疑惑の霧②
「証拠は――あるの、そんな、私の親が」
「あります」
机の上に置かれた、小さなケース。氷魔法が内側に施されていて、透過して中が見える。完璧な氷魔法はガラスのように透明で、霜のような、霞がかったようにはならない。そのケースの中身が、確実な輪郭を持って迫る。
その中にある。
指。
指輪のついた、細長い薬指。
根元から切断されて、肉はすでに固まった、無機質な指。けれど明らかな、本物。
「――――」
「見えますか?」
指輪に、名前が刻まれている。
名前は。
シズカとエリス。
私の、父と母の、名前。
「偽物」
「本物ですよ」
「嘘っ……違うわ、殺されたんじゃない! こんなのは、作り物だわ」
「では、あなたはご両親がどうして亡くなられたか、ご存知ですか?」
「――――」
ハルカは、どのように私を慰めた。
死んだこと、しか、知らない。
どうやって死んだのか、私は知らない。知ろうともしなかった。私は幼すぎて、いなくなったことだけが悲しくて、ハルカに慰められるだけで。彼が何かを言ったのかもしれないけれど、思い出すことはない。父と母がどうして死んだのか、もし教わっていたのなら、憶えているはずなのに。何も、知らない。ハルカの言葉の多くを憶えているのに、両親のことについての声が頭に響かない。私が、忘れたんじゃない……そもそも、ハルカが私に、教えていない?
「どうやら、知らないようですね。お兄さんはとても優しかったんでしょう。殺されただなんて、あなたを怯えさせるだけだから。きっと何も言わないで、亡くなったことだけを伝えたんでしょう。あなたは幼かったから、その理由や原因を求めたり、どうしてということまでに気が回らなかった」
「で、でも、殺されただなんて。そんなの、例えハルカが私に教えなかったとしても、周りの人たちが」
「あの事件は未解決のまま、公にされませんでした」
「なぜ」
何かが暴発しそうな予感が、指先に訪れる。
「殺人事件なのに、公にされなかったの」
「……あなたのご両親は、ハルカさんの予備校の入校式にハルカさんと共に出席しました。その帰り道です。あなたのご両親は何者かに惨殺されました。ハルカさんも刃物で傷を負っていて重傷でしたが、彼が通報して、王都警察が到着します」
クリスティンは続ける。
「死体は、雷魔法が直撃したことを示す皮膚上の幾何学模様や、氷魔法による凍傷、炎魔法による火傷などがほぼ同時に受けているという極めて特殊なものでした。犯人は複数犯で、別々の魔法気質を持った集団が狙ったものと考えられましたが、ハルカさんの証言によれば、犯人は……一人だったということです」
ハルカも、ハイブリッドを見ている!
「それは、誰! 性別は、顔は、何か特徴は」
「フードを被っていたようですね。ハルカさんが最初に刃物でやられたので、意識が朦朧としていて、あまり憶えていないという話でした。もちろん、ハルカさんも、もう殺されてしまったのですが」
まさか、ハルカはその口封じに。
ハイブリッドはずっと前に、私の両親を殺した。
ハルカはそれを見ていた。
そして、ハイブリッドは五年前、ハルカを殺した。
私だけが、ここにいる。
「っ……」
「わかりますか? あなたのご両親は、一人に殺された。そして、殺されたご両親は、明らかに複数の魔法による攻撃を受けている。つまり、あなたのご両親はハイブリッドに殺されたのです。だから事件は公にされなかった」
殺された。
父と、母が。
殺された。
また、殺された。
また、ハイブリッドに。
また、私は、私の記憶に抉りこむような形で、殺すなんて。
「あなたのご家族はみんな、ハイブリッドたった一人に、殺されたのです」
私の中の何かが、切れた。
■
私はほとんど意識しないで手錠を炎で焼き尽くすと、そのまま腕に炎を纏わせて、クリスティンの首元を目掛けて掴みかかった。彼女は同じように自分の手に水の膜を作ると、手袋のようにして手を守り、私の手を掴む。炎で水を蒸発させ、水が炎を消す。白い煙が私たちの手の境界から激しい音を立てながら噴き出す。もう片方の手で火球を作り出すと、クリスティンに叩き込もうとした。クリスティンは掴んでいる私の腕を引っ張ることで私のバランスを崩させ、火球の方向をまったく変えてしまう。火球は部屋の壁に当たり、小さな綻びを作るだけに終わった。彼女は私の手を離さない。
「どうして、どうしてあなたがそんなことを言うのっ、私の親がそんなっ――」
「八つ当たりしないでください」
この人は、もっといろんなことを知っている。知っているくせに、話さないんだ。全部そうだ、ハルカのことも、知ってるのに、話そうとしない。なんて嘘吐きなの。嘘吐きで嘘吐きで、本当のことさえ言わない。ずるい、ずるい大人だ。さあ、じゃない。そんなこと知ってる。知っているのにごまかして、ごまかし続けて――。
「言いなさい、クリスティン。あなたは、ハイブリッドが誰か知っているんでしょうっ――言いなさい、でないと、あなたをここで殺す」
「殺す? あなたは無関係な人間も殺すのですか」
「あなたは、あなたはもう無関係じゃないっ!」
「私があなたに何をしたんです?」
「そういうことじゃ、そういうことじゃないっ、そんなの関係ないのよ――無理やりにでも、話してもらうわっ!」
私は彼女の手を離さないまま、テーブルを蹴り飛ばして宙に浮くと、体を回転させて彼女の側頭部を蹴りかかった。さすがのクリスティンも私の手を離し、さっと屈んでかわす。それから腰のレイピアを抜くと、私の喉元を目掛けて突こうとする。狭い部屋だったが、咄嗟に魔法を宙に発射して浮遊の要領で後ろに下がり、部屋の端へクリスティンと距離を取った。そこから火球を作り、クリスティンに連射する。――しかし、クリスティンはレイピアで火球を軽々と弾いてしまった。
「なっ……」
まさか、ただのレイピア如きに炎が。
クリスティンは眼鏡を持ち上げた。
「あなたには少しだけがっかりしました」
「なにが……」
「私はあなたを評価しているんです。だから、あなたを苦しめるためと言って情報を教えましたが、もっと冷静でいてくれると信じていました。私の予想を裏切ってくれると思っていたんです。けれど、こんなにも簡単に動揺してしまうんですね」
「動揺、なんてしてないっ、私は――」
「あなたは強い。あなたの炎魔法は、そして魔導士としての強さは学院でも指折りでしょう。努力されたんですね。恐らく普段だったら私よりも強いと思います。けれど、あなたの手は震えている」
「――」
自分の手を見る。指を開いたり閉じたりして、自分の肌と感触が自分のものだと実感する。実感してみせる。けれど、閉じる瞬間に止まったり、開くときに何か指先に痺れたような、極端な動きが出来ない。――震えてる、嫌だ、違うの。震えてるはずがない。こんなことで、なぜ、そう思っても、言うことを聞かない。
「そんな状態では、練り上げる魔法も弱いに決まっているではありませんか。普段の実力が出せていない」
「それが狙い、だったのね」
「怒って手錠は壊せても、今のあなたはただの学院生です。復讐者でもありません」
「このっ――」
クリスティンは瞬時に手の中で鋭く尖った氷柱を生成すると、それを長く伸ばし、私の肩口に突き刺して、そのまま壁に押し当てた。一瞬の痛みが、そのままじわじわと痙攣するような痛みに変わり、そしてそのまま押さえつけられて動けない。私はもう片方の腕で炎を作氷柱を溶かそうとする。しかし、クリスティンはそちらの肩にも同じように氷の円錐を突き刺した。完全に両腕は壁に固定された。
「離しなさいっ、こんな、くっ、うっ」
痛くて、冷たかった。けれどそんな痛みよりも、クリスティンの顔に、何かを叩き込んでやりたかった。この人の何の色もない表情が、私の神経を逆撫でする。そうやって勝ち誇ってるんだ、私を、こうして押し留めたことに、何の表情も映していないけれど、でも、それで勝った気になって――でも、動けない。肩が固定されていても、炎は出せるはずなのに、どうして出ないの。悔しい。こんなこと……肩が固定されているだけで、手は動くのに。炎が出ない。どうして……?
「まだあなたをここから出すわけには行きません。パーシヴァル様のご命令もありますし」
「パーシヴァル……あなたは、奴のいいなりなのね……」
「だから、どうしたというのですか。私は副学院長ですから、当たり前でしょう」
「パーシヴァルは悪よ、あなたたちはみんな、悪なの! 私はあなたたちを許さない……っ」
「あなたの弱い炎で、震えた手で――何ができるというのですか」
「くっ……」
クリスティンは私の顎を片手で掴むと、それを無理やり持ち上げた。クリスティンの顔と間近に対面する。瞳が迫り、私を覗こうとしている。覗かれている感覚。彼女の瞳を同じように覗き込んでも、何も見えない。同じだけの距離がこの視線にあるというのに、一方的な圧力だけが瞳の表面の水分を吸い取っているような。何も感じ取れない。私を掌握して、全部操った気になっている。そうはいかないと、私は反抗したいのに、冷たい肩の痛み、動かない手、炎は手のひらで一瞬だけ光らせても、すぐに弱く萎んでしまう。そんな、そんな――クリスティンに勝てない、どうして、ここでクリスティンにしてやられるなんて、私はなにをやってるの。この人は間違いなく真実を知ってる。知っているはずなのに、肝心な時に、どうして炎を上手く操れないの。こんなの、私は。認めたくないのに――……。
「もうあなたは、この一件から手を引くべきです。あなたはもう過去に縛られるべきではない。あの試験生――ハルカ・フレイザーは、あなたの言う通り死にました。ハイブリッドに殺された。だからなんだというのです? あなたはこんなにも、弱いというのに」
「っ……あなたにそんなこと、言われたくない!」
「もう忘れなさい。その方がずっと幸せです。あなたは一人の学院生として、静かに生きればいい。戦う必要もない。犯人を捜す手間もかからない。誰にも迷惑が掛からない。私たち学院も、あなたに手を出さないと誓いましょう。もうハルカ・フレイザーの事件は、完璧に終わった。終わったのです」
「何をっ……あなたが、今言ったじゃない! 私の父と母を殺したのが、ハイブリッドだって! そんなの、そんなことを言っておいて、もう関わるな? 馬鹿言わないで! 私を、惑わせておいて……ありえない、ありえないわ、クリスティン。意味がわからない。そんなの――諦めろって、あなたはそう言ったのよ! 私に……」
「そうです。諦めてください。それこそが正しい選択です」
「あなたがどうして正しいなんて決めるの……何が正しいのか、わからない、わからなくしたのはあなたたちの方のくせに! 誰が、誰がハルカを殺したのよっ……誰が父と母を殺したのっ、クリスティン! 知ってるんでしょう、ねえ、そんな風に私を諭すってことは、知ってるのね、パーシヴァルも、知ってるはずよ、そうでしょう!」
「あなたはもう休みなさい。頑張る必要などないのですから」
「なぜ答えないの――私を否定しないで。諦めるわけがないわ。罪が増えたからなんだというの。私はよりハイブリッドを殺してやりたくなった。それだけ……目的に変わりはないの! 復讐のためにここまで生きて、努力して、なのに諦めるなんて、有り得ない――有り得ないのに……」
どうして私から奪うの。
ハイブリッド。
なぜ、私から奪い続ける。父と母が死んだことを私は知らなかった。とても幼かったから、きっとその理由を聞いたとしても忘れていたんだ。私は幼い頃からずっと、ハルカを親のようにして育ったから。両親は病気か何かで死んだのだと思っていた。私も尋ねなかったし、それが当たり前のようだった。私の中に存在として残っていた両親は、確かに私の中にあった。
なのに、なのに……!
また、あなたが奪った!
ハイブリッド、あなたがまた殺して、私から奪ったの。
どうしてよ、どうして――。
「わからないのですか」
「なに、が……?」
「あなたの関係者ばかり殺されているのですよ」
「――ッ!」
私の、関係者。
知り合い。
兄、父、母。
家族。
皆、殺された。
私だけ、生きているのは、私だけ――。
冷たいものが、心に波紋を打つ。
「だから、だからなんだと、言うの」
「私は知りません。ハイブリッドという存在の犯罪を、まったく知らないのです。その人の計画が理解できない。だから、いったいどのような理由と法則に従って殺しているのかは知りません。しかし、やはりあなたの身の回りの人間が殺されているのは確かです」
「それが、何――」
「これ以上関わると、また死人が出るかもしれませんよ。あなたの、周りで。あなたの傍で」
私の頭の中に雷撃が走ると、それをスイッチに一瞬だけ炎を強くすることができ、両肩に突き刺さった氷柱を溶かし尽くす。そのままクリスティンの胸ぐらを掴みかかった。しかし、彼女はそれをすんなり避け、私の脚に一撃レイピアを叩き込む。私は壁際によろめいた。浅い傷だった。ただ、怯ませるだけの攻撃。一瞬だけ強くできた炎も、再び使えなくなった。けれど、でも――。私はクリスティンを睨みつけた。彼女は何も崩れていない。私のようによろめいていない。
「クリスティン、あなたっ、あなたは――今、私を脅したわね」
「私が殺すのではありません。ハイブリッドです、ハイブリッドが殺すのですよ」
「最低っ……」
「私はハイブリッドの仲間ではありません。そもそもハイブリッドが誰なのかも知らないのです。仮に知っていたとしても、彼に誰かを殺してくれなんて頼みません。しかし、あなたの知り合いが殺されているのは事実。これ以上事件に深入りすればどうなるか、想像はつきますね……」
私のために、誰かが殺される。
私の知っている人が。
私の所為で……?
「もう諦めるべきです。この五年間、よく頑張ったと褒めましょう。でも、ここまでです」
「なぜ、なぜ私を殺さないの――私の周りだけを、殺していっている? 私を挑発しているの? 私に恨みがあるというの? ハイブリッドは、私に恨みがあるのね――だったら、だったらどうして私を堂々と殺さないのよ! クリスティン、あなたがハイブリッドに繋がっているというのなら、それもわかっているんでしょう!」
「わかりませんね」
「嘘、嘘よ! どうせ繋がっているんだわ。だったら、伝えて。私の前に、堂々と現れなさいと!」
「あなたを恨んでいるとして、果たしてあなたの言葉に従うでしょうか」
「――ずるい、ずるいわ……あなたたちは」
優位に立って、私を追い詰めて。
誰が、殺されるの。
私の頭に、真っ先にウィルの顔が浮かぶ。師匠の顔、ケイトリン……。
この人たちは、ハイブリッドのことを知っている。私の兄を殺して、両親も殺した――その本人について、きっと多くのことを知っている。そして、私は知らない。だからこそ渇望している。その人物を。その求める心を、利用する。利用するようにしながら突き放す。どうして、そんな情報だけ教えたの。胸が痛い。頭もずっと痛くて、朦朧としている。嫌だ、こんなの思い通りだ。私を苦しめるだけ。私を苦しめるためだけの言葉だ。だから、苦しみたくない。涼しい顔でいたい。でも、無理だった。この人たちが、憎い。私を突きつけるようなじりじりとした痛みを、言葉にせずにはいられない。こんなの、クリスティンの望んだ通りのことでしかないのに。憎たらしいのに、でも、こんな――。
ウィル、あなたなら、どう選択するの。尋ねたいけれど、今は隣にいない。
私は、痛みのために用意した呼吸を、何度か肩を震わせながら吐き終え、握りしめた指を解き、噛みしめていた歯を緩ませて、何度か迷った後、彼女に告げた。
「お願い――もう、誰も殺さないで……」
クリスティンはレイピアを鞘に収め、ゆっくりと微笑んだ。
「それは、あなた次第ですよ」
■
「一から、話せばよいのですね?」
「ああ。頼む」
「別に、おそらく先輩もライツヴィル君も聞いてる通りです。何もかも、おそらく新しい情報などでないと思いますよ」
「それでも構わない」
「――簡単な話です。あの日は、学科試験が終わって、七人で演習場へ移動しました。そこで実技の試験を行うためです。一人ひとり順番に、魔法射撃の試験をしました。そしてハルカ・フレイザーの順番の時に、彼が突然炎上したんです」
「ちょっといいですか?」
「なんだい、ライツヴィル君」
「ハルカが突然炎上したんですね?」
「そう。何の前触れもなかった」
「炎の威力はどれくらいでしたか?」
「これも恐らく知っていると思うけど、かなりの勢いだった。あれは魔法のミスじゃないよ。雷魔法の誤射や制御の失敗で雷が炎を誘発することはたまにあるけど、ちょっとした小火で済む。あの炎は、ハルカ・フレイザーの体をほぼ完全に丸のみするくらい、いやそれ以上に大きなものだった。あれは確実に、炎魔法の熟練者のものだ」
「ありがとうございます。それで、その次に――ステラさんが悲鳴を上げたのではありませんか?」
「そう。ステラ・タウンズリーが悲鳴を上げて、失神してしまった」
「そして、ウルスラさんが彼女を抱き留めた。そして介抱した」
「そうだね。後の三人もあたふたしていて、炎を見つめたり、ステラ君を気に掛けたりしていた」
その辺りはすでに聞いた話だ。
「では、先生はそれからどうされましたか?」
「僕は試験生の五人を避難させて、クリスティン先生を呼びに行ったんだ」
「その辺りです。その辺りを詳しく聞かせてください」
「ええと、試験生たちは校舎の空き教室に避難させた。それから教官室のクリスティン先生のところへ行って、試験生の一人が突如炎上したことを伝えたんだ。先生と僕は一緒に試験場まで行ったけれど、入る前に『クレイン先生は五人のところへ行ってください』って言われて……それで、別れた」
ウィルは引っ掛かりを覚えた。これは親父の手紙にもなかった部分だ。
「待ってください。ハルカが炎上した。試験生たちを避難させて、クリスティン先生を呼んだ。そしてクレイン先生は試験生たちのところへ行ったわけですか? ハルカのことはクリスティン先生一人に任せたのですね?」
「そう。さすがに試験生たちも五人だけでは不安だろうし、僕もついてなきゃいけなかった」
「五人は、その空き教室に揃っていましたか?」
「うん。揃っていたよ」
そうなると――どうなる? ウィルは顎に手を当てた。試験生であったアーニィさん、ヘイガーさん、ウルスラさん、ステラさん、そしてヲレンさんの五人の中に犯人がいるとすれば、ハルカがきちんと死んだかどうか見極めるくらいすると思うけれど。炎を撃ちこんで、はい終わりと教室で待っていたのか? もう確実にハルカを殺し切ったと断言できたのだろうか。だが、空き教室に移動させられて、それから勝手に行動したとも考えにくい。何より、自分がその場所から移動するとしたら他の四人には違和感しか与えないだろう。試験生がいきなり燃えたのだ。それなのに飄々と教室から出たりすれば明らかに変だ。となると、あの五人は『避難のために教室へ移動させられてからは、誰もそこから外に出てはいない』となる。やはりハイブリッドは、炎魔法一撃で――もしくは連発したかもしれないが、その魔法だけでハルカを殺し切ったと自信があったのだ。もちろんここまでの発言に嘘があって、クレイン先生がハイブリッドである可能性もあるが……。
「そして、先生は?」
「僕はそれから五人と一緒にいたよ。それからクリスティン先生に呼ばれて、試験生たちは後日通達するので、事件のことを口外しないように厳しく指導後、そのまま帰ってもらった。それから僕は学院長室で待機させられたんだ。それからそこに教師陣がわんさか集まってきてね。そして最後に現れたのが、あの死体だったわけさ」
誰かと一緒にいた、という発言に嘘はないだろう。そこはすぐに他の人の言葉で嘘がばれるから、そもそも嘘を吐く意味がない。クレイン先生の発言はとても穏やかで、嘘を吐いているようには見えないが、しかし今まで会った先輩方も皆、嘘を吐いているようには思えなかった。この中に犯人がいるのなら……どうにも、狡猾な頭脳に加えて演技力もあるようだ。ウィルはそのようなことを考えながら、続ける。
「では先生は、炎の中にいるハルカを見たのが最後で、次に見たのはすでに死体の状態だったわけですね」
「そう。学院長室でね。あの時のことはよく覚えてるなあ……そうそう、ターナー先生がとても積極的に発言をなさっていてね。僕はクリスティン先生に鋭く説明を求められてて、死体なんて衝撃的で、もうびくびくしていた。ターナー先生の冷静な姿勢が印象的だったなあ。そこで、いろいろと議論して、ハイブリッドだと学院長が結論付けたんだ」
「それで、どうなった?」
ヒストリカさんが促す。
「この事件のことは一切口外しないこと。もう事件のことは忘れるようにとか……」
「先輩方もそうですけど、口外するなっていう割に、皆さんどんどん話してくださいますね」
「まあね。本当はみんな、不安なんじゃないかな。こういう事件を、自分たちの中に留めておくのは……学院を裏切るとかそういうわけではないけれど、やっぱり重すぎるよ。後で咎められるかもしれないけど――」
その時だった。
部屋の扉が開く。
そこに立っていたのは、いつもの表情をしたクリスティンだった。
「クリスティン」
ヒストリカがすっと立ち上がる。クリスティンはあからさまに嫌そうな顔をした。
「あなたは……ヒストリカ。なぜここにいるのですか?」
「おっと、久しぶりに会ったのに最初の言葉がそれか」
「別に会いたかったわけではないので。あなたもそうでしょう?」
「どうかな。案外会いたかったのかもしれないぞ」
「あなたのことだから、きっと理由があるんでしょうね」
「ご名答。ここにウィルがいるから、その理由もわかるだろう」
クリスティンは表情をそのままに、少しだけ押し黙った。
「クレイン先生、何か話しましたか」
「あっ、え、えっと」
「話したんですね」
「待て、彼に罪はない。彼が話したのは、ハルカが炎上してから死体として学院長室に現れるまでだ。ほとんど既知の情報だった」
「そういう問題ではないのです」
「そうか。つまりこういうことだな? 『ハルカ・フレイザーが燃えたその瞬間から、学院長室で一同が集うまでのクレインの行動に事件のヒントがある』のか」
ウィルは目を見開いた。まさか。さっきのクレイン先生の話にヒントが? 一聴した限りでは特に違和感のあるところはなかったし、疑問を挟む余地はあれど、決して事件解明に大きく前進するような部分はなかった。疑問も、ただ証言によって穴が埋まらないだけで、そこがどうというほどのものでもない。きちんと質問を繰り出して行けば簡単にクリアできる疑問だし、特別大事な部分とは思えない。ヒストリカも決して何かを掴んだわけではないようだが、ただ、クリスティンがクレイン先生に釘を刺したことから見ても、やはり何かあるのは間違いなさそうだ。これは検討すべきだ。
「それよりも、部外者は帰っていただきたいですね。長居は邪魔です」
ヒストリカは静かに問う。
「メリアとハヴェン。二人について何か知っているか」
「答える義務はないですし、知りませんね」
「今更とぼけるな」
クリスティンはゆっくりと動き出し、自分の机に着いた。
「私に教える権限はありません。全てはパーシヴァル様のご命令あればです」
「またパーシヴァルか」
「当然でしょう。彼こそが学院の意志であり、私の意志ですから」
「アリサを捕えるのも、奴の命令か」
「さあ、どうだと思います?」
「お前――」
「彼女に聞けばいいではないですか。事件から二週間と少し、たっぷりと反省していただきました」
「何のことだ?」
クリスティンは眼鏡を持ち上げた。
「アリサ・フレイザーは解放しました」
■
ウィルはヒストリカと共に部屋を出ると、アリサの学年の階と向かった。解放された? 事件から二週間経った。その間拘束されていたのは確かだが、いったいどのようなことをされたのだろう。ルクセルグ襲撃の犯人として拘束されたが、別にそれは公にされてはいないし、クリスティンが勝手にそのような口実でアリサを捕えただけだ。決して処刑なり処罰を受けたわけではないと思いたいが……拷問などされたとは考えたくない。しかし解放したというのは、どういうことなのだろう。何故解放したのだろう。アリサが事件にこれ以上首を突っ込まないように拘束したのではないのか? そのまま彼らの監視下に置いておいた方が面倒は少ないはずなのに。
教室に辿り着くと、ヒストリカがまず学院生を一人捕まえた。
「ちょっと訊きたいだけど、アリサ・フレイザーという生徒がどこにいるか知らないか?」
「フレイザーさんですか?」
学院生はヒストリカを恍惚とした顔で見つめている。
「ええっとぉ……さっき見たんですけど、どこかへ行ってしまいました」
「どんな様子だった?」
「別に……あ、でもなんというか……」
「なんというか?」
「あの人、いつもはもっと凛々しいじゃないですか? 自信満々って感じで。でも、さっき見た時は……ええっと具合悪そうというか、元気無さそうでした」
「…………」
ウィルとヒストリカは目を合わせる。何かまずい事態になっているのではないか。そんな予感がひしひしと伝わってきたのだ。アリサの元気がない。もちろん二週間拘束されていて元気があるというのもおかしいが、そういうのとは別の、根本的なアリサの姿勢に揺らぎがあるような気さえした。苦しい訓練を積んだのだ。二週間で音をあげて、すれちがう学院生に元気がないと言われてしまうような、そういう弱さをすっかり見せない。それが良いか悪いかは別として、アリサには強くあろうとする力があって、そのためにいつだって表情は凛々しく、気高いのだ。何があった――? ウィルは嫌な空気を感じ取った。
「そうか、ありがとう」
二人はその場を離れて、廊下を歩んだ。アリサはどこにいるのだろう。寮の場所は聞いていない。聞いておけばよかったとウィルは後悔した。自分がいけなくても、ヒストリカだけでも寮に行ってもらうことが出来たからだ。廊下の学院生の波を掻き分けて歩き続ける。どこにいるのかわからないまま。
「心当たりはないのか?」
「うーん……――――あ」
そうか。一人だけ、もしかしたら。
「ケイトリン」
「うん?」
「ケイトリンちゃんです」
「誰?」
「アリサの――友達です」
■
「アリサちゃん!」
見つかった、と思って廊下を走り抜けたけれど、結局いつまでもついてくるなんて。鐘が鳴って、廊下には誰もいなくなった。遠くの廊下で、もう振り払うのは無理だと悟って立ち止まる。彼女の声が響き渡って、私たちの足音は反響しきり、彼女の息切れだけが波打つ。私はゆっくりと振り返り、ケイトリンに相対した。
「ケイトリン……授業が始まってしまったわ」
「そうだよ!」
「だったら、どうして私を追いかけてきたの」
「アリサちゃんに会いたかったからだよ!」
力強い言葉だった。表情はいつものふんわりとした可愛らしさはひっそりとして、怒りのような、ただこちらに伝えたいことを一心に瞳に宿しているような、そんな双眸に深く根差した表情だった。けれど、何を考えているのか理解不能だった。言葉に何も自分のいろいろなものを与える気力がなかった。なぜ? それだけだった。
「怒っているの?」
「怒ってるよ! ほら、アリサちゃん前回の都外研修、勝手に行っちゃったでしょ? 私に何にも言わないで」
「…………」
「私、すっごくびっくりして」
「…………」
「行くなら行くって言ってくれれば、よかったのになって」
「…………」
「思ったのに――って、アリサちゃん?」
彼女は、いつも通りの笑顔に戻った。
そして、私の名前を呼ぶ。いったい今までの誰とも違う声色に、いろいろなものが崩されていく。研修に出る前の夜のような、初めて出会った頃のような。でも、崩れたら駄目だ。もう私には何も選ぶ権利がない。彼女に一方的に、私の領域を明け渡してはならない。その笑顔はとても素敵だけれど、もう、私には。
「ケイトリン、私は」
今、私を誰が見つめているの。
クリスティンの言葉が呪いのようだった。私は信じてもいい。ハイブリッドは両親を殺した。クリスティンがあのような嘘を吐く道理がないからだ。そして、ハルカも殺した。私の関わる人間が、殺されてしまう。私は、監視されている。ここにいるだけで、誰かと関わるだけで、もしかしたら――そんな可能性を考えたことはなかった。ハルカが殺されたことはハイブリッドに何らかの理由があってのものだと確信している。けれど、その殺人の発端が、私かもしれないだなんて。そんな可能性を示されて、今更、何ができる。問答無用でパーシヴァルとクリスティンを潰してもいい。けれど、ハイブリッドが誰かわからないのだから、あの二人を倒しても、意味がない。代償に、殺される。
そう、ウィルだけじゃなかった。
私は、なんてことをしてしまったの。
やはり友達なんて作るべきじゃなかった。私が彼女を友達だと思ってなくても、向こうが私をそう認識するような、そんな関係なんて作るんじゃなかった。こんな時が来るかもしれないと、どうして考えなかった。自分の行動が極まった時、もうそれ以上近づくなと、誰かを人質のように扱われるだなんて。何か自分の枷になり得るものは、自分の関係から生まれる。今までそんなものはなかった、だから自由だった。忘れていたんだ。どうして、話してしまったの。それだけで巻き込むという形になると、どうして想像しなかった――……。
「私は、あなたが嫌いよ」
「アリサちゃん?」
「私がどこかへ行くのに、あなたに許可を取らなきゃいけないの? 何を勘違いしてるのよ。私は私のやりたいようにする。それだけなの。あなたがどう思おうと私には関係ない。もう私に近づかないで。うざったいのよ」
本当のこと、なのか、もう自分でもわからない。
「私、あなたが大嫌い。私の前から、消えて」
でも、これでいいのだと、自分で納得しようとしている。
しようと、しなきゃいけないの。
ケイトリンの笑顔が、ゆっくりと崩れていく。その小さな動きに、私は目を背けてしまった。背けなければ、どうしてもこらえきれないものや、失ってしまいそうなものがあった。動揺しては駄目だって思っているけど、やっぱり駄目だ。誰かに対して敵意を告げるというのは、こんなにも難しかったのか。違う、ケイトリンは敵じゃない。パーシヴァルでもクリスティンでもない。ただ、私と同じ目線であろうとしてくれただけの人なのに。そんな人に、こんな言葉。
もう一度、ケイトリンに視線を戻すと、彼女は、ぽろぽろと泣いていた。
「ご、ごめんなさい……アリサちゃん、その……私、私なんかが、……」
こんなことで、痛んではいけないのに。
彼女の涙が、胸に突き刺さる。
「ごめんね、アリサちゃん……」
そうやって滲んだような声で告げると、ケイトリンは向こうへと走って行った。
違う。
違うの。
私は、こんなことのために――。
ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。何か、失ったような。何を失ったのだろう。そもそも、いったい私は何を持っていたというの。今のケイトリンの涙が、顔が、声が、消えていかない。やっぱり間違いだった。私の、私だけの信念を線で引いて、誰にも触らせてはいけなかった。誰にも話すべきじゃなかった。こんな、こんな、得体のしれない痛みを知ることになるのなら。誰かを泣かせるためにここに立っているわけじゃないんだ。もし誰かを殺して、誰かが泣いても構わない。私が殺すのは、罪人だから。けれど、ケイトリンが何をしたの。私に、寄り添おうとしてくれただけなのに。
そうか。
やっぱり私、ケイトリンのこと、大事に思っていたのか。嫌いだとか無関係だとか、友達じゃないとか、いくらでも言えたけど、でも本当は、言葉なんかじゃなくても、もっと深いところでは、勝手に認めていたのか。私は誰も巻き込みたくなかった。誰も近づけたくなかった。私の親しい人や、大事な人が殺されるかもしれないから。
だったら、ケイトリンを遠ざけようとしたのは、彼女はもう、私にとって、大事な人だったのか。だから、例え巻き込まないためだとしても、こんな言葉を告げて、嫌な気持ちになったの。わからない。わかりたくない。もうどうしたらいいのかわからない。クリスティンの意地の悪い、ねっとりとした呪いのような言葉が息づいている。あなたの父と母は、殺された、殺された。憎しみだけが満たされ続けると、それだけの色に染まり付けたような自分の何かが、砕けたような。こんな、こんなことで、私が、醜いプライドでもなんでもない。ただ誇りだった。そのために、殺すためだけにここまで生きてきたのに、あんな言葉で、私の歩みが止められてしまうなんて。本当は反抗したいけれど、でも、力が湧かないの。何か、心の中に泥が溜まっているような、痛みが蓄積して、朦朧と視界が霞が掛かっている。
「最低…………」
ケイトリン、ごめんなさい――あなたは、とてもよい人だったわ。
奥歯を噛み締めながらゆっくりと立ち上がり。
ケイトリンが去っていったのと同じ方向に、師匠とウィルが立っていた。