滅びの讃歌③
「ウルスラ、大丈夫か」
「はい……ステラは?」
ヒストリカはふっと顔をあげて、少しだけ離れた位置で、少しずつ体勢を立て直そうとしているステラを見る。ウルスラも体を起こしながらステラの姿を見て、静かに安心したように息を吐いた。しかし、相も変わらず悪魔型は三人と周辺で戦っていた人間たちを吹き飛ばし、建物を破壊しながら、向こう側へ歩き出していた。どこへ行くのかわからない。だが、太く強靭な腕でひたすらに都市を壊しながら、獰猛な唸り声を上げている。ヒストリカは唇を噛んだ。
そのとき、ウルスラはヒストリカに支えられながら口を割った。
「――――ヒストリカさんは、メリアちゃんを探してください」
瓦礫の隙間から浮遊する粉塵が、今もなおじわりと、しかし巨大な地響きと唸り声で大地を震わす悪魔型の進行に呼応して跳ね上がった。ヒストリカは、ウルスラの横顔を見つめた。
「何を言っているんだ」
「……私は、悪魔型と戦いたいのです。けれどそうなると、ヒストリカさんを守りきれない。先ほどあのような約束をしたのに申し訳ないのですが――気が変わってしまいました。ごめんなさい」
「馬鹿。さっきも言っただろう。悪魔型は強いんだぞ」
「ごめんなさい、でも」
ウルスラは少しばかり疲れと痛みの滲み出た、無理を無理やり推し留めたような顔で遠くを見た。その眼差しの先には、同じようにゆるやかに体を起こすステラと、悪魔型が重い足を引きずったためにできあがった、轍のような、都市を割り裂いて歩いた巨大な直線が伸びていた。風が吹いて、目に砂が入っても、その破壊の光景からは目が逸らせなかった。
「……私、悔しいんです。ヘルヴィニアをめちゃくちゃにされているのが」
悪魔型の足音は響きわたり、誰かの戦うための声が響き、攻撃のための指示が空気に振動する。ヒストリカは口を開きかけたが、何も言えず、息を吸い、それだけで言葉が途切れた。悪魔型が狂ったように街を壊していくのを、彼女が言葉にしたそのままの悔しさが滲み出た眼差しで見つめていた。ヒストリカは、少しだけ目を閉じた。確かに自分は、過去に悪魔型に勝利した。けれど、何の代償もなかったわけでもない。むしろ、失ったもの、壊れてしまったもの、もう戻らないものの方が、ずっとずっと多かった。勝利したことで守れたものもある。けれど、その喜びが失ったものの悲しみを相殺するなんてことはありえなかった。守りたかったから戦ったけれど、何かを失いたいために戦ったわけでもない。死んでいった人。傷ついた人。戦火の記憶はまだ、動かなくなった体に刻まれている。そんな過去の出来事と、今が重なる。あの時、どうして戦いたかった? 確かに自分は精鋭隊の人間だったけれども、それよりずっと、壊れていく街を見ているのが、誰かが傷つくのが見ていられなかったからだ。ヒストリカは、ゆるやかに目を開けた。
――ウルスラの眼差しには、そのための怒りと悲しみが混じり瞬いている。
ヒストリカは過去を想った。
確かに自分は、過去に悪魔型に勝利した。
けれど、何の代償もなかったわけでもない。
むしろ、失ったもの、壊れてしまったもの、もう戻らないものの方が、ずっとずっと多かった。勝利したことで守れたものもある。けれど、その喜びが失ったものの悲しみを相殺するなんてことはありえなかった。守りたかったから戦ったけれど、何かを失いたいために戦ったわけでもない。死んでいった人。傷ついた人。戦火の記憶はまだ、動かなくなった体に刻まれている。だから、だから、今度こそは――そう、思っていたけれど。
この意志を、邪魔できるはずもない。
戦わなければ守れない。
守りたいのに。
自分の手で、自分の戦いで。
ヒストリカは、ゆるやかに目を開けた。
「悪かった。別に、お前たちを信じていないわけじゃないんだ。ただ」
「わかっています。私が勝手に突っ走っていることも、わかっています。けれど」
「任せていいのか」
「はい。申し訳ありません」
「いや、謝ることはない。お前がそう言うのなら、止めないさ。お前が戦うのなら、私は足枷になるだろう」
「そこまでは思っていません――が、ありがとうございます。思う存分、戦えます」
「けれど、くれぐれも無茶はするな。戦って守りたい気持ちはあれど、同じように、お前を守りたい人もいる」
「はい。メリアちゃんとは、ルクセルグで……あのときは、学院の味方をしてしまいましたけど、でも、もし苦しんでいるのなら、どうにか救われて欲しいと思っていますから……」
「……そうだな」
ヒストリカとウルスラは、視線を交わし合った。信じることは好きだった。上級生とはいえ学院生でここまでの覚悟ができるとは大したものだ。何が彼女をそうさせるのだろう。それはわからないけれど、きっと何かが彼女の中に燻っていて、それを解き放たなくては収まりがつかないのだ。それくらい、今のこの状況は、誰かの感情の波を立たせ、固くなっている何かを撃ち砕き、奮い立たせようとする。悪魔型の足音はまだ遠のかない。
「どうにか無事でいろよ」
「はい、ヒストリカさんも、どうかご無事で――」
「大丈夫だ。伊達に昔頑張っていたわけじゃないからな。道中、身を守るくらいはできるさ」
ヒストリカは、少しばかり名残惜しそうにヒストリカの支えを解いた。
そして、都市の中央へ目を向けた。
■
ウルスラはゆるやかに歩み、座り込んで息を整えているステラに近づいた。そのずっと遠くで、まだ悪魔型の背中がうごめいている。視界が度々揺れ動く。それでもステラの元に近寄って、ウルスラはそっと名前を呼んだ。
「ステラ」
「ウルスラ――ヒストリカ様は」
「お話をして、メリアちゃんを探しに行ってもらったの」
「私がきちんと見ていなかったばかりに。ごめんなさい」
「そうじゃないわ。あなたの所為じゃない」
「……ありがとう。ではウルスラ、あなたは」
「ステラ」
ウルスラは、座り込んでいるステラと同じように体を屈めて、彼女を抱きしめた。ステラは何も言わなかった。ウルスラは目を閉じて、ステラをただ、両手の内側に包みいれるように、すくい取るように、強く、けれど強引さよりもずっとあどけない手つきで抱き寄せるのだった。しばらく、何も言わなかった。
「ウルスラ、どうしたのですか」
「ごめん。ステラ、私、今から戦いたいと思っているの」
「悪魔型と……?」
「そう。私、ヘルヴィニアが壊れているのを、戦わないで見ているなんて、できそうにないのよ」
「ウルスラらしいですね」
「らしいと思う?」
「ええ」
ステラも同じように、ウルスラの背に手を回して、温もりにどうにかその輪郭を預けるようにした。そして、長く互いの形を確かめるようにした後、ステラは彼女の抱き寄せる体を離して、ウルスラの瞳を覗き込んだ。鼻先が触れあうようで触れあわない、けれど息遣いが、この地響きと崩壊の中でも聞こえるような距離で、二人は言葉を交わすのだった。ウルスラは決意のための言葉を口にしたが、その表情は、ステラに許しを請うような細い眼差しと弱弱しさに満ちていた。
「私も同じです」
「ステラ」
ステラはウルスラの頬に手を当てた。
「あなたと出会えた世界を、壊されたくはありませんもの」
「…………」
ウルスラは、戦いたいと言ったけれど、気持ちは同じだった。ヘイガーとアーニィが、どこに生きていようと、それまで長く共にした時間を再びこれからも生きていくために、そして、そんなお互いのために戦うことを選んだというのならば、ウルスラとステラは、お互いの時間のためでもあり、これからも生きていく場所のために戦うことを選ぶのだった。二人が出会った場所。二人が初めて出会った場所。そんな思い出のために、思い出を壊さないために。
「一緒に戦って、ステラ」
「一緒に戦いましょう、ウルスラ」
■
生まれた人間型のクレイドールは、ヘルヴィスとロヴィーサの二人掛かりでやっと渡り合えるほどの強さだった。これをアリサとウィルフレッドは相手取ったのか――人間型のクレイドールは、触手のように、あるいはゴムのように軟らかく伸縮し捻じ曲がる腕を使って、ヘルヴィスとロヴィーサにひたすら殴り掛かった。人間型とはいうも、その動きには何ら一貫性も意思も見えづらく、剣撃も対応に追われ、冷静な判断に結びつけるのが難しい。さらに、かのクレイドールは、いくら切り落としたところで、すぐに黒い腕が復活するのだった。切り落とした瞬間に弾け飛ぶ粉塵がなだらかに風に揺れ、地面におしなべて広がった瓦礫の砂埃を押し上げ、視界が淀んだ。
いや、これは。
腕が、四本ある!
アリサたちが戦ったものより、強さが上なのか。
「ヘルヴィス――――」
ロヴィーサの声の方向を向いた瞬間、目の前にクリスティンが迫っていた。ヘルヴィスは、クリスティンの剣を受け流し、地面を蹴りあげて再び距離を取るが、距離を取ろうとした方向に人間型が腕を振りかぶっていた。ヘルヴィスは片手を地面に引っ掛け、移動の勢いで倒立して勢いを弱めると、逆さまの状態で剣を横にひと薙ぎし、人間型の両足を一挙に切断した。人間型の足が捩じれたように吹き飛び粘土細工に朽ちていくと、人間型の上半身は横向きに倒れた。ヘルヴィスはすぐに地面に足を付けて体勢を整える。すぐに視線を上下左右に回し、クリスティンの剣を受け止めた。そこに左方から切りかかってくるロヴィーサ。クリスティンは鍔迫り合いでヘルヴィスと互いに押し合っていた圧力をふっと身を捩って軽くすると、そのまま上に飛び上がり、水の柱を辺りに幾つも噴出させた。その水柱は、明らかに二人の視界の広さを奪うことに成功していた。そして――その陰から密かに近づいていた四本の腕を持つ人間型の強力な殴打がロヴィーサの後ろから猛烈な勢いで近づいていたのだった。
「ロヴィーサ――!」
■
ヘルヴィスはロヴィーサを突き飛ばし、剣で受け止めるも、ほぼ殴打をまともに食らって吹き飛んだ。噴出している水柱を幾つもかいくぐり、地面に転がり倒れる。
「ヘルヴィス!」
ロヴィーサは声をあげて彼に近づいた。両手の剣を投げ出して、彼を抱き寄せる。人間型はゆらゆらと揺れながら、二人を見つめており、氷に凝固した水柱の一本に降り立ったクリスティンがこちらを見下ろした。人間型はどうやら攻撃を一旦停止しているようで、眼鏡を押さえつけたクリスティンは、冷徹な眼差しで二人に告げた。
「もうやめにしませんか。これ以上戦う意味はないでしょう」
「――あなたは」
ヘルヴィスを抱き寄せるようにして抱えたロヴィーサは、目の端に細々と涙をため、その瞳でクリスティンを睨みつけた。
「なぜパーシヴァルやハルカさんに従うのです? 妹さんまで巻き込んで、この惨劇に、あなたはいったい何を望むのですか……っ」
「私の望み、ですか」
クリスティンはぽつりと零した。
「私は副学院長ですよ。パーシヴァル様に付き従う。それが理由で、それが望みです」
「それ、だけ……?」
「あなた方の理には適いませんか」
「理に適う敵わないの問題ではありません……そのために、妹も世界も壊してよいのですか!」
「いったい何のためなら、世界を壊していいのです?」
「そんな問答がしたいわけではありません。あなたの心を問うているのです」
「私の心など、必要がありましょうか」
クリスティンは鋭く剣をロヴィーサに向けた。
「私の心はパーシヴァル様の心です。そうですね、納得がないうちはいつまでも食いつかれるというのであればお教えしましょう。私とケイトリンは、両親を幼くして亡くしております。私はその死によって、大きく心に穴を開けられたと言ってもいいでしょう。この世界に生きる意味を亡くしたかのような、どこか不可解な世界に投げ出されてしまったような――そんな心地になったものです。そんな私を救っていただいたのが、パーシヴァル様だった。それだけなのです」
「生きる意味を、与えてもらった。そういうことなのですか」
「ええ。パーシヴァル様の野望に付き従うこと。この世界に生きる意味を亡くしてしまった私に、新しい道を与えてくださった。それだけで、この大地に、この世界に、立っていられるのです。だからこそ、私の心など、私の望みなどは、とうの昔にありはしないのです。パーシヴァル様の成し遂げたいことを傍に立ってお手伝いすること。それが、私の望みです」
「…………」
ロヴィーサは何も言えなかった。クリスティンの冷徹な表情では、話をしている内容が正しいのかは判断もつかない。が、いつも思わせぶりにごまかして、言葉を短く切り取って幻惑していたクリスティンがこうして長く話をしているということそれ自体が、彼女の話していることの真実味を証明しているようでもあった。家族の死。両親の死。それから立ち直るために与えられたのは、誰かの野望。ロヴィーサは、唇を噛み締めた。
アリサ・フレイザー。
あなたも、そうでしたわね。
ハルカ・フレイザーの偽装された死。両親を失っていた彼女は、ずっと兄に縋って生きてきた。兄がいてくれるということが、アリサにとって生きることと自分を繋ぎ止める一つの約束のようなものだった。けれど、兄が死んだという事実に、アリサは絶望する。そして、復讐に身を投げ打って、新しい生き方にその生を一切委ねたのだった。
誰もが、誰かを失って。
その悲しみのために、また何かに縋って。
どうにか悲しみを埋めながら生きている。
それが正しくても、間違っていても。
縋るしかないのなら。
何かに縋って生きるしかないのだ。
「……わたくしも、そうですわ」
「…………」
「大切な方を亡くされたあなたとは比べてはならないかもしれませんが、しかし、わたくしもそうなのです。わたくしは魔法が使えません。ですから、いつも苦しんでいましたわ。世の中、魔法の力で回っていますから。そんな苦しさも、いつか剣の力で見返してやる――そういう気持ちに縋って、生きていました。何かの意志の力に、いつか叶える希望のために、どうにか寄りかかって生きていくことでしか、苦しみから逃避することなどできなかったのです」
何を話すこともない。クリスティンを労わる理由もきっと何もないかもしれないし、そして、そういった言葉遣いが届くとも微塵も思わない。諭せるとも思わない。同じ種類の人間であるということが言いたいわけでもない。ただロヴィーサはほとんど一人で話すような心地で話した。例えばこうして話をしても、クリスティンは聴いているふりをして――いや、きちんと聴いてはいたとしても、きっとその心までは届くまいとわかっていた。けれど、同じように何かの苦しみから逃れるために、何かの意志や、いつか叶うと信じた何かに寄りすがったというのなら、自分がそこから見出した新しい光を、破壊ではなく何かの繋がりとして感じた温かさを、クリスティンに否定されたくなかった。
「けれど、わたくしはもう、そんな風に力を誇示することなど考えていません。なぜなら」
ロヴィーサは、ヘルヴィスの頬を撫でた。
「彼がいるからです」
「王ですか」
「ええ。王、ですけれど、例え王でなくとも、わたくしにとってはたったひとりの、ただのヘルヴィスです」
ロヴィーサは優しくヘルヴィスを地面の平面なところを選んで寝かせた。そして、ゆっくりと剣を構えて、クリスティンを仰ぎ見る。クリスティンは表情をまったく変えず、彼女に言った。
「申し訳ありませんが、あなたがたの仲睦まじさなど興味ないのです」
「そういうことではなく、ただわたくしは、ヘルヴィスに未来を教えてもらいました。――……あなたもきっと、世界を壊すなんていう野望に寄りすがるのではなく、何か、新しい何かのために、未来のために生きていく希望に出会ってもよかったはずなのにと、そう思ったのです」
「希望」
「ええ」
「では、その希望も、パーシヴァル様の障壁となるのであれば、ここで絶たせていただきましょうか」
クリスティンは剣を構えた。
■
「――――――」
盛大に破壊するならば、それこそ外側から撃ち放ったところで意味もない。
私が瓦礫と粉塵に塗れながら、未だに崩れ落ちる気配のないままに、空に尖塔を衝いたままのヘヴルスティンク魔法学院に着く手前、もうそこは廃墟も同然に見えた。人は逃げ、あるいは学院生は戦いに繰り出しているか――そう考えながら巨大な正門を潜り抜ける。しかしそれでも、学院を守り抜きながら戦う学院生の姿があった。ここに悪魔型の巨体はなかったが、爬虫類型レプティルが地面を這いまわり、まるで動物の溜まり場の用だった。しかし、爬虫類型は地面を這う鈍足なクレイドールのはずだったが、今は、私とハルカの力が目覚めているからか異常なまでに素早く、その動きで戦う人間たちを翻弄している。私が正門を潜り抜けると、上級生らしい学院生が私の元に空から降り立った。
「動くな」
「…………」
学院生は、手のひらをこちらに向けて、魔法を放つ体勢で静止を促した。まさか学院生が真っ向からこちらに手を出してこようとは思わなかった。彼はこちらに鋭い瞳を向けている。私は動かないまま、左右に目を走らせる。この正門の周囲に学院生がまとまっている。茂みに十人ほど。魔力を感知する能力があるわけでもないけれど、ハイブリッドになって何か様々な感覚が研ぎ澄まされているのか、気配も空気も感じ取れる。私は視線を戻した。
「戦えるあなたたちが、クレイドールの討伐に行かなくてもいいの」
「――根元を立てば」
そのとき、頭上から声が響く。
「それが一番早いかもしれない」
ふっと上を見上げる。正門真正面の校舎の入り口、その真上のバルコニーに二人、並んでこちらを見つめている者がいた。
「――クレイン・エクスブライヤ、ヲレン・リグリー……」
そこにいたのは、かつてハルカ殺しの容疑者として候補に挙がったうちの二人、教師のクレイン・エクスブライヤと上級生のヲレン・リグリーだった。私はそこに停止して、二人を見つめる。二人とも剣を片手に持ち、さらに剣を持たないもう片方の手も、すぐに魔法を放つことができるような形に構えられていた。そして、こちらを見つめるどこか張りつめたような眼差しも含めて、私に対する反抗心と、戦いのための用意と意志が窺えた。
「あなたたちは」
「アリサ・フレイザー、君を止めに来た」
クレイン・エクスブライヤが言った。
「私がハイブリッドだから?」
「そうだ。気の毒な話だけど、君が止まらなければ、この戦いは止まらない」
この戦いは、私が始めたのか。
思考が朦朧としているけれど、きっとそんな風に言うのならば、私なのだろう。どこからどこまでが戦いで、どこから過去が戦いではない平和な日常だったのか。その線引きも曖昧になった世界にしてしまったのは、いったい誰だろう。始まりだけは覚えている。ハルカが死んだ日だ。けれど生きていたのだから、どこからおかしくなったのかはわからない。けれどわかっているのは、こうして今も空を飛びかうクレイドールの群れや、地面に這いつくばった爬虫類型の猛攻も、それに立ち向かわなければならない状況に人間を追い込んだのも、私がこの世界に生まれ落ちたからなのだ。
「確かに私が止まれば、ある程度はクレイドールも収まるでしょうね。ハルカがいるけれど」
「ハルカ・フレイザーも止めてやるさ」
ヲレン・リグリーが言った。
「こんな世界、守って何の意味があるの」
この世界は、もうハイブリッドの手のひらの内だ。ハルカが何を狙っているのかは知らないけれど、どちらにしろ抵抗したところで無駄なこと。間もなく破滅するのだ。どこへでも逃げればいい。戦ってもいい。けれど結局その足がこの地面についている限りは、ハイブリッドの力の前に打ち砕かれる。だから、戦ったって無駄なのに。
「僕にはやりたいことがある。そのためには、学院も街も、何もかもが壊れていては無理なんだ」
「やりたいこと」
「君のことは何も知らない。だが、君には、願いはないのか。壊してしまったらもう、できないことがたくさんあるんだぞ」
「願い……」
願い。
私に願いなんて。
何を願った。今まで願ったことは、誰かを殺してやることだった。でも、それも今は消えた。消えたらまた新しい願いが生まれるなんて話でもない。今、私には何もないのだから、願いなんてものもきっとない。何も望まない。欲しいものなんてない。手に入れたいものも。
「そんなもの、私を倒してから願って」
私は片手を地面に押し当て、瞬間的に雷魔法を破裂させた。強力さよりも遠距離まで届くように、微細で、けれど確実に相手の動きを止めるような細長い雷を地面に撃ち流し、発光させた。強力な光がその場で煌めくと、目の前にいた上級生の彼も後ずさりするようにして仰け反り、吹き飛んだ。私はそのまま、雷の明滅が収まらないうちに風魔法を発動する。吹き飛ばすための瞬発的なものだった。手のひらに集まった空気のかたまりが、茂みに隠れていた学院生たちも含めて、まるで糸で突然足元から吊り上げたように上空へ吹き飛ばす。
その次の瞬間だった。それでも明滅と風の合間を縫ったように、クレイン・エクスブライヤとヲレン・リグリーが、私の目の前まで迫っていた。他の学院生とは格が違うのか。さすがは、なんて言葉は使いたくないしふさわしいとは思わないけれど、ハルカを殺した犯人になりかけただけのことはあるのかもしれない。それでも、遅すぎる。少なくともメリアよりは遅い。片手に持っていた剣に雷を流してクレインの剣を受け止めると、放電して動きが鈍る。そこに風魔法を二人同時に薙ぎ払うようにして放つと、二人とも鋭い唸り声をあげて地面に転がった。転がる間際に、ヲレンの意地の雷魔法が、一極集中の鋭い糸のようになってこちらに飛んでくる。それも雷魔法で撃ち砕くと、その反動で地面が抉れ、二人は大きく地面に打ち付けられた。私は二人に目もくれないで、正門へ歩き出した。
「――――それでいいのか、アリサ・フレイザー!」
ヲレンの声が聞こえた。
私は何も言わないで、校舎へと足を進めた。
これでいいのか。
どれならいいの。
どれであっても、きっと。
願いなんて。
あの時の私はどうして何かを願った。
■
燃やし尽くすのなら、ヘヴルスティンク魔法学院こそが燃やし尽くす場所だった。
私がこうして黒く墜ちてしまったのなら、もう目的も完結も意味のないものだけど。決して、以前の私では成し遂げられなかったことを、こうして力を宿した身で代わりに成し遂げようというものでもないけれど、ただ、今の私には、そうやって目障りなものを砕いてもいい権利があるような気がした。私はハイブリッドで、破壊のために生まれついたという運命の裏打ちが、確かにこの手のひらに宿っているのなら、こんな建築物など燃やしたところで、何が変わるというのだろう。
私は、もう私ではない。
『君には、願いはないのか』
願い。
あったわ。
以前の私には。
だから。
だから、あの時の私が成し遂げたかったことを――強くなりたいと願って、強くなったら叶えたかった願いを、今の私は簡単にやってのけて、その時の私を嫌というほど否定してやる。以前の私――あなたは、こんなにも無価値で無意味なことに心血を注いだのかって。私の願いだった復讐も、一瞬で終わらせて、願いだって無意味に終わらせてやればいい。
学院の内部に入った。正面は大きな広間になっていて、左右の壁伝いに螺旋階段が、二階の中央廊下に繋がるバルコニーに連結している。私はそれをゆるやかに上って、廊下を歩いた。誰もいない。誰かがいたら不都合というわけでもない。ただ、燃やし尽くすのにふさわしくないだけだ。私は歩いて、歩いて、階段を上った。廊下の色は象牙色に窓際の、異様に明るい光が反射するような、奇怪な眩さをしていた。世界は終わりかけているのに、ひっそりと明るい空間だった。
嫌な記憶を思い出す。
私を裏切ったケイトリンを、泣かせた。
「…………」
なぜ泣かせたままにしなかったのだろう。どうして、再び手を取り合ったのだろう。破壊とは、繋がりを断ち切る者なのだから、私がこうしてハイブリッドとして目覚めるのならば、ケイトリンと手を取り合う必要なんてなかったのに。ハルカはきっと言うのだろう。繋いだ手をもう一度離すことで、私に悲しみを集わせて、ハイブリッドとして覚醒させたかったのだと。今はもう、何の痛みもない。ケイトリンは裏切った。けれど、それに対して何の憎しみも悲しみも湧かない。
彼女はもう、私には無関係で。
そして、ケイトリンだけでなく。
世界と私はもう無関係なのだ。
壁際に手を押し当てるように、手すりに指を這わすようにして、最上階まで上った。そして、廊下を一番奥まで進み、とうとう、パーシヴァルの学院長室までやってきた。――――私はつい昨夜に、ここで、ハルカに再会した。そして、こんな風にハイブリッドになった。それに、それだけでなくて、誰かの手紙にあったように、ハルカの死体に偽装した黒焦げ死体を教職員の前で見せつけたのもここだった。それを目撃した誰か――名前が思い出せない――が、手紙を送ってきて、私は、その手紙によって、いつか、いつかハイブリッドを殺してやると、誓ったのだった。
誰かって誰だろう。
それに、その人は、誰に手紙を送った。
忘れてしまった。
他のなにもかもは、覚えているのに。
それでも、その何かさえ思い出すことさえしないまま、私は静かに、学院長室へ入った。
「アリサ・フレイザー」
学院長室は、広々とした空間のままだった。
ここにやってきたのは、二度目。けれど、初めて入ったのは――ハルカに再会したあの時だったから、あまり記憶が定かではない。赤い絨毯が敷き詰められ、まるで貴族の玉座前のような空間に、私は足を踏み入れる。けれど、その空間に、私は一人ではなかった。
入り口の扉の正面には、都市を一望できる窓がある。
その前に立っていたのは。
「パーシヴァル……」
■
「来ると思っていた」
「どういうこと」
「君はきっと学院を壊しに来ると思っていた、そう言ったのだ」
パーシヴァルはにやついた表情でこちらを見ている。
「それがなんだというのよ」
その瞬間だった。
私の足元に、パーシヴァルが小さな火球を放ったのだった。
私は避けもしなかった。避ける必要もなかった。そもそも当てる気がなかったのか、火球は私の足元の床に衝突し、絨毯を一部だけ燃やし尽くして鎮火する。当てる気がなかったとはいえ、強力な一撃であることは確かだった。私はその炎の痕跡を一瞥したのち、パーシヴァルに目を向ける。パーシヴァルは、先ほど放った名残の手のひらをこちらに向けたまま、やはり不敵な笑みで私を見つめていた。彼の背後にそびえる大窓の、空の色と、遠くで羽ばたきを続ける猛禽類のクレイドールの影が、今、彼の背景のように渦巻いていた。
「――――どういうつもり、パーシヴァル」
「君には死んでもらおうと思っているのだがね」
「あなた、裏切るつもりなの。私は認めてはいないけれど、ハイブリッドの仲間ではないの」
「ハルカ君には与しているがね、だが、君の味方ではないのだ。アリサ・フレイザー」
「私を……殺すつもりなのね」
「そう。君に我が物顔で計画に与してもらうのは居心地が悪いのだよ」
「計画……――そう、訊いておきたかったのよ。ハルカが為そうとしていることはわかる。ハルカと私は、破壊衝動の権化。ハルカはただ、この世界を壊したいだけ。ハルカの行動は理解できるわ。けれどパーシヴァル、あなたは壊されゆく世界に何を望むの。それとも、壊された後の世界、そちらに興味があるということなのかしら」
「その通り」
パーシヴァルはどす黒く笑った。この男は笑ってばかりいる。不敵な笑みも余裕の笑みも、いつもその肌に張り付けて、こちらをきっと見下しているのだろう。何もかも、その心のうちにあるどす黒さが笑みになって表に漏れ出しているのだ。
「よいかな。もし、君やハルカ君がハイブリッドの役目として、世界を壊したとする。文明を破壊し、草原を灰燼に帰し、焦土にしてしまったとする。だが、そこまでしたところで、人間というのはしぶといものでな……都市や街が、例え完膚なきまでに崩壊したとしても、きっと人間は生き残り、これからも未来永劫に生き続けるだろう。しかし、その未来への生存には、必ず必要なものがあるのだ。何だかわかるかね」
「わからないわ。あなたとは違うから」
「では教えてやろう。新たに必要なのは――『王』だ。人間を導く偉大な存在が必要となるのだ」
パーシヴァルは、強く言い放った。
「なるほど――――あなたは、こうしてすでに繁栄し切った世界で王となるのではなく、無の状態となり、何の勢力も派閥もない世界のただ一人の王となり、新しい歴史を刻みたいと、そういうわけなの。全て白紙に戻された世界は、新しい王を必要とする。それも、今の世の中のように権力が各地にある世界ではなく、大陸全土を導いていく新しい王が。そのために世界を一度崩壊に導く。だから、ハルカに協力していた」
「そうだな」
「あなたが度々、英雄的行動をしていたのもそのため、というわけね。ルクセルグで民衆を助けたり、カルテジアスでさも悪魔型を倒して見せたりしたのも、後々あなたが英雄として崇められ、新しい世界で、人々を先導するため。あの悪魔型が随分と弱かったのは、あなたが勝利するために、ハルカが弱くしていたのね」
「その通り」
「そして、私を殺すのは、世界を破壊した張本人を討ち取ったという功績にするため。狙うのは私の首か。ハルカと私が大陸を燃やし尽くした後に、私たちを殺して、首を取って、これ見よがしに生き残りに晒すのね。そして」
パーシヴァルの余裕の瞳は、きっと私を見つめ、ハルカを見つめ、そしてそれらを見つめながら、その向こう側に自分の立った輝かしい未来を見ているのだろう。そうでなければ、そんな風に笑ったりできない。気色の悪い笑顔だった。何の感慨も湧かないはずの私でさえ、見ていて不愉快な笑みであることは理解が出来る。
パーシヴァルは、私の言葉に繋げるように、言い放った。
「――そして、私が全ての歴史の新しい始まりになるのだ」
新しい始まり。
何かが終われば、きっと何かが始まる。
瓦礫の山も、崩壊した文明も、私だって想像はできるけれど、ただしかし、この男が本当の意味で人間を導く存在になれるのか。否、もし生き残った人間で彼が優秀であることが証明されていたのなら、きっと人々はこの男を先導者として祭り上げるだろう。少なくとも、生き残った人間が、彼こそがこの学院の院長であることを覚えていたのなら。そして、この世界を燃やし尽くした兄妹の首を、我こそが討ち取ったと高らかに叫ぶのなら、なるほどそんなこともありうるのだろう。
余計なことを考えた。
未来など、この男の頭の中だけの話だ。パーシヴァルに世界を砕く力はない。この男はただの塵だ。何の力もないけれど、たまたまハルカが世界を砕くために動き出したから、それについて回っただけの人間だ。それは、ハルカの力がなければこれっぽっちも強くないという、紛れもない証でもあった。だからこそ、ハルカに与していたのだから。
この男に、未来などない。
そして、何よりも。
「――――くだらない」
「なに?」
パーシヴァルの笑みが初めて、眉をひそめる形で崩れた。
「くだらないと、そう言ったのよ。ハルカもそんな頭の悪い計画に付き合わされていたのかしら。パーシヴァル、私は、こうしてハイブリッドになって、もう復讐なんて意味がないと考えていたのだけれど――どうせそんなに無意味なことに付き合わなければならないというのなら、やはりあなたはここで殺しておくべきのようね」
「殺す? お前が、私を?」
「ええ――先日は不覚を取ったわ。けれど今、あなたに負ける私と思わないことね」
「小娘が」
「その小娘にみっともなく負けるのよ、パーシヴァル」




