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孤独な鳥がうたうとき③

「ケイトリン――ッ!」

 すぐに彼女に駆け寄って、倒れる体を抱き留め、受け止めた。

 血、だ。

「待ちなさい!」

 ケイトリンを刺した何者かは、まるでやることはやったとでも言うように、ゆらりと廊下の奥へと逃げていく。それを視線で追いながらも、今自分が受け止めているケイトリンが苦しそうに息をするのを、抱きしめる指と全身で感じていた。最初は何も言えなかったのに、少しずつ苦しそうになる声、少しだけ漏れる声。

「ケイトリン……大丈夫、ケイトリン……」

「っ……ごめんね、また、迷惑……」

「喋らないでっ……」

 どうすればいいの。

 彼女が刺されたのは、お腹だった。危ないところを一撃というわけではない。だけど、明らかに刃が貫いていた。血が止めどなく溢れている。力が抜けてきているのか、ケイトリンの体が重く感じる。それなのに。

「どうして笑っているのよ……馬鹿じゃないの……馬鹿……」

「ごめん……アリサちゃん……」

 どうして謝るの。

 ずっと考えていたのは私の方だ。私が突き放したんだ。ケイトリンのことを考えて、だなんて自分勝手で。でもそれが一番正しいと思ったから。彼女を守るためには、私から距離を置かなければ。だからここまで離れたのに、結局、ケイトリンにあんなことをしてしまったことばかり引きずって。そして出会ってしまったことばかり後を引いて。結果が、これ……? 苦しませている。悲しませている。泣かせている。なのに、笑っている。

 そして、私も同じくらい、悲しんでいる。

 胸が痛くて、言葉が出ない。

「ごめんね…………」

 ケイトリンは意識を失った。

 私はそのまま、長く、けれど短く、ケイトリンの閉じられた瞼を見ていた。

 嫌、こんなの。

 一度気付いていたのに。ケイトリンが泣いて、私から離れた。あの時、途轍もなく嫌な気持ちで、いろいろなことが朦朧としていたけど、でも失ったら、痛かったから、ケイトリンは大事な人になっていたんだって気付いていたのに。今度は、また失わせてしまう。私のところへ来てくれたのに。笑って、いるのに。笑ってくれていたのに。

「…………死なせない」

 自分で一度、終わらせようとした関係だけど。

 ケイトリン、あなたは死んではならない。あなたのことなんか、大嫌いだわ。なぜここまで追ってきたの。こんなになることくらい予想がつくでしょう。私のやりたいことも、巻き込まれていることも知っていたでしょう。なのに、なぜ追ってきたの。あなたがこんなになるから、私は同じくらい傷ついて。こんな風に、出会ったこともないような気持ちで、心の中をひたすら揺さぶられるの。でも、そうならない未来もあったの。あなたは無関係。完全に、関係がない。だから、本当は私が謝らなければならないの。あなたをここに来させてしまったこと、傷つけたこと、悲しませたことを……。こんなことで、あなたの笑顔が失われるなんて、許されてはいけない。それは全部、私が導いてしまったことだ。だから。

「死なせないわ」

 私はケイトリンを担ぐと、廊下を全力で駆けた。

 あなたは、無関係だわ。

 けれどそれよりずっとずっと、私と関係のある誰かになろうとしてくれた。無関係のままでい続けないで、私の友達であろうとしてくれた。そんなことがこんなにも私を揺らがすなんて思わなかった。そんな素直で優しい気持ちを、私なんかと手を繋ごうとしてくれた気持ちを、こんな結果で終わらせてなるものか。

 熱など忘れろ。

 クイーンの言葉など忘れろ。

 やっぱり、眠っているだけで守れるものなど何もない。

 私の所為だ。

 私がなんとかしなければいけない!

 ケイトリンが、どうしてこんな風に、苦しまなきゃいけないの。

 寮を飛び出し、建物の入り口で辺りを見回した。逃げる人々、そして空で戦う学院生。夜の闇、見えにくい視界に、時折街灯だけが道しるべの様に輝く。道に広がった粘土細工が戦いの証だが、今でも雨のように降り注ぐばかりで、戦いは一向に収束していなかった。左の街道の方へ視線を向けると、先ほどケイトリンを突き刺した謎の人物が逃げていく背中が見えた。しかし、私はそれよりも真っ先に声を上げる。

「誰か! 誰か、治癒の魔導士の方は、いらっしゃいませんか!」

 ケイトリンを背中におぶさっていると、彼女の腹部の血が、私の背中に沁みてきている。彼女の口元が私の首の辺りにあって、意識を失っても、静かに、しかし苦しそうに息をしているのが伝わる。まだ、息はある。治癒の力があるならケイトリンは必ず治る。そうじゃなかったら、私は私を許せない。こんな風にさせた自分を、絶対許さない。

「アリサ!」

 馴染みのある、しかし久しぶりの声が響いた。声のある方向から、やってくる二人。

「師匠――!」

 ヒストリカ師匠だった。

「やっと会えたか……まったく」

「よかったっ……あの、今は私よりも」

「そうだな。クレイドールだ」

「それもですが、彼女――あの、怪我をしていて」

 私は経緯を説明する。背中におぶさったケイトリンが苦しそうに額に汗を浮かべるのを、そして時折辛そうに息を漏らすのを耳元で感じていた。師匠は目を丸くし、それから複雑な表情をする。

「ケイトリンが、刺された? その、謎の人間にか」

「はい」

「そうか……ヘルヴィス」

「うん」

 師匠の横にいたのは、見知らぬ男だった。師匠と一緒にいるということは知り合いか。私たちはケイトリンを建物の陰に寝かせると、男――ヘルヴィスはケイトリンの腹部に手をかざした。ふわりと柔らかな光が傷口を照らす。

 でも、ヘルヴィス?

「まさか、ヘルヴィニア王様ですか?」

「ああ。アリサ君、初めましてだね」

 顔は知らなかったけれど、名前だけは知っていた。彼の妻であるロヴィーサ王妃に先ほどまで会っていて、名前だって教えてもらっていたからだ。でも、顔を知らなかった。私はそんなこと、全然どうでもいい世界で生きてきたから。

「……クイーンを追ってこられたんですね」

「そう。勝手に行動されて困ったよ。それで、ロヴィーサはどこに?」

「クレイドールを殲滅に行かれました」

「そうか。まあ、そうだろうな……」

 ヘルヴィス王は、ケイトリンの傷は深く貫通してはいるが、大事な内臓や器官はあまり傷ついておらず、治癒で完治すると私たちに告げた。私は自分の胸を押さえて、息を吐く。安心した。ケイトリンの苦しそうな顔が、少しずつ安らいで、だんだん普通の眠りのような表情になっていく度に、それが喜ばしくて、何度も瞬きをして、いろいろな想いに駆られた。何かが詰まっていて、気持ちの悪い、黒々しい気持ちで今まで縛られていたのが、ゆっくりと解けていくような。

「よかった……本当に……」

 自然に、そう漏らしていた。

 師匠は傍で、柔らかく微笑む。

「変わったな、アリサ」

「師匠?」

「友達は、どうだ?」

「……正直、こんなにも難しいだなんて、思いませんでした。師匠。どうしてケイトリンは、私のところへ来たんですか。あんなに冷たくしたのに。私なんか嫌いだって思って欲しかったのに」

「それは本人に聞くといい」

 師匠は私の頭を、ぽんぽんと優しく叩き、いつも通りの様子で答えた。

「何より、これはお前とケイトリンで交わすべき言葉だから」

「……はい」

 ごめんなさい。

 どうしてここまで来てくれたか、わからないけど。あなたが危険だと知っていて、私のところに来てくれたのはわかる。それは、どんな理由があったとしても、私に会いに来たってことだから。そんな途轍もなく曖昧でも、私を想ってくれたのなら、私はいろいろなものを返さなきゃいけない。謝らなきゃいけない。笑ってもらわなきゃ。

「師匠、王様、ケイトリンをお願いします」

「どこへ行くんだ?」

「ケイトリンを刺した人を追います」

「……顔は見たのか?」

「わかりません。フードを深くかぶっていて、顔は見えませんでした。私――あの、私、もしこれ以上事件に関わったら、親しい人を殺すって、クリスティンに言われていたんです。だから、その所為でケイトリンが……こんなことになってしまったのかもしれません。そのフードの人は、学院の人間だと思います」

「やっぱりか」

「だからこそ――私はその人を、追います」

 私はケイトリンの顔を見つめ、それからその場を離れるように駆け出そうとする。しかし、腕を掴まれる。それから引っ張られて、私は師匠の胸に抱きしめられていた。それから少しだけ、ほんの少しだけ背中に回した手のひらに力を込めて、私の体がここにあることを確かめるようにした。

「あの、師匠」

「嫌か?」

「そういうことでは……」

「なに。久しぶりにお前がいることを実感したかっただけだ」

「……師匠」

 私も同じように師匠を抱きしめる。

「ご心配をおかけしました」

 温かな匂いに包まれて、なんとなく昔の気持ちに戻れた。私はこの人の元で、長く強さを求めた。そして今、彼女からたくさんのものを受け継いだ。たったそれだけのことだけど、でも、やっぱりたったそれだけじゃない。師匠も、私を構成している世界の一部だ。師匠が私を心配してくれて、こんな風に抱き寄せてくれたことは嬉しく思えた。

 それから体を離して、師匠は静かに微笑む。

「お前は、大事な人を失うことが怖いから、逃げたんだ。気持ちはわかる。学院ならやりかねない。でも、忘れるなよ。同じように、お前が失われていくのを怖いと思っている誰かもいるんだ」

 私は世間知らずだ。

 何も、一人で生きていて、ハイブリッドを殺して、それで終わりというわけじゃない。それでいいと思っていた。それだけが私の世界だ。奴に炎を撃ちこみ、焦がし尽くしてやれればいいと。でも、そのためにここまで多くの時間を費やして、それに同じように時間をくれた人たちがいる。私のために、私の傍に。それは復讐が終われば終わってしまうものじゃないのだ。私が例えいなくなっても、ケイトリンや師匠や、そしてウィルは生きていくのだ。そして私がいなくなったら、悲しませてしまうのだ。それは、とても嫌なことだ。ケイトリンがここまで来てくれて、師匠も、ウィルもここまで来てくれた。私が勝手にいなくなったから。そして悲しませたことが、私自身も傷ついた。だったら、何かを成し遂げてもいなくなってはいけないのだ。

 私も気恥ずかしい気持ちはあったけれど、師匠の顔が見れて落ち着いた。

「……ありがとうございます」

「追うのはいい。だが、深追いはやめろ。体を労われ。もうお前は一人で生きているわけじゃないんだぞ」

「わかりました」

「よし、いけ」

 師匠の言葉をきっかけにして、私は王様に一礼すると、ケイトリンの顔をもう一度見て、駆け出した。







「素晴らしい師弟関係だ」

「そうだろう?」

「そもそも、よく弟子を取ろうと思ったね。君の性格なら取らないと思ったんだけど」

 ヘルヴィスはケイトリンの治療に当たりながら言った。ヒストリカは建物の壁に背中を預ける。そして、過去を想起する。魔力を失い、怪我で剣を失った。残されたのは体一つで、もうやることもない。簡単に退役した。お金だけは有り余るほどあったから、もう隠居してしまえと森に家を建て、本を読んで暮らしていた。そして五年前、アリサがやってきたのだ。

「まあ、あれを軽くいなせることはできないだろうな」

 鬼気迫る瞳だった。もう誰かを殺してしまう寸前のような狂気を感じた。

『あなた、とても強いんでしょう。その全てを、私に教えてください』

『なぜだ?』

『殺したい人がいるんです』

 その相手がまさか『ハイブリッド』だったとは驚きだった。因縁とも言える。だが宿命とも言える。これはもう繰り返される歴史が証明し、これからも証明され続ける。そのハイブリッドに肉親を殺されたとヒストリカに報告したアリサ。復讐のためになら全てを投げ打つ覚悟だけがその生を動かしていた。

「最初はひどいものだった」

「それを変えたのは君だろ?」

「変えた? どうかな。変わってくれてたらいいんだが、私はただ技術を叩き込んだだけだ。私から見てどうとは言えないだろう。それでも、向こうが私を大事に思ってくれてたのなら嬉しいし、そうなるために必要だったのは、ウィルやケイトリンだろう」

「わからないよ。アリサ君にとっても、君は十分に大きな存在だと思うけど」

「……そうか。それならいい」

 逆だ。

 ただの弟子だが、もう随分放っておけない存在になってしまった。

 ヒストリカはアリサが駆けていった方向を見つめる。

 クレイドールが荒れ狂う夜。

 戦いの轟音。

「ただ、あんな子に人を殺させていいのか。それだけはとても悩ましいがな」







「俺が、学院側の人間?」

「そうだ」

「誰から聞いたんだ、そんなこと」

「さっきも言ったろう。治癒師の男さ」

 誰だ。

 いや、誰でもいい。

 いったいなぜそんなでたらめを? つまり、そのように言うことでハヴェンは俺を敵とみなすから、それを狙ったということか? ウィルは考える。なぜそんなことを言う必要がある? 学院は俺をどうしたいのだ? その治癒師の男は俺をどのように操作したいのだ? 状況をわざわざ混乱させるということなのか。俺が実は学院側の人間であるとすれば、確かに自分たち一行の行動とは真逆の扱いになるのだろう。自分やアリサは学院を潰すつもりである。その学院側だとすれば、その構図が崩れる。そうした混乱を狙ったのか……? それにしては、あまりにも唐突過ぎる。

「そんなでたらめをなぜ信じる? 俺は学院を潰すつもりだ。パーシヴァルだって殺してもいいんだぞ」

「信じてるわけじゃねえよ。あの治癒師の男は、どうにもいろいろと見透かしているようだからな」

「そいつは誰だ?」

「何も知らねえよ。だが、いい人なんじゃねえの? メリアを治してくれたからな。そんときに教えてもらったのさ」

「そうか。だが言っておくと、俺は学院の人間じゃない。お前の攻撃は無意味だ。本来なら、俺とお前はどちらもパーシヴァルを狙う側にいる。アリサとお前たちは一度手を組んだろう。それと同じだ」

「結局裏切ったじゃねえか、あいつ」

「それもそうだが、あれはやむを得ないんじゃないのか。実際にアリサはクレイドールを生み出したわけじゃないんだろう」

「そういう問題じゃねえ」

「アリサはあの瞬間、罠に嵌められていた。クリスティン先生の罠だ。それを逃れるために、確かにお前たちを裏切ったと取れる発言をしたかもしれない。だけど、アリサは裏切らない。そんな奴じゃない。お前たちのことを真剣に考えていたはずだ」

「どうだかな」

 どうにも、いろいろと目を逸らそうとしているのか、何も信じようとはしない少年だ。過去に一体何があったのだろう。その顔は、アリサに話されている。アリサはそれを受け止めたから、ハヴェンとメリアに協力をしようとしたのだろう。そうなると、やはりハイブリッドのことか。あるいはパーシヴァル。だが、このひねくれ方は尋常じゃない。いろいろと推し量ることはできるが、早くアリサに話を聴いた方がいい。ウィルは剣を構えた。

「俺はアリサに会いに来た。お前のせいで、また少しだけアリサに会うのが遅くなった。それはあんまり喜ばしいことじゃないんでね。クレイドールも殲滅しなきゃいけない。勝負だ」







 ある程度走り出してから、足元に魔法を撃って空高く浮遊した。時折目の前に飛んでいるクレイドールを剣で裂き、そして時折戦っている学院生たちの波の中をくぐり抜け、屋根と屋根を移動しながら空中を飛ぶ。先ほどフードの人間が逃げた方向へと駆ける。どこにいる? 恐らくその人は学院側の人間で、クリスティンの指示を受けた直属の刺客だ。私の身の回りの人間を殺す。それを実行しようとした。それに――それを抜きにしても、奴はケイトリンを刺した。それだけで、攻撃するには十分な理由だ。

 忘れていたのは、やり返す気持ちだ。そして、守る気持ちだ。

 なぜ一方的に負ける必要がある? ケイトリンやウィルのような誰かが殺される危険はあった。でも、手を出してくるのなら、その瞬間を差し押さえて、相手を撃ち返すことだってできた。それこそ、私がハルカを失って、ハイブリッドを殺そうとしているのと同じように。両親が殺されたことを知って、動揺したのか? ケイトリンのような存在が私の世界に現れて動揺したのか? それもある……だけど、そうして動揺したから、ケイトリンが刺された。

 やられたのならやり返すし、やられるのがわかっているなら、守らなくてはならない。大切なものを守るのなら、こちらが守り続けるだけでは駄目だ。私は何のためにここまで力を付けた。ハイブリッドを殺すためだ。でも、その殺すまでの途中で何か大切なものが再び奪われていくのなら、それを見過ごす道理なんてない。同じように、返り討ちにするべきだ。守るために戦わなくてはいけない。それが今までとは全然違う力の使い方でも、許されないわけじゃない。守ることで、結局はあちらに対抗できる。ハイブリッドは必ず殺す。邪魔をする人も倒す。同時に、誰かを守る。できないことじゃない。

 ある程度駆け抜けた時、浮遊中に、左側から小さな体の人間がこちらに背中を向けたまま飛んできた。向こう側からこちらへ向かって後ろ向きに飛んできたのだ。それが何かを避けながら後ろへ浮遊しているのだと知った時――そして、それが見覚えのある人間だと知り、私は浮遊を辞めて近くの屋根に降り、その誰かの顔を確認した。

「ハヴェン――――」

 私の声にハヴェンが気付くと、舌打ちして同じ屋根に降り、不敵に笑った。

「お出ましかよ。悠長にふらふらしやがって」

「なぜあなたがここにいるの――いえ、このクレイドールはまたあなたたちの仕業ね」

「仕業とか言うなよ。別にいいじゃねえか、カルテジアスは叩き潰した方がいい」

「何を言って――」

 その時、同じように別の角度から誰かがやってくる。

「アリサ」

 ふっとそちらを見て、その誰かの顔を見る。夜の中、屋根の高い位置だからこそ見えにくい顔が、時折頭上のずっと高いところで炸裂する誰かの炎魔法が、そして弱くても下側で光を放っている街灯が、顔を不安定に私の瞳に映す。けれど、近くに来るととてもよく見えた。

「ウィル…………」

「久しぶりだな、アリサ」

 とても、とても懐かしい。

 師匠の顔や声も、とても懐かしかった。時間的なことを言えば、一番長く会っていない相手が師匠だったからだ。でも、ウィルの声や眼差しは、それよりもずっと懐かしく思えた。長い間、ウィルの顔をじっと見つめてしまう程度には、何かが足りないと思っていたらそうだったと思い出すような、何かが静かに、染み入るように形がとられていくような、そういう気持ちがウィルを見ていると湧いてあがった。

 名前を呼ぶのも、呼んでもらうのも、とても久しぶりな気がする。ああ、そうか。もしかしたら私はウィルと、こんな風に何日も会わない時間というのを初めて経験したのかもしれない。だから毎日名前を呼んでもらっていて、そして私もウィルのことを毎日何かしら声に出して呼んで、顔も合わせていて、きっと一緒にいるのが当たり前になっていたのか。でも、この少し間、ウィルのことを思い出したことはあっても、喪失感に苛まれたわけではなかった。今、こうしてもう一度会って初めて、そういう気持ちが自分に合ったのかもしれないと気付いた。ハヴェンを前にして、クレイドールの戦火の中にして、私はウィルの顔を、確かめるようにじっと見つめる。それから、どうにか言葉を返すに至る。

「ええ、そうね……ウィル……」

「心配した」

「ごめんなさい……」

「うん。まあ、話は後だ。今は――」

 ウィルは私を見るのやめて、ハヴェンに視線を向けた。それを追うようにしながら、私も同じようにハヴェンを見る。指から氷の刃を生成したハヴェンは、変わることなく、何かを憎んだような瞳のまま佇んでいる。少し前と変わらない。一度はパーシヴァルを狙うために一緒に行動はしたけれど、相容れなかった。そもそも、最初からハヴェンは私に対して気に食わないというような態度だったから、今もそのままであることに、まだ彼の癒しは遠いことを知った。

 だけど。

「ハヴェン」

 時間がなさすぎる。

 私が追っているのは、あなたじゃない。いつかは追わなければならないもの。メリアとハヴェンは、決してこれからもつかず離れず私の前に現れたり、何かの拍子に戦わなければならない、あるいは共に戦うこともあるのだろうけど、どちらにしたって、今は彼と戦っている場合ではない。私が今探しているのは、ケイトリンを刺した誰か。

 フードの人間。

「ハヴェン、あなたは消えなさい。邪魔よ」

「なんだと?」

「あなたと戦っている暇なんてないと言っているの」

「てめえ――――」

 ハヴェンがこちらに素早く突っ込んでくるのを、瞬時に見極めた。熱があるはずだけれど、頭は冴えている。体は重いはずだけど、体は軽く思える。何か枷が外れたのか、気分がいいわけでもないけれど、でも、ハヴェンに負けるようなことはあってはならないと静かに頭が指令したような感覚があった。彼の動きはよく見えた。氷の刃が私の肩口に向かって振り下ろされるのを、腰から引き抜いた剣で受け止め弾くと、左手で彼の腹部に手を当て、炎を放った。爆裂音が響いて、ハヴェンの体が遠くに吹き飛んでいく。赤い炎。ハヴェンは屋根をしばらく転がってから遠くへ吹き飛び、屋根から落ちて行った。

 私はウィルに、ついてきてとだけ言って、先ほどからずっと目指していた方向へと走り出す。屋根から飛び降りて、地面を駆けた。私の横にウィルがついて走る。

「アリサ、本調子じゃないと思っていたけど、容赦ないな」

「あれで倒せたなんて思っていないわ。それより、なぜウィルと戦っていたの……?」

「どうにも、誰かに嘘を吹き込まれたらしい」

「嘘?」

「どう思う? 俺が学院側の人間だそうだ」

 彼は微笑んだ。

 ウィルが学院側の人間?

 重い言葉のように思えて、けれど思ったよりずっとするりと咀嚼できた言葉。それほど居座らないまま、心の中をするりと通り抜けてしまった。本当なら、もっとびっくりするようなことのはずだけれど。

「それ、本当なの?」

「本当だと思うか?」

「有り得ないわね。ウィルが学院側だったら、この世の人間はみんな学院側だわ」

「それは買い被り過ぎじゃないか」

「ウィルが私の敵なわけないでしょう」

「その通りだ。アリサ、俺はお前の味方だ。だから、お前についてやれなかったここ最近は、気が気じゃなかった」

「心配性なのね」

「それはわかり切ったことだろう。というか、お前が危なっかしいんだ。何をしでかすか分からない。俺がこんなに心配しているのはお前だけだぞ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「そう――……それは悪くないわね」

 ウィルと話していると、とても落ち着く。きっと悲しみから立ち直る時に、一番身近だった言葉を、こんな会話でたくさん聞いてきたからだ。ケイトリンは新しい友達だけれど、ウィルはそれよりもずっと長い間私の傍にいてくれたのだ。もしかしたら、私がずっと動揺したまま、長くそれを引きずっていたのも、ウィルと離れていたからかもしれない。クリスティンに両親のことを聞いたり、脅されたりした時、ウィルが傍にいたらどんなに早く立ち直れたことだろう。私はこうして再び戦うために、ケイトリンと再び出会うことが必要だったけれど、ウィルが近くにいてくれて、私に言葉をくれていたら、こんなところまで逃げたりケイトリンを傷つけたりしないで、もっとしなやかに事態を受け止めていたのかもしれない。

「とにかく、無事でよかった」

「ウィルも。ここまで来てくれてありがとう」

 頭に、クイーンの言葉が静かに浮かんだ。

 ――『だから、あなたはもう、一人で戦っているわけではないのです。わたくしがお手伝いします。きっとウィルフレッド・ライツヴィルも、そしてあなたのお知り合いの方々も同じように思っている。例え全ての始まりがあなた自身の問題であろうと、それに立ち向かうことさえもたった一人だなんて、そんなの、悲しいではありませんか』――。




 


 メリアの体はここで仕留めるとばかり、確実に一歩一歩に神経を冴え渡らせて、パーシヴァルの首元を狙うように動いていた。何かに激突するよりかは、そんな痛みなどどうでもよいと、パーシヴァルのために全てを賭けている。空中に出たのが功を奏した。城の狭い部屋では炎魔法を使っても視界が安定しないだけだ。時折クレイドールが邪魔をしたり、視界に学院生たちが飛び交うことを抜きにすれば、自由に動ける夜の空中はメリアにとって好都合な戦場であった。

 パーシヴァルの剣はメリアの体を思いきり吹き飛ばす。簡単な一撃でも、メリアの軽い体はしなやかに空を舞った。しかし吹き飛ぶ際に、どうにか吹き飛ぶ方向に炎を逆噴射させることで勢いを止めて、反発の勢いで攻撃の源であったパーシヴァルに反撃を加える。連打、剣を何度も撃ちこみ、パーシヴァルは笑みを絶やさないままでそれを受け止める。

「落ち着きたまえ。これではただの剣の稽古だ」

「黙れ!」

 雷を片手に滾らせ、パーシヴァルの体に触れようとする。相手に放電するためだった。しかし、そう簡単に隙は見せない。パーシヴァルは遊ぶように、剣の柄でメリアの肩の辺りを殴りつけることでがくりと姿勢を崩し、付け入るように炎魔法で叩きつけ地面への落下を促した。メリアは小さな悲鳴を上げて落下していき、途中で飛行するラプターのクレイドールと何度も衝突する。パーシヴァルはそれを追うように下降しながらクレイドールを数体殺し、地面で立ち上がろうとするメリアの前に立った。剣を彼女の額に向け、立ち上がろうとする動きさえ牽制する。

「もう辞めないかね。無駄だということが身に染みてわかったろう」

「――っ、く……うっ……」

「こちらに来てくれれば、何も悪いことはしないが」

「ばかなの? わたしがおまえを殺したいのは、おまえが悪いことをしたからだよ……」

 メリアは目の前に、今自分の瞳の前に突き出された剣の先を介して、パーシヴァルの顔を見ていた。こいつは屑だ。何も言葉に宿していない。何も悪いことはしないなど、完全に嘘だ。今やっている行為こそ、全て悪だ。こいつは自分のことしか考えていないし、何より悪いことをし続けたから――それはわたしにとってだ――こそ、こうして戦ってきて、復讐に炎を燃やしている。なぜ笑う? 身に染みる? 何が身に染みる? やることなすこと、全部憎たらしい。

 けれど、勝てない。

 どうして勝てない。

 殺してやりたいのに。自分の力では、及ばない? どうしてだ。気持ち次第だなんてそんな単純じゃないのも知っている。けれど、確かに二種類の魔法は使えて、この世界ではもっとも、やはり憎たらしいが最強の魔導士『ハイブリッド』に近いはずの存在だというのに、それでも足りないの。修行なんてしないで、ただ苦しいだけの生き方が続いて、技術も何もないから? 殺したいのに、こんな奴、殺して、切り裂いてやりたいのに、燃やし尽くしたいのに――。

 奥歯を噛み締め、剣を握る手に力を籠め。

 周りに、必死で追いかけてきていたパーシヴァルの兵士たちが集まりつつあった。メリアとパーシヴァルを中心に、街の中で、取り囲むようにして円を為している。ぞろぞろと、何をする気なのだろう。わたしを捕えて何をするのだろう。わたしは逃げた、ハヴェンと共に。ハヴェン……ハヴェンは今、治癒師と一緒にいるはず。ハヴェン……ハヴェン……。

「退きなさい」

 その時、兵士の群れの向こう側から鋭い声が響いた。パーシヴァルが反応する。剣はメリアの額に宛がったままだったが、二人して声のある方へ視線を向けた。兵士の塊の向こう。兵士がどよめき、そこから兵士が動揺したように道を開け、そしてそれを掻き分けるようにやってきた人物。それは、二つの剣を携えた女性だった。

「これはこれは、ヘルヴィニア王妃様ではありませぬか」

 パーシヴァルはメリアから剣を離し、すぐさま帯刀した。メリアは動けなかった。

「御無沙汰しておりますわね、パーシヴァル学院長様」

「してロヴィーサ様、このようなところに、なぜあなたがおられるのです?」

「それは――こっちの台詞ですわ」

 女性――ロヴィーサは、剣で地面を叩き、鋭い金属音でその場を恫喝した。

「これはどういうことですの? 学院長たるあなたがこのような戦場に出張り、クレイドールを殲滅するに尽力するかと思えば、まさか少女相手に剣を交えているとは」

「なに。この子どもが――クレイドールの操り主だそうで」

「それだけではないでしょう。わたくしもお聞きしたいですわ、パーシヴァル様。あなたが、この少女に、如何様な『悪事』を働いたのか」

「…………」

 パーシヴァルは眉を寄せた。明らかに不快さを表現していた。対してロヴィーサは何の気圧されもない、場を支配したような余裕があった。メリアはロヴィーサを見つめる。会話を聞いていたのだ。自分がパーシヴァルに叩きつけた言葉を、彼女も聴いていた。メリアは弱っていたが、ロヴィーサは彼女と視線を交わした時だけ、柔らかく微笑む一瞬を見せた。しかし、パーシヴァルへと再び眼差しを向ける時、高圧的なものにそれをすり替えている。

「決してそのようなことはありませぬよ。この子どもの逆恨みで、憶えはないことです」

「そうでしょうか」

「何かあなた様もご存知なのですかな?」

「さあ……どうでしょうね。しかし、随分とこちらのカルテジアス兵の皆さまは、パーシヴァル様、あなたに協力的ですわね? 教育機関の長であるあなたがこうしてここにいらっしゃって、攻撃に加わっている。それもひとつの疑問ですけれど、そんなあなたにくっつくようにして、カルテジアス兵の方々がいらっしゃるというのもおかしいのではなくて?」

「敵が目の前にいる。教育機関だの兵だの、そのような分類は二の次。協力し合うのが当然でしょう」

「それにしても、ルクセルグ襲撃の際も、あなたはいらっしゃったそうですわね」

「……何が言いたいのですかな?」

「あなたは何がしたいのですか? と、お返ししますわ。パーシヴァル様」


 

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