暗黒の祭祀④
「ウィルフレッド君!」
ヘルヴィスが叫ぶ。ウィルが顔を上げる。彼は一枚の手紙をウィルに投げた。硬い便箋が折りたたまれていて、中身までは見えない。ウィルはそれを受けとり、ヘルヴィスに視線を向ける。彼は微笑んでいた。
「そいつをヘルヴィニア城の将軍に届けてくれ。軍の動きの指示が書いてある」
「でも、これはあなた自身が!」
「君たちの力は信じているけれど、クリスティンの相手が出来そうなのは、僕とロヴィーサだけだ」
ウィル、ヘイガー、アーニィ、ウルスラ、ステラ、ヲレンは学生身分だ。鍛錬は積んでいるが、クリスティンを相手取れるか――魔力が強力であると見込みのあるメリアは魔法が使えないと明かされ、項垂れている。そして、ヒストリカはそもそも戦闘すらままならない。教師クレインもいるが、クリスティンとはそもそも敵対関係ではない。彼は今膝をつき、どうすればいいのかを考えあぐねている。クリスティンは学院上層部の屈指の魔法使いだ。
「剣だけで戦えるというのですか!」
「剣だけで戦えますわ」
ロヴィーサが強く言い放つ。
「――剣というより、僕たち二人だからね」
「……信じていいのですね」
ウィルはどうしようもなく心が痛んで、アリサのことを想うと、この足さえも動かすことにどこか躊躇のような、細やかなブレーキがかかってしまっていた。地面の瓦礫に足元が引っ掛かる。心も引っ掛かる。青い空が見えているのに、遠くで地鳴りが響いている。その空も、ラプターのいななきに塗りつぶされそうで。そして今、悪魔型がヘルヴィニアの街を撃ち砕こうと進行しているのだ。その中で、二人がこちらを見つめる眼差しは尊く強く、どこにも迷いがなく、ウィルは圧倒されていた。信じてよいかなんて、二の次だ。やるというのなら、信じるしかないじゃないか。信じないという選択が、ここに生れ落ちることなどないと知っていたのに。
ウィルは手紙を大切に抱えると、横にいた一行に声を上げた。
「行こう――俺はこの手紙を、どうにか将軍に渡します。皆さんは、逃げてください!」
ウィルがそう言うと同時に、クリスティンと、ヘルヴィス、ロヴィーサの戦闘が始まった。
■
ウィルはウルスラとステラに支えられているヒストリカの元に駆け寄った。
「ヒストリカさん! 大丈夫ですか」
「大丈夫だ。二人とも、ありがとう」
ヒストリカは自分の足でどうにか立った。ウィルは先ほどああ言ったけれども、どこかにわだかまりはあり、様々なものが視界に入る所為で、やはり焦りは滲んでいた。遠くにいるメリアの項垂れた姿が目に入る。メリア――その姿がアリサに重なる。ウィルは唇を噛み締めた。ヘルヴィスたちの戦いの邪魔にならないように、城の倒壊した壁の陰に四人は移動する。傷心のメリアも、同じように移動させた。目配せすると、ヘイガーとアーニィは頷き返して駆けていった。クレイン教師は怯えたように逃げ、ヲレンもどこかへ駆けていく。壁の陰にいるのは、ウィル、ヒストリカ、そして彼女を支えていたウルスラとステラ、無理に引っ張ってきたメリアの五人になった。
「その顔」
「なんですか?」
ヒストリカが少しにやついた。余裕のあるにやつきではなく、少し含みがあった。
「アリサのところに行きたいだろう?」
「うっ――まあ、行きたいですよ。それはもちろんです。でも、手紙を預かりました。これを届けないと」
「私が届ける」
「えっ……」
ヒストリカは力強く告げた。
「いいか。アリサを助けられるとしたら、ウィル――お前しかいないんだ。私では駄目なんだ。誰でも駄目なんだ。でも、お前だったらアリサを救える。どうしようもなく深い闇に囚われても、その闇がどれだけ深くても、そこから無理やり手を掴んで引っ張り上げるのはお前だ。お前しかいないんだ」
ヒストリカは笑って、強く告げていた――と思っていたが、そっとウィルの頭に手を置いて撫でる仕草には、どこか弱弱しいものが含まれていた。そして、その切実さが指に宿っていた。託しているのだ。ウィルは一瞬だけ停止して、思考に溺れそうになった。ヒストリカさんに無理なことなんてない。アリサは彼女を信頼している。懐いている。どうしてそんな彼女が自分では無理だなどと、そんな風に言えるのだろう。ヒストリカさんで無理なら、俺にだって無理かもしれないのに。でも、その指と手のひらには、そうでなければならないと信じているヒストリカの柔らかな空気が備わっていた。
「でも、俺にはアリサを助けられるかなんて」
「わからなくてもいいんだ。お前は、助けたいんだろう」
助けたいかどうか。
そんなのは、決まっている。あのアリサの表情が、あんなにも黒々しくて、硬質な石膏で縫い固められたかのように血色さえ窺い取れないようなものに染まっていたのだ。どうしたら掬い取れる。その黒い泥を。ハルカの邪悪な笑みが呼応する。それを考えるだけで、ウィルは重力に苛まれて、潰れそうになる。
「助けたい、です」
「なら、それでいい」
「でも、どうして俺なんですか――」
「アリサのためにお前がやってきたこと、その全部が証明しているだろう? お前は……」
ヒストリカは言った。
「もう父親のことは諦めているな」
「――――」
一瞬驚いたが、ウィルは目を閉じて、冷静になった。
「ええ」
自分でも、冷静に答えられた。
そうだ。
もう、親父のことは諦めている。
最初からそうだった、と思う。口ではアリサの前で、親父を探すとか、生きているかもしれないとか、情報を求めているような素振りをしていたけれど、結局のところ、もう生きてはいないとはっきり認めていたのだ。でも、だからといって決して何かを投げ出す気持ちになったり、生きていく心地がなくなったり、絶望したりしたわけでもない。だって、アリサがいたからだ。アリサは、アリサはずっと囚われていたのだ。彼女は自分よりずっと暗闇にいる。両親を失い、兄を失った。あの日の涙だけは、俺の中からは消えていない。可哀想とか、そんな安い言葉で語れるわけもない。ただアリサは、どうしようもなく、苦しみの運命に閉じ込められている。同時に、アリサ自身もまた、自分の意志でその苦しみに潜り込もうとしていたのだ。そんなこと、アリサは平然と生きていても、俺は許したくない。だからきっと、手助けしたいと思ったのだ。親父がいなくても、俺の望みが叶わなくとも、アリサの願いが叶うというのなら。
俺はアリサのためにここまで来たのだ。
見返りなんていらない。俺の意志だ。アリサが復讐を成し遂げるまで、後ろで見ていたかっただけなのだ。結果的に、俺もまたアリサを苦しみの渦に陥れる手助けに一役買ってしまった――ハルカに操作されていた――ようなものだけど、でも、アリサの望みが叶わないことは、俺の一番嫌なことだ。今、アリサはどんな気持ちだろう。どんな想いに囚われているのだろう。ハルカの闇に、ハイブリッドとして覚醒して、あの闇に包まれて。
アリサがあのままでいいわけがない。
あのままでいいわけがないんだ。諦めたとしても、アリサが今、復讐を成し遂げることができなくなって、復讐する相手が、兄の仲間で――その狭間で、もうアリサの復讐は終わったも同然だ。今、アリサが成し遂げたいことはなんだろう。でも、きっと何かがアリサの中に生れ落ちても、あのままでは――あんな姿のアリサでは、アリサから新しい希望が生まれても、叶えられない。アリサがどうであろうと、その意志に添うのが俺のやりたいことだ。
だから、アリサのために。
俺は戦わなければ。
「ヒストリカさん」
「ウィル」
「手紙を、頼みます」
「ああ」
「ありがとうございます」
「行ってこい」
ウィルは左右にいたウルスラとステラに声を掛けた。
「あの、ヒストリカさんをどうかお願いします」
ウルスラはにこやかにウィルに返した。
「あなたがアリサさんを大切に想っているのは知っているわ。どうか、あなたの願う通りに」
ステラは何も言わなかったが、強く頷いて、ウルスラに同意しているようだった。
「ありがとうございます。どうか、ご無事で……」
ウィルは手紙をヒストリカに渡し、アリサとハルカが向かった方向へ駆け出した。
■
「いい眺めだな、アリサ」
悪魔型の巨体の左右の肩にそれぞれ、アリサとハルカは立っていた。そして、悪魔型がヘルヴィニアの街をひたすら破壊する景色を、淡々とした黒い瞳で見下ろしていた。アリサは何も言わないで、見ていた。ハルカは口元を吊り上げて、そんな風にアリサがこの景色を見て何も思わないという様子に、愉快さを止めることができなかった。
「本当はずっと前から、お前とこうして、いろいろなものを破壊したかったんだ」
「…………」
「お前とぼくは、ふたりで一つなんだからね」
ハルカは片手に火球を生み出し、悪魔型の猛攻の傍ら、ひたすら街に向かって撃ち放った。逃げ遅れた人たちが壁際で恐怖に足がすくんでいても、ハルカは何の感慨も躊躇もなく、そこに火球を叩き込んだ。悲鳴と血が、穴だらけになった都市の道に散った。舗装されていた面影はもはやなく、ただ盛り上がった瓦礫と砂埃、血と泥だけが街に増えていく。ハルカは雷魔法で鞭を作り出し、悪魔型がその腕で建物をひたすら打ち崩していくのと同様に、鞭を縦横無尽に操って、ひたすら街を破壊して回った。悪魔型のうちの二体は、すでにヘルヴィニアを後にして、他の都市へ向かっていた。
アリサはただ。
見つめているだけだった。
■
「とんでもないことになっちゃったわね」
「アーニィ」
ヘイガーとアーニィは並んでヘルヴィニアの街を駆け出していた。この数時間にいろいろなことがありすぎて、頭の中は何かで溢れそうだった。情報の取捨選択をするより先に、雪崩れ込んできたからだ。頭の中にも、そして死角にも。ヘイガーは時折足元を浮かせて身軽になり、唐突に襲い掛かるキャットヘッド、ドッグヘッドを頭から切り裂いた。アーニィはそれに追随するように、ヘイガーの死角にいるクレイドールを叩きのめした。雷撃が空を舞うが、お互いの体を無意識に傷つけないように魔法は唸っていた。街は逃げ惑う人も大勢おり、危害を加えないように判断しながら、ひたすらクレイドールを切って倒して回る。崩れていない建物のずっと向こう側に、悪魔型の巨体がひとつ見えた。
「とんでもないことになっているのは、俺たちよりも、あの一年の方だな」
「アリサちゃん?」
「と、ウィルフレッド」
二人は冷静にクレイドールを切り裂きながら話をした。戦闘中に話すと体力は消耗し、呼吸も乱れがちになるが、二人はどの戦いよりも静かに剣を振り回し、互いに補い合っていたために――そして、いつもよりずっと戦いに落ち着きがあり、息切れなど怒らなかった。本来、あの悪魔型の巨体が街を崩壊に追い込んで、悲鳴が鳴り響く現状、焦りが二人に宿っていてもよいはずだった。しかし、先ほどのあの目まぐるしい事実の応酬と、アリサやウィルたちの過酷な境遇を前にしたからか、影響されたように焦りまで昂ぶらなかったのだ。
「俺たちはとんでもなくないぞ。あいつらに比べれば」
「それ、まるでアリサちゃんたちよりマシって言ってるみたい」
「ああ、マシだ。それは事実だ」
「言うわね」
「だから、俺たちが逃げたら駄目だろう」
「――そうね、助けてあげなきゃね」
アーニィたちは、視線を空に近い側へと向けた。ラプターが空を舞い、青空はほとんど黒に染まりかけている。それを背に、今から他の都市へと向かおうというのか、ヘルヴィニアから離れて行こうとする悪魔型のうちの一体が進行していた。ヘイガーとアーニィは全速力でそこまで走っていた。
「アーニィ、お前は避難してもいいぞ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。ヘイガー、あんたこそ逃げなさいよ」
「そんなに情けなくないぞ俺は」
「知ってるわよ。何年一緒にいると思ってるの?」
アーニィの剣がクレイドールを切り裂いた。
「あたしだってそうよ。逃げないわ」
ヘイガーの雷が、クレイドールを砕いた。
「――そうか、そうだったな」
ヘイガーは笑った。アーニィも同じように、白い歯を見せて笑った。笑うことができるほど余裕のある場面ではなかったのに、二人は互いに体を動かしながら、笑うことしかできなかった。何年一緒にいると思ってるの? ヘイガーはその言葉に、どうしようもない納得を感じ、アーニィは自分で言っておいて、それがどこか気恥ずかしかった。けれど事実でもあった。ヘイガーはアーニィが逃げるような人間ではないことを十分知っていたし、アーニィとてそれは同じだった。それに、この状況で――ヘイガーとアーニィのどちらもが戦っているのに、相手を置いて逃げるなんてありえなかったのだ。
「アーニィ」
「ヘイガー」
二人はその瞬間、同じ言葉で同じ気持ちを告げた。難しい約束はない、単純な告白だった。それからは一切言葉を交わさないで、その言葉だけで全て通じたように、悪魔型に同時に斬りかかった。
■
「えーっと、ステラとウルスラだったかな。もう、お前たちは行っていいぞ。私は一人でも大丈夫だ」
「でも、戦えないのでしょう……?」
ヒストリカが強く告げたが、ウルスラが心配そうに問うた。
「確かに戦えない。あの忌まわしきハルカの所為でな。でも、走ることくらいはできる。それに、戦えないから逃げる訓練だけはしていたんだ。クレイドールは確かにたくさんいるが、まあ、なんとかなるだろう。将軍は、確か今はガロウェイだな。ここが城だから、そんなに遠くにはいないはずだ」
「でも、危険です――」
「いや、お前たちの方が危険だよ」
ヒストリカは微笑んだ。
「いいか。お前たちは、本当に、本当に巻き込まれただけなんだ。私を守る義理もないし、ハルカと敵対する理由もない。お前たちは学院生だ。普通にクレイドールならいい。だが、今ヘルヴィニアを襲っているのは、悪魔型だ。学院生が迂闊な気持ちで戦っては駄目なんだ。確かに戦闘訓練は積んでいるだろう。だが、逃げるべきだ」
「ヒストリカさん」
「なんだ」
「巻き込まれた――確かにそうかもしれませんけれど、でも、あんな話を聞いてですね、はいそうですかって逃げられるわけがないではありませんか。ここであなたを置いていくなんて、アリサさんやウィルフレッド君への裏切りです」
「ウルスラ」
「だから、お供します。ステラ、一緒に来てくれるわよね」
「はい、私も行きます」
「ステラも行きますから」
ヒストリカは驚いた。
なんだろうか。偶然、ハルカ殺人の容疑者だった学院生たちに、たまたまこんな風に勇敢な人間が混じっていたのだろうか。疑っていたのか馬鹿みたいに、とても強い眼差しがある。疑いが晴れたからそんな風に見えるのかもしれなかったけれど、でも確かに、ここには本気の意志があって、ヒストリカは驚いている。アリサやウィルへの裏切り。事件について考えるために彼女たちの元へと訪れたアリサたち。その時に、話したこと。そして、先ほどのウィルの長い語りと、アリサの闇。そういったものが、何かしらの影響を与えたとでもいうのだろうか。
「――ありがとう。では、一緒に行こう。私を、守ってくれ」
ヒストリカは、傍にいて、まだ項垂れたように座っているメリアに目を向けた。
「メリア」
「…………」
ヒストリカは、力を失った少女を見つめた。
力を失う。
ヒストリカ自身も、その喪失感を知っていた。過去に大怪我で魔力を失い、身体は自由に動くが、戦うことはできなくなった。――それも、ハルカによる策略の一つだったが。魔法を扱うこと。それはこの世界に生きる人間にとって、そして生まれた時から魔法を使うことができると信じていた人間にとって、自分を自分たらしめる一つの要素だった。魔法が使えない人間もいる。けれど、使えない人間もまた別の何かにその身を宿して生きていく。ヒストリカにとって、生きていくことの中に、魔法を扱うことはそのまま組み込まれていたのだ。だからこそ、それが失われたことはあまりにも大きかった。もう受け入れてはいる。ただ、メリアはまだ幼く、不安定だった。ヒストリカでさえあれほど受け入れるまでに時間のかかった喪失感に、メリアは耐えられないかもしれない。
「連れていこう」
ヒストリカはステラに目配せした。
「軍に保護してもらおう。戦うことができないなら、それが一番だ」
「そうですね……」
ステラはメリアの頬を撫でて、顔についていた粉塵の灰色を拭ってやった。それから子どもを優しく包むように抱き寄せて、抱きかかえた。ウルスラはステラを気遣う。メリアは何も言わず、静かに、無表情のままステラに抱えられた。ヒストリカは唇を舐め、クレイドールの舞う空を一瞥し、地響きと倒壊の音が唸るヘルヴィニアを駆けた。




