疑惑の霧④
「クイーン!?」
馬鹿な、なぜヘルヴィニア王妃がこんなところに! 私は額に汗を浮かべた。
「うふふ、わたくしの顔を見てすぐに気付かない方――やはり苦労なさったのですね」
そうだ。
今の現ヘルヴィニア王であるヘルヴィスはまだ二十代後半の青年で、ご結婚もつい最近のことだと聞く。そう、結婚は数年前で、確かとても若いお方。それがロヴィーサという名前であることは、確かに師匠の下で話を聞いた。しかし結婚式など言ってしまえばどうでもよかったし、私はそんなことよりもずっと師匠に魔法の教えを請うていた。世事に疎いことは自覚している。それは五年間、まったくもって世間と隔離された生活を送っていたこともあるけど、興味がなかったことも大きい。貴族の結婚に興味を持っても、決してハイブリッドとは関係がないからだ。だから、王の結婚など聞いてはいても、相手がどのような顔かなど知らなかったし、知ろうとも思わなかった。顔も知らなかった。声も知らなかった。だから気付かなかったのだ。まさか、目の前のこの人こそ王妃だったとは。
「苦労なさった? 私が五年ほど修業をしていたことをご存知なのですか」
「ええ、アリサ・フレイザーさん」
「名前まで……」
「お噂はかねがね。さすがにわたくしも貴族に嫁いだとはいえ、国のことは夫を通じて耳にしていますわ。例えば、ハルカ・フレイザーのこと……」
「何か、何かご存知なのですか!?」
「……残念ながら、新しい情報はありません。パーシヴァルの隠蔽工作は実に巧妙で、あの事件に関してはほとんどこちらに情報が来ないのです。密偵などを寄越しましたが戻ってこず――そう、例えばこちらが得ているのは、あの事件に『ハイブリッド』なる存在が関わっていることくらいです」
「そう、ですか……でも、城もハイブリッドの存在はご存知なのですね」
「はい。『ハイブリッド』のことを知っているのは、学院の上層部と城にいる正統的な貴族の面々だけ。あの事件で、パーシヴァルはハイブリッドのことを教師の皆様にお話なさったみたいですけれど、基本的にはまったくもって公にはされていませんわ。わたくしも、城に入って少ししてから初めて夫に教えていただいたくらいですもの」
ハイブリッドのことだけか……そうなると、貴族でも情報を持っていない。パーシヴァルはやはり、学院の中で何かを企んでいる。元々学院と城は二大勢力で、政治の議会もこの二陣営が最も影響力を持っている。だから、学院はどちらかと言えば城を敵対視しているのだが、やはり大きな事件などの情報は城に大きく伝わる。つまり、『伝わらない』ものは、学院が切り札として隠蔽している可能性が高いのだ。城にとって不利なものを議会で扱う場合、それをしまっておく。だから、城へ情報が伝わっていないとすれば。
まさか。
「では、パーシヴァルは、ハイブリッドを政治利用するつもりなのですか!」
「その可能性は高かったのです」
クイーンは静かに続けた。
「ハルカ・フレイザーを殺したのがハイブリッドであると知ったパーシヴァルは、その存在を公にせず保護します。そして、その人物が誰なのかを明らかにしないまま、卒業まで待つ。そして何とかして学院側に取り込む。例えば教師にするですとか、上級魔導士にして、とにかく学院の陣営に入れ込む手筈でしょう。そして、議会の場で初めて公にする。『五種の魔法を扱うことのできる、最強の魔法使い』だと」
「すると、当然それほどの才能に溢れた人材ならば、世間的にもやはり魅力的に映るでしょう。実力は十分。『ハイブリッド』という底知れない存在が、そのまま学院の発言力をさらに押し上げることとなる。城よりも学院が政治的に有利になる! そのためにパーシヴァルはハイブリッドを保護隠蔽したんですね。そして、後に擁立するために……殺人を犯したことを隠したのは、後に議会に出した際に『殺人犯』だと駄目だからなんですね」
「そうです。しかし、それはあなたの言葉で脆く崩れ去りましたわ」
「……私の」
頭にあの光景が浮かぶ。私を見つめる同い年の新入生、そして教師、パーシヴァル……『私の目的は、この学院を潰すこと。そして、五年前に兄を殺したハイブリッドを、この手で殺すことです』――。
「その通りです。議会にて擁立するならば、殺人犯だと知られていては意味がないでしょうから。それにより、後にハイブリッドを切り札として政治利用するという学院の思惑は崩れた――はずでした」
「駄目、だったんですか?」
「そのような企みが崩れたのなら、まだ学院が何やら思わしくない動きをしているのが気になるのですわ。あなたによってハイブリッドが殺人犯であると公にされてもなお、学院は何かを企んでいるとしか思えません」
「では、政治利用が目的ではなかったのでしょうか?」
「はい。私と夫も、それが狙いだと思ったのですが……他に狙いがあると思われますのよ」
「それは?」
「わからないのです。パーシヴァルがいったい何を考えているのか……」
■
「それで、あの、剣はいったいなんだったのですか」
「これですか? ああ、わたくしは剣が好きなのです。あなたと一戦交えたいと思っていたのですわ」
「まさか――師匠から聞きました。今のクイーンは大層剣術に長けていると。噂では師匠よりも強いとか」
「ヒストリカ様にそのように言っていただけるとは光栄なことですわね。そうです。わたくしは一般市民の出ですから、もちろんきちんとした教育は受けておりません。それに、魔法の才能もなかったのです。あなた方のように、魔法気質を宿していなかった。ですから、私には剣しかなかったのですわ」
魔法の気質を持たない人間がいる。
この世界に生まれついた人間が、皆一様に何らかの魔法を扱えるとは限らない。魔法は確実なまでに才能の世界で、もちろんその体に気質を宿していれば訓練次第で幾等でも実力は伸びるが、まったく使えない人もいる。そういう人は魔法学校ではなく、各都市にある剣術学校に通って剣を学んだり、武術を学んだり、普通教育を受けて一般職に就いたりする。魔法が統べている世界で、やはり立場的には魔法を扱える人間が上という認識があるのは否めないが、扱えない人間には扱えない人間だけの進路と技能がある。クイーン・ロヴィーサは剣の使い手で、魔法がまったく扱えないことを反動に、必死に剣の勉強をして、見事大陸対抗の剣術大会で六度優勝し殿堂入りしてしまったという話を聞く。
「だからと言って、私と戦う理由にはならないと思いますが」
「ちょっとした遊びです。夫は相手をしてくれませんのよ。たまには誰かと本気でぶつかってみたいと思ったものですから」
「私が相手になるのですか? あなたは剣術の大家なのですよ」
クイーンという呼び名は、彼女がヘルヴィニアの王妃であることも含めてだが、その剣がまさしく、王妃と呼ぶにふさわしい強さを秘めているからだった。私は師匠から話を聞いたことしかない。師匠は何でも知っている。師匠はとても強かった。けれど、もうその力は失われた。怪我をして、魔力も喪失した。もし師匠とクイーンが戦っていればどうなっていたかはわからないけれど、師匠はクイーンを素直に褒めていた。絶対勝てないとも言っていた。私で通用するわけがない。そんな穏当な会話だけで済まそうとする私に、クイーンは決して微笑みだけで終わらそうとしなかった。
クイーンは二本の剣の片方を地面から抜き取ると、すっと私に投げつけた。会話の流れの中で、極めて予想外だった。私はそれでも軽々躱し、彼女がもう一本の剣を使って仕掛ける攻撃を受け止めた。とても速かった。細い腕だけで繰り出される一撃の重さに、私の足元はぐらつき、地面をすりむく。クイーンは上品に笑って、剣を引っ込めた。
「やはり素敵ですわ。うぬぼれではありませんけれど、あなたもやはり、剣がお得意なのですね」
「――完全に、私の負けだと思いますが」
「ええ。あなたは本調子ではありませんね。動きがとても鈍いですわ。やはり、その引っ掛かりがあなたを蝕んでいる。あなたの本来の力を推し留めてしまっている。そうでなければ、きっとあなたはとてもお強いし、わたくしなんかよりずっと強いですのに」
「あなたに勝てるわけがない」
彼女は剣を鞘に納めると、静かに目を閉じた。そして苦しそうな瞳を見開く。
「……アリサさん、わたくしはあなたが、どれほど努力されたかを知っています。あなたが誰かのために剣を取って、憎しみのために鍛錬されたことを……そんなあなたが、わたくしのようなひたすら幸福に生きてきた人間の剣に負けるはずがないではありませんか……。それに、あなたはもっと、自信に溢れていて、どんな敵でも倒して見せるというような、強固な意志のようなものがあるとお聞きしましたのに……今のあなたは、すんなりと負けを認めてしまうような、とっても脆い存在に成り下がってしまっていますわ」
「それは……でも、あなたは剣の優れた使い手で」
「わたくしがハイブリッドでも、同じことを言うのですか?」
彼女は強い目でこちらを見た。
また、また動揺してる。こんなにも、いや、こんなこと、ずっとずっとなかったはずだけど、もっともっと冷静でいられたはずだけど、汗がにじむような気持ちばかりが、今はずっと傍にいて困っている。何もできない。どうしようもないけど、でも追い詰められてももっと冷静でいられたはずなのにって、もっと焦り出して、袋小路で、今は彼女にも追い詰められている。何も知らないくせになんて言えない。この人は知っている、なにも、隠し通せることでもない。でも、だけどこの人がハイブリッドなら。
「殺します。そんなの、当たり前です」
「そうです。あなたは殺すのです。そう、罪を背負うと決めた。いずれ災厄をもたらす存在を殺すと決めたのです」
「――災厄?」
何の、話……。
クイーンは日傘をもう一度手に取ると、私に手を差し伸べた。
「慰安旅行に行きません? アリサさん。夫など放っておきましょう。お供してくださらない?」
■
「向かったのはどこでしょうね」
ウィル、ヒストリカ、そしてケイトリンの三人は列車に乗り込むとリンドベール行きに乗った。窓際に沿うように伸びた席に座り、窓を眺める。ケイトリンは授業を無断欠席した。無断で休むのは初めてだと笑った。ヒストリカは何にも言わないでだらしなく席に座り、ウィルはそのまた隣に座る。
「リンドベールに向かったのは確かですが」
「うーん、どうだろう。何か目的があって列車に乗ったのか、それとも、ただ逃げることに必死で適当に乗ったのか」
「後者な感じもしますね」
「だろうな。そうなると、何の目的もないんだから、リンドベールでうろうろしている可能性が高い」
「じゃあ、すぐに会えるってことですね!」
ウィルとヒストリカの会話に、ケイトリンが微笑みかける。
「わからない。意外とすぐに見つかっても、追いかけっこになるかもな」
しばらくはつまらない話題を続けた。窓の外の景色や、リンドベールのこと。ヒストリカは魔法も剣も使えないため、普通の人間よりもずっと暇で、ヘルヴィニアの森に隠居する少し前までいろいろなところを放浪して回っていたという。その際のリンドベールの思い出や、当時のヘルヴィニアの事情、カルテジアスの話などをウィルとケイトリンに熱心に聞かせた。ヒストリカは物知りで、ケイトリンはうんうんと頷きながら話を聞く。ウィルはすでに知っていることも聞かされたが、ヒストリカの語り口に穏やかな列車の揺れを感じて、心地よい気持ちだった。微笑み混じりだったケイトリンが、少しずつその笑顔を萎ませると、二人に向かって真顔で問うた。
「あの、私にいろいろと教えてください」
「うん?」
「アリサちゃんの好物とか」
「事件のことはいいのか?」
「それも聞きたいですけど、でも、アリサちゃんにある程度は聞いたし、でも、アリサちゃん本人のことは全然知らなくて」
「勝手に話してもいいもんかねえ」
ヒストリカがウィルを一瞥して、ニヤリとした。ウィルは苦笑した。
「恥ずかしがると思いますよ」
「アリサちゃんが恥ずかしがるところ、見てみたいなあ」
「どうかな。あれで意外と恥ずかしがらない。意表を突けばいけるがな」
「それ以外じゃ駄目なんですか?」
「頑固だからな。あと、滅多に笑わないから」
「笑うの、何度か見ましたが」
「それは君の前だからだろう、ケイトリン」
ケイトリンは一度だけ、ふっと表情を真顔のまま何十秒も固めて、それから目を細めると、なんとなく二人から視線を外して窓の外を見た。そして、息を吐いて、切なげな瞼を穏やかに伏せた。
「そうだと、いいなって思います。わかんないから、私だけだと。アリサちゃんは、多分言葉にしてくれないと思うけど」
「不器用だからなあ」
ウィルが言った。
「でも、覚悟はした方がいい、ケイトリンちゃん。アリサは、殺すんだ。絶対殺すんだよ。犯人が見つかったら、何の躊躇もなく殺す。もし今、どれだけの迷いがあっても、そんなのどうだっていいくらい、あいつは憎しみで一杯だから。だから殺すんだ。その時ケイトリンちゃん、君はアリサの横で、同じように接することができる覚悟を持ってほしい」
「殺す……殺すって、どんな気持ちなんでしょう」
「ハイブリッドだからね、きっと晴れ晴れとした気持ちになるのかもしれないよ」
「ウィル」
「すみません」
ウィルはヒストリカの鋭い瞳に、濁すような感触で笑った。
■
クイーンは夫であり王であるヘルヴィスと共に内密にヘルヴィニアを離れ、西都カルテジアスに向かう途中であったという。ヘルヴィスはその最中、非公式にリンドベール候へ挨拶をしに行った。クイーン・ロヴィーサは市民の出であったため、貴族としてふさわしくないと各地の諸侯から快く思われていない節があり、ヘルヴィスが取り計らったとしても、やはりそういった風評は完全には免れない。クイーンはそういった形式ばった謁見には基本的に出席しない姿勢を取ることにした。クイーンが今、ヘルヴィニア王と行動を共にしていないのはそういった理由があったのだ。しかし、クイーン一人というのは……護衛もいないのか。しかし、ローブに日傘といった風貌で服装もかなり庶民的であったため、お忍びのような形なのだろう。
「カルテジアス……ですか」
私はかの西都に、五年前のハルカの事件の容疑者の一人であるヲレン・リグリーさんがカルテジアスの学院支部にいることを思い出した。すでに四人の先輩方から話は聞いた。彼が最後の一人だ。今までずっと保留にしていたハルカ殺害の犯人を、どうにか彼の証言を元にして特定しなければならない。もし何か問題が出れば、もう一度各都市を回っても構わない。私はもうほとんど学院生であって学院生でないようなものだ。授業に出るつもりもない。出ても――出たとしても、ケイトリンと顔を合わせるのは嫌だし、そもそももう関わっていいのかも……そうだ、ヲレンさんに会ってもいいのか? カルテジアスに赴いたとしても、私が事件にまた関われば、クリスティンは私の知り合いを殺すかもしれないのに。
私たちはこっそりと船着き場に行き、切符を買っていた。グレーノ行きだ。西大陸のカルテジアスへ行くまでには、まずこのリンドベールの舟に乗り、西大陸の港町であるグレーノへ向かうのが近道だ。そうなると、クイーンは完全にカルテジアスへ行こうとしている。
「あの、私」
「あら? カルテジアスではいけません? 大きな街ですから、いろいろと楽しいと思うんですが」
「そのために行くんですか?」
「お金ならたくさんありますわ」
「お金の問題じゃなくてですね……そんなことやってる場合じゃ」
「では、何をやっている場合ですの?」
クイーンは切符を唇に押し当てて、こちらを見つめた。何も言えなかった。
「あなたは人質をとられているんでしたわね。あなたが事件に関わると、お知り合いの方を殺すかもしれないと明言された。なるほど、クリスティン女史はとても狡猾ですわ。あなたの両親の話まで持ち出して。けれど、それで臆してどうするのです」
「でも、だったら、どうすればいいんですか?」
「わたくしをお遣いなさいな」
「えっ?」
「わたくしも、この事件は大変気がかりなのです」
二人は船着き場のゲートをくぐって、切符を差し出すと、グレーノ行きの舟に乗り込み、まるでホテルのような内装の廊下を歩いて、二人だけが使うことのできる中程度に高級な個室に入った。さすが王妃だ。それからしばらくして、舟はゆったりと動き出す。窓からはさざ波の青いきらめきが見えた。クイーンは剣を二本壁に立てかけて、私を見つめる。私は何も崩さなかった。剣も腰から外さなかったし、ローブも脱がなかった。
「いいですか。この事件は、放っておいていいものではありません。誰も立ち止まってはならないのです。立ち止まれば、それだけの時間、学院に一手先をとられてしまいます。それではよくないのです。これは完全に勝たなければならない勝負。もしわたくしたちが負ければ、きっと大きな被害が出るでしょう。そういった類いの事件なのです」
クイーンはひたすら冷たい口調で語った。何か、夫を放って旅行に行くというような、奔放な空気や何か遊び心のある言葉遣いはすっかり息を潜めて、高貴な炎を宿して、ただ深刻に言葉を紡ぐ。
「ですから、あなたが止まってはなりません。もっともこの事件を、そして学院の思惑を破壊することに執着するあなたが……わたくしたちのような、何の痛みを持っていない他人よりもずっと、あなたはこの事件のために心を痛めて、そのためにいろいろなものを犠牲にされたのですから。あなたには勝利を手にする資格がある。いえ、勝利せねばあなたが浮かばれません。それなのに、何を厭うているのです?」
私は、その言葉がとても嫌だった。何か突き刺さるような言葉だけれど、買い被りにもほどがあると思った。気持ちは落ち込んでいたのに、そんな風に私を見つめるクイーンに、小さな反抗心のようなものが芽生える。
「私を特別扱いしないでください。悲しいことに心を痛めている人なんてこの世にはたくさんいます。誰かを殺したいと思っている人も、誰かに痛めつけられて、復讐したいと考えている人も。私はこれっぽっちも特別じゃないし、私だけがそのような痛みを抱えているわけじゃない。あなたの言葉には何の意味もない。私が特別である根拠にもならないし、そんなことはどうでもいい」
「そうです。あなたはそれでいい。けれど、あなたは特別ですわ」
「何が、そうなのです?」
「殺されたハルカ・フレイザーの妹」
「私を、煽っているんですか?」
「煽るとは人聞きの悪いことを。その通りのことを申し上げているのです」
「何が言いたいのです?」
「私の言葉にそんな風に反抗できるのに、何を戸惑っているのですか、と言いたいのです」
「――――私の両親が、殺されていたんです」
クイーンは表情を崩さなかった。初めて、この話は出したけれど、まるで知っていたかのような。私は、言葉にしたくなかった。言葉にする度に、事実として締め上げているような気がしたからだ。私の中の父と母は、もっと平穏な死を迎えたと信じて生きてきたのに、まさか、殺されていただなんて。私の知り合いが人質のような扱いを受けていることもそうだけど、両親のことも、きっと私の心に暗い陰を落としている。話したところで、どうしようもないのに。
「……シズカ様とエリス様、ですね。お会いしたことはありませんが」
「両親の死も、知っているのですか。それを殺したのが……殺したのが……ハイブリッドだということも」
「知っています」
「…………」
「心中お察ししますわ。それで動揺するな、という方が無理な話ではあります」
クイーンは両親の死の詳細を話し出した。
私の両親は、ハルカの予備校の入校式に出席した。その帰宅途中――私は暢気に家で待っていたわけだ――両親は何者かに惨殺された。ハルカ刃物で傷を負って重傷。それでも力を振り絞って通報して、王都警察が現場に到着。しかし、父と母はすでに死んでいた……。死体は、雷魔法が直撃したことを示す皮膚上の幾何学模様や、氷魔法による凍傷、炎魔法による火傷などがほぼ同時に受けているという異様なもので、並の魔法殺人ではないことは明白であった。人間は一人一気質が原則だからだ。それ故、犯人は別々の魔法気質を持った集団によるものと考えられたが、ハルカの証言によれば、犯人は……一人だった。
「フードを被っていた人間だったようですね。そして、ハルカ・フレイザーは刃物で怪我を負わされた」
「…………」
「それが十二年前の事件です。そして、五年前には……」
「やはり、口封じでしょうか……」
「その可能性はあると思います。けれど、そうすると疑問が生じてしまいます。なぜ八年間も、まったく何もしなかったのか。ご両親が殺されたのに、ハルカさんが生きていたのは、確かハルカさんは意識が朦朧としていて、あまり憶えていないという話でしたから、おそらくハイブリッドがハルカさんが死んだと勘違いしたのでしょう。それから、どうにか警察を呼んだ。だから彼は生き残った。後に、ハイブリッドはハルカさんが生きていることを知り、殺す機会を狙っていた。だとしても、なぜ八年経ってから殺したのでしょうか?」
「…………」
「それも、衆人環視――例えば口封じで殺すだけなら、誰も見ていない場所でやれば追及されることはなかったでしょうに、なぜわざわざ学院の入学試験の最中に殺人に踏み切ったのでしょうか。あの場にいたのは七人……ハルカさんを除けば六人ですから、容疑者が絞られてしまうことになってしまいます。もっと人目のつかない所であれば容疑者は不特定多数になりますのに、なぜわざわざそんなところで殺人を行ったのか……」
「…………そこで行うことに意味があったのでしょう」
「その通りです。しかし、それが何なのかわかりませんわ。あのようなところで行うことに何の意味がありますの? それは、自分が容疑者の一人に確実に含まれてしまうというリスクを払ってでも為さねばならないことだったのでしょうか」
「――――」
事件の話を聞いていると、何か、自分の中にある自分が離れていく。話を聞いている私。何か、こんな。相手がクイーンだとしても。とても、苛立つ。意味? リスク? いったいそれがなんなのだろう。今、少しずつ冷静になっている。私がやろうとしていることをやりきろうとすれば、クリスティンは私の知り合いを殺しに出る。そして、私の両親が殺されていたという事実。そうしたものが、私を戸惑わせて、混乱させている。そんなことは自分でもわかっている。
でも、どうしようもなく、事件の話を聞いていると、こんなにも腹立たしくて、何かを壊したくて仕方がなくなる。痛みで胸がいっぱいになる。ウィルと事件の話をしている時、先輩に話を聞いている時も、こんな気持ちになる。もどかしい。――今は特別、いつも以上にこの気持ちに苛まれた。なんで、こんなことになっているのだろう。そんなこと、どうでもいいって。そんなこと、どうでもいいから……自分の中の自分が言う。動機なんてわかっても、どうしてあの場所で殺したのかがわかっても、その人物がハルカと両親を殺したことには変わりはない。そうしたものがわかれば、犯人特定に繋がることはわかっている。あの時、もっとも得をした人物が犯人だ。でも、でも殺したことはねじ曲がらない。
「あなたはクリスティン女史に脅されたのでしたわね。そうなると、学院はハイブリッドと繋がっている。その繋がりはいつできたものなのでしょうね……わからないことがたくさんあります。全てにおいて、まだ学院が優勢にあると言っていいでしょう。これが盤上の対決ではありませんが、しかし学院の策略は未だわたくしたちの上を行っている」
「――……でも、私はどうすればいいんでしょうか。何もかも上を行かれているというのに、またしても私は封じられるようなことを。こんなことで…………」
「私がやりましょう」
クイーンは私の前にゆっくりと膝をついてしゃがみ込むと私の左手を取った。
「何を……っ」
「わたくしが、あなたの手となり足となります、ということですわ」
「馬鹿な……あなたはヘルヴィニアの王妃なのですよ! そんな不敬なことは」
「いいえ。今だけはそういったものはなしにしたいのです。――アリサ」
彼女の指はとても細くて、でも温かかった。私はクイーンのような、きっと自分にはまったく関わり合いの無いような遠い存在までも、同じように血が通っているということに驚いた。そして、私の前に跪いて、手を取って、私のために動いてくれるなどと言っている。現実味がなかった。けれど、彼女は私を、名前で呼んだ。
「どうして、そんなことを」
「――王妃が国のために、命を投げ出さないことがありまして」
「命――あなたが死ぬ、のですか」
「結果的に死んでも構いません。あなたが勝つなら――あなたが勝ってくださるなら」
「勝ち――私が、ハイブリッドを殺し、学院の陰謀を崩す、ということですか」
「そうです。あなたがもし、今あなた自身の行動によってその真実に近づくことを厭うというのなら、わたくしがあなたの代わりになりましょう。あなたが誰かの元へ行けというのであれば、その通りに致しましょう。戦えというのなら戦いましょう」
「私が勝利しても、誰にも死んでほしくないのです」
「しかし、あなたが負ければ――もっと多くの人間が死ぬのですよ」
「どういうことです」
「それは、いずれウィルフレッド・ライツヴィルとご一緒の時に。とにかく、あなたは立ち上がらなければならない。あなたはわたくしたちの、希望なのですから。そう、あなたのためならわたくしも、死んでいいのですわ」
「死ぬなんて、許さない」
「怒りましたか?」
「私がなぜ戦ってきたのか、あなたは知っているのに、死んでもいいなんてよく言えたものです。私がなぜ今惑うているか、あなたは聞いたばかりだというのに。なぜ死ぬことができるのですか? 私は兄の死をこんなにも引きずって、その恨みのために生きているのに、これ以上私に死の痛みを刻み付けないでください」
「死が怖いですか? 痛みが、恐れが」
「痛いです。あなたは経験したことが、ありますか?」
「ありません。だから、わたくしはあなたがかわいそうです」
「同情ですか?」
「なぜ同情してはいけないのです? わたしは、あなたがとてもかわいそうです。アリサ。あなたは幸せになれたかもしれないのに、全部全部を捨てて、痛みだけのために生きて、けれど、今度はそんな、誰かの生命のために動きを止めてしまう。その努力も涙も、全部泡にしてしまう。いったい誰が悔しいのか。それはもちろんあなたですわ。そしてわたくしも、あなたの心を想うと痛くてとても、辛いのです。悔しいのです」
「――……」
「だから、あなたに幸せになっていただきたいのです。そして、もう誰も辛い目にあってはならない。辛いことはたくさんあるけれど、もし防ぐことのできる悲しみなら――あなたのように、誰かが勝手に起こした痛みによって泣き連ねることが少しでも防ぐことができるなら、わたくしはそのために働きますわ。王妃とは、そういうものですから」
「幸せになんてなれない。私は人を殺すのよ」
「それが、あなたの幸せであろうとなかろうと、あなたの望みであるのなら。しかし、それを為すためにあなたはたった一人で歩まなければならないわけではない」
「――…………」
「ふふ、そんなに不安に思われなくとも、わたくしはそう簡単に殺されはしませんわ。あなたも認める通り、剣には自信があります。あなたも守ってくださる。それに、学院とて王妃を殺すでしょうか? 学院もそれはわきまえているでしょう」
「そんな保証はないのですよ」
「保証など最初からないのです。全てが賭けですわ。そう、あなたはそういう生き方を選んだじゃありませんか」
強い瞳。
なんて濁りのない。
彼女は静かに立ち上がって、私と同じような視線を持って見つめる。
「だから、あなたはもう、一人で戦っているわけではないのです。わたしがお手伝いします。きっとウィルフレッド・ライツヴィルも、そしてあなたのお知り合いの方々も同じように思っている。例え全ての始まりがあなた自身の問題であろうと、それに立ち向かうことさえもたった一人だなんて、そんなの、悲しいではありませんか」
何か、私は彼女に強く望まれている。私はそれほど大それた存在じゃない。もっと汚くて、幸せとか、そんなのとは無縁だ。私はずっとずっと自己中心的で、他のことなんて簡単に投げ出してしまえる。でもそれくらい、生きることが簡単だ。自分のことだけ考えていればよかったから。でも、今は他人の命のために立ち止まっている。誰も殺させてはいけないから。でも、クイーンは……彼女は、私より深く大きく、心を痛めているのだ。そして、焦っている。その美しく高貴な佇まいで、私をこのように諭しながら、きっと恐れている。そして、本当にハイブリッドを止めるために苦心しようとしている。精神的な高貴さを、その指に、表情に垣間見て、私は自分がとても恥ずかしくなった。私はなんて、世間知らずで、こんなにも弱くて、矮小なんだろう。全部全部、学院の思うまま。翻弄されて流されて、方法も考えないで、悩んでばかりで……私は強いなんてありえない。弱い、情けないほど弱い。それがとても恥ずかしくて、彼女が私のために跪いていたことがとんでもないことだと思い知った。私は、そんなにも素敵な存在じゃないのに。
「私は――――」
その瞬間、舟が大きく震動した。
「な、に――っ」
クイーンは何かに気付いたように、窓に手をやって、外に体を乗り出した。私は彼女と同じようにして窓枠に手を掛けて外を見る。空の色が映し出された、そして舟の動きに呼応するような白い波が立った海面。しかし、その先の海に、明らかに異質な黒い何かが大量に浮いていた。あの色は……。クイーンは、唇を噛み締めた。
「クレイドール……ですわね」
「海にレプティル型!? どうして……」
「わかりませんわ。けれど、以前から突然クレイドールが現れるのはよくあることです。しかし、海上というのは――それに、あまりにも……」
「クイーン……?」
「アリサ。行きますわよ」
彼女は壁に立て掛けた剣をすぐに二本掴み、部屋から飛び出そうとした。
「待ってください!」
「なんです」
「私は、私も戦っていいんでしょうか? これは、学院の策略ではないのですか? もしかしたら、クレイドールでさえ学院の手中にあるのかもしれない。メリアとハヴェンは、クレイドールを従わせることができた。そのメリアとハヴェンを実験体にしていたのは学院です。だったら、クレイドール自体が学院の手のうちかもしれない。それなのに、私が戦ったら」
ドアノブに手を添えて、クイーンはこちらを振り向く。
「この舟に乗っている人間と、あなたのお知り合い。あなたがどちらに天秤を傾けるか――という話ではありません。ここで負けてはならないのです。あなたは一つ、選択肢を忘れていますわ。それは、あなたが守るということ。あなたの守りたいと思う、その瞬間確かに芽生えた気持ちのために、戦えばいいのです。あなたはお知り合いを失いたくない。では、あなたが守ればいいのです。今この時、わたくしはここにいる人たちを失いたくない。だから戦いますわ。あなたはどうですか?」




