疑惑の霧⑤
クイーンの仕事は素早かったが、私は何もやることがなくて、途方にくれていた。すぐに機関室へ行った彼女は、そのまま舟を進めることを船長に進言して、甲板へと上がる。海を優雅に見つめていた旅行者たちは、突然海面に浮いている無数の黒い影に恐れおののいたが、クイーンが何のわだかまりもなく海へと飛び出して、一匹ずつ確実に剣で仕留めていく姿は、まさに舞いのようだった。彼女を追って甲板に飛び出した私は、クイーンの剣さばきを、ただ見つめているだけだった。レプティル型のクレイドールの背中を踏み締めて宙に浮く。もちろん魔法浮遊のような高さの浮遊ではなかったけれど、ふわりとした身のこなしで、随分と高い位置まで飛んでいるようにも見えた。レプティル型は水面からその顔を出して、宙にいるクイーンに噛み付こうとする、その顔の先端をひたすら八つ裂きにした。二つの剣を縦横無尽に振り回し、他方の一匹の背中に乗り、次へと飛び移る。そして切り裂き、また次へ。クレイドールの群れと相手をしているのに、その動きは本当に踊っているようで、誰もが甲板の手すりに手を置いて見つめているだけだった。誰かが援護しろと言うまで、誰も動かなかったのだ。
数人の男が甲板の上から魔法を撃ちこんだ。海面が爆発したように、凸状の水柱を作る。クレイドールが吹き飛んで消えていく。クイーンはフードを被っていて、何の表情も見えなかったけれど、その援護さえきちんと見極めて、また別の動きへとすごく鮮やかに移行する。そう、鮮やかだった。何もかも淀みない。多くの人が、俺たちもと甲板から魔法を撃ち出した。誰か強力な水の魔法使いがいたのか、一部分だけ一斉に海面が凍って、一つの舞台のようになる。クイーンはその海面と同化するような形で動きを止めたクレイドールを一匹一匹突き刺した。
クレイドールは剣では殺せない。クレイドールを殺すことができるのは魔法だけだ。けれど、クイーンは戦っている。私は魔法が使えたのに、見ているだけだった。動くためには、何か力が足りなかった。それとも、クイーンの動きがあまりにも流麗で、見惚れてしまっていたのかもしれない。――そんなの言い訳かもしれないけど、でも、私はあんな風に美しく戦えないし、あんな風に戦うには、きっといろいろなことを考えすぎる。特に、今は……。数人の男の人たちと、何か動きやすそうな服装をした女の人が数人、クイーンがいる凍った海面に甲板からすっと降り立った。炎魔法の使い手がいたのか、氷を破壊して上向きに牙を剥き出しにするクレイドールを炎で焼き殺し始めた。凶暴なものは、その氷の上に乗って襲い掛かってきた。足場を作ったのが仇になったのか――しかし、クイーンが瞬時にその背中に剣を打つこむと、その動きが揺らぎながらも止まり、それに乗じて別の誰かが火球をクレイドールに当てる。見事としか言いようがなかった。舟はそのままグレーノに向かって進行する。甲板では子どもたちが、戦う大人たちを応援しては拍手した。クレイドールは弱い。とても弱い。人間の脅威になるには魔法が弱すぎるし、少し魔法を学んだ十代の人間でも簡単に殺すことができる。だから、こんな風に笑っていられる。クイーンは圧倒的だし、舟に乗り合わせた程度の大人でも海面を凍らせることだってできる。
私が出る幕などなかった。
甲板の手すりの異常な冷たさが、海上から吹く冷たい風と重なって、炎魔法の焦げた匂いが確かに鼻を突いた。クレイドールは数を確実に減らし、殲滅された。クイーンはフードを被ったまま、握手をかわそうとした大人たちを振り切って、甲板にあがった後、すぐに階段を下りて行ってしまった。
■
「大変に疲れました」
部屋に戻ると、クイーンはフードを外してベッドに座っていた。
「……あなたは」
「アリサ」
「ごめんなさい。戦わなくて……戦えなくて」
何か、あのような決定的な言葉を言われたのなら、私に戦いを促していることは明白だったのに、体は動かなかった。もうすぐグレーノに付く。安全に渡航が終わったと言ってもいい。けれど、私自身はまったく何も変わっていない。何か、何かが欠けてしまった。両親の話を聞いて、ケイトリンとお別れをして。私が動くための何かが……。
「いいのですわ。別に、あなたに戦いを強要しているわけではないのです。戦う力を持った人が全員戦わなくてはいけないわけではないですし、結局は意志ですから。あの甲板で見守ってくださった方々も、大部分が魔法を扱うことができたでしょう。でも、一緒に戦ってくださったのは数人。それでいいのですわ。十分に嬉しいですし、戦うということは選び取る行為だと思います。あなたもそうです。戦うことは大変なことです。戦いたい者だけが戦えばいい」
「でも、私は、戦う戦わないを選び取る前ではなく、すでに戦う立場にいたのに」
「今のあなたは逆戻りです。あなたがハルカさんを失った時、きっととても落ち込んだのでしょう」
「はい」
「あなたは今度は、両親を失った。改めて、別の意味で、違った形で奪われた。だから、ハルカさんを失った時のような感覚が、もう一度あなたに降りかかってきているのではないですか。安らかな死だと思っていたご両親が、実は殺されていただなんて、それは十分、衝撃的な事実ですわ。戦う気力が失われても仕方がない」
「でも、私は止まってはいけないと、あなたがおっしゃいました」
「ええ。あなたは止まってはいけないし、まだ事件は終わっていない。十二年前のフレイザー夫妻殺人事件と、五年前のハルカ・フレイザー殺人事件、とでも言いましょうか。やはりあなたが特別な立場にいるのは間違いありません。そして、あなたは確かにこの事件を終わらせる意志を持っていた。だから託したいですし、一緒に戦いたい。そして、やはりいつかあなたはもう一度立ち上がらなければなりません」
クイーンは続ける。
「けれど、今のあなたはまだ、ショックでしょうから……だから、慰安旅行と申したのですわ」
「…………」
「戦う理由は揃っています。あなたにお話しなければならないこともある。でも、今のあなたに一挙に背負っていただくには状況が酷です。何も、あなたの行動を常に監視しているわけでもないでしょう。学院も事を荒げることは極力したくないはずですわ。彼らはあなたを脅した。ということは、やはり事態を性急に変えることを望んでいません。時間はあるのです。あなたはきちんと、あなたの意志ともう一度向き合えばいいのですわ」
■
「こーんな感じの女の子を見ませんでしたか」
ケイトリンはまったくもって、いったい誰のことを示しているのかわからない、あまりにも凡庸な素振りで船着き場の窓口の男に問うた。ウィルは額を抑えた。これでわかるわけがない。それに、本当に舟に乗ったかどうかさえ不明だ。しかし、リンドベールに用があるとも思えないし、もしヘルヴィニアから距離を置くのが目的だというのなら、やはり海を渡ったということも考えられる。カルテジアスもあるし――あちらにはヲレンさんがいるから、無意識にそちらに向かう可能性は否定できないだろう。もし窓口でアリサのことがわからなければ、まだリンドベールにいるのかもしれない。
「こんな感じってお嬢ちゃん。それじゃわからないよ」
それはそうだよなあ、とヒストリカが笑った。
「ええっと、赤が入ったような茶髪の子です。学院のローブを着ていますっ」
「ああ、学院生は何人かいたかなあ。うん、いたと思う」
「その髪の子もですか?」
「いたいた。なんだかフードを深く被った人と一緒だったがなあ」
「フード?」
ヒストリカが眉を寄せた。
「赤茶髪の学院生が確かに舟に乗ったんだな? そして、グレーノ行きか」
「そうだよお姉ちゃん」
「ありがとう――しかし、つい少し前に出てしまったとは……次のグレーノ行きはいつだ?」
「朝夕だからなあ。さっきので今日は終わりだ。諦めてくれ。明日までリンドベールで遊んどきな」
「それじゃ遅いんだよなあ、おじさん。ありがとう、また来るよ」
ヒストリカは笑って言ったが、アリサとの行動との時間に幅が生まれると余計会いに行くのが難しくなってしまう。先ほどここを出た舟がグレーノ行きで、確かにアリサが乗っていた。ウィルは思考する。しかし、一緒にいたフードの人間というのが気になる。リンドベールに知り合いがいたのか? しかし、そんな相手なら当然ウィル自身も知っているはずだが……誰なのだろう。何かに巻き込まれてなければいいが。
三人は船着き場を出た。
「どうしますか? 明日の朝まで何か時間を潰さないと」
ウィルは街の往来を見つめる。ヒストリカは有名人だが、五年以上隠匿していたために、すぐに顔にピンとくる人はいないのだろう。もし知っていたらもっとざわめいているし、また自分とケイトリンが一緒にいるのも、ヒストリカが群れに紛れるいい理由になっているのかもしれないと思った。
「今日はホテルで寝泊まりだな……しかし、お金の掛かる弟子だ」
「すみません」
「お前が謝ることはないさ。ま、こんなこともあるだろう」
「お泊りですか、いいですねえ、学校をすっぽかしてなんてわくわくしますね。欲を言えばアリサちゃんがいるとよかったかも」
「君たちは同じ部屋で寝泊まりしてたはずだけど」
ウィルが問う。
「でも、学院と街は違うじゃないですか? アリサちゃんと遊びに行けたら楽しいと思って」
ウィルは微笑んだ。
アリサは友達なんて要らないと言うし、これまでもずっとそうで、もちろんアリサのやりたいことを考えるのなら、そんな人間関係を築かない方がいいのかもしれないとは思った。ここまで来させてしまったことを、アリサは怒るのかもしれない。でも、そんなのはやっぱり切ないし、ウィルはアリサに、例え復讐を為したとしても、その後のことを考えてほしかったために、ケイトリンのような誰かがアリサのことを考えてくれているということがとても嬉しく思えたのだ。
「遊べる時は、きっと来るさ」
「ウィルさんは、アリサちゃんと遊んだりしなかったんですか?」
「俺? うーん、アリサとはそういうのじゃないから。遊ぶってなんだろう」
「美味しいご飯を食べに行ったり、お買い物に行ったりとか」
「それぐらいなら普通にするけど、でも、一緒に暮らしてたわけだからね。友達というよりも、完全に生活のためのことでしかなかった。そういうの、友達って言う? ケイトリンちゃんは家族がいるだろう。お母さんかお父さんが晩ご飯のために買い物に行くじゃないか。まあ、そういう感じかな」
「それじゃあ、ウィルさんとアリサちゃんは家族じゃないですか」
「ふふ……それはいいね」ヒストリカが急に笑い出した。
「いやいや、おかしくはないと思いますよ」
「すまん。まあしかし、お前たちも大きくなったもんだよなあ」
そんな時、三人の前に立ち止まった影があった。
それは、深くまでフードを被った人間だった。明らかに三人の進行方向に立ちふさがり、その移動を留めようとする意図が見て取れた。ヒストリカがすっと手を横に伸ばしてケイトリンを庇うと、ウィルは腰の剣に手を添えた。構わず街を往来する人間たちの波は、その四人を除いて止まることはなかった。しかし、四人だけが切り取られた時間にいるようだった。
「誰だ」
「やっぱりだ」
フードの中から声がした。顔がよく見えない。いや、見えないようにしているのか? しかし、そんな疑問が膨らみかけた次の瞬間には、その誰かは自分の指で少しだけフードの末端を持ち上げた。周りを歩く人間たちには見えないように、しかし三人だけには見えるようにするような、とても慮ったような持ち上げ方だった。暗がりになっていたその部分から、二つの瞳がこちらを見つめて微笑んでいる。
「ヒストリカさん、お久しぶりです」
ウィルとケイトリンは目を疑った。
「ヘ――」
「ちょっと、名前を呼ばないで。僕は隠密でここに来ている」
もう片方の指で、口元を抑える彼。
どうしてこんなところにいるんだろう。
「こちらへ来てください。お二人も」
ウィルとケイトリンに目配せして、彼は静かに振り返って歩き出した。フードを深く被り直し、目的地をきちんと把握したような歩き方で街を行く。三人は顔を合わせた。ヒストリカは呆れたように息を吐き、ウィルとケイトリンは唖然と目を合わせた。お知り合いだったんですか、とヒストリカに尋ねる。まあね、と彼女は静かに答えた。三人は彼の後姿を、周りの往来と少しも違わない穏やかな速度で追った。ケイトリンは急に自分のローブの襟元を気にしたりと、そわそわ落ち着きのない素振りで歩いた。ウィルは少しだけ思考に耽ったが、前を歩く彼が街の裏通りの方へ進んだのをきっかけに、あまり考えない方がいいと頭を切り替えた。
裏通りを少し進むと、船着き場をそのまま南下したような堤防の辺りに出た。そこにはあまり大きくはないがそれなりに立派な船が一隻あって、その手前で彼は待っていた。その場所に、他の船はひとつも止まっていなかった。人もいない。風が冷たい。三人が彼に前まで追いつくと、男はフードをゆっくりとはずした。
「危なかった。あんなに人の多い場所で名前を呼ばれたらどうしようかと」
金髪碧眼の青年が、安心したように胸を撫で下ろした。
「ヘルヴィス」
彼は紛れもなく、現ヘルヴィニアの若き王、ヘルヴィス・ロストウィードその人であった。
■
「え――――っ! やっぱりじゃないですか。あっ、ええと、なんて言えばいいのか……心の準備が……」
ケイトリンの落ち着きのなさが極まった。
「畏まらなくてもいいよ。あんまりそういうのは好きじゃないんだ」
「いえいえいえいえ、そんなそんなっ」
「学院生かな? どうしてここに?」
「あっ、えっとえっと、えーっと」
「ケイトリン。落ち着け」
ヒストリカが軽い力でケイトリンの頭をぽんぽんと叩いた。ウィルは彼を見つめる。――まさか、ヘルヴィニアの王がこんなところにいるなんて思いもよらなかった。フードをすっと持ち上げたあの瞬間、暗がりに覗いたその顔はまさしく王様のものであったが、見間違いじゃないかと歩いている最中は何度も考えたが、ケイトリンの様子は紛れもなく、何か意外な人に出会ったそれであった。しかし、なぜこんなところに……。
「質問が山ほどあるんだが、大丈夫か?」
「構わない。ヒストリカ、久しぶりだね」
「そうだな。私は引きこもってしまったからな。結婚式にも行かなくて申し訳なかった」
「それもいいよ、君には君の事情があるからね」
「ありがたいことだ。それで、なぜこんなところにいる?」
「僕はカルテジアスに行こうと思ってここに来たんだ」
「そうか。にしても、一人で?」
「妻がいたんだけどね、どうもはぐれてしまった」
「はぐれた?」
「リンドベール候のところに行っていたんだ。でも、妻はそういうのが苦手だろう? だから、少しだけ街を見てくると言って少しだけ別行動をしたんだ。それで、少しだけ城へ行って戻ってきたら、いないというわけさ」
「愛想尽かされたんじゃないか?」
「そんなわけないだろう?」
「はいはいお熱いことで」
「というわけで、探していたんだ。そこに、君たちがいたというわけさ」
「それは奇遇だったな。しかし、たった二人で何処へ?」
「カルテジアスだ」
「理由を聞いてもいいのか?」
「ヒストリカ、君の家のことだ」
二人の表情が変わる。鋭く、妖しく、何かを突き詰めたような、静かな炎が急に吹き上がったような。
「そうか。やはり、関わりが」
「話していないんだね?」
「随分前の話だからな。話しても構わなかったが、もうあれは何千年前の話だ」
「もちろんだ。けれど、あの話は今度のことに必ず関わってくる」
「……致し方ないな」
いったい何の話をしているのだろう。
ヒストリカの家の話? 何千年前?
「それで、君たちは?」
「ああ。ウィル、話してくれ」
「なんで俺なんですか……わかりました」
ウィルはヘルヴィスに向かって、きちんと言葉を選びながら話をした。自分のこととヒストリカとの関係。アリサがクリスティンに脅しを掛けられることによってここにいるケイトリンと絶交を言い渡し、逃走したこと。それを追ってここまで来たこと。
「なるほど。アリサ・フレイザーがここに」
「どうも、グレーノに行ったみたいだ」
「ふうん」
「してヘルヴィス。そこにある舟は?」
「これ? これは僕の自家用のフェリーだよ」
「自家用のフェリーなんてあるのか」
「あるよ。自動操縦さ。だから妻と二人で行こうと思ってたんだが……」
ウィルがふと思い立ち、会話に割り入る。
「ええっと、クイーンはどのような格好で?」
「うん? まあほとんど僕と同じようにローブ姿だ。目立たないように、移動中はフードを被る」
「そうなると、アリサと一緒に海を渡ったのでは?」
船着き場の窓口で、アリサらしき人物とローブを深く被った人物が共にグレーノ行の舟に乗り込んだことを伝えた。
「それは妻だ、間違いない」
「クイーンが一般人と一緒に行動するなんてことはなかなかないですよね。でも、一緒に行動していた。ということは、クイーンにはそうする理由があったんでしょうね。そうなると」
「今、僕たちの関心事はやはり『ハイブリッド』の事件だ。妻がアリサ・フレイザーを見かけて声を掛けた可能性は大きいかもしれないね。そして、一緒にグレーノへ行った。いやあ、夫としては悲しいな」
「王家の方も『ハイブリッド』のことをご存知なんですか?」
「ああ。あの事件はこちらにも伝わっている。もちろん、城の中でも知っているのは信頼できるごく少数のみだが」
それは知らなかった。ウィルはハイブリッドの話題が出たことに一つ手に汗を滲ませた。そうなると、アリサもクイーンとその話をしているに違いない。何か情報があればいいし、もしよければここで王にも何か情報を教えてもらいたいのだが。特に、自分たちでは調べきれないような、もっと大きなこと。これで真相に近づけばいいが。
「それなら話は早い。ヘルヴィス、フェリーを今すぐに出してくれないか」
「うん、僕も今そう考えたところだ」
「ええっ、王様の舟!」
ケイトリンはわなわなと肩を抱く。
「畏れ多いですね……」
「そんなに大したものじゃないよ。安物さ。それより、中で話を聞かせてよ」
「ああ。こちらも尋ねたいことがありすぎる」
四人はヘルヴィスのフェリーに乗った。彼は操縦室で適当な準備をして自動操縦にすると、グレーノへ行くように適切な処置をした。それから、フェリーの中にある会議室のような部屋に三人を招く。あまり豪奢ではなかったが、整ったソファとテーブルにケイトリンは表情を緩ませる。三人とヘルヴィスは向かい合うようにして座った。
「それにしても、王家まで事件に動き出したとはね」
「ずっと前から動いていたよ。けれど、もう解決は不可能だと考えていたんだ。パーシヴァルの圧力は強すぎるものがあるし、下手なことをして学院が城を糾弾する理由を作らせてはならないからね」
「だが、ハルカ・フレイザーの事件は知っていたんだろう」
「それはさすがに。教師陣にも城の味方はいる」
「どれくらいのことを知っている?」
「――五年前、ハルカ・フレイザーという男子試験生が、雷魔法の実技試験の最中に突如炎上して死亡。現場は内側から鍵がかけられた演習場で、その場には六人の人間がいた。しかし、彼らは皆雷魔法の気質。一人一気質の原則を考えれば、不可能犯罪である。だが、それを凌駕できる存在の犯行であるとパーシヴァルが認めた」
「そうだ。他には? 『エンブリヲ』と言う言葉に聞き覚えはないか?」
ルクセルグの一件で、あの炎に塗れた城の中、クリスティンとアリサ、そしてパーシヴァルが捕まえるように要請した二人の子どもが口にした何らかの団体名だ。ウィルはそれに興味があった。
「それはわからないな。なんだいそれは」
ウィルが解説をする。何か、パーシヴァルの元にいた子どもの団体か何かだと思われるが……。
「それはこちらに伝わっていない。もしかしたら、パーシヴァルとクリスティンだけが知っているのかもしれない事柄かもしれないね。子どもか。それは完全に僕たちの追っている事件とは全然別のところから割り込んできたね。複雑化する一方だ」
「その子どもたちと、ハルカの事件。やはり関係があるのでしょうか」
ウィルが問うた。ヘルヴィスは確信的に頷く。
「まあ、あるだろうね。子どもたち、ハルカ、そしてハルカのご両親。三つの事件とも『ハイブリッド』が中心にいる。これは偶然ではないだろう」
「えっ?」
三つだって? ウィルは思わず声を上げた。それも、何と言った?
「ハルカの両親って、どういうことですか」
「そうか。それは知らないのか」
「私も知らんな。ハルカの両親、つまりアリサの両親は亡くなっているはずだが――まさか」
ヒストリカは普段の落ち着きとは違い、目を見開いてあからさまに動揺した。
「とても言い辛いことだ。けれど、これは極秘の事件だった。ハルカとアリサのご両親。シズカ・フレイザーとエリス・フレイザーは殺された。十二年前のことだ。犯人像として有力なのは――――」
「ハイブリッド……!」
■
グレーノのホテルホテルでは少しも眠ることはできなかった。何時間でも寝ていていいとは言われたけれど、適当な時間に起きると決めて、それまでいくらか時間があったのに、それが最終的にはたった数分しか残っていないというところまで起きていて、残りの少しでやっと眠りの中に入ることができた。そして、自分の燻った感覚が落ち着かないまま覚醒するのだ。ぐるぐると闇の中に文字が浮かび、目を閉じても再び闇が目の前にあって、そこにも言葉が連続的に映し出された。カーテンの隙間から光がさしても、体が動かない。
クイーンはまだ静かに眠っていた。私はシャワーを浴びて、いつものようにローブを付けると、剣の手入れを丁寧に行った。しばらく戦っていないのでとても刃が綺麗だった。それから剣を置くと、窓際に立って、軽く指の先に炎を灯した。ぶわっと一瞬だけ光り、それからは爪の先の方で炎は雫のような形をして安定を保った。まだ、これくらいなら炎は出てくれるのね。クリスティンとの戦いでは、まったく炎が動かなかった。この程度なら出せるのに、実戦で動く気がしない。てのひらを広げて、握って、広げる。動く。自分の皮膚がここにあって、それを動かすだけの力なら今までの延長線上で変わらないというのに。
魔力は精神の力。でも、訓練で身に付くもの。そして才能。使えない人はどれだけ努力しても使えない。クイーンはそれをばねに、剣の道を極めた。魔力ってなんだろう。魔法。私の炎は……。私に才能なんてあるとは思っていない。魔法が使える人なんてたくさんいて、私はその中の一人だ。ただ、努力はした。それだけはまだ誇りだ。
なぜ、もう一度立ち上がることができないのだろう。
守るとか、戦うとか。
頭の中に、ハルカの顔が浮かぶ。
あなたは死んだ。
あなたのために戦っていればよかった。
でも、こんなところまで来てしまった。
ハルカ、あなたは教えてくれなかったわ。お父さんとお母さんが、殺されていたことを。その犯人をあなたが目撃していて、だけどその犯人にあなたは怪我を負わされた。事件は解決しなかった。両親は死んだとしか教えてもらっていなかった。どうして死んだのかを尋ねなかった私が悪いのかもしれない。でも、教えないのがあなたの優しさだったのかもしれない。実際、両親が殺された事実が私を蝕んでいる。
「――――おはよう、ございます」
ふっと振り向くと、ベッドからゆるりと体を起こすクイーンが、こちらを穏やかに見つめていた。
「お早いですわね」
「王妃様は、いつもぐっすりでしょう?」
「いいえ。わたくしにもやることはありますわ。それに、ここは旅の途中。城ではありませんから」
「私は構いません。急ぐ用事もない」
「ありますわ」
クイーンは髪を撫でた。
「ヲレン・リグリーに会いに行きましょう」
■
グレーノ発の列車に乗って、カルテジアスへ向かった。グレーノから西へ三時間ほど。行商人が草原を歩く様子を揺られながら見つめた後、堅牢な城塞が見えてくる。西大陸では最も大きな国であるカルテジアスは、のどかな平原に急激に聳え立った古めかしくも荘厳な城壁が威圧的だった。私は一度も行ったことがない。そもそも西大陸にやってきたこと自体が初めてだった。その一番最初が、まさかクイーンと共にあるとは。ヘルヴィニアの方が大きいとは聞くけれど、昔から互いに大陸を二分した都市国家であり、その規模は尋常ではないと聞く。
私は、この十五年間をヘルヴィニアで過ごした。どこかへ行きたいという欲はない。話だけは師匠に聞いた。遠くの土地があるということさえも、学院に入って初めて実感した。私にとっての世界はヘルヴィニアで、私の知っていることだけが世界だった。ハイブリッドを殺すことのできる空間であればどこでもいい。それだけだったはずなのに。今は違う。私だけの世界じゃないと、いろいろなことが私を締め上げる。街もそう、人も、何もかも。
駅を降りると、列車の煙がすぅっと舞いあがって、そこを縫うように大勢の人が街へ歩き出していった。朝だから人が多いとも言えるけれど、カルテジアスは昼間でも駅を利用する人は多いのだろう。クイーンはフードを深々と被り、さらに日傘を差して歩いた。私も念のためフードを被り、自分の肌をとにかく隠した。カルテジアスは建物が高く、ただの住民の家出さえも城のように随分と立派だった。舗装された道はやはり大都市らしく丁寧なもので歩きやすい。ルクセルグのように雪のための建築様式とは違い、どこか角ばって硬質な空気が街中に溢れている。
「本当にヲレンさんに会いに行くんですか?」
「はい。あなたもいつかは会いに行く予定でしたわね。どうせこちらに来たのですから、やはり会って損はないと思いますわ。あなたは、すでにあの時いた六人のうち何人かの方とお会いしているのでしたわね?」
「正確には、ヘイガーさんとアーニィさん、そしてウルスラさんの三人だけです。ステラさんは体調を崩されていて話すことができませんでした。それに、まだあの時試験を担当されていてクレイン先生にも会っていません」
「そうですか」
「もちろん、いつかは会いに行くつもりですが……」
私たちは学院のカルテジアス支部に向かった。カルテジアス支部、つまりは西都支部は、そのまま国の城と言っても差し支えない古風にして厳格な作りの建物だった。門を潜って中庭、そしてそのまま大開の扉を越えてやっとロビーのような屋内に出る。絨毯が敷かれて、まるで貴族のお屋敷だ。屋内に入るとさすがに学院生の数が増え、私とクイーンがフードを被っていることが逆に人目を引くようになっていた。怪しいのだろう。私はフードを外して、受付係の先生の元へ行く。
「すみません」
女性の先生だった。しかし、目の前にして言葉が出なくなった。今までは都外研修ということで、正式な理由を持って支部にやってきていた。けれど、今回はもう完全にそういったものではなく、ただ唐突にやってきただけの部外者なのだ。学院生ではあっても、研修の申請の話がこちらに通っていなければ話をしてもらえないだろうし、もし私が無断で欠席していることがこちらに通じていれば、またやはり何か言われる可能性もある。――どうすればいいのだろう。ただ、ヲレンさんに会いに来たと伝えればいいのだろうか。
「あの、ヲレンという人を探しているんです」
「ヲレン君なら――……今、演習に出ていますよ。何か御用ですか?」
「いえ。どちらにいるんですか?」
「裏の射撃場だと思います」
学院のローブだからか、あまり深く突っ込まれなかった。私はお礼を言って、裏の射撃場を探すことにした。屋内の廊下を歩くとクイーンが目立ちそうではあったので、少し遠回りながら屋外に出て、城のような支部の建物の外周をゆっくり歩くことにした。時折地面から顔を覗かせる植物と、風に揺れる木々の並びが穏やかだった。周りには誰もいなかった。
フードの中から、クイーンの綺麗な顔が覗く。
「そういえば、クイーンは、元はといえばヘルヴィス王と一緒にカルテジアスへ来る予定だったのですよね」
「はい」
「いったい何のためですか?」
「カルテジアスの王様に、お力を借りるためですわ」
「力?」
「――アリサ、私と夫は確信しているのです。もちろん、防ぐことができるならそれが最も素晴らしいことです。しかし、最悪の事態が起こり得ることも可能性としては低くはないのですわ。ですから、こちらのクレイドールの討伐隊と騎士団、上級魔導士と協定を結ぼうと思ってきたのです」
クレイドールの討伐隊と言えば、カルテジアスの精鋭部隊でもさらに選りすぐりの魔法兵団。師匠もそこでしばらくやっていた。カルテジアスの騎士団は文字通り剣の手練れが揃っているし、かつ上級魔導士は様々な分野に魔法を生かす職業魔導士として、十全な魔法の技術を備えながら軍に属している。クイーンと王はその力を借りようとしていたのだ。西大陸最大のカルテジアスの力まで。
「そ、そこまでの脅威が迫っているのですか」
「ハイブリッドは恐ろしいのです。それだけではありませんわ。もしかすれば、学院を敵にしなければならないかもしれないのですよ」
「ヘヴルスティンク魔法学院と……戦争をするのですか?」
「その可能性は十分にあります」
大陸を二分するのは、学院と城。城というのは大まかな単位だが、つまりは貴族だ。ヘヴルスティンク魔法学院は唯一の魔法教育機関として大陸に多大な勢力を広げており、その権威を振りかざして議会にある程度の発言力を持ってはいる。しかし一つの教育機関が王や王妃、あるいは諸侯の属している貴族に議会においてまったく対等であるはずもない。貴族側の『城』がやはり政治をリードしているのが基本的な情勢だが、すでに王と王妃はそうした片側の学院側と抗争が生じる可能さえ検討しているということか。規模としては貴族や城、あるいは城側に属する騎士団の方が規模は大きいが、パーシヴァルのことだ、きっと何か手を打っているに違いない。そうなれば――城側に対抗できる十分な『力』が学院側にあるということになる。それだけの策、力はいったい何なのだろう。私はそれでも、気付いている。簡単なことだ。
「しかし、こちらから打って出るわけではないのですよね。戦争は回避しなければならないわけですから」
「もちろんです。起きないのであればそれが最良ですわ。おそらく、学院の切り札は――」
「ハイブリッド……」
「学院の言動からしてみれば、確実に学院はハイブリッドを味方に付けていますわね。今は学生の身分で自由に泳がせているのでしょう。あ、クレイン先生も一応容疑者でいらっしゃいましたわね。その六人として自由にさせている。しかし、きちんと学院とは秘密裡に契約が交わされているのでしょう。学院側につくと」
「……ハイブリッドが学院の核なのですね」
「ですから、それに対抗しうるためには、やはりカルテジアスとヘルヴィニアの騎士団が結束せねばならないのです」
「ハイブリッドにそれだけの力がある、と」
「――いずれお話します。しかし、ハイブリッドはまさに最悪の存在ですわ」
「クイーン。あなたは……あなた方は五年前の時点で、あの六人の中にハイブリッドがいる可能性は知っていたのですよね。それなのに、なぜ手を打たなかったのです」
「わたくしが王妃になったのは三年前ですわ。それまではただの市民です」
「では、王は――」
「一人の教師、そして五人の学院生。一見すれば普通の存在を、城が権力を振りかざして拘束などできるはずありませんわ。それこそ、それを理由に学院は城を糾弾するでしょうね。それに、五年前の事件は確かにこちらにも情報が伝わってはいますが、特定のためには情報が足りなさすぎる。深入りして行方がわからなくなった教師の方もいらっしゃると聞きましたわ」
ターナーさんのことだ。
ウィルのことを考えると、胸が苦しくなった。ターナーさんがいなくなって、でもウィルは諦めていないし、私と同じように復讐しようという気持ちはある。私ばかりが突っ走っているけれど、ウィルだって……でも、いつも冷静だ。そしてとても優しい。だけど、だけどその内側には確かに憤怒の炎が盛っているはず。学院の策略で肉親を亡くした。ハイブリッドだ。全部、ハイブリッドが悪いんだ。そして、今度は国家も大陸も巻き込んで何かをする気なのだ。
「でも、そんなこと言ったら、ずっとあちらに着々と計画を進ませるだけで、こちらから何かを暴くことができないではありませんか!」
「だから、あなたが必要なのです」
「……」
「わたくしたちが動けないのは、貴族だからです。何事においても確実に客観的で、市民のためにとあれど、やはり同じように市民である学院の人間を追求し、ひとつ懐疑的な状況にもかかわらず事を性急にしてはなりませんわ。それは国の中枢としてあるべき佇まいでいなければならないからです」
クイーンは寂しそうにした。微笑みは絶やさないけれど、きっと、私のような人間をとても気にかけてくれているから、とても優しくて、素直に誰かのために心を痛めることができるのだろう。それが王妃としてあまりにもなりふり構わなさすぎるとも言えるかもしれない。でも、国のことを考えている。そして王妃であることに揺らがない。それでいて誰かのことを考えようと必死なのだ。学院のことを暴くことができないことを、とても心配しているのがわかった。
素敵な王妃様だな、と思った。
しかし、そんな彼女の瞳は私を見つめている。それはただの自分勝手な学院生、そして彼女がいつでも言葉にする小さな市民の一人に向けるものとしては明らかに異質なものだった。
「けれど、あなたは……あなたはただの、アリサ・フレイザーですわ」
「…………」
「わたくしたちにできないから、あなたを頼っている。あなたとウィルフレッド・ライツヴィル。あなたがたは、あなたがたの意志でハイブリッドを突き止め、学院の陰謀を暴こうとしている。きっと、そんな人は他にいないでしょう。だから、あなたがたを信じていますし、アリサ、あなたのためにわたくしは動きますわ。あなたがたこそ、わたくしたちの残された希望だと思っていますから」
木々の緑の隙間から、それでもずっと優しげな眩さが降ってくる。会話にはそぐわない輝きで、ずっと遠くの広々とした場所で、学院生が演習をしている。小さなざわめき。二人で見つめる。のどかな空気は、いつか壊されてしまうの。今も、胸の奥には何かが詰まっている。言葉を失って。いつまでもクイーンに喋らせてしまっている。いつまで喋らせている。いつまで言葉を失ったままでいる? わからないわ。何を言葉にすればいいのか。私が何を言えばいいのか。言っていいのかも。こんなの知らない。私はもっと小さな世界で生きてきたのに。こんな遠いところまで来て、胸を詰まらせてばかりで。
「なんだか、説教くさいですわね。忘れてください」
彼女は自嘲気味に笑った。
でも、正しいのだ。それだけはわかる。
「私は……」
その時、向こう側から男子生徒が数人こちらに走ってきた。クイーンはすっと顔を伏せ、私もあまり違和感のないように静かに視線を逸らす。彼らは何か演習の話をしているようで、私たちなど穏やかにやり過ごすような雰囲気だった。
「次の演習はどこなんだ?」
「俺は、山だな。遠いから、晩飯は遅くなる。ヲレンは?」
――!
「僕は次は空いてるんだ。夕方から研究室だけど――――って、え?」
私は、今まさに答えている男の人の手を掴んでいた。




