暗黒の祭祀②
寸前までその場にあったものは、きっとウィルの言葉と、それに追従するような焦燥感。しかし、彼の言葉だけではない様々な要素は、確かにこの空間と空気の中で、決して隙間なく埋めていたというわけではなかった。そこにはまだ、誰かが言葉を発せば、誰もがそちらを向いたり、そちらへ理性と共に反応したりするだけの余裕や、隙間があったのだ。それだけ、このヘルヴィニア城の大広間には、まだ、圧倒的な何かは舞い降りてはいなかった。
だが。
光を小さく反射していたガラスの破片が、赤い絨毯の上に降り注ぎ。
そこに降り立ったその黒々しい存在は、今までその空間にありありとあったはずの呼吸のための余裕も、視線も、理性も、全てを奪い取る圧倒的な力があった。全てが捻じ曲がるような、予定外の、全てにおいて予想を切り裂く、禍々しい存在であった。その場にあった多くの要素を、全てその存在に集約させ、収束させ、集中させる、それだけの力があったのだ。
黒い。
黒い髪。
黒いローブ。
黒い瞳。
その周囲に纏った、見えない淀みも。
全てが黒い。
「アリサ――――……?」
ようやくウィルの唇だけが、その形を為した。けれど、彼でさえその一息を紡ぐのにやっとだった。呼吸さえ重い。今、何かをこの場に捻り出すだけの余裕が、瞬間消え去るほどの重苦しさが、目の前の存在から溢れ出ていたのだ。そのために、ウィルだけでなく、元は容疑者だった五人と、クレイン、王と王妃、そしてヒストリカも、メリアも、皆、停止していた。全てが止まりそうだった。
アリサ・フレイザー。
赤茶色の髪の毛は全て黒く。
全てが黒くとも。
彼女は紛れもなくアリサ・フレイザーだった。
ウィルの思考は停止しようとも、それに逆らうように雪崩れ込む思考。アリサが、黒い。髪の色が、黒くなっている。どうしてだ。何が起こった。今、何が起こっている。そしてアリサに何が起こった。何が起きようとしている。わからない。アリサは口を開こうとしないで、ウィルを見ていた。ぞっとするほど冷たい瞳だった。深くもない、まるで単色で塗り潰しただけの黒。アリサは今、全てが塗り潰された黒だった。それはウィルを貫きはしない。壁のような分厚い圧迫が、締め上げるだけの黒。
「アリサ、なのか?」
「――――」
「答えろ、お前は……」
その時、大広間の扉が、ゆるやかに開いた。
「それは、ぼくがこたえてあげるよ。ウィルフレッド・ライツヴィル」
「――――!」
扉から歩み出たそれは、一歩一歩を踏み鳴らして、アリサの横に立つ。
今まで散々思考と推理の中で、その動きはトレースし、彼の思惑もまた自分の言葉の中で説明したはずだった。だが、こうして質量を持って目の前に現れると、印象も何もかも粉々だった。アリサ本人から聞いていた様子よりも、大人びている。五年も経っているのだから当たり前だ。それ以上に、二人並びたった威圧感に、挫けそうになる何かを感じ取らずにはいられない。
悪魔的な微笑み。
「ハルカ・フレイザー…………!」
「予想外ではなかったね、ぼくが生きているということは、もうみんなには話したかな」
挑戦的な態度だった。
ウィルは果てしなく混乱していた――アリサの様子のためだ――が、その言葉遣いにどうにか反応するだけのものは持ち合わせていた。その場は沈黙に限りなく近いが、確実にハルカとアリサの二人が支配していると言ってもいい。ウィルはそれに対する反抗心のために、拳を握りしめながら答えるしかないのだった。
「話したさ。お前が、五年前に自殺に見せかけたことも」
「なら、アリサがどうしてこうなったのか、わかるだろう?」
わかりたくはない。
けれど、ウィルは先ほど、その予測を立てて、説明もしてしまった。
だから、もう認めないわけにはいかなくて。
なのに、歯を噛み締めるだけだった。
「アリサは『墜ちた』んだ」
「…………」
「今、ここに告白しよう。ぼくとアリサは、本来ならばたったひとりが持って生まれるはずの『ハイブリッド』という人間の性質を、運命のいたずらか、ふたりで分けて生まれてしまったんだ。ぼくはクレイドールをあやつれるけれど、アリサはあやつれない。けれど、ぼくは自分がハイブリッドであることを自覚していて、アリサは自覚していなかった」
ハルカはアリサを横目で見た。
アリサは何も言わない。
ただ立っている。
ただ、立っているだけなのに。
「けれど、ハイブリッドとしての本当の力は、アリサに眠っていた」
ハルカは続ける。
「だから、ぼくはアリサを覚醒させるために動いたんだ。ぼくは両親を殺した。アリサの『だいすきなおにいちゃん』になるために。たったひとりの家族になって、将来ぼくが死んだとき、アリサが悲しんで、ぼくのために復讐をしてくれるように。そして、いろいろな苦難を乗り越えて、ぼくが実は親を殺し、犯人であると知ったとき、また悲しむように……」
悲しみ、悲しみ、悲しみ……
ハルカの言葉は平坦であっても。
それはアリサのための過程だった。だから、言葉がどれだけ冷たく平らであっても、そこにあったはずのアリサの感情は、想像を絶するほどの起伏に苛まれ、そして――黒に染まってしまったというのか。
「いろいろなことがすべて、アリサを追い詰めるように仕組んだつもりだよ。ウィルフレッド・ライツヴィル、きみが真相を話すことがそのままアリサを苦しめる」
「俺が――……」
俺が、真実を話したから。
アリサが……。
苦しむことはわかっていた。ハイブリッドが、死んだはずのハルカだとアリサに伝えるのは。わかっていたはずなんだ。ウィルの中に霧が掛かり、額から汗が滴る。心臓が蠢く音は、白い意識の中で脈動する。わかっていたのに、話してしまった。それがアリサのためになるのだと信じて。求めているものから目を逸らしてはいけないからって――けれど、そんなものは、自己満足で、アリサをやっぱり苦しめるだけ――だったのか。俺は……――。
「そして、ヒストリカ・スウィートロード」
「っ……!」
ハルカの視線が、ヒストリカの元へ向かう。
涼しく凛としていた表情も、動揺に歪む。この大広間でウィルが話している間も、ヒストリカはアリサのために表情を崩し続けて、そして、その根源であるハルカがその言葉の矛先を彼女に向けた今も、それは変わらなかった。例えばそれは絶望であるとか、愕然としたショックに表情が情けなくなったわけではない。張り裂けそうな何かに眉を寄せて、悔しそうな目元をしている。今もハルカの言葉の圧力は、彼女の反抗さえも押し留めようとしている。
ハルカは挑発的に言った。
「けがの調子はどうかな」
「怪我――だと……?」
「そう、けが。ぼくが以前、大陸に出現させた『悪魔型』によって、あなたが負ったけがだよ」
「――――お前が」
ヒストリカは魔法が使えない。
そして、剣も使えない。
ただ、彼女は本当は、ずっと強かった。――過去形。大陸でも優れた魔法使いであり剣の使い手であったヒストリカ・スウィートロードは、まだアリサが彼女の元へ弟子入りするよりずっと前、大陸を襲った悪魔型との勝負に最も尽力した人間だった。結果は、ヒストリカを含んだ精鋭部隊の勝利――だが、ヒストリカはその尽力を代償に大怪我を負い、剣は持てなくなり、魔力を失った。ヒストリカは悪魔型を倒した代償に、その力の全てを失ったのだ。そのためにヘルヴィニアの森に隠居していたのである。
「悪魔型に大陸を襲わせたのは、ぼくだ。どうしてか、わかる?」
「…………貴様」
「ヒストリカ・スウィートロード、あなたはとてもつよい。だから、きっとこうしてぼくがアリサを目覚めさせるとき、きっと邪魔になるとおもったんだ。ぼくはあなたの力を買っている。だからあのとき、『あなたでなければ相手にならないような悪魔型』を出現させて、あなたと戦わせて、大怪我をするように誘い込んだんだ」
ヒストリカは身を乗り出そうとした。
ハルカは手のひらを見せつけるようにして、彼女を止める。
「おっと、ぼくに怒りを向けるのはやめてほしい。そのおかげで、あなたは森に住み、アリサを育ててくれた。ぼくはとても感謝しているんだよ。なまじ彼女を育てあげて、実はその力さえも世界を壊すためだったと知るときの落差のために、あなたははたらいてくれた。ぼくはすごく嬉しいのさ。あなたがアリサを強くしてくれた。結果として、その強さはこうしてハイブリッドとしての役目に目覚めたぼくとアリサが世界を壊すための力になるんだからね」
「貴様――――貴様――――」
「そして、クリスティン・ルルウ」
ハルカは怒りに震えるヒストリカから目を逸らし。
ただ一人、この場の異様な空気に呑み込まれないまま佇んでいる彼女に目を向けた。
クリスティン。
「ぼくはクリスティンにはとても感謝をしている。ウィルフレッド、きみも推理した通り、ぼくが自殺を偽装して、最初にこの計画を話したのは彼女だ。彼女はぼくに尽くしてくれた。すぐにパーシヴァルにも話を通してくれたから、こうしてぼくはアリサを騙し、彼女を絶望に叩き落とすことができたんだ」
クリスティンは澄ました顔で眼鏡を抑えた。
「そのために、偽りの友達をアリサに送り込んでくれたのも大きい」
「偽り――だって?」
ウィルが問うた。
偽りの、友達?
「そう」
ハルカは笑った。
「ケイトリン・クレルヴァルは、アリサを裏切った」
「嘘だ――」
ヒストリカがすぐさま反論した。
「有り得ない――あの二人は信頼し合っていた。見え透いた嘘はやめろ」
ウィルも同じことを思った。地下の施設に向かう前の、二人の会話。カルテジアスでの様子。二人のことをずっと見ていたわけではないけれど、ウィルは、アリサとケイトリンは親友になれたのだと思っていた。アリサの口から、師匠であるヒストリカやハルカ以外の誰かの名前が出てきた時、ウィルは嬉しかった。ぶっきらぼうに突き放していても、気になっている様子は、きっとアリサも歩み寄れる誰かができたのだと信じていたのに。――ケイトリンが、裏切った? あんなにも笑顔で。そして、一人逃げて行ったアリサを追いかけようと決意した、あのケイトリンが……アリサのために泣いたケイトリンが?
「うそではないよ。そうだね、正確に言うなら、裏切ったのではなくて、最初からぼくたちの仲間だったんだ。だって、ケイトリンはクリスティンの妹だからね」
「妹――――」
身内。
クリスティンは、だから、すぐにアリサの相部屋に、ケイトリンを。
何かと何かが、かちりと音をたてて合致し。
捩じれていく。
「うまくいってよかった」
ハルカがそう言った。
ぽつりとも違う。
高らかとも違う。
けれど、確実なまでに素直に。
「アリサが悲しんでくれて、よかったなあ」
邪悪に、そう言った。
■
「ハヴェンはどうしたの」
メリアが、ハルカの禍々しさに耐えられないような沈黙に、言葉を穿った。
「ああ、パーシヴァルから聞いているよ。ウィルフレッド、きみは自分の推理の裏付けのためにメリアを連れてくるようにクリスティンに頼んだようだけれど、実はねえ、ハヴェンが人質になって、メリアはここにやってきたんだよ」
「ハヴェンが――」
確かに、ウィルは自分の推理の一部の裏付けのためにメリアを連れてくるようにクリスティンに頼んだ。クリスティンはきっとその挑発めいた挑戦に必ず乗ってくる。そして外れることを期待してくるから、連れてくるはずだと踏んだ。だが、そうだよな――メリアがのこのことついてくるはずがなかったんだ――くそ、ハヴェンが人質になっているだなんて、何にも考えていなかった。ウィルは自分の浅はかさと思慮の至らなさに唇を噛んだ。
何から何まで、俺は駄目だ。
ウィルは拳を握りしめた。
かっこつけて推理とのたまって勝手に語った結果がこれか。
何も、何も終わっていない。
終わらせられなかった。
ウィルは正面にアリサを見つめた。
黒い。
黒いアリサ。
顔も形もアリサそのままなのに。
全部、アリサじゃないなんて。
ウィルが打ちひしがれていると、そこにぴしゃりと前に出る――ヘルヴィス王。
「ハルカ・フレイザー、話は聞いたよ」
冷静な口ぶりだったが、普段よりも明らかに力が籠っていた。
「君を拘束する」
「できるかな、若き王さま」
「何が言いたい?」
「ぼくは、宣戦布告しに来た」
ハルカはアリサの手を取った。
兄妹。
黒い兄妹。
けれどただ、あまりにも黒く禍々しくて、神々しくもあった。
「ぼくたちはこの世界を壊します。そのために生まれてきたのです」
祈りのような言葉だった。
けれど。
誰にも祈っていない。
囁きでもない。
祈るとすれば。
悲しみにだった。
「ねえ、アリサ」
破壊に。
絶望に。
その手は、言葉は、祈られている。
黒いアリサは、静かに告げた。
「ええ。もう何もかも、壊しましょう」
■
長い雄叫びが、上がった。
猛々しさが、夥しい波紋となって鳴り響くような音が、広間の天井を割る。音が重力となって、ハルカとアリサ、クリスティン以外の一同は、それに耐え切れず膝を床に突いた。壁に連なった窓ガラスが砕け、風が吹き荒れる。どうにか、骨の髄まで捩じれるような重みの隙間を縫って、割れたガラスの外側へウィルは視線を向けた。
曇り空に青空が消えている。
ずっと向こう側に、黒い影。
黒い侵略。
悪魔型――黒く邪悪な体躯が空の中央に立ち塞がっている。
まさか、悪魔型が、ヘルヴィニアに。
違う。
そうじゃない。
クレイドールは全て、ハイブリッドが操っている。それは自分で見つけ出したことじゃないか。ウィルは奥歯を噛み締めた。だから、今、そこで平気で立っているハルカがここに呼び出した。全部壊すためだ。――それも、違う。ハルカ、じゃない。ハルカだけじゃない。今はアリサもハイブリッドだ。ハルカとアリサが手を繋いで、ここに召喚した。風の音が咆哮を運ぶ。
「――――悪魔、型」
ヒストリカの細い声が、風の合間に聞こえる。
「一体だけじゃないよ。五体だ」
「五体っ……!」
ハルカの不敵な笑みに、ウィルが驚愕する。
五体――まさか、以前は一体でヒストリカがやられたのに、それが五体――そんな馬鹿な――。風に混じっていた粉が口元にへばりついたのを、意識に埋もれていく危機感に苛まれながら、手の甲で拭った。その一挙一動にさえ、時間が刻まれている。ゆるやかに思えるほど、何もかもが急激に飛び込んできた。ウィルはアリサを見ていた。
アリサ。
赤茶色の髪の毛は、今は黒く。
風に任せてなびいている。
冷たい顔で、こちらを見ている。
ウィルの中に、思考が雪崩れ込む。
例えば風が吹いていれば、それでもアリサは立ったまま抗おうとするのに、今のお前は、抗おうとすらしないで、ただ立っているだけ。ずっと悲しんでいた兄の死が、実は偽りだと知って、本当ならもうそんな顔をしなくてもいいのに。けれど偽りの内容がずっと残酷だったんだから、アリサがそんな顔をするのも、仕方ないのか――仕方ないのか。こんなことになったのは、いったいどうしてだろう。真実を追い求めたから、アリサは笑わなくなった、のだろうか。
拳を握る力が入らない。
どうして。
ここまで。
その場がさっと黒い影に覆われる――皆が上を向くと、悪魔型がすでに迫り、ついに片手を振り上げ振り下ろそうとしていた。悪魔型の巨大な腕は、それが振り下ろされるだけで強烈に建物を砕いた。大広間は轟音を立てて崩壊する。城の屋内が露出してしまった。大広間にいた一行は、かろうじて強く地面を蹴って大きく後退することで悪魔型の腕をさけ、崩壊から身を守った。吹き飛んだ地面の一部や壁の一部の瓦礫を魔法で防いだり、大きく後退することでそれぞれ逃れる。唯一大きな動きが出来なかったヒストリカは、近くにいたステラとウルスラが守った。瓦礫の上でどうにか体勢を立て直そうとするが、土埃が大きく舞い上がり、風も吹き荒れ続け、身体がは重かった。
そして。
ハルカとアリサは、悪魔型の肩に乗って、その場の全員を見下ろしていた。
「戦争だ。ぼくたちハイブリッドと、ぼくたちが操るクレイドールで、この国も、世界も壊すから。きみたちもがんばって。すぐに壊れてしまっては、ちっとも面白くないからね。そう、面白くなればいいね。みんな、面白く死んでいけたらいいね」
逃げられる。
悪魔型が、ハルカと。
アリサが。
「アリサ――――!」
悪魔型の背に乗ったアリサは、ウィルの声に反応しなかった。声も届かない。風が舞っているとか、悪魔型の唸り声があるとか、そんなものがあるから届かないわけではない。耳に届いていても、アリサのところまで届いていない。ウィルは声の出し方を忘れそうになっていた。冷たい目をして、どこかを見下ろしているアリサ。こちらに、その目は向かない。
「クリスティン、よろしくね」
「ええ」
砂が落ち着き。
視界が晴れる。
悪魔型の足元に立ち、ハルカの言葉に返事をした後、クリスティンが細身の剣を彼から受け取った。それを流れるような捌きで抜き、剣先を地面付近に据えるようにして佇む。ハルカとアリサが乗った悪魔型はその場からゆっくりと離れていき、城下町の方向へ歩き出していた。すでに崩れた城の一部からは城下町や学院側の風景がよく見え、そして悪魔型がすでに猛威を振るっているのが見えた。空にはラプターが出現し、曇り空をさらに黒々しく染め上げ満たしている。風景の中に細々した黒い影――ドッグヘッドとキャットヘッドが荒らしまわっているのも見えた。ヘルヴィニアは、クレイドールの攻撃を一挙に受けていたのだ。
「私は皆さんのお相手をしましょう」
クリスティンは剣をウィルたちの方へ向け、片手で眼鏡を持ち上げた。




