滅びの讃歌①
ハヴェンは後ろで両手を繋がれて暗い部屋に閉じ込められていた。何もない部屋だった。窓が一つだけあり、暗すぎる床に窓枠が切り取った陽光が四角形に鎮座している。棚があり、テーブルがあった。どこかの住居のようだったが、それにしては誰かの息遣いがあるほど使われている空気はない。どこかの廃墟か、大きな建物の使われていない一室か、そのどちらかだった。扉が一つあった。
体が動かない。
拘束されているのは腕だけだった。今、無理やり体を起こして足を使って、そして歩くことが出来れば、きっとあの扉を壊して逃げることができるのだろう。そう頭が考えても、体が動かなかった。重すぎる。そして何か神経の通っていないような苦しさがある。――何かしてやがるな。ハヴェンは薄く目を開けて、倒れたまま、舌打ちをした。
メリアとはこのところ会えていない。というより、生きているのだろうか。
最後にメリアの姿を見たのは、カルテジアスでのことだ。あの時、二手に分かれて以降は会っていない。もし捕まっているとしたらここではない別のどこかにいる。ただ、あいつに限って捕まってはいないだろうな。どうか逃げ出すか、上手く立ち回って外にいるか。それとも、学院が別の手を打っているか。どちらにしろ、ここにはいない。
死んではいないだろう。
俺が生きているのなら、メリアも生きている。
俺が生き残っていてメリアが死ぬというのはどこか捻じれているからだ。メリアの方が強いのだから、あちらが先に終わるというのは変だからな。どちらにしろ、ここで捕まってどれくらい経ったかはわからないが、動かなくてはならない。メリアがどうなったかは知らないが、合流できようとできなかろうと捕まってるのはむかつくだけだ――ハヴェンは重すぎる無理やり体を起こした。自分の両手を縛った手錠。この世界に手錠なんて意味があるのか? 魔法で叩き切れるのに。そうして、重い腕に力を籠めて魔法を使った――かに見えた。魔法は発動しなかった。
魔法が使えない?
ハヴェンは歯を食いしばって魔法を発動する要領で手のひらに思考を傾けた。
けれど、出ない。風魔法も水魔法も使えない。
どういうことだ?
遠くで地響きと唸り声が響いた。
頭が重い。
ハヴェンはしばらく自分の指が動いているのかどうかだけを確かめようとしていたが、後ろ手に縛られているので、動かしているのかどうかもわからなかった。鏡もない。もしかしたら感覚がないだけで、腕がが切り落とされているんじゃないかとさえ錯覚した。地下施設にいた頃は、それに近いほどの痛みなら味わったので、例えそうだとしても驚きはしなかったが。そうしてハヴェンは身体を捩り、首を回したりして、自分の体の表面や形について確かめようとしていた。
その時、部屋の扉が開いた。
「てめえは」
少女だった。学院のローブを着ている。ただ、ハヴェンは見たことのない少女だった。こうして拘束している自分の元にやってきたのだから、学院の関係者であることは明白だったが、例えばクリスティンのように今まで見たことのある人間とは違っていた。幼いのだ。もちろん自分よりは年上であろうが、学院はこんな少女も擁しているのか。ハヴェンは特に気後れすることもなく息を吐く。彼女は手に食事を持っていた。
「飯か? 俺のところに飯を持ってくるのはクリスティンの役目だったがな。奴も忙しくて俺みたいなガキに飯をやってる暇はなくなったってことか? あんた誰だよ」
少女はハヴェンの前に食事を置いた。
「随分大人しいんだね、お姉ちゃんから暴れん坊だって聞いていたけど……」
「お姉ちゃんだ? あんたクリスティンの妹か」
「うん。そうだよ」
「あんたも学院の人間かよ。というか、学院生か。学院生がパーシヴァルの手伝いなんて馬鹿じゃねえの」
「聞いていた通り、口も悪いね」
少女は微笑んだ。
ハヴェンはそのまま罵倒してやろうと口を開きかけたが、少女はハヴェンに対して少しも威圧的ではなく、むしろただ微笑むだけに留まり怖さがないために声までは出なかった。今まで出会った学院側の人間とは雰囲気が異なっていた。ただ食事を運びに来ただけで、そこに蔑みがないし、同時にまた心ここに在らずといった感覚で表情は優しくも憂いを帯びているようでもあった。ハヴェンは、こいつなら話が通じそうだと考えた。
「おい、あんたメリアがどこにいるのか知らねえか。あと、魔法が使えねえんだけど、お前らが何かしただろ」
縛られた手を揺り動かした。今ここで何かを凍らせ風で切り裂いてもよかったのに、それができないもどかしさ。少女は不思議そうな瞳でハヴェンを見つめる。それから、やはり優しげに目を細める。
「ごめんね。あなたは魔法が使えないの」
「は?」
少女はハヴェンと目線を合わせるようにしゃがみこみ、説明をした。ハヴェンとメリアは地下施設の実験によってハイブリッドに近い二種の魔法を使える術を得た――ように思われたが、そのように思わせるためのブラフであり、本当はヘルヴィスやロヴィーサのように、魔法が使えない人間だということ。
「嘘だろ……」
「本当……」
「なんで、そんなことしやがった」
「あなたたちが追い詰められて魔法が使えるようになった、という事実は、ウィルフレッドさんがアリサちゃんが実はハイブリッドであるということに気付くためのヒントになるからって」
「なんだって? 今、なんつった?」
「どこ?」
「アリサのやつがなんだって訊いてんだよ」
「アリサちゃんが、ハイブリッドだってこと」
「あいつが? どういうことだよ」
「アリサちゃんは……抑え込まれていたの。忘れていた、ということ。ハイブリッドは、本当は時代に一人しか生まれないんだけど……ハルカさんとアリサちゃんは、ハイブリッドの力を二分していたんだ。ハイブリッドの心を持ったまま生まれたのが、ハルカさん。ハイブリッドの心を忘れて生まれたのが、アリサちゃん……」
「ありえねえ。なんだその展開は」
「でも、本当なんだよ」
「あいつはハイブリッドに兄貴を殺されたんじゃねえのかよ」
「本当は、そのお兄さんがハイブリッドで、死んだように見せかけただけ……真実を教えることで、アリサちゃんを絶望させた。絶望したから、アリサちゃんは、ハイブリッドとして覚醒した」
「覚醒した?」
「今、ヘルヴィニアを壊して回ってるんだよ」
「じゃあ、さっきからこのうざってえ地響きみてえなのもそれかよ」
「うん……」
ハヴェンは舌打ちをした。喉から様々な言葉を吐き出したかったし、頭のこんがらがりを何かを打ったり叩いたりすることで諌めたかったがそれもできるほど自由でもなく、唇を噛み、眉を寄せるしかなかった。胸糞の悪い話だ。意味不明というほど意味不明でもなく、けれど今まで考えたこととはまったく違う様相を呈す動きにむかつきが増す一方だった。あいつがハイブリッドだと? いつか話をした時のアリサの鬼気迫る表情が浮かぶ。
「メリアはどこにいやがる」
「わからない。お姉ちゃんに連れて行かれた」
「ちっ。あんた、クリスティンの妹なんだよな? なんで手伝ってんだよ」
「…………」
少女は俯いた。
少女はどこか異様だった。恐ろしくないし、言葉遣いはとても優しい。学院の人間にあるような、何かを見下す蔑みの眼差しもない。食事が乗ったお盆を持ったまま、ハヴェンと同じ視線までしゃがんで、けれど時折ふっと視線を下して何かを思い出そうとしている。ハヴェンはこの人間がどうなろうと知ったことではなく、いつも通り胸の詰まりを言葉にしていくらでも怒ってもよかったが、この少女だけにはそれが効きそうにもないと悟っていた。
少女は静かに語った。
「私、お姉ちゃんに逆らえないんだ」
「んだそりゃ。怖いのか」
「怖い――というわけじゃないんだけど」
少女は切なそうに笑った。
「ただね、なんだか、どうしても逆らえない。私、お父さんとお母さんがいないから……ずっとずっと昔に死んじゃったらしいんだけどね、だからずっとお姉ちゃんが親みたいな人だったんだ。だから憎めないというわけじゃなくて、刷り込まれてるの。体と、心に……お姉ちゃんに逆らおうとすると、怖くてたまらなくなって、震えが止まらなくなるんだ」
「…………」
姉。
メリア。
ハヴェンは少女が項垂れているのを見つめた。彼女が今、もしこうしてヘルヴィニアを壊して回っている一味だというのなら、なぜこんな話をやすやすとするのだろう。もっと何かを威圧したり、その破壊の動機について語ってもいいというのに、それがないのだろうか。ただ、姉に逆らえないから。メリアのことが頭に浮かんだ。メリアは何をしているのだろう。俺は――ハヴェンは思った。俺はメリアに逆らえないわけではない。メリアは唯一の家族だから、メリアの成し遂げたいことは俺の成し遂げたいことでもある。同じように苦しみを乗り越えたのだから、目指すべきものは同じだ。今、生きているのか知らないが、死んでいるとすればそれはなんて理不尽なことだろう。そうだとしたら俺は怒るだろう。けれど確かに、俺はメリアに逆らえない。というより、メリアに逆らおうとは思わない。メリアだけは信用してもいい。俺とメリアは二人だけ残されたのだから――しかし、この少女の語っていることも、それと違うようで似ていた。
だが、一緒にされては困る。
こいつらはクズなのだ。
そう言ってやれと思うが。
こいつには強く言い出すと、調子が狂いそうだった。
「どっちにしろ、あんたはそんなに学院に加担してるわけじゃなさそうだな。おい、この手錠を外せ。魔法が使えねえのは確かに痛いが、あんたの話聞いてるとメリアのことが気になって仕方がねえ。早く逃がせ」
「……無理、できない」
「は? うだうだ言ってんじゃねえよ、早く外してくれ。なあ、俺は魔法が使えねえんだろ? だったら、そこらへんにいるガキと一緒じゃねえか。だったら捕まえておく意味なんてねえだろ」
「そう、かもしれないけど」
少女はハヴェンを見ないで、俯いたまま言う。
「でも、捕まえておけって、逃がしては駄目だって、お姉ちゃんが言っていたから」
何がそんなに恐ろしいのだろう。もう、クリスティンの言葉をすっかり信じ切っている。信じ切っていながら、それを正しいと受け止めすぎている。何かを言われたら、それが全てというように。
少女は食事を置いて、そのまま立ち上がった。
「おい、冗談だろ、本当に逃がしてくれねえのかよ。あんたなら話が通じそうだって思ったのに」
「駄目だって、言われたから」
「ちくしょうが! 駄目って言われたからなんて理由になんねえぞ馬鹿野郎!」
少女は何も言わないで、けれど一度だけハヴェンを振り返り、そして目を伏せるようにして部屋を出て行った。ハヴェンはしばらく閉じられた扉に向かって文句を叫び続けたが、結局静かになり、腕の使えないままの屈辱的な格好で食事をした。パンを唇の動きだけで飲み込み、倒れて、息を吐いた。
■
「将軍――!」
倒壊した城の東側から、ウルスラとステラに守られるようにして迂回したヒストリカは、軍を率いて今まさにクレイドール討伐へ乗り出そうと奮起している騎士団の人間を見つけた。その戦闘に立って指示を繰り出そうとしている身体の大きな男にヒストリカは声を上げた。その間にも、空はクレイドールの嘶きに満ちている。ステラはメリアを抱え、ウルスラは剣で道中キャットヘッドやドッグヘッドの突進を切り捨てた。ヒストリカは男に駆け寄った。
「あなたは、ヒストリカ様じゃありませんか!」
男――現ヘルヴィニア騎士団長のガロウェイは目を丸めた。
「どうしてこのようなところに?」
「様はやめてくれ、もう戦える身体じゃないからな。それより、お前たちの大将から伝達だ」
ヒストリカは懐から手紙を出して、ガロウェイに渡した。
「これは……ヘルヴィス様からの……!」
ガロウェイは急ぎ手紙を包みから取り出し、すぐさま読んだ。ガロウェイは素早く瞳を動かしていたが、表情には重苦しいものから納得のいく――ヘルヴィスからの指示という、誰よりも信頼のおける相手からの指示という要素が、ガロウェイの緊張をほぐしたのか、顔の強張りが寸分でも取り除かれたような気さえした。もちろんそれでも緊急の要請であり、事態は恐ろしい方向に動こうとしているのだから、ガロウェイは表情まで決して綻ばせることなく、強い意志を昂ぶらせているようだった。
「ヘルヴィスがどんなことを伝えたかは知らないが、お前たちも動いてくれ。ヘルヴィニアが崩壊するぞ」
ヒストリカが言う。ガロウェイは手紙をしまい、強く頷いた。
「承った。おい、ヒストリカ様を安全な場所へ」
「待て、そんなことはいい、私だけ安全な場所になんて言っていられるか。私もやれることはやってやる。ガロウェイ、お前は早く騎士団に指示をしてやれ、時間もないんだ」
「しかし」
ガロウェイはまた何かを言おうとしたが、ヒストリカの強い眼差しに気圧され、すっと口を閉じた。
「わかりました。どうかご無事で」
「ああ、お互いな」
ガロウェイは騎士団の方へ戻り、急ぎ指示を始めた。
■
ヘルヴィスの剣をクリスティンが受け止めると、その剣圧同士の激突のために一瞬だけ静止した時間の隙間を縫うようにして、ロヴィーサの剣がクリスティンに接近する。クリスティンはもう片方の手から魔法を放ち、氷で巨大な盾を作った。ロヴィーサの剣は氷を叩き割ったが、クリスティンへの一撃に一拍置かれてしまい、その間に、クリスティンはヘルヴィスへ剣を繰り出す。ヘルヴィスはそれを受け止めながら後退し、長く距離を下がった。崩れた瓦礫が足をすくいそうになるのを、瞬発力と集中力をばねにしてこらえ、相手の剣撃ばかりを見つめる。クリスティンはまったく顔をほころばせなかった。ロヴィーサはヘルヴィスを追撃するクリスティンの後ろに迫る。
「なるほど。時間稼ぎですか」
クリスティンが地面から氷柱をいくつも屹立させ、ヘルヴィスを下側から穿とうとする。ヘルヴィスはどうにか高く跳んでそれを避けると、安全な位置に降り立った。その隙にクリスティンは振り返ってロヴィーサの剣を受け止めると、片手を敢えて凍らせることで硬質な鈍器にすると、ロヴィーサの腹部を殴りかかった。――ロヴィーサは剣を持つ片手を滑らせ、剣の柄でクリスティンの氷の腕を歯止めする。そして、もう一方の剣でクリスティンの首を狙った。が、クリスティンは首をねじるようにして避け、その避ける勢いを体についてこさせるように全身をねじった。クリスティンの凍った手は瞬時に溶ける。ロヴィーサの剣がもう一撃来る前に、クリスティンは手を地面につき、関節の屈伸だけで飛び跳ねそれを躱した。二人から離れた位置に降り立って、眼鏡を持ち上げる。
「――何を期待しているのです」
ヘルヴィスは近場にいたキャットヘッドを切り捨てた。
「まさか、アリサ・フレイザーが元に戻ることに期待しているのですか」
「よくわかったね」
ヘルヴィスは笑った。
口では伝えていないが、確実にそうすると踏んだ。ヒストリカなら、まずウィルフレッドにそのように託すだろう。ウィルフレッドもまた、そのように動くだろう。ヘルヴィスはそれがわかっていた。誰かにできることとできないことがあって、今、もしこの状況を打破できるとすれば自分ではなかったと瞬時に悟ってしまったから、そのようにするしかなかった。それは逃げや、責任の押し付けに近いものがあるかもしれない。王なのに、そしてロヴィーサも王妃なのに、誰かにこの局面を変えるための行動を願っていいのか。そんな葛藤もなくはなかった。だが、それほどまでに自分は無力なのだ。できないことしかなくて、できることができる人に何かをやってほしいと願うしかない。情けないのだ。
けれど、それほどまでに、誰かの存在は希望なのだ。
ウィルフレッド。
アリサ。
君たちだけなんだ。
「――アリサは、あなたたちに墜ちるほど弱くはないですわ」
ロヴィーサが言った。
「弱くはない? すでに墜ちたのですよ。アリサ・フレイザーはハルカのために」
「追い詰めたのはあなたたちです」
「ええ、そうです。けれど、あなたたちも残酷です」
「なんですって」
「アリサ・フレイザーは強くなんてありません。彼女は、もっと早く墜ちるべきだった。もっと早く楽になるべきだった。追い詰めたのはあなたたちです。アリサ・フレイザーが強いだとか、使命を負って戦っているだなんて、そんな重いものばかりを押し付けていたのでしょう。人間は、そんなに強くありませんよ」
クリスティンが言った。
「近しい人が死んで、あれほど復讐に執着できるというのが異常なのです。本当の人間は、もっと弱くて、あんな風に復讐のために魂を焦がすような真似はできません。ですから、アリサ・フレイザーが何かを諦めるように投げ出し墜ちても、それは当たり前なのです」
クリスティンはいつも通りの冷静さと、けれどいつもとは少しだけ違う強い言葉で言い放った。
「そうやって復讐するように追いやったのは、ハルカの仕業なのでしょう!」
「ハルカ・フレイザーの所為にしてもよいです。けれど、もうアリサ・フレイザーを解放すべきだと思いませんか。彼女はもう、充分に戦いました。ここでもう、墜ちたままにしてあげてもよいと思いますが」
「そんな慰めのような言葉を使うんじゃない!」
ヘルヴィスが言う。
「結局、お前たちが破壊の道具に使いたいだけなんじゃないのか。アリサ君の今までを、アリサ君の過去を、僕たちやお前のような赤の他人が勝手に切り捨てては駄目なんだ。アリサ君自身の意志によって諦めるのならそれもいい。けれど、その意志さえ奪ってはならないんだ」
「――――尊敬しますよ、あなた方のことは」
クリスティンが眼鏡に指を置いた。
まだ上空には黒い影が無数に舞い、その泣き声と地響きのような音が重なりあった、混沌とした視界に満たされている。クリスティンが眼鏡から指を離すと、それを合図にしたように彼女の横の地面からじわりと、泥のように黒い液体が湧き出す。それが少しずつ輪郭や形を作るように固形と化しながら重なりぶつかり、クリスティンと同じ背丈になるまでその黒々しい形は伸びていく。そして、彼女と同じ背丈になった頃、黒い固形物はぐにゃりと捻じれ、捩れ、歪み、最終的に人間の形となった。顔の部分に、ただ赤い色の口が三日月形にひどく吊り上った。
「これが、話に聞いた人間型か――」
ヘルヴィスが剣を構えた瞬間に、すでに目の前に、その姿があった。




