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裁かれる花園④

 アリサちゃん、それは恋だよ。

 お話を聞いた限りではね。でも、ずっとずっと前に気付いててもおかしくないと思ったんだよ。だって、アリサちゃんって、とってもウィルさんを信頼しているし、友達よりもずっと深いところで結ばれているような感じがしたから。この二人、もしかしてお付き合いしているんじゃないかなあって思ったりもしたんだけど、全然そんな素振りがなくて、逆にこっちがびっくりしちゃったよ。だから、今度の手紙を読んで、私はにこにこしています。やっと気付いたのかあって。

 





 恋――……。

 私が?

 ウィルに?

 恋?

 私が、ウィルのことを、好きだっていうこと?

 指の力を失い、ケイトリンの手紙はひらひらと空中を漂って、最後にははらりと床に落ち着く。拾おうするには、私の中に余裕がなさすぎた。手紙が落ちた、ということを自覚するに足る意識が、私から一気に吹き飛んでしまって、代わりに、恋という文字と響きが全身に雪崩れ込んできていたのだった。

 いくら私が世事に疎いとしたって、それくらい知っている。本だって読む。物語も。その中で、ほとんど必ずと言っていいほど目に入るもの。誰かが誰かを好きになる……恋……今、それに私が重なっているということなの。その感情がまったく理解できないわけではなかったけど、でも、自分とは絶対に関係ないと、誰かの物語を読みながら考えていた。私にはそんなもの必要が無いし、もっと穏やかな生き方をしている人だけがするものだと思っていた。私には、関係ないこと。

 私には、関係ない……。

 だから動揺するなんて、おかしい、はずなのに。

 ゆっくりと手紙を拾って、続きを読む。

 ケイトリンはなぜか、喜んでいる。

 友達が恋に気付くことは、喜ばしいことなの?

 わからない。


 ――でも、気付いたんだったら、行動するに越したことはないよ。もちろん、アリサちゃんがどうしたいのか、だけど。アリサちゃんはとても忙しいから、そんなことを考えている余裕なんてないのはわかるよ。でも、恋って楽しいよ。アリサちゃんはすぐに考え込んで、なんでも背負いこもうとするから、少しは恋のことを考えた方がいいのかも、なんて思っちゃいます。ずっと殺人事件のこととか、もういない人のことを考え続けるなんて、アリサちゃんはそれでいいのかもしれないけど、でもそれでアリサちゃんが壊れちゃうんじゃないかって、心配になることも正直あります。だから、恋みたいに、アリサちゃんでもそういうことに悩んだりするんだって、安心しました。


 恋をすれば、事件のことから目を逸らしてしまうのだろうか。でも、でも……でも、実際そうだった。この数日間、きっと復讐や恨みつらみより、ウィルのことを考えていた。どうすれば、ウィルの隣にい続けていいのだろう。ウィルが秘密にしていることを私に話してもらえるようにするには、そして、私が彼に何も秘密を作らないように信頼してほしかった。私には、それくらいのことを求めることなんて、誰だってしているのかもしれない。だけど、私は……ウィルがあんな風に何も話してくれないことに、深く傷ついて、悩んでいる。彼の顔が離れて行かないし、離そうとして離せるものじゃないことも知っていた。彼のことを私は知らないし、私は彼に何もしてあげられていない……私と彼が対等じゃないということが、とても、とても辛くて仕方がないのだ。


 ――相談には乗るよ! あ、私も好きな男の子がいるわけじゃないんだけど、昔からそういう相談はよくされてて。もちろん、アリサちゃんのやりたいようにやればいいんだけど。もし恋なんかに時間を割いている余裕なんてないのなら、当然そんなことは後回しだよ。いろいろと大変なのはわかっているからね。アリサちゃんがしたいようにしていい。でも、もしよかったら、私にもいろいろとお話を聞かせてね。それで楽になるのなら、どんどん私を利用してもいいんだよ。

 応援しているからね、何もかも。


 ……名前が付けられて、初めてそれが生まれる。私が知らないものも、ケイトリンのおかげで教えてもらった。これが『恋』なのか。自分の中にある感情を自分では制御できない。だから、友達に教えてもらって初めてそうであるとわかる。知っていたけど、自分がそうなると、こんなにも意味の解らないものだなんて……指先が落ち着かない。手紙を持つ指でさえ、もう感覚が曖昧だ。どこかから落とされたみたいだ。手紙をゆっくりと丁寧に畳み、机に置いて、ベッドに倒れた。時計を見たら、まだ起きて数分のはずなのに、すでに午前中が終わっていた。

 手紙を見ている間、私はきっと意識をどこかに追いやって、立ち尽くしていたのだ。

 それほど、衝撃だったか。 

 当たり前だ。

 私は天井に手を伸ばす。

「…………好き」

 自分の声で、こんな風な言葉が出るのはひどく不釣り合いで、ふさわしくない、似合わない……。

 手の甲を額に当てて、息を吐いた。

 顔が熱い。

 そして、とても辛い。

 






 ウィルとアーニィは、無人の駅で長いベンチの両端にそれぞれ座っていた。

「君の所為で列車を一本遅らせることにしたんだから、それなりの話なんでしょうね?」

「それなり、かどうかはわかりませんが、少なくとも非常に大事な話です」

「そう。ならよかったわ。あちらに帰るのを遅らせた意味があるってものよ」

「早くヘイガーさんに会いたいですか?」

「ぶふぁっ! ――って、何よ、君、まままさかアリサちゃんから」

「はい? アリサに何か話したんですか?」

「えっ、何、アリサちゃんからあたしのことを聞いたんじゃないの?」

「私のことってなんのことですか? 僕は単純に、アーニィさんはヘイガーさんのことが好きだから、早く帰りたいとおっしゃっているのだと思いましたが」

「あ、そ、そうなの。そう……」

「違いました?」

「違わなくない……けど、なんだ、結局アリサちゃんに話を聞いたのと同じじゃない」

「よくわかりませんけれど」

「も、もしかして、あたしがヘイガーのこと好きなの、バレバレ?」

「バレバレですね。僕とアリサが初めてリーグヴェンでお二人と話した時から、すでに」

「あう…………」

 アーニィはがっくりと項垂れた。それから、俯き加減の顔をゆっくりと起こしつつ、不穏な表情をする。

「ヘイガーにも……バレちゃってるかなあ……」

「いや、それは大丈夫です。バレていません。それは保証します」

「なんでわかるの?」

「わかりますよ」

「なんだか釈然としないけど……違う、そうじゃないのよね。ウィル君、君はあたしに話をしに来たんだわ。それで、話っていったいなんだったの?」

「一つはすでに解消しました」

「えっ?」

「アーニィさんがヘイガーさんを好きかどうか、それが聞きたかったんです」

 彼女は思いきり仰け反り、間抜けな声を上げた。

「ええええーっ! 何、ウィル君って恋愛調査員か何かなわけ?」

「違います。これは僕とアリサの目的のためのものです」

 ウィルはアーニィの華やかな調子に似つかわず、極めて冷静に話を進めていた。ヘイガーとの会話で、すでにアーニィとどのような話をして、どのような反応が返ってくるかというのは、もうほとんど予想済みだったからだ。

「目的って……ハイブリッドの? あの事件の解決に……あたしがヘイガーを……その、好きかどうかっていうのが、関係あるの?」

「関係ありまくりです。まあ、そのうちなぜこのような質問をしたのかは、お教えしますが」

「気になるわ。つまりそれって、あたしを疑っているってことでしょう?」

「疑っているのは、最初からですよ」

「――あたしじゃないわ、ハイブリッドは」

 アーニィは強く告げた。

「そして、ヘイガーでもない。あいつはそんな腐った根性してないわよ。断言できる」

 ――『俺は犯人じゃない』。

 ――『アーニィもな。あいつはそんな神経してないだろう』。

 頭の中で、二人の姿が重なる。

 これは思わず、笑ってしまいそうだ。

 ここまでとは。

 ウィルは告げる。

「その言葉、ヘイガーさんに伝えたら、きっととても喜ぶと思いますよ」

「その言葉ってどの言葉?」

「あなたが思いつく、ヘイガーさんに言いたいこと、全てです」





 気付いたら、眠っていた。

 随分と後味の悪い夢ばかりを見る。何か私の中に潜り込んでいるような、けれど、そこはとても真っ暗で、沈んでいくような、暗い水。いったいどんなことがそこで起こっているかはわからないけど、でも、間違いなく私は息苦しくて、もがくのに、誰もいない。呼吸が入る隙間だってない。それでいいのかもしれないって、諦めるような思考も、空気の無い喉元に締め付けるように浮かんでくる。

 だけど、ウィルが私の腕を掴み――掴んで、そこで、終わる。

 終わり続ける。

 夢が。

 このところずっと、ウィルのことを考えている。

 体を起こし、そのままの恰好で、ずっとずっと……。

「最低だわ」

 誰もが戦っている。そして戦わなければならない。学院は動き出し、都市を襲い、たくさんの人を殺した。私はそれを知っていて、そしてハルカの復讐のために、今ある現状を留めようと動いている。もっともっと戦いに身を捧げなければならないのに。友達ができても、一人じゃないと知っても、結局は戦うことを選び続けてきたはずなのに。

 男の人のことを考えている……彼の手が私に触れることを、望んでいるのか、どうか、わからないけど、でも、何かをウィルに求めてしまっている。こんな時に、こんな時に……! 顔ばかり浮かんで、声も離れて行かない。傍にいないことを寂しく思ったり、いったいウィルとどんなことをして過ごしてきたのかを考え始めている。違うのに。私が考えなくてはいけないことは、こんなことじゃないのに、でも止まらないの。

 ウィルの隣にいられなかった。

 いる資格もないのかもしれない。

 そんなことはどうでもいい。

 私がやりたかったのは、ウィルの隣にい続けることじゃない。

 ハイブリッドを殺して、学院を止めて、潰す。

 ことの、はずなのに。

「…………ごめんなさい、ハルカ……ごめんなさい」

 私がこの恋を認めることは。

 ウィルに出会えたことを素敵なことだと心から思ってしまえば。

 それは、あなたの死を意味のあることにしてしまうの。

 でも。

 そんなのは。

 違うわ。

「殺されたことに、意味なんてあるわけない」

 殺されて、私が、なぜ幸せになる。

 誰かが私を幸せになってほしいと思っても。

 それは、ハルカが死んだから生まれた運命のためではあってはいけない。

 ハルカが殺されて、だからこそ生まれた縁で、私が幸せになって。

 そんなの、最低だ。

 ハルカが殺されたことは、圧倒的に、完全に、完璧に理不尽なこと。

 無意味なことにしなくてはいけないのだ。

 あなたの死の上に、私の幸福が成り立ってはいけない。

 私があなたの死を引き換えに、恋なんてものに、心を捧げては……。







「あのー」

「なんだ、ロヴィーサ」

「ソファに座ってぼけーっとなさっているのなら、少しくらいは書類書きのお手伝いでもしてほしいと思いまして」

「柄じゃないんだよなあ、そういうの……というか、王妃様の手書きのサインでなければ意味がない書類じゃないのか」

「ま、そうなんですけれど……それで、今は、何をお考えなのです?」

 先日の襲撃や事件の所為で、王妃には様々な雑事が寄せられていた。基本的には様々な申請やサインの要望で、今も都市を飛び回っている夫のヘルヴィスの分もやっているため、マードレーの城の、今は使われていない書斎の一室を借りての作業だった。午前中と午後に一回ずつ、郵便で大量の書類が送られてくる。それを仕事机に載せ、一枚一枚丁寧に確認しながら、ロヴィーサはペンを走らせていた。締め切りはそれほど急かされていないが、この数ではのんびりもしていられない様子だった。一方のヒストリカは仕事机のすぐ正面にあるソファに座り、何やら思案していた。

「考えることなら山ほどあるが、アリサとウィルのことだ」

「ああ、あのお二人。今はもうヘルヴィニアに戻られたのでしたわね」

「そう。襲撃があってそんなにすぐ、何か学院が大げさなことをしでかすとは思わないが……また何かに巻き込まれていないか心配っちゃ心配だ。アリサはいろいろと巻き込まれやすい。呪われてるんじゃないか」

「呪いなんてまた、地方の伝承を信じているんですの?」

「いや、もちろん冗談だ」

「そうですか。まあでも、先日一人で落ち込まれていたのも、ヒストリカやウィルフレッドさんにお会いになって、復活したんじゃありません?」

「復活、か……わからない。抱きしめてあげて、抱きしめかえしてくれた。それをしてくれただけでも、まあ、ある程度は立ち直ったと言えるだろう。でも、アリサは…………アリサはそんなんじゃないんだ。『立ち直った程度じゃ立ち直れない』んだ。今のままでは、破滅しそうな気がしてならない」

 アリサは少し前よりも、確実に性格は柔らかくなった。学院に入って、きっと閉鎖的な修行時代よりも様々な世界を見たのだろう。あるいは、戦ったり、もしくは人と話をするようになって、外から壁が少しずつ退かれたのかもしれない。それはとてもよいことで、ヒストリカ自身も喜ばしく思った。だが、アリサが壁を壊されて笑うようになって――けれど、それは本当の笑顔なのか。笑っている間は確かに何かを嬉しく思っていても、すぐに何かが追いかけてくる。アリサはそんな生き方をしているのだ。何の屈託もなく、何の陰に立ち向かう必要もなく笑えるようになれたら、それが一番いいだろうに。

「怖いですか」

「怖いな。それを見越して、どうにかいろいろなものに踏みとどまってもらえるように、あいつには、もう一人じゃないんだぞってことをたくさん伝えたつもりだ。でも、それを学んだら、今度は別のところに悩み出して、不幸へ歩み出すだろうな」

「それは……でも、ウィルフレッドさんがいれば大丈夫なのでは?」

「それも問題だ」

「えっ、どうして? あっ、もしかしてあれですか」

 ロヴィーサはにっこりと笑った。

「そう、あれだ」

「ま、仕方ないことですわ。あのくらいの歳なら……ええっと、五年間も一緒に暮らしていたんでしたわね?」

「そう、普通なら気付いてなきゃおかしいが」

「つまりアリサは間違いなく――彼のことを好いていますのね」

「それも、かなり、な。自覚はないだろうが。ウィルがアリサのことをどう思っているかは知らないけどな。ただ、アリサはもうどっぷりだ」

 ヒストリカは額をおさえて、溜め息を吐く。

「アリサが自分の気持ちに気付いたら……そうだな、ずっと復讐のことしか考えてこなかったんだから、そこに、いきなり恋心とあれば、もう自分を見失いかねない」

「えっ、でもいいんじゃありません? だって、アリサはこのままだと、いろいろと不幸を背負いこんだり、破滅しかねないのでしょう。それを留めるために、あなたは彼女がいろいろな仲間に囲まれていることを伝えた。そこに恋が加われば、彼に執着して、危ないことにはならないですよ」

「そう思うだろう? だが、アリサはそうは考えない」

 ヒストリカとロヴィーサは視線を交えた。

「――アリサとウィルは、ハルカ・フレイザーが殺され、かつターナー・ライツヴィルが失踪したあの五年前の入学試験の日に、学院の門の前で出会った。アリサはいつまでも帰ってこない兄を、ウィルは帰ってこない父を迎えに……これがどういうことか、わかるか。そして、アリサならどう考えてしまうか、わかるか?」

「……っ」

 ロヴィーサは目を少しだけ見開き、それから切なそうに目を逸らした。

「そんな考え方…………悲しすぎますわ」

「だが、アリサならそう考えて、自分を追い込むだろう」

 ヒストリカはゆっくりと立ち上がって、窓際に寄った。城の中庭には豪勢な植込みが端正な形で敷かれ、鳥が飛び、穏やかで優しげな空気が満ち満ちていた。静かな光景。だが、ヒストリカは憂いながらそれを見つめ、静かに言葉を紡ぐ。

「つまり、アリサはこう考える。『私とウィルは、あの日にハルカとターナーさんが帰ってこなかったから出会った。つまり、私とウィルはあの事件があったからこそ出会うことができた。もし自分の恋が叶ってしまえば、それはあの事件のおかげになってしまう。ハイブリッドがハルカを殺したことを意味のあることにしてしまう』……」

「…………なぜ、アリサはそんな悲しい生き方を」

「わからない。抱きしめるだけなら何度でもしてやるさ。だが、それだけじゃ、アリサが沈んでいる深い闇から、ちょっとだけ浅いところまで引き上げるだけしかできない……だめだめな師匠だろう? どうしたって、私じゃ無理なんだ。アリサを本当に、その沈んだところから完全に外へ出してやるためには……どうすればいいんだろうな」






 ウィルはアーニィと別れてからそのまま移動し、マードレーへ向かった。クレイン先生とは先日、ヒストリカと共にアリサの件で学院を訪れた際、すでに話を聞いているため、今回の――つまり、最後の証言を聞く旅は彼で終わりになる。ウィルはいろいろあったなあと振り返りながら、マードレーの仮設学院寮に向かい、ヲレンを尋ねた。カルテジアスで会うはずだったが、襲撃の所為で結局今回が初めてになってしまった。ヲレンは顔をしかめる。

「君は?」

「僕はウィルフレッド・ライツヴィルといいます。ヲレンさんですね」

「そうだけど、何か用かな?」

 彼は訝しそうにする。

「少し時間、いいですか?」

「時間は掛かるのかい」

「いえ、それほどは……少しだけ質問に答えていただくだけです」

「この前もそんな風にして僕のところに人が来たけど、まさか君もか?」

「赤茶色の髪の女の子ですね?」

「そうそう、アリサっていったかな。じゃあ君もつまり、五年前の事件のこと……なんだね」

「そうです」

「わかったよ。散らかってるけど、入って。椅子くらいならあるさ」

 招き入れられて通された部屋は、本や紙が大量に散らばっている、お世辞にも整っているとは言えない部屋だった。机が一つだけあり、そこにはガリガリと勉強の最中だった跡が残っている。来客用の椅子のようなものは脇に寄せられていて、明らかに使われた形跡がない。ベッドの上も本だらけで、ウィルは呆気にとられた。

「すごいですね……ここはカルテジアスに入れないから作られた仮の寮のはずですけど」

「ま、あちらから持ってきたんだよ」

「勉強熱心、なのですか」

「確かにそうは言われる。ま、実際ここまでやってるんだから、まあ熱心なのかもね」

「それは……五年前の事件と何か関係が?」

「どうかな。勉強や研究は好きだけど、ここまでできるのはあの事件と関係があるから、と言えるかもしれない」

「どういうことですか?」

 ヲレンは歩き、本棚に置かれていた分厚い本を手に取った。それから、ばさりと開いて見せる。

「実はね、僕は学費も含めて、資金的なものを全て学院に免除されているんだ」

 彼は少し誇らしく言った。

「僕の家は……あまり裕福ではなくてね。親には苦労を掛けたんだ。あ、ごめん。これは関係ないね」

「いえ、話してください」

「そう? うん、まあつまり、僕の家はそれほど裕福ではなくて、学院に入るための予備校もかなり生活を切り詰めて通ったんだ。そして、学院に入った。学院に入ってからも、そうやって少ないお金でやっていくしかないかなと思ってたんだけど、あの事件が起きて」

「…………」

「クリスティン先生に言われたんだ。『この事件を公にしないことを約束してくれれば、学費や研究費、その他お金の掛かることは一切こちらが負担しましょう』って」

「それ、僕に話していいんですか?」

「おっと、これは失敗。そうだね、君が独自の調査で知ったことにしてくれればいいんじゃない」

「そう、ですね。それで、その援助を……受けたんですか」

「そりゃ、受けたよ。僕は試験ではそれほどずば抜けた成績じゃなかったけど、申し出を受け入れて、一応は特待生って名目になって、学費は免除だ。これで親の生活は随分楽になったし、僕だって自由に研究や勉強に励むことができるようになった」

「それで、たくさん勉強なさっているんですね」

「せっかくだからね。それに、僕は学院からそんな風に援助をもらっているからって、怠けたりなんかしないよ。僕は偉くなるんだ。それで、自分のお金だって胸を張れるようになるのさ。立派な研究者になってね」

 ウィルは少しだけ感心した。これでもし学院からの援助にへらへらと媚びへつらって怠け呆けているのなら話を聞く価値もないとさっさと出て行っていた。もちろん、それほどの援助には目が眩むこともあろうから、それが悪いこととは言わない。だが、アリサのことを考えると、あの事件で恩恵を被った上遊んでいる人間がいるというのは、それほど快いことではなかったからだ。

「もちろん、これはあの事件を肯定する意味じゃないけどね」

 あの事件は起こってしまった。

 だから、そこからまた生じることは必ずある。

 何かが起こったから、何かが起きるのだ。

 それは避けられないこと。

 あの事件が起きたから手に入った物を喜んではいけないなんて、それは停滞の気持ちでしかない。あの事件が起こって何かを得たり、何かに手を伸ばすことができるのは、前進だからだ。ウィルは考える。あの事件のことを想いを馳せて、囚われ続けるのは構わない。引きずるのも悪くない。それが死なら尚更だ。

 だが、その出来事が起こった以降に出会ったものや手に入れたものを否定することは、すなわちもう、全ての否定になってしまう。ここにいるのは、そしてここに生きているのは、確かにその過去を引き継いで生きている自分なのだから。何かの不幸の上に自分が立っていることは、何も悲しむことではない。それは真っ当なことなのだ。

 ウィルは息を吐く。

「そうですか」

「十二年前のことは聞きたい? あの子と、あとクイーンにも訊かれたけど」

「いえ、それはもう知っていますよ。アリサとクイーンがヲレンさんに質問なさったこと、あとその答えは、もう二人から全部聞いていますから」

「なんだ。じゃあ、今日は何を聞きに来たの」

「すでに、一つは解消しました。もう一つです」

「何?」

「お好きな人はいますか?」

「好きな人? なんだいその質問は」

「真面目に問うています」

「うーん、いないこともない。それって女の子ってこと? 困るんだよな……僕、そういうの疎いんだ」

「でも、いらっしゃるんですね」

「そうだね。ま、君ならいいだろう。っていうか、知らないんじゃないかな。隣の研究室で植物をやっている――」

「あ、やっぱりいいです」

「おいおい、なんだいそりゃ」

「関係なさそうなので……そうですね。じゃあ、もう一つ」

「はいはい」

「あなたは、ハイブリッドですか?」

 ヲレンは目を丸くした。それから瞬きをする。

 それから、肩を竦め。

 本を閉じる。

「違うよ。僕じゃない」

「そうですか。ありがとうございます。お話はこれで終わりです」

「これでいいの?」

「はい。そのうち、またお手紙を差し上げますので、どうかよろしくお願いします」

「そう。ま、君がいいならいいんだけどね」

「はい。これで、揃いました――――……」







 翌日の深夜に、部屋を誰かがノックした。

 青白い月明かりだけが、窓から差し込む、曖昧な空間だった。私とケイトリンの部屋なのに、今は、暗がりと青い光だけが同時に存在している。ベッドに倒れて天井を見つめても、眠れないまま、いつまでも時間だけが過ぎていく。そうして辿り着いたのは、こんな風に、ひどく冷たい夜だった。寒いわけではないけど、眠れない。

 それなのに、誰。

 何日も眠っていない。私は眠りたいのに、眠りを邪魔するのは。

 ベッドから起き上がり、ゆるやかに移動して、扉を開けた。

「アリサ、起きていたか」

 扉が開いて、彼の顔に光が当たる。

 やってきたのは、ウィルだった。

「ウィ、ウィル…………」

 私が自分で自覚できる程度に、一瞬呼吸が止まる。この数日間、私の眠りを邪魔し続けたのはウィルだ。ウィルだけが私の心と頭を、ずっと染め続けて、目を閉じても開いても離れないから眠れない。それなのに、今度は実際に現れて眠りを邪魔するの。反抗的になれるほど口は自由でも余裕でもない。名前を細やかに呼ぶだけで、一歩二歩と後ずさりさえしてしまった。

「もしかして、寝ていた?」

「そんなことは……ないわ」

「そうか。いや、さっきヘルヴィニアに戻ってきたんだ。それで、とにかくお前と話したいことがあって」

「私と、話したいこと……って……?」

 ウィルはいつもよりも澄んだ微笑みで、私を見た。

 でも、目を逸らしてしまうのは私だった。

「長話になるだろう。座って話そうか」

「そう……でも、ここには来客用の椅子なんて、ないわ」

「ふーん。ま、なんでもいいんだけど。アリサ、お前は自分のベッドに座れ。俺はお前の勉強机の椅子を借りる」

「あっ……そう、そうね……」

 言葉が用意できない。そもそも、ウィル相手に、そして誰かを相手に『言葉を選ぶ』必要なんてない。自然に会話をするのなら、その中で湧いて出た反応を勝手に言葉にすればよかったのだから。それなのに、今だけは、言葉が喉元で一瞬止まり、それを口から出すために一押しが必要になっている。顔も見れない。どうして。

 ウィルは私の勉強机の下にしまわれていた椅子を引き出して、部屋の真ん中よりケイトリンのベッド側あたりまで移動させた。私は自分のベッドの端っこに座ると、ウィルはその真正面の位置に椅子を置いて座った。少しだけ距離があるので、目線はウィルの方が少しだけ高かった。いつものこと、だけれど。

 私とウィルは、真正面に長く見つめあった。

 窓から差し込む月明かりだけが頼りだった。

 ウィルは真剣だった。

 私はこの瞬間まで、何か余裕を失っていたけれど。

 今、たった今、その瞳によって、緊張を取り戻した。

 何かが張りつめている。

 全て。

 空気も、何もかも。

 落ち着いているけれど、何か恐ろしいような。

 青白い空気。

 ウィルは口を開いた。

「これから俺が話すのは……五年前、あの試験場で起きたハルカ・フレイザー事件の真実だ」

「――――」

 体が勝手に立ち上がり、身を乗り出そうとした。

「――――ウィル、あなたはっ」

「落ち着け。気持ちはわかるが、座れ」

「…………」

 真実。

 その文字が、頭を穿つ。

 たった一度だけ立ち上がろうとしただけで、息が切れていた。

 ただ、無理やり自分を座らせる。

 呼吸が乱れる。

 猛烈な打撃が私の内側からせりあがってきたみたいだった。

 真実。

 あの時、何があって。

 どうして、ハルカが。

 ハルカ……。

「……わかった、の? 誰が、ハイブリッドで、誰がハルカを……殺したのか……?」

 ウィルは頷いた。

 胸が脈打つ。

 私は自分の胸元に手を当てた。

 誰が。

 誰が、どうして、どうして。

 どうして、殺して。

 どうして、殺されたのか。

 誰が。

 誰が殺したのか。

 わかったの。

 知らないうちに流れ出した汗が、そのまま目に入り込んで沁みても、目を閉じることはできないくらい、私の感覚は、自分の自由とはかけ離れている。渇望したもの。私をこんなところまで引き摺り出した全ての元凶の答えが、今、ウィルの中にあって、それが今、今から、私の耳に届くのだ。彼の口から、それが語られるのだ。それを考えると、今まで私の全てがそれに向かっていたのだから、何か浮遊感に帯びていくのも当たり前だった。

 それを、私は、求めていた。

「俺は親父から手紙で言われていたからな。親父の代わりに解決してみせろって」

「…………」

 手紙。

 私の復讐の始まり。

 あの手紙の結びは。

 ターナーさんの、ウィルへの伝言だった。

 そのために、ここまで。

 私もウィルも。

 ここまできたということなの。

「アリサ。俺はここに、事件を紐解く論理と解決を用意した。それを一番最初に話さなきゃいけないのは、アリサ、お前だと思ったからここに来た。全て推測の域を出ないことは間違いないが、それでも、考えられるだけの論理を構築して、打ち崩し、ようやくこれだと思う答えに辿り着いた」

 ウィルは微笑みを消していた。

 私はもう、呼吸さえ忘れていた。

「…………話して、ウィル」

 静かに。

 二人だけの空間。

 私たちだけの、言葉。

 でも、全部ウィルだけがくれる言葉。

 私は、彼だけを見ていた。

 彼も、私を見ている。

 穏やかなのに。

 でも、快くはない。

 ぞわりと、肌を撫でるのは。

 真実の予感。

 頭の中に、ハルカの姿が瞬き。

 そして。

「話そう。俺の推理を」

 

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