裁かれる花園②
降り立つと、何も見えない。
真っ暗だった。
私はいつもの要領で手のひらに炎を灯し、松明の代わりにした。
そこは、まるで洞窟のような場所だった。
何もない。ひたすら、何もない。
ごつごつした岩肌で出来た部屋。
コの字をしたような部屋はその壁面を全て岩肌が覆っており、西側の開かれた方向は頑丈な鉄格子が塞いでいた。鉄格子の真ん中に出入り口のような格子戸はあるが、鍵が掛かっているようだった。外側は、こちらの部屋のような、至るところが岩でできたようなものとは違い、硬質な床でできていて、右の方へと廊下が伸びていた。外には一つだけ燭台があったようだが今は消えている。ウィルは私の横でしゃがみ、あまりにも不安定な岩による床を撫でていた。
「指が汚れる」
「泥でもつくの? 酷い場所だわ。こんなところにメリアとハヴェンが閉じ込められていたのかしら」
「だろうな。学院は彼女たちのことを人間とは考えていなかったんだろう」
「最低……」
唇を噛み締めて、私はゆっくりと格子戸へ近づいた。鍵が掛かっている。鎖が巻かれて、もし鍵が破壊されてもそれほど簡単には逃げ出せないような作りになっていた。私は松明代わりにした方とは逆の手で鎖を掴み、炎で焼き切った。鎖は燃え尽きて落下する音すらしなかった。格子戸はそれによって支えが外れたようにゆらゆらと震えた。
「この壁」
「何?」
ウィルが壁側に手を触れた。確かに岩肌だったが、壁面は平らで、そこに何か四角い跡が残っている。
「何か四角形のものが壁に貼られていて、そこだけ色が変わっているな」
「……これが、そのカレンダーだってこと?」
「わからないけど、まあ可能性はなくはないな」
少しだけそこを見つめてから、私たちは牢から外へ出た。
格子戸から出て、右の方向へ廊下が伸びている。それはしばらく続き、その左右には先ほど私たちが降り立ったような格子に遮られた牢がいくつも置かれていた。ゆっくりと歩きながら中を一つ一つ確認するが、誰もいなかった。当然だ。ここが『エンブリヲ』が収容されていた地下牢だというのなら、メリアとハヴェン以外は皆、無念の死を遂げたのだ。そして、その二人が脱出することによって、ここはもぬけの殻になった。もう誰もいない。
廊下を突きあたりまで進み、ひとつ扉がある。
そこを出ると、左右に廊下が伸びていた。暗かった。
「もう使われていない、のか?」
「当然でしょう。もう、ハイブリッドの研究は終わったはずだから」
「どうだろう。王様と王妃様の話だと、メリアとハヴェンはパーシヴァルに再び捕えられたはずだ。ここにもう一度収容してもおかしくはないと思うんだが」
「それは……そうだけど」
確かに、学院は先のカルテジアス襲撃でメリアとハヴェンを連れ去ってしまった。一度自分たちが施設で研究していた人材が逃走した、そしてそれを再び捕えた。だとしたら、もう一度ここに連れてきてもおかしくはない。ウィルはそこを指摘しているのだ。もう一度連れてきたとしたら、こんなにも人の気配がないのが気がかりだと――。
最初に見つけた部屋に入ると、そこは拘束具が部屋の中央に置かれた部屋だった。天井から吊り上げられているのは、首に黒い輪を撒く機械。それを中央に、四方には何かの台が置かれていた。
「これは……」
「『射撃台』だわ」
私は台の一つに触れた。
「『エンブリヲ』を中央の首輪で吊るして、四方から魔法を撃ち放った。この台は『腕を置くため』のもの。きっと長時間魔法を撃ち続けると、撃っている側の腕を水平に保つのが疲れるから……それくらい、台を使って魔法を撃つくらい、過酷なものだった……そういうことなのかしら……」
ウィルは部屋の隅にあった机に気付くと、すぐに近づき、物色を始めた。引き出しがあり、勢いよく開けるが、中には何も入っていなかった。
「もう何もないんじゃない?」
「なんで何もないんだろう」
「どうして?」
「だって、メリアとハヴェンが逃げ出したのは数か月前じゃないか」
「そうよ。だから、もうここは必要ない。資料や調査に使ったものは置いておく理由がないでしょう」
「いや、こんなにすっからかんに持ち出すか? 数か月前なのに。まるで『誰かが盗み見るのを防ぐため』みたいじゃないか」
「……私たちのような誰かが侵入することを予測していた、というの?」
「わからない。考えすぎかな、俺。アリサ、探索を続けよう」
■
しばらく廊下を進み、見つけた部屋に入り、探索を繰り返した。
しかし、部屋のそれぞれは基本的には誰かを拷問する部屋で、その度に学院に対する怒りが静かに高まっていった。これが実験のわけがない。完全に、拷問。死んでしまうのも無理はない器具もあった。ところどころに強力な魔法の痕があり、それほどの出力で子どもを苛め抜いたとする証拠があると、握りこぶしにした爪が手のひらに突き刺さってしまいそうだった。
片側が黒々しく変色し、焦げたにおいのする、燃え尽きているような部屋。大きな水槽があって、天井から蓋をするような機械がある部屋。電魔法が流れやすい椅子のある部屋。大きな穴が壁を抉っている部屋。血塗れの部屋。床には血が飛び散って色が落ちていない部屋。吐瀉物の跡もあった。ひたすら、とにかくここで苦しみ続けた結果だけが全ての部屋に存在した。
「…………」
「胸糞悪いな」
「そんな……そんな生易しいものじゃ、ないわ」
最後の部屋で、私は思わず言葉にしていた。部屋の端にあった燭台に炎を灯して、部屋を明るくしている。私の手のひらは今、炎を灯してはいない。けれどその代わり、力強く、握り続けている。
どうにかなってしまいそうだった。
私は、たくさん努力をしてきた。ハイブリッドを殺すために。血も吐いたし怪我もたくさんした。けれど――けれど、それは師匠の見ているところで、だった。どれだけ傷ついても、私には師匠がいて、どれだけ苦しい思いをしても、師匠の指示があった。彼女が教えられる極めて過酷な修行を続けて、今、私は力を手に入れた。でも、やっぱりそれは『修行』なのだ。苦しくても辛くても、でも、それは自分の力になるもので、それを信じていたからここまでこれた。
けれど、彼女たちは。
私と同じように何かを憎みながらも、その苦しみが自分のためになることはなかった。抵抗できたはずがない。これほど傷つけられて、苦しめられて。私には睡眠があり食事があった。彼女たちには、何もない。ただ嬲られ続けただけだ。メリアとハヴェンには話を聞いていたけど、実際にその痕跡に立ち会えば、こんなにも胸が張り裂ける想いだなんて。
「理不尽って言うのよ」
「……」
「何もかも、ハイブリッドが悪いんだわ。ハイブリッドなんて存在がいるから、私は、ハルカを失った。そして『エンブリヲ』の子どもたちも、何のいわれもなく苦しめられた。こんなの、おかしい。許せないわ」
「……そう。ああ、そうだな。おかしい」
ウィルはそんな調子で答えながら、部屋の隅にあった机を物色していた。
「ウィル?」
彼は手を顎に添えて、何かを思いついた顔をしていた。もう片方の手には、何か一枚の紙切れを持っている。
「何か見つけたの?」
「――――写真だ」
■
写真は、『エンブリヲ』が横並びに整列した写真だった。彼らの背中側の壁には身長を示したものか、黒い線が一定の間隔で引かれていて、彼らの身長がよく見えた。身長はまばらで、背の高い男の子もいれば、小さな子もいる。だが、皆誰もが幼い雰囲気を至るところから醸し出している。左から六番目にいるのは……メリアだ。少し前に見かけた彼女よりずっと髪が短い。そして、彼女の腕に縋り付いているのが、ハヴェンだ。同じく髪は現在よりもずっと短い。
二人とも、こんなにも、不安げな瞳をしている。
現在の二人の瞳を思い出す。
擦れた、真っ黒で、濁った水のような眼差し。
この写真に写っている頃の二人は――いや、二人だけじゃない。この『エンブリヲ』全員が、まだ人間らしい目をしている。連れて来られて写真を撮られているのだから、不安そうな瞳をしているけれど。でも、やっぱりどこかまだ光がある。でも、現在の二人を見れば――どれだけ、いろいろなものをすり減らしたのかが見え透いてしまう。
あなたたちは、無意味に死んでしまった。
だから私が、あなたたちを殺した学院を、潰すわ。
写真の眼差しがこちらへ向いている。
そこへ、心の中で語りかけるしかなかった。
「ここが最後の部屋、だったわね。ウィル、帰りましょう」
私と一緒に写真を掴んで覗き込んでいたウィルに囁く。
だが。
ウィルは写真を見つめて、硬直していた。
「ウィル」
「――――――」
「ウィル……?」
「『カレンダー』……『四年前』……『エンブリヲ』……『ハイブリッド』……」
「どうしたの」
「そういうこと――そういう、ことなのか――……まだ、いや……」
「ウィル!」
私は彼の肩を揺さぶった。
彼は私に気付くと、長くこちらを見つめた。
燭台の炎が揺れる。
少しだけ彼と距離が開き、私と一対一で向き合い。
視線が重なった。
「何か……何か気付いたの?」
「いや、まだだな……」
ウィルは私から、視線を逸らす。
「なんで、こっちを見てくれないの?」
「いや、恥ずかしいだろ?」
「真面目に答えて」
「まだ話すことはない、かな」
「嘘だわ。ウィル、私に何か隠している。さっき、絶対に何かに気付いたでしょう」
「気付いていたら、なんだっていうんだ?」
「どうして、話してくれないの?」
「まだそういう状態じゃないからかな、まとまったら話すよ」
「それ、列車の中でも言ったわ。その時は、ちょっとだけ話してくれたでしょう。今は、駄目なの?」
「あの時よりもまとまってない」
「そのまとまっていない状態でもいいから、教えてほしいの」
「断る」
「どうして――――」
今、確実にウィルを困らせている。
迷惑をかけている。
彼の顔は、部屋の燭台で肌も赤い。陰りもあった。
でも、私に目を合わせてくれない。
なぜかそれが、途轍もなく私を傷つけていた。
目も合わせてくれない、私に考えていることを話してくれない。なぜなのかもわからない。
ウィルは私の傍にずっといてくれたけど、私、ウィルのことが何もわからない。
彼の考えていることを追うことができない。
今も、どうして教えてくれないのかわからない。
それとも、私は、ウィルならば私から目を逸らさないのだと思っていたのだろうか。ずっと、私と向き合ってくれていると。彼の考えていることを常に私に教えてくれて、私といろいろなものを共有いてくれているはずだって。そんな風に、思っていたんだろうか。――疑問、じゃない。思っていた。ウィルは、私とすれ違うことなどないって。
少し前は、こんな風な気持ちにはならなかったのに。
どうして、今になって、こんなにも変なんだろう。
私の世界が、狭すぎた、から?
違う。
私、勘違いしていた。
ウィルは私の傍にいてくれたけど、私はウィルの傍にいなかったのだ。
あの時の私は、ウィルのことを考えていた?
考えて、ない。
復讐復讐復讐。修行修行修行。ハルカハルカハルカ――。
私は、ウィルと対等じゃない。
だから、何も共有できない。
そうする理由が、ない。
「……帰ろう、アリサ。付き合ってもらって悪かったな」
ウィルは一度だけこちらを見て、優しく微笑む。
「安心しろ、そのうち話すことは話す。それまで少しだけ待っててくれってことだ」
■
私とウィルは地上へ戻った。
けれどウィルは、用事があると言って、一人でリーグヴェンへと去ってしまった。私は当然一緒に行くつもりだったのに、ウィルは連れて行ってくれなかった。自分一人で行く必要がある。そう言って、勝手に行ってしまった。――勝手に。強引についていこうとも思ったけど、そうするには、自分の心が揺れ過ぎていた。最近、こんなことばっかりだ。駅で彼を見送って、一人で歩いて寮へ向かう。一人、ひとり……独り。いつも隣にはウィルがいて、カルテジアス襲撃の少し前から私が勝手に暴走して、もう一度ウィルに会った時、とても懐かしかった。あの感覚が、取り戻せないなんて。
「…………ウィル」
胸が、苦しい。
■
その日は一日、寮の部屋に戻った。ここに来るのも随分と久しぶりな気がした。反対側のベッドにケイトリンはいない。彼女はまだマードレーの病院で休養を取っている。少し様子見だ。講義に出席できるようになるにはそれほど時間は掛からないだろう。彼女はベッドで休養、反対に私はこんな風に自由だ。私は講義なんてどうでもいいけど、彼女はどうでもよくないのだから、早く良くなってほしい。誰もいない部屋に一人でいるのは落ち着かなかった。
私は一度シャワーを浴びて、まだ夕方だったがベッドで眠ることにした。いつまでに起きればいいということを考えないことにする。考えてみれば、とても久しぶりにきちんとした場所で眠ることができるような気がする。逃げたり戦ったりで、知らない場所でどうにか眠るだけだったのだ。ここが、私にとってきちんとした場所であると言えるようになったのも、変化ではあるかもしれないけど。
けれど。
以前――――私が眠っていた場所は、どこだったのだろう。
ウィルの家。
その前は……。
もちろん、私の家だ。
私の家。
ハルカの、そして私の父と母――私たち家族が暮らしていた家。
いったい、今、どのような形をしているのだろう。私はあの場所で十年間育ち、そして今に至る五年間、一度も帰ることはなかった。帰ってハルカの顔を思い出すことは、確実に私を苦しめ、息をさせないように働きかけるからだ。彼の顔を思い出すだけで、毎日が辛かった。ハルカがいない、ハルカが戻ってこない、ハルカが何かに命を奪われ、焼き尽くされた。その事実を一番突きつけられる場所が、私の家だった。師匠の下で修行をした五年間は本当に帰ることはしなかった。
「――――――――」
私は成長できたのだろうか。
力は手に入れたけど。
以前よりずっと、核心に近いところにいるのかもしれないけど。
余計なものに塗れすぎていないか。
余計なもの。
そんなものはない。
全部、大事だと思う。
余計だなんてことはない。
でも、いったい自分がどれくらいの場所にいるのかわからない。
始まった場所。
終わりの場所。
自分はその狭間の、どれくらいの位置にいるのだろう。
少しでも終わりの場所に近いのなら、それが一番いい。動き続けていることが証明できるし、もし私のしてきたことが何の意味もないと知ったら、とても恐ろしいし、挫けてしまいそうだから。でも、本当に終わりに向かうことができているんだろうか。ウィルは何に気付いたのだろう。私たちの場所。彼がもし話をしてくれて、それが、私が始まりと終わりのどちらに近い場所にいるのか、示してくれるのかもしれない。でも、まだ話はしてくれないという。
でも、私は、前より変わることができたと信じたい。
ウィルとのことは、不安だけれど。
変わることができた。
でも、変わったって何も終わらないなら、意味がないのだ。
部屋の灯りは消したままだと、瞼の薄い感覚は部屋の薄暗さに呼応する。
幼い決意だけを憶えたまま、長く眠った。
■
ウィルはリーグヴェンに赴いた。今回は都外研修の申請も出していないため、完全に無断である。ヘルヴィニアの本学の講義も完全に欠席するつもりだった。そんなことをしている場合ではない。それに、ウィルの中には予感があった。それほど時を経ずしても、まず間違いなく講義どころではない事態になる。何かが始まる次期が確定的、というわけではないが、早いなら早いに越したことはない。『それ』を掴み取る段階が早ければ早いほど、こちらとしては手が打ちやすい。
夕方の演習の最中だった。何食わぬ顔で学院支部の建物に入ると、おそらくは演習の無い学院生だと思ってくれるだろう。ウィルは堂々と正面から入り、寮の方へと向かった。それから探していた相手の部屋のドアをノックする。
「すみません」
声をかけると、中から人が出てくる。
ヘイガーだった。
「なんだ、お前か。何をしているんだ、こんなところで」
「お久しぶりです。あの、今、お時間は大丈夫ですか?」
「どうした、改まって。俺は構わんが。演習はもう今日はない」
「そうですか。アーニィさんは?」
「あいつは今、リーグヴェンにはいないぞ」
「えっ、どうしてですか」
「カルテジアスでまた騒動があっただろう。あちらに親戚がいたそうでな。その親戚のいるマードレーに行っているようだ」
「そうですか……マードレーに……」
しかし、それほど不都合ではなかった。どちらにしろ、別々に話を聞く予定だったのだ。今はヘイガーだけに話を聞くことにしよう。もちろん、話をするといってもたった一つ、たった一つだけ質問に答えてもらうだけなのだが。ウィルはヘイガーの部屋の中を見て、誰もいないことを自分で確認する。
「今、おひとりですか?」
「一人だが」
「その方が話しやすいので、それはよかったです」
ウィルは部屋に通され、いつかのようにテーブルを挟んで向かい合うような形で椅子に座った。お茶を出され、ウィルはしばらく何も言わなかった。カップから湯気が立ち、部屋は静けさで満たされている。
「それで――なんだ?」
「僕がお尋ねしたいことは、たった一つです。正直に答えてほしいんですが」
「その様子だと切羽詰っているようだな。構わん。なんでも聞いていいぞ」
「ありがとうございます――では……」
ウィルはカップを手に取った。
「ヘイガーさん、あなたはアーニィさんのことが好きですか?」




