表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/56

疑惑の霧③

 どうして、ここにいるの。

 私はまだ痛む胸を抑えながら、反対方向へと駆け出した。待て! というウィルの声が聞こえる。廊下を二度曲がり、適当な窓を開けると、外へ思いきり飛び出した。魔法浮遊は基礎的な技術だが、戦闘や実践、演習や授業以外での使用を禁止されている。けれど、そんなことはどうでもよかった。私はゆっくりと宙を落下し、最後に魔法を一撃地面に放って着地した。

 クリスティンにやられた時は、魔法が一時的に使えなくなった。けれど、解放されて落ち着くと、再び魔法は使えるようになっていた。けれど、いつもより不自由だ。全力を出し切れる気がしない。――クリスティンの思い通りだ。私は、動揺して、精神的に何か揺さぶりを掛けられてしまった。悔しいけれど、その通りだ。魔法の威力が弱まってしまった。今、誰かと戦うことになったらきっと勝てない。舌打ちして、校舎の側を駆け出す。私が飛び出した窓の方から、誰かの呼ぶ声がする。師匠だ。どうして、どうして師匠がここにいるのだろう。――ウィルだ。ウィルが師匠に相談したんだ。

 私は行く場所に困り、学院前の駅へと急いだ。寮には帰れない。ケイトリンにはもう会う資格がない。会ってはならない。ウィルも、師匠も、私は誰にも会うべきじゃない。だって、いつだって見られているかもしれないからだ。私がみんなを近づければ、殺されてしまう。ハイブリッドは、私を苦しめようとしているからだ。私を狙わないで、私に近づく人を殺そうとしている。どうする、どうすればいい。違う、そうじゃない。だったら、私は……。

 平日のお昼で、適当な列車に乗り込んだ。列車は空いていた。誰もいない。隣の車両にはまばらにいる。けれど、ここには誰もいない。列車が動き出し、景色が流れ出していく。私はその場にへたり込んだ。息切れに呼吸を繰り返す。リンドベール行き……リンドベール……西大陸の最大の港町。カルテジアスに行くには最も便利な船の便が出ている……カルテジアス。確か、ヲレンさんが、いるはず。――――駄目よ、もう事件を深追いするのは。

 でも。

 だったら、私には、何が残っているの?

 復讐のために生きてきたのに、それをもうするなと言われた。そうでないと、親しい人を殺すと脅されたからだ。クリスティンは本気だ。あの学院は、メリアとハヴェンの実験のように、人の命を何とも思っていない。クリスティンの命令で動いているとは言えないけど、パーシヴァルなら確実にやる。そしてパーシヴァルの命令に完璧に従うクリスティンは、やはり学院の領域で、彼女の言葉はパーシヴァルの言葉だ。簡単に殺す。誰も、皆。皆、殺される。

 復讐をしないまま終わって、親しい人にも出会わない生き方。

 それは、私の完全否定だ。

 本当は従いたくない。そんなの関係ないって、このまま真実へと突き進みたいのに。

 ゆっくりと立ち上がり、窓に対応するように据えられた長椅子に座り、窓の外を眺めた。ヘルヴィニアの城壁を抜け、草原が遠くまで広がっている。溢れそうな緑と太陽の輝きに、唇を噛み締めた。

 天秤に掛けている。

 私の大切な人を殺した人間と、私の大切な人。

 もし殺されたなら、殺してやる。私の大切な人は、ウィルと、師匠と、ケイトリンだった。ケイトリンはもう私の大切な人じゃなくて、もう私の前には現れないけれど、でも、万が一ということもある。ウィルは言わずもがなだ。師匠のことは学院が知っているかわからないけれど、でもハイブリッドや学院が私と師匠の繋がりを知っている可能性もある。

 どっち、を取ればなんて。

 苦いような甘いような味がする。唇から血が出ていた。手のひらを見ると、強く握り過ぎて、爪が手の内側に軽く突き刺さっていた。その血が流れて行くのを見て、どうすればいいのかわからなくなった。何をやってるんだ、私は……。悔しい、こんなに、こんなにも悔しいこと、初めてだ。ハルカを殺されたことは、悲しみと怒りだった。でも今は、全部全部、何かの手のひらの上で踊っているみたいで、それが途轍もなく悔しい。情けなくて、本当に情けなくて。手のひらを祈るように絡ませて握り、額に押し当てた。

 ハルカ、どうすればいいの……私は、あなたを殺した犯人を殺したい。だけど、そうして殺すために一緒にいてくれた人たちが、代わりに殺されてしまうかもしれない。どっちを選ぶ。選べないわよね。怒られる? 死んでいる人のことと、生きている人。もしかしたら、やっぱり生きている人を大事にするのが正しい? でも、それでは割り切れないものがある。だけど、だけど、だけど……否定だけの思考。ハルカ、私は何のために、ここにいるの。私は、私……。

 人と繋がることが、こんなにも辛いことだったなんて、知らなかった。

 学院に来て、ケイトリンに出会って、思い知った。私は、一人で生きてなかった。ウィルや師匠のような、本当に小さな繋がりだったけれど、私には確かに、この世に自分の行動を確実に制止させるような、かけがえないものがあった。あってしまった。それを知ってしまった。だからこそ、今、私に枷がはめられて。でも、ウィルや師匠やケイトリンがいなければ自由ななのにだなんて、どうしても思えない。復讐に身を燃やして、頑張ったのに、どうしても、切り捨てられないの。彼らが殺されてしまうかもって思うだけで、何か、自分の中の力が抜けてしまうの。彼らに出会わなければよかった、なんて思わない。でも、そのことが私を繋いで、動けなくなるようになってしまうなんて。

 もう、いろいろと分からない。

 私が何をしたかったのかも。

 お父さん、お母さん……。

 ハルカ……――。







「しまった、逃げられたか!」

 ウィルとヒストリカは駅まで追ったが、列車は二人の目の前で出発した。アリサの背中は見えたが扉は閉まってしまった。リンドベール行き。次の便までは一時間以上ある。ウィルは肩を落とした。

「どうします? 次のを待ちますか?」

「できればそうしたいが……まず先に話を聴くべき相手がいるだろう」

「……ケイトリンちゃん」

「ちゃん付けしているが、お前は彼女の知り合いなのか?」

「いえ、まったく知りません」

「そうか……まあそれは構わない。ほら、彼女は私たちの方に走って行って、私たちに気付かないで横を抜けて行った。なんだか泣いていなかったか?」

「確かにそんな感じがしました。目元を腕で拭うようにしながらというか」

「それで、いざそちらに行ったら、アリサの様子もおかしかった」

 アリサは廊下にしゃがみ、何か小さくなっていたのを思い出す。

「つまり、ケイトリンはアリサに何か言われたのだろう。それで、泣き出してしまった」

「ショックなことを言われたんでしょうね」

「泣き出すほどのことか」

「そもそも、アリサがなぜ俺たちから逃げるのかがわからない」

「それだ。アリサはケイトリンも含め、我々を避けようとしていたんじゃないか? さしずめ、ケイトリンに『もう近づくな』というようなことを言ったんだろう。巻き込みたくなかったか、もしくは……」

「え、今更ですか? ケイトリンちゃんはアリサの初めての友達のような感じだったのに」

「確かに今更だ。巻き込みたくないなら、もっと前からそのように働きかけたはずだ。今更『もう近づくな』というような言葉を掛けるにしては遅すぎる」

「つまり、クリスティンに何か言われたんでしょう。だから、以前から親しい人間に『もう近づくな』と言わなければならない事情がアリサにできた」

「そうだな。まあ、そんなところか。とりあえず、ケイトリンに会いに行こう」

 二人は踵を返した。

「アリサの初めての友達だそうだからな」

 ヒストリカは微笑んだ。





 リンドベールに到着して、いったい何をすればいいのかわからなかったけれど、適当なベンチに座って街の眺めを見ていた。海港都市リンドベール。商人の都市。街を行く人々は何か大きな荷物を持っている人が多く、どこかに向かって目的を果たしに行くような、そんな素振りの人間ばかりだった。きっと物を売りに来たり、買いに来たり、目的に見合っただけの足取りが一人ひとりにあるのだろうとわかった。私はぼんやりと眺めて、自己嫌悪に時間を潰した。

「あらあら、浮かない顔をしていますわねえ」

 自分の視界がふっと陰る。傍に人が立っていて、私の顔を覗き込んでいた。女性だった。私より、少し年上だろうか。日傘を差して、さらに全身を茶色いローブで包み、フードを被っている。フードの内側から茶色い髪がふわりと垂れている。私は座っているから、角度的に彼女の顔が見えた。綺麗な人だった。日傘にフードとは違和感があるけれど……まるで顔を隠しているような、そんな印象を受けた。お化粧をしているのに、隠すのはもったないとさえ思った。彼女はにこやかな笑顔で問いかける。

「こんなところで何をしていますの?」

「何って……何もしていません。見ればわかると思いますけど」

「うふふ、そう? 考え事していたんじゃなくて?」

「だったら……だったらどうなんですか?」

 つい、強い口調になってしまう。他人に、見透かされたくないという反抗は幼稚だと自覚しているのに。

「わたくし、リンドベールにはカルテジアス行きの船に乗るために来たんですけれど、夫が知り合いに挨拶してくると言って、わたくしを置いて行ってしまったのです。船の時間はまだあるにしたって、寂しいですわ」

 と、今度は突然愚痴のようなことを漏らし始めた。はあ……と、元気のない相槌を打つことしかできなかった。

「ええと、一緒に行けばよかったのではないですか? その、旦那様と」

「ああ。それは言われたのですけど、断りましたわ」

「断った?」

「ええ。少しだけ事情がありまして。形式ばった挨拶などは嫌いなのです」

「誘われたけど断って、それで置いて行かれたって怒るのは、ちょっと本末転倒な気がしますけど……」

「まあ、仕方がないところもあるんです。夫も立場が立場ですから。それよりも、お暇?」

 笑顔を絶やさない人だ。まるで、ケイトリンのような。

 ……私は彼女の最後の表情を思い出して、再び気分が沈みかけたが、どうにか言葉を用意する。

「暇と言えば、暇です」

「こちらには何用で来られたのです?」

「特に、用は……」

「学院生ですわね? 昼間は学院に行かなくてもよろしいのですか?」

「……行く気分になれなくて、出てきたんです」

「あらあら。では、わたくしと遊んでいただけません?」

 彼女は、日傘を支えていない手を、すっと私に伸ばした。







 二人は学院の事務室へ行き、ヒストリカは名前を告げ、ケイトリンの寮の部屋番号を教えてもらった。普段は尋ねても教えてもらえないが、ヒストリカであるということが、そのまま事務員に行動を促してしまった。ウィルは感心する。

 ヒストリカさんは今でも十分に有名人だ。隠居してしまって、今の新入生くらいの世代は顔までは知らないかもしれないけれど、名前だけでも誰もが驚くのだろう。素直に寮の部屋番号を教えるというのもどうかと思うが、まあそれだけヒストリカさんは信用に値する人物として、多くの人が認知しているということだ。

 二人はすぐにケイトリンの部屋に向かった。

「邪魔するぞ」

 ノックをして入ると、ケイトリン――らしき金髪の少女は、ばたばたと駆け寄り声を荒げた。

「わわわ、だ、誰ですか! って、男の人もいるじゃないですかもう、男子禁制ですよここは!」

「うーん、意外と立ち直りが早いな」

 ヒストリカは微笑み、ケイトリンの頬に手を添えた。

「もちろん、目元の赤みは隠し切れないが」

「うっ、な、なんですかいきなりもう!」

 ケイトリンはヒストリカの腕を弾き、数歩後ずさった。ウィルは額を抑えて溜め息を吐く。

「ヒストリカさん、いきなりすぎます。きちんと説明しましょう」

「そうだな。初めまして、ケイトリン。私はヒストリカ・スウィートロード。こっちは、ウィルフレッド・ライツヴィル。私はアリサに魔法と剣を教えた。そしてこのウィルは訳あってアリサと協力している」

「アリサちゃんの、お師匠さん。それに、あなたが……ウィルさん」

 急にふっと表情を落ち着かせる。

「なんだ、私の話もしていたのか。だったら話は早い。アリサのことを、一緒に話そう」





 街のはずれにある丘の高い場所までは、大理石の階段を使って登ることができる。女性はずっとはしゃいだ様子で階段を登り、時折私に振り返って、はやくはやくと促した。私は何をやっているんだろう。でも、何かをしなければならないような、明確な何かがぼやけている。急がなければならない問題はたくさんあるかもしれないけど、でも、力が湧かない。そんな時に、見ず知らずの女性と街をうろうろしていていいのだろうか。女性はとても楽しそうで、そんな笑顔の反対に、もやもやと心を濁らせているのは、失礼なことかもしれないと思って、なんとかついてきてはいるけれど。

「ここに、一度来てみたかったのです。リンドベールの壮観な港を一望できる丘」

 観光名所のようなところで、一番高いところへ辿り着くと、丘と水平に切ったような場所に出る。円形になっていて、奥の方に柵があり、そこからはリンドベールの大きな港と海が眺望できた。彼女は日傘とさしたまま、そしてフードを被ったまま柵に片手を添えた。感嘆の息が漏れる。私は彼女の少し横へ行き、同じように景色を眺めた。青い、海。茶色い煙突や古びたような外観の港は逆に雄大だった。船が出発した白い波の動き、風のかおりに潮のにおいが混じっていて、彼女の日傘が静かに揺れる。彼女は何も言わないで、ただ景色を眺めているようだった。横顔は見えない。フードが隠しているからだ。周りには誰もいなかった。私たちだけ。何も言わないままだと、ただ風の音だけがここにあるような気配。

「何か、悩みがあるんですの?」

「悩み……」

「話してくださらない? どうせ赤の他人ですわ。その方が、話しやすいのではなくて?」

「…………単純に、どうすればいいのかわからないんです」

「どうすれば?」

「私はやりたいことをすれば、知り合いを殺すと、脅されたんです」

「…………」

 そこでやっと、彼女がこちらを向いた気がした。

 知らない人だから話しやすいということではない。本当は、誰にだって話すべきことじゃないけど、でも、きっと何かを曝け出してしまいたかった。なんでもない、具体的な言葉じゃなくても、誰かに教えてほしかった。この行為は、決して真実に近づくものじゃない。誰かの言葉を受け取る程度なら、許される、許されると言い訳をする。そうでなくても、何か、自分の内側にある燻った予感は、消えてくれない。このままじゃ駄目だと、知っているから。

「それはなんとも、恐ろしい話ですわね。常に戦いに身を置いてらっしゃるかのような」

「そうです。でも、どうすればいいのか、わからない」

「やりたいことを諦めることも、恐ろしいでしょう」

「……恐ろしい、そうかも、しれません。だってやめてしまったら、私……」

「そのことだけに、今まで全力を注がれてきたのですね。だから、あなたは怖い。生きる意味が、失われる」

「…………」

「でも、それっておかしいことではなくて? 別に諦めてしまっても、あなたは生きていますわ」

「そうじゃない。勝手なことを言わないでください」

「勝手なことが言えるのは、他人の特権ですのに」

「でも、何も知らないでわかったように口出しされるのは、やっぱり腹立たしいことです」

「そう。まだ怒れるだけの誇りはあるのですね?」

「わざと挑発しているのですか?」

「挑発なんて人聞きの悪いことを……何も怒らせたいわけではありませんわ。わたくしは純粋に、あなたに元気になっていただきたいだけですのに」

 フードの暗がりから覗く碧眼には、微笑みと共に高貴さがあった。誰なのだろう、この人は。私の知っている人、なのだろうか。向こうはもしかして、私のことを知っている? 学院の刺客だろうか。でも、今は私一人で、学院が私に何かをしてくるには少しだけ唐突すぎる。クリスティンにあのようなことを言われて、まだ一日も経っていないというのに。

「……あなたは、何者なんです」

「普通そのような尋ね方は、わたくしからするのが常ですから、とても新鮮ですわね」

「どういう意味ですか」

「いいでしょう。あなた、お名前は何と言いますの?」

「……アリサです」

「アリサさん。わたくしと、一戦交えてみませんか?」

 彼女は日傘を閉じて柵に立てかけると、ローブの両袖から剣を取り出した。







 ケイトリンはテーブルを用意してはお茶を入れ、慌ただしく動いた。ヒストリカとウィルは用意された椅子に座って、ケイトリンの様子を見つめる。何を慌てているのか、分量を間違えたり、お盆から零しそうになったりと見ていて危なっかしい。あわわわと、口元を震わせながら表情をころころ変える様は微笑ましくもあった。

「すみません、お待たせしました」

「いや、お構いなく。ここはアリサの部屋でもあるんだな」

「はい。でも、あまり一緒にここで暮らした思い出はないんですが……」

 アリサは上級生に会うために都外研修ばかりだ。ケイトリンと一緒にここで眠ったことも数回しかないのだろう。ウィルはケイトリンが痛ましいような表情をする度に、それがとてもかわいそうに思え、同時にまた少しだけ嬉しくもあった。あのアリサに対して、こんな風に悲しげな表情をしてくれる友人が出来たのだ。こんな表情をしてくれている。アリサのことをきちんと想ってくれている。数年間、復讐に身を任せてきたアリサにそんな人が出来たということがウィルは安心させた。

「ええと、あなたがウィルさんで……」

「うん。よろしく」

「アリサちゃんと一緒に暮らしていたんですよね?」

「そう。アリサから話は聞いていると思うけど、アリサは身寄りを失くして、俺も親父がいなくなった。まあ、利害の一致って感じかな。どうせどっちも親がいないし、あの時出会ったのも何かの縁だったろう。それにあの時のアリサの状態はそれはもうひどいものだった。あれを放っておくことはできなかった」

 ハルカを失ったと知ったアリサは、完全に壊れていた。ウィルは思い出す。

 何時間も、何十時間も、何日も泣き続けた。ウィルの家の空き部屋のベッドで布団にくるまり、朝も夜も泣き声と嗚咽が響いた。食べ物を用意してもまったく食べなかったし、泣きやんだと思ってやっと何かを食べさせようとすると、ふっと涙がこぼれて、料理の容器に涙が混じった。ごめんなさいごめんなさいとウィルに謝った。目が真っ黒で、生きている人間を相手にしているとは思えなかった。ベッドに倒れて、何か月間も暗い部屋に潜っていた。ウィルはそれを見ていられなかったが、彼は学院試験の対策を始めた。彼は彼で、その事件について自分で確かめる決断を早くに決めていたのだった。そして半年ほど経った時、アリサはゆっくりと部屋の扉を開けると、ウィルに静かに告げた――……。そこで回想を切る。

「ケイトリンちゃん、君を撒きこんで悪いと思ってる。本当は、全部アリサの問題なんだ。そして、俺の問題でもある。君がこの件について胸を痛めたりする必要はまったくない。でも、君がアリサのことを想ってくれているというのなら、それはとても嬉しいことだ。俺からも礼を言うよ。ありがとう」

「ええ、いや、そんな……」

 ケイトリンは手をばたばたさせる。それから、目をぱちぱちさせて、視線を泳がせた。

「そんなこと、あの、全然違いますから。私が勝手にアリサちゃんの友達になれたって勘違いしていただけなんです」

「というと?」

「迷惑だったみたいで。あの、さっきのことですけど、大嫌いって言われちゃいました」

 ケイトリン笑った。

「うざったいとも言われたし、結構ずきっとくることも言われちゃったので。やっぱり、アリサちゃんと仲良しだって思ってたのは私だけだったんだなって思うと、悲しくて」

「涙が出てしまった」

 ヒストリカさんが真顔で言う。

「え、え、え。なんで知ってるんですか!」

「泣きながら走って行く君とすれ違ったんだ。憶えていない?」

「憶えてないです。そうですかー、あはは、みっともないところを見られちゃったな」

 ケイトリンは照れたように頬を人差し指でぽりぽりと掻いた。

「みっともないなんてことはない。それはアリサが悪いさ。事情があったとしても、酷いことを言った」

「事情……事情なんて、あるんですか?」

 ウィルはルクセルグでの一件を彼女に話した。あの襲撃事件の犯人として、内密にクリスティンに拘束され、おそらく二週間、クリスティンがアリサに何らかの働きかけをしたということ。ウィルが話を聴く限り、アリサは決してケイトリンを嫌っていなかったこと。むしろ少しだけ嬉しそうだったこと。ウィルにはわかるのだった。

「アリサちゃんが、私の話を……」

「きっと動揺していたんだろう。初めての友達だから」

「ウィルさんは違うんですか?」

「俺? いや、俺は友達というか、協力者かな。表現がよくないかもしれないけど、保護者と言ってもいいのかもしれない。あんまり友達って感じじゃない気がする。アリサにとってもそうだろうし」

 ウィルはアリサと対等な気持ちではあったけれど、ハイブリッドを殺したいという気持ちは、きっとアリサには敵わないと内心思っていた。もちろん父親に関することで何か分かれば、決してハイブリッドを殺すことは厭わないし、学院を潰すのだって迷わない。しかし、アリサがあれだけの努力をしたのだから、きっと土壇場になれば、彼女の望む復讐を後押しするだろう。彼女に人を殺させていいのか。黙認してもいいのか。そう言われるとしても、アリサ自身が望んでいることをやめさせる権利などないし、むしろ彼女の行為は当然だし、理に適っている。だからこそ、一緒にハイブリッドを殺そうという気持ちはそれほどない。つまり、友達のような一言で言い表せるような関係ではないと考えているのだった。

「話をまとめると、アリサはおそらくクリスティンに何か釘を刺されたんだ。あいつはハイブリッドと学院の悪事を暴こうとしている。だから、それ以上関わると親しい人間を殺しますよ、というような……」

 ヒストリカが言った。

「本当ですか……?」

「だっておかしいじゃないか。私とウィルもさっきアリサに一度会ったんだ。だけど、何にも言わないで逃げ出してしまった。最近いろいろなことがあって、むしろ私たちは話をした方がいいというのに。ウィルはこのところずっとアリサと会っていないし、私なんて半年以上も会ってない。だから、話題なんて山ほどあるんだが、それはアリサにとっても同じのはずだ。彼女は私たちに報告することがたくさんある。それなのに避けるなんて、何かおかしいとしか思えない。そして、今更ケイトリン、君に酷いことを言う。なら、導き出されるのはそういう事情だろう」

 ケイトリンの顔が驚きに変わる。

「じゃ、じゃあ、さっきのは嘘ってことですか?」

「いや、わからない。君のことは本当に嫌いなのかもしれない」

「がくー」

 ヒストリカさんはにやりとした。

「でもケイトリン。君の人柄はとてもわかりやすくて、素敵だ。アリサが君のことを嫌いになるはずがない。嫌いと言って見せたりしても、それはきっと強がりだ。さっきも言ったように、アリサは今までハルカ――あいつの兄だが、そのハルカにずっと育てられた。そして、彼を失って、ウィルと私に五年間育てられたようなもので、交友関係が極めて狭い。ケイトリン、君のような人はあいつにとっては本当に未知の存在で、接し方がわからないんだろう」

「そうでしょうか……」

「多分、今頃ものすごく後悔していると思う」

「…………」

「何か心配か?」

「心配しかありません」

 ケイトリンは俯いた。

「危なっかしいんです。アリサちゃん、怖い顔してて、でも時折悲しい顔をするから、可哀想なんです。こんなの、私のエゴだし、可哀想だからっていう理由じゃないけど、でも、見てられなくて。だから、勝手にいなくなったりするとすごく心配で。今度のこともそうです。嫌われたかもしれないけど、でも、アリサちゃんのことを考えてる。考えているのに、どうすればいいかわからないんです」

 ウィルはケイトリンを尊敬した。彼女には、一方的なものしかない。アリサと二人で育んでいくはずのものを、自分一人だけでもなんとか作り上げてみようと、とにかくその心で動き出そうとしている。友情も、時間も、機会も。可哀想。アリサはとても可哀想なのだ。誰が見ても、不幸なのだ。圧倒的な不幸。ケイトリンには、押し付けがましさはあっても、ひたすら誰かを想う気持ちだけがそこにある。誰かを見過ごせない。そう、きっと二人はどちらも初めてだったのだ。ケイトリンは今までずっと、何かを気にかけて、不安な表情をしている誰かとも簡単に仲良くなれて、多くの友達に囲まれてきた。その笑顔で誰かを救ってきた。だからこんなにも悲しい過去を持っていて、アリサのために何とかしたいと思っても、何かできることはないかと考えていても、何もできない自分にうちひしがれているのだ。アリサのために何をすればいいのか分からないのだ。だから、ケイトリンにとってもアリサは、とても未知の存在だった。だからこそケイトリンはとても悲しい顔をして、泣き出すことができる。なんて素直な子なのだろう。ウィルは驚いてばかりだった。

「君は何もしなくていい」

 ヒストリカさんは言った。

「何もしないことが、アリサのためになる」

「それじゃあ収まりつかないんです!」

「君はアリサのために命を投げ出せるのか? この事件は、生半可な覚悟で関わっていいものじゃない。アリサは君をとても大事に思っている。君を巻き込みたくないと思っている。だから、私たちもその意志を君に伝えよう。『君は関わるな』――アリサがそう言うのなら、私たちもそう言おう」

「…………」

 そう。

 これは、殺人が起こり得る事件だ。学院も相当に人を殺してきているだろう。いろいろな恨みをかっていることは間違いない。そういうことに躊躇がない。アリサは甘く見ていたのだ。ケイトリンに話してしまうこと。それは、誰かに知っていてほしかったからかもしれない。けれど、まさか学院が自分の交友関係から誰かを殺そうと仕掛けてくるとは――入学式で宣言したのとはまるで違う方向で、確かに誰かを狙い撃ちするような形でアリサを苦しめるとは思わなかったのだ。――もちろん、アリサがどのようなことを言われて、ケイトリンや自分、ヒストリカを避けているのかは知らないが。

 だから、やはりここでケイトリンは止めておかなければならない。

 だが。

「――でも、アリサちゃんとこれでお別れなんて、嫌です」

「…………」

 唇を噛み締めて、拳を握りしめて。

「死にたいわけじゃない。死にたくはありません。学校は楽しいです。友達もたくさんいて、皆と一緒にいるのはとても楽しいです。でも、アリサちゃんの顔がちらつくんです。これは自己中心的でしょうか。でも、私、私の知っている人は皆、笑っていてほしい。それって、ただ私が気分良くなりたいだけですけど、でも、アリサちゃんが悲しいのは嫌です」

「君に何ができる」

「何もできません。私は無関係です……邪魔かも、しれませんけど、でも。それでいいやって、これではいおしまいって、アリサちゃんとお別れなんてできるわけがありません。あんな終わり方じゃ納得いかないんです! いいですよ、アリサちゃんと友達を止めても。いつか一生お話しなくなっても構わない。でも! あんなお別れの仕方だけは嫌です。お別れするなら、笑顔でお別れした方がいいです。そういう、もっと納得した形で縁を切った方が気持ちがいいと思います」

「縁を切ること前提か」

「だって、アリサちゃんは私のこと嫌いかもしれないじゃないですか! お二人が何を言っても、もしかしたら本当かもしれない。だから、私はもうお話できなくてもいいですよ! でも、納得できないじゃないですか! 意味分からないし! どうせなら晴れやかな感じでお別れした方がいいんです! だから、ああいう気分の悪い感じで終わってしまうのが嫌で――だから」

「だから?」

 ケイトリンはこちらを真っ直ぐに見つめた。

「アリサちゃんのために、何が出来るか教えてください。関わるかどうかは、私が決めます。そして、今決めました。やっぱり、アリサちゃんのことは放っておけません」

 長い沈黙。ウィルは息を呑んだ。同時に、驚かされ続けて、この子がアリサの友達になってくれてよかったと思った。アリサと彼女がこれからどうなるのかは知らないけれど、もし無事に終われば、きっとケイトリンの存在が、アリサのこれからを導いてくれるとさえ思った。だからこそ、彼女は死んではならないと確信した。ヒストリカが息を吐く。

「そう言うと思ったよ。ある意味で、さすがアリサの選んだ友人だ」

「えっと、あの、その」

「いいだろう。行こう、ケイトリン」

「行くって、どこへ」

「アリサのところだ。一緒に行こう。アリサを怒りに行こうじゃないか! こっちはお前のことをこんなに想ってるのに、敵に脅されたからってあんな酷いことを言うなんて! ってな」

 ヒストリカは穏やかに笑った。

 


 





「――やっぱり、私を殺しに来たんですか」

 瞬時に自分の腰の剣に指を添えた。

「うふふ、違いますわ。あなたを殺しに来る方々とは、きっと何の関係もありません。だってわたくし、たった今、あなたと戦ってみようと思いついたんですもの。そういう計画とは全然違いますわ」

「だとしたら、そんなところに剣を隠しているのは変です」

「何が変ですの? あなただって剣を持っていますわ。何も不思議なことではないでしょう」

「でも、私は学院生で、目的のために剣を持っているのよ」

「ではわたしくも、目的のために剣を持っていてもいいのではなくて?」

「目的は何?」

「――……偶然。そう、偶然ですのよ。わたくしは前から、あなたとお会いしたいと思っていましたわ。ですから、こうしてあなたといつかお会いしたとき、剣を交えてみたいと思っていたのです。だから、そのために常日頃から剣を持っていた。それではいけません?」

「…………あなたは、誰?」

「そう、あなたはわたくしを知らないのでしたわね」

 彼女は剣を地面に刺すと、すっと手をお椀の形にして、お腹の前あたりに滑り込ませながらお辞儀をした。

「ヘルヴィニア王の妻、ロヴィーサと申します」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ