探偵夜話 解決篇⑤
「ハル、カ……本当に、あなたなの……?」
震える手で、口元を抑えた。
「ああ、ぼくだよアリサ」
ぼくだよ。
ぼくだよ。
ハルカは何も変わっていなかった。顔立ちは、もちろん大人びてはいる。五年も経っているのだから、私の記憶が最後に留めているハルカとは、もちろん、違う。でも、そうだとしても変わらない、何も変わらない。声も、言葉遣いも、少しも芯が通っていないような柔らかさのまま。そして、輪郭さえ曖昧な、瞳の色。――――ハルカだ。
「……ハルカ、私――私、あなたが……死んだって、聞いて、この五年間――――」
何かを言おうとしても、何もついてこない。舌も呼吸も心臓も、五年間分を一気に吐き出そうとして絡まり、混乱する。口の中にはいろいろな言葉を用意できるはずなのに、もつれてうまく喋れない。そして、喋るまでにハルカが、ふっと笑って。私の言いたいことを先取りしたかのような素振りで、妖艶に答える。
「聞いているよ。アリサがぼくのために戦ってくれたこと、すべてね」
五年間を反芻していた私の思考が、停止する。
そして、今、目の前のハルカに集中する。
聞いている。
すべて。
「聞いて……いる? 知っているの?」
「ああ。だって」
ハルカはそのままの表情で、告げた。
「そうなるように、ぼくが仕組んだからね」
「仕組んだ……」
待って。
待って。
仕組んだって。
どういうこと、なの。
私。
「ねえ、ハルカ、私、今話したいことがたくさんあって、でも、追いつかないの――だから、あなたが何を言っているのか全然わからない……。ハルカ、どうして……こんな、こんなところにいるの」
「質問にはこたえるよ。ぼくは学院と手を結んだ。パーシヴァルとも、クリスティンとも協力している。だから、ここにいる」
「ハルカ……?」
「動揺するのも無理のないことだね。でも、アリサ。アリサはぼくの思い通りに動いてくれたんだ」
「ハルカ」
「ぼくが何を考えて行動したか、アリサは、ウィルフレッド・ライツヴィルにすでに聞いているのではないかな」
「ウィル……」
ウィルは……。
ついさっきまでの、会話が脳裏を過ぎる。
ウィルはハルカがハイブリッドだと告げた。今までの全ては、ハルカの意志によるもの。自分の死を偽装して、契機を作って学院と手を結んで、そして、私を戦いに導いた。私に復讐させようとしたのだ。ウィルはそう言った。でも、そんなのは、きっと嘘だ。嘘に、決まっている。
「ウィルの言葉なんて、嘘よ、違うでしょう、ハルカ……」
「けれどぼくは生きている」
「そうよ、ハルカ……あなたは、生きているわ。でも、でもあなたが、ハイブリッドだなんて嘘でしょう? ウィルは間違っている」
「ウィルフレッド・ライツヴィルのことを、信じないのかい」
「信じられるわけがない!」
彼は信じてもいい。
ウィルだけは信じ続けてもいい。
信じたい。
だから私もここまで、彼と一緒にいた。
あの日に出会って、ここまで一緒に来た。
だけど。
「ハルカのことだけは、ウィルにだってわからないわ……」
私の家族のことが、ウィルにわかるわけない。
どれだけウィルのことが、私にとって大きな存在で、彼の言葉は決して偽りを含まないのだとわかっていても、どうしても受け入れることのできない言葉だったら、どんなものも拒むしかない。例えウィルだとしても……ハルカのことだけは、きっと全部全部、ウィルでさえ掴めない。あんなのは、きっと、間違いだ。
だから逃げてきたのだ。
でも、逃げてきた先にいたのは。
ハルカ。
それは、予想外でも、きっと嬉しいことなのに。
そんな笑い方をして、私を待っていたなんて。
「今でもぼくを信じているんだね」
「だって、あなたは生きているのよ。こんなに、嬉しいことは、ない」
のに。
思った以上に、冷静なのはなぜ。
ひどく寒くて。
なぜ、何もない。
喜びはあるのに。
涙も出ない。
そしてなぜハルカは。
そんなにも、不気味な笑顔なの。
「あ、あなたは……どうして、生きて、るの? なぜ学院と手を組んだなんて」
「きっと正解だからだよ」
「な、にが」
「ウィルフレッド・ライツヴィルの出した答えが、全て正しいから」
「――――」
「もちろん、彼の答えを聞いていたわけじゃないよ。でも、もうアリサは、聞いたんだろう。だって『その答えに辿り着くようにぼくが調整した』んだからね」
「調整……」
「教えてあげるよアリサ」
ハルカは何を言っているのだろう。
部屋は明るいのに、何か仄暗い。
言葉も、心も。
耳を、塞ぐ選択肢なんて。
寒くて。
「ウィルフレッド・ライツヴィルの出した答えは全て、正しい。彼が語ったであろう言葉は全て真実だ」
ハルカでさえ。
「ぼくは、ハイブリッドだ」
■
「ぼくは五年前に、学院の入学試験の最中に自分に炎魔法を使って、炎の中で燃え焦がれた演技をすることで、学院の上層部の人間があの場所にやってくることを期待した。試験生は当然避難するから、きっと教師の誰かがやってくるだろうと。やってきたのは、クリスティンだ」
ハルカの声は、反響する。
部屋ではなくて、何かに、私の頭の中が球体だとしたら、声がまるで一方の壁に当って跳ね返るのを繰り返すように唸る。先ほどのウィルの言葉が重なり、それは容易に私の意識まで受け入れられた。言葉も息も、動悸も全て混乱のまま。
「ぼくはクリスティンがやってきて、すぐに炎を消し去り、自分がハイブリッドであることを告げた。そして、パーシヴァルに会い、ぼくの計画に協力してもらうことを頼んだんだ。パーシヴァルもクリスティンも、快く応じてくれたよ。それから、全てはアリサも知っている通りだ」
ハルカは、それから死体の偽装を行い、地下のエンブリヲ実験のカレンダーの設置のことも話した。それ以降は身を隠し、学院の裏で事態を静観していたという。それから五年経って、私が入学したのをきっかけに再び始動したとのことだった。
「お父さんと、お母さんも、殺した、の?」
私は、怖くて、怖くてたまらないのに、訊かずにはいられなかった。
ハルカはにたあっと笑った。
「ああ。ぼくが殺したよ」
足に力が入らなくなって、膝からがくりと崩れ落ちる。
嘘。
嘘、だ。
「十二年前に殺した。ぼくは何歳だろう……八歳か。お父さんもお母さんも、きっとびっくりしただろうね。いきなり、息子が魔法で殺しにかかってくるなんて……」
「う、そ……」
「嘘じゃないんだ」
「どうして……」
「アリサのたった一人の家族になるためだよ」
それはもう。
ウィルに聞いた。
それを否定したくて。
逃げたのに。
嫌だ。
このままじゃ、ウィルの話した通りになってしまう。
あれが正しいなんて、思いたくないのに。
ハルカは自分の手のひらを見つめた。
この手で殺したのだ。
この手のひらで。
そう主張するように。
「両親が死んだら、アリサの家族はぼくだけだ。あのとき、アリサは三歳だったからね。ぼくがアリサの親代わりになれば、アリサはぼくに依存する。アリサはぼくをかけがえのない存在として認めてくれるだろう?」
「どうして――どうして、どうして、どうして」
「たった一人の家族になって、かけがえのない存在になれば、ぼくが死んだと聞いたとき、絶対に悲しんでくれると思った。ぼくが死んだときにアリサを悲しませたくて、ぼくは親を殺して、アリサの唯一の家族になったんだ」
「私、わたしを――悲しませたかった、の?」
「それもある。けれど、まだ先がある。ぼくが学院の試験中に殺され、その事件をもみ消したとなれば、たった一人の家族を失ったアリサは、悲しんだ後、きっと復讐に走ってくれると考えた。ぼくはアリサに、ぼくの復讐をしてほしかったんだ。そのために戦ってほしかったのさ」
もう言いたくない。
どうして、なんて。
でも。
「それも、どうして――ってアリサは訊きたいだろうね」
「何が、何が言いたい、の」
「アリサ……アリサは――――」
ハルカはゆっくりと、私の方へ近づいてきた。
ゆっくり。
足音が、鼓動のように。
何かへの。
何かへの、律動のように。
刻まれる。
音が。
刻まれていく。
「アリサは子どもの頃から、どれくらい苦しんだ?」
苦しみ。
悲しみ。
「お父さんとお母さんが死んで、悲しかった?」
二人が死んで、私は泣いた。
幼かった私でも、憶えているくらい泣いて、ハルカに泣きついて。
「その悲しみを受け止めてくれたぼくが死んで、泣いてくれた?」
あれほど泣いたことはない。
失われて。
残った私とハルカ。
そして、ハルカが失われて。
私は一人になった。
手紙で知った事実だけれど。
泣き続けて、泣き続けて。
いつの間にか涙は枯れて。
体は機能しなくなった。
そのまま、長い間ずっと、墜ちていた。
「そうして、ぼくのために、復讐のために立ち上がってくれたね」
墜ちたままじゃいられなくて。
悲しみは怒りになって。
師匠の元で修行をした。
いつか、殺してやる。
潰してやると。
「けれど、殺すべきハイブリッドはぼくで、ぼくは潰すべき学院と手を取り合っていた」
ここまできて。
そんな、事実が。
真実が。
蝕む。
ウィルは信じたいのに。
信じられない。
ハルカは信じていたいのに。
どうしてそんなことを言うの。
こんなの、間違いだ。
でも。
でも、正しいと、ハルカが語って。
語っている。
「真実は残酷だね」
それが真実なら。
残酷だなんて、二文字に収まらるはずもない。
もっと、もっと深くて。
何かが。
抉りとって。
壊していく。
潰していく。
「そしてまた、絶望した。アリサ……アリサは今まで、ずっとずっと悲しくて、怖くて、泣いて、怒って――――いろいろな感情に苛まれて、希望を持っても奪われて、信じていた者には裏切られ、傷ついて、悲しみを繰り返した。でも、それは全部、僕がそうなるように考えたことなんだ」
一度は踏みとどまった何処かへ、墜ちてしまう。
嫌だ。
ハルカは私の目の前へやってきて。
両頬に手を添えた。
そして、私の目のずっと奥を覗き込むように。
顔を寄せる。
「ぼくはね、生まれたとき、少しだけ未来が見えたんだ。ぼくはハイブリッドで、五つの魔法を全て使うことができる。でも、完全ではなかった。ぼくは、完全なハイブリッドではない。何かに力を奪われて生まれてしまったのだ――そう、悟ったんだ」
私の、瞳の奥に何があるの。
ハルカの瞳には、何も見えない。
暗い闇。
心臓の音が。
まだ、心臓が。
動いているのに。
心臓の音だけが聞こえる。
「少しだけ未来が見えたって言ったろう? ……ぼくには、五年後に妹ができると知った。その瞬間に、わかったんだ。ぼくはハイブリッドとして、不完全なまま生まれてしまった。そして、その本当の力は――――五年後に生まれてくる妹が、持っているのだと」
な、にを。
言っているの。
妹。
私。
私は――――。
「まだ気付かないのかい」
私の瞳の奥に。
あるのは。
私の中にあるのは。
私は。
「ぼくたちはハイブリッドの兄妹だ。そしてアリサ、お前こそが、真のハイブリッドなんだよ」
■
ウィルは唇を噛み締め、続けることにした。
今までの旅路。
多くの時間。
そこで、アリサが見たもの、感じたものは――。
「ハルカ・フレイザーはなぜ、両親を殺してまで妹を自分に依存させ、その上で自殺を偽装し、アリサの復讐を促したのか。つまり、ハルカ・フレイザーの目的とは何なのか。それをお話します」
ウィルは一呼吸置いた。
「ハルカ・フレイザーはかなり緻密に計画を立てたでしょう。そうなると、きっと僕たちの知らないうちに彼の思うように事は運んでいたはずです。そうなると、このように考えることができます。『ハルカ・フレイザーの行動によってアリサがどのような経験をしたか』――そして『その経験をアリサにさせることこそが目的だった』」
「経験……?」
ヘルヴィス王が思わず呟く。
「はい」
ウィルは続けた。
「ハルカ・フレイザーが両親を殺した。そのことによって、アリサはどう感じたのか、わかりますか」
「それは、当然悲しんだろう」
ヒストリカが答える。
「では、兄のハルカ・フレイザーが一度死んで、どう思ったでしょうか」
「そんなの、お前が一番知っているだろう?」
「はい。アリサは非常に、悲しんでいました」
「それが、どうした」
「次です。死んだはずのハルカ・フレイザーが生きていて、しかし彼こそが憎きハイブリッドで、そして憎き学院と手を組んでいた。そのことを知らされたアリサは、どのように思うのでしょうか」
「……衝撃、だろうな。それに、悲しいかもしれない。裏切られたと感じているのかも」
「その通りです」
ウィルは頷く。
「考えてみてください。アリサはその人生、ハルカ・フレイザーによってもたらされた両親の死によって悲しみ、そして唯一の家族だったハルカ・フレイザーの死によって悲しみ、そして彼が実は生きていたのに、憎き敵だと発覚して悲しむ。アリサはとにかく、悲しみ、もしくは怒り、感情の様々な混乱がその人生を占めてしまっている……」
だからこそ。
迷った。
自分なら抑えられるかもしれないと。
だが、今ここにアリサはいない。
ウィルは呼吸を落ち着ける。
「つまり、ハルカ・フレイザーは、アリサの感情を揺さぶり続けることを目的にしていたのです。彼が両親を殺して自分に依存させ、自殺の偽装をしたのも、そしていつか発覚する自分の正体がアリサに伝わるのも、全て、徹底的にアリサの精神を極限まで追い込み追い詰めるためのものだったのです」
ウィルの脳裏に、アリサの顔が、表情が過ぎる。涙を流したのは、ハルカが死んだと伝えられたあの頃だけ。涙が枯れると、心がないかのように堕落の生活、眠りだけで食事はとらず、衰弱したかのように淡々と呼吸だけして、目は虚ろだった。あれが怒りに代り、修行を始めたのも、どちらにしても心が揺さぶられている。それを突き動かした復讐の信念も、今はどうなった。敵が敵じゃなくなって、復讐心はどこへ行く? その喪失感も、またアリサの心を抉って。
俺の所為か……。
でも、話さないでいられるはずもなかった。
アリサなら真実を求めたがったろう。
けれど。
「言うなれば、絶望です」
「…………」
「ハルカ・フレイザーは、アリサを絶望に陥れるために動いていた」
「なぜ、絶望を与える必要が?」
その時だった。
「そういう、こと」
小さく、メリアが呟く。
いつになく、冷たい顔が、目を見開いていた。
「――――メリア、あなたは何か、ご存知ですの」
王妃が問う。
メリアは答えない。
けれど、彼女ならわかったはずだ。
アリサは、メリアと同じことをされていたのだ。
「思い出してください。学院は地下での人工ハイブリッド計画で、その試験体とされていたエンブリヲの子どもたちに、一体何をしていたのか」
「それは、とにかく酷いことを――――」
王妃の言葉が、硬直した。
ウィルは人差し指を彼女に向ける。
表情が青ざめていく。もっと簡単なこと。気付くことが出来れば、こんな大見得切った大胆すぎる、大きな枠の中で行われていた見え見えの計画だったのだ。ただ、見えにくかっただけなのだ。それに気づきさえすれば、真実を掴むことができる。――もちろん、そんな真実など、掴まむ必要さえない穏やかなものなら、それでいいのに。残酷だ――ウィルは自分の中の煮えくり返るような思いをやせ我慢で抑えつけ、続けた。
「メリアたちは徹底的に追い詰められていた。精神的にも、肉体的にも。心がすり減り、感情は揺さぶられ、絶望した。――――そして、ハイブリッドの力を不完全ながら手に入れている。つまり、『ハイブリッド』の力の覚醒条件は、そういった絶望へと陥れることではないでしょうか」
「そう、かもしれないが、でも」
「それとまったく同じことが、アリサにもされていると思いませんか」
「ウィル――何が言いたい……」
ヒストリカが、それ以上何も言えない。
この事実は、ヒストリカがいつか語った伝説のものとは食い違う、けれど、そうだとしか思えない。全ての狙いがアリサに集中しているというのなら、そしてハルカ・フレイザーこそがそうだとするなら、そしていろいろな符号の一致を考えるなら……こんな真実はありえないと、言えるなら誰か言ってくれ。――けれど、そうかもしれないという思いは口を割る。
ウィルは、言葉を紡いだ。
震えないように。
震えてしまうような事実だから。
そして。
「アリサもハイブリッドです」
ウィルは告げる。
「ハルカ・フレイザーの計画とは、アリサを絶望させることだった。様々な事件や事実を駆使して、アリサの感情を掻き乱し、悲しませ怒らせ泣かせ、ひたすら精神を追い込むことで、そのハイブリッドの力を覚醒させるのが目的だった」




