ウィルをただ魔力と息の続く限り、ひたすら狙い続けることに徹した。ウィルはケイトリンを中心に円を描くように、一定の距離を保つようにしながら駆け抜ける。時折瓦礫と建物が邪魔をすれば、風魔法で建物の屋上に跳び上がった。ケイトリンはそれを追跡して、ウィルをただ一方的に狙い続ける。

「どうして、どうして逃げるんですか!」

「馬鹿野郎! そんな悲しい顔しているやつに攻撃なんてできるか!」

「っ! あなたに何がわかるんですか! 何も知らないくせに、悲しい顔だなんて!」

 ケイトリンの雷撃がウィルの片脚をかする。ウィルは痺れなかったが、足を踏みしめたその足場が爆裂して、ウィルは吹き飛んだ。瓦礫と共に宙を舞う。そこに、ケイトリンは浮遊して剣を突こうとする。喉が狙われていた。ウィルは首を思いきり片側に曲げることで躱すと、咄嗟にケイトリンの片手首を掴むと、風魔法を噴射し、体を回転させ、ケイトリンを掴んだまま空中で回転した。そのまま風魔法の噴射を手首の角度で調整し、回転は一回だけでなく、宙で何十回も回転する。ケイトリンは捕まれた手首を離そうとするも遠心力で身体をうまく扱えなかった。どうにか掴まれた方の手から雷撃を炸裂させる――が、その瞬間、ウィルは彼女の手首を離していた。雷撃の一部がウィルに当たるも、ケイトリンは地面に放り出され、遠心力でバランスを崩しながら地面に落下した。先ほど放出していた雷撃が不発に終わり、地面間際で辺り一面に広がった。ウィルは雷魔法のダメージを抱えながら、ゆるやかに地面に降り立った。

「事情は知らないが、どうも君は、クリスティン先生を――脅されているとか、そういうことではなく、純粋に、素直に、裏切れないんだな……そりゃ、そうか、姉妹なんだから」

 ウィルは痺れた体を奮い立たせるようにしながら、ケイトリンを見る。ケイトリンはゆっくりと体を起こそうとしていたが、先ほどの空中で連続回転をしたために、目が回っている。かつ、放り出されて落下した痛みが体にあるだろうから、まだまだ動けるとしたって、少しは動きを止められるだろう。

「説教するつもりはない! でも、クリスティン先生のやっていることに、君のお姉さんのやっていることに真っ当に協力することが君の望みだというのなら、もっと自信を持ってやってくれよ。どうしてそんなに悲しそうな顔で戦うんだ。そんな顔で、迷いがないなんて言わせないぞ」

「……悲しい顔、私が……そんな……」

「残念ながら、俺は鏡は持ってないけどね」

「……そんな。お姉ちゃん……お姉ちゃん…………」

 ケイトリンは立ち上がろうとしていたが、泣きそうな顔をして、膝をつき、剣を落とした。両手を自分の顔の前に持ち出して、指を曲げ伸ばして、呼吸をする。手のひらを見つめたあと、顔に当てた。ウィルは立ち尽くして、何も言わないで、彼女を見つめていた。――もう、戦う必要はない。ウィルは剣を鞘に収めようとした。

 が。

 気配を感じて、左方を見た。

 すでに瓦礫に塗れた道の、途中に。

「――――あなたは」

 ケイトリンはウィルの声に、反応し、はっと顔を上げて、そちらを見た。

「お姉ちゃんっ!?」

 道の半ばで、脚を引きずりながらこちらに歩いてきているのは。

 紛れもなく、クリスティンだった。

 ウィルが目を丸くしていると、ケイトリンはウィルを放ってクリスティンのところまで駆けた。自分の足の動きと急ごうという意志の勢いが空回りして、ケイトリンは何度か転びそうになった。それでも、肩を大きく上下させながら息をして、ケイトリンはクリスティンの元へ駆け寄る。ケイトリンがクリスティンを優しく抱き留めると、クリスティンはゆるやかに膝を折り、その場に崩れ落ちた。ケイトリンに胸を預けるようにして、全身の力を抜いたようだった。ケイトリンはそんなクリスティンを抱き寄せて、自分の胸にクリスティンの顔を寄せると、何かを話し出した。

 ウィルの位置からでは、二人の会話は聞こえなかった。

 クリスティンが満身創痍という事実に、ヘルヴィスとロヴィーサの勇ましい姿が浮かぶ。どうやら、あの二人がやってくれたみたいだ。けれど、怪我をしている風でここまで歩いてきたのがなぜなのか、わからない。ヘルヴィスなら、クリスティンを動けないように拘束して、かつ怪我を治療するなどしそうなものだが――……今、あの二人は何か別のものと戦っていて、クリスティンはその激烈な戦いの最中、傷を負いながら逃げてきた。そういうことなのか。

 でも。

 この機会を逃す手はなかった。

 元々、戦う気など微塵もないんだ。

 今、俺がやらなければならないことは。

 アリサに会うことだ。

「――――…………」

 ウィルは、寄り添うように何かを話すケイトリンとクリスティンを長く見つめた。

 それから、先ほど一瞬だけ姿を見たあのアリサの姿を追うように、学院の方向へを走り出した。

 






「お姉ちゃんっ……お姉ちゃん……」

「ケイトリン…………」

 クリスティンが細々とした声でケイトリンの名前を呼んだ。彼女の頬はケイトリンの胸元に抱き寄せられ、呼吸の音が直にケイトリンに伝わった。穏やかな声だった。痛みがない――痛み止めの魔法だろうか。ケイトリンは、クリスティンの全体重を受け止めている。そのために投げ出されたクリスティンの足が、どうにも怪我を負っていることを見抜いた。痛みはないけれど、身体が動かない。痛みはないけれど、怪我を引きずりながらここまで歩いてきたんだ。

「お姉ちゃん、怪我してるの」

「ケイトリン」

「治さないと。治癒気質の人を、私、私、探してくるから、だから」

「ケイトリン……」

「お姉ちゃん?」

「パーシヴァル様のところへ、連れて行って」

「…………」

 クリスティンは言った。ケイトリンは何も言えなかった。名前を呼んでもらえた。こんなときでしか呼ばれないおしても、名前を呼んでもらえた。それだけで十分だった。ケイトリンは、クリスティンを抱き寄せる手のひらに力を籠める。クリスティンの眼鏡の感触が押しつけられていたかった。眼鏡は片側にひびが入っている。少しだけ力を弱めて、自分の曲げた膝の上に膝枕の要領でクリスティンを仰向けに寝かせた。彼女の瞳が、真っ直ぐにケイトリンを仰いだ。

「こんなときでも、やっぱりパーシヴァル様、なんだね」

 ケイトリンは笑った。

 無理やり笑った。

 無理やりでないと笑えなかったことに、自分でも気付いていた。ウィルフレッドの言葉は全力で否定したけれど、でも、本当はわかっている。ケイトリンは目を閉じて、唇を噛み締めた。瞼の裏側で、いろいろなことを思い出した。そのいろいろなことのほとんどは、姉のクリスティンのことだった。言葉の一つ一つを思い出すことができるほど、思い出は小さくも少なくもない。もっと大きくて取り留めもなくて、形がなく、だからこそ覚えていられないほどに。

 遠くで轟音が響く。

 誰かの戦う声も。

 ケイトリンは俯き、クリスティンを見つめる。

 自分の髪が横から垂れて、クリスティンの頬に乗った。クリスティンは黙っていた。クリスティンの顔にケイトリンが俯いた分の陰が差し、クリスティンはケイトリンの瞳と真っ向に見つめあうしかなかった。クリスティンは眼鏡を持ち上げようとしたが、手が動かなかった。ケイトリンは、何度か口を開いて、閉じる――そんな曖昧な動作を繰り返して、ようやっと、長い時間を掛けて、喋り出すのだった。

「ねえ、お姉ちゃん。私たち、お父さんとお母さんが死んじゃってから、本当にパーシヴァル様にお世話になったよね」

「…………そうね」

 お父さんとお母さんが死んだ。

 事故で。

 何の前触れもなく。

 死ぬって、何。わからなかったのは幼い頃の話だけじゃない。ずっと同じ。

 ケイトリンは思った。

 昨日は確かにそこにいて、いてくれたのに、今日はもういない。いなくなった。どうして昨日はそこにいてくれたのに、今日はもうそこにいないの。ここに、お姉ちゃんと私しかいない。たくさんの人が慰めてくれたって、そこには私とお姉ちゃんしかいないんだ。今日は、昨日の明日だった。延長線の上なのだ。だから、昨日までの出来事のいくつかがそのまま幸せに続いてゐなきゃいけないはずなのに、どうしようもなく、何かが失われていって、もう戻ってこなかった。

 私とお姉ちゃんだけ。

 でも、そこにパーシヴァル様がやってきた。

 私たちの後見人になるという。彼は私たちのためになんでもしてくれた。足りないものがあったら、それを満たすだけのことをしてくれた。お金だって用意してくれたし、ご飯もたくさん用意してくれた。いろいろな場所に連れて行ってくれたし、どこにも行かなくていい時は、安心して生きていけるだけの住居を用意してくれた。こんな言い方はしたくないけれど、まるでお父さんのようだった。お父さんだった、ではなくて、お父さんの『よう』でしかなかったけれど。

 お姉ちゃんはいつしかパーシヴァル様に心酔するようになった。私はいつも彼のことを「お父さんみたい」だなんて、確かにそれらしい空気を教えてはくれるけれど、でも、絶対にお父さんの代わりじゃないんだっていう確かな思いがあったけれど、お姉ちゃんは違った。お姉ちゃんは私よりお父さんとお母さんの死が悲しくて、悲しくて悲しくて仕方がなくて、だから、何かでその失われた隙間を埋めるしかなかった。だから、パーシヴァル様という存在でその穴を埋めたのだ。だから、だから。

「こんなに、怪我しているのに、パーシヴァル様のところへ、行くの」

「…………」

 お姉ちゃん。

 お姉ちゃんは、パーシヴァル様がいてくれたから、その悲しみを癒すことができた。お父さんとお母さんが死んで、私たちは、それまでたくさんあったものと全部一緒に何かを失ってしまった。体には何の異常もないのに、二人が死んじゃった瞬間、もう全部、意味がなくなって、生きる意味もなくなって、私たちの生きている世界ってなんだろうって、そのことばかり。だから、お姉ちゃんにとってパーシヴァル様は、そんなお姉ちゃんの呼吸を、お姉ちゃんという存在を、この世界に繋ぎ止めている唯一の存在になった。そんなこと、わかっている。だから、お姉ちゃんはパーシヴァル様のためならなんだってする。どんなに悪いことで、どんなに破滅的なことでも。

 でも。

 でも。

 私にとって、それはお姉ちゃんだった。

 お姉ちゃんがパーシヴァル様の存在で悲しみを癒したっていうのなら、私は、お姉ちゃんがいてくれたから、お父さんとお母さんがいなくなっても、ずっとずっと大丈夫だったんだ。お父さんとお母さんがいなくなった。急に世界が崩れ落ちてしまいそうになった。――でも、でも、私にはお姉ちゃんがいた。どれだけ苦しくたって辛くたって、どんなに心が痛くたって寂しくたって、お姉ちゃんがいたんだもの。頭を撫でてくれたし、笑ってくれたんだもの。だから、私には、お姉ちゃんだけがいる。それだけで、生きてこれたんだよ。だから、お姉ちゃんにとってパーシヴァル様が、全てを投げ出してもいいと思えるような存在なら、私にとってそれは、お姉ちゃんだったんだよ。

 だから。

 こんなの。

 もう。

「無理だよ」

 ケイトリンはぽつりと零した。

「ねえ、もうやめようよ。お姉ちゃん。私、もう無理。私、お姉ちゃんだから……他の誰でもない、お姉ちゃんの望みだったから、こうして、一緒にいるためにこんなことしていたけど、でも、もう、嫌だ。お姉ちゃん、戦わされているだけだよ。もう戦う必要もないくらい傷ついたのに、まだ、まだパーシヴァル様のところへだなんて、そんなの」

 私にとってそれはお姉ちゃんだったから、いったいどれだけ傷ついたって感情を封じ込めることに慣れていかなかった。私の全てはお姉ちゃんだった。お姉ちゃんしかいない。他の誰でもなくって、ただ、そこに。だから、もう傷ついているのを見ていられなかった。お姉ちゃんだけが私をこの世界に繋ぎ止める唯一の存在だとしたって、お姉ちゃんがこうして何かに傷ついて――そして、どういうわけか、自分が出会ったいろいろな人たちの顔が混じり合うようにして、そんな言葉を吐かせた。もう、やめようよ。

「黙りなさい……」

「お姉、ちゃん」

「私たちがどう思うかなんて、そんなのは、もう捨てなさい」

「でも、お姉ちゃん」

「あなたがやめたいのなら、もう、やめてもいいわ」

「…………」

「けれど、せめて私を、パーシヴァル様の元へ――――」

 クリスティンは手を動かして、ケイトリンの頬をそっと撫でた。表情は変わらなかった。笑ってもいなかったし、怒ってもいなかった。ただ、ケイトリンを見つめるクリスティンの目は、その瞬間、柔らかく細められた。ケイトリンの息が詰まった。自分の事を想っている瞳ではなかった。パーシヴァル様を想っての瞳であった――ケイトリンはわかってしまっていた。やめてもいい。やめてもいいの。やめるなんて許さないと、そう言ってもらえた方が、ずっとよかった。

 ケイトリンは唇を噛み締める。

 それでも。

 私はやっぱり、お姉ちゃんを裏切れない。


 

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