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疑惑の霧①

 ウィルは何も言わないで、目の前に置かれた紅茶の水面に視線を落とした。茶色と黒が混じったような微妙な螺旋が残っており、試行錯誤の跡が少しだけ見えたような気がした。こういったものが趣味だとは聞いていたけれど、アリサはこれにほとんど毎日でも付き合ったのだろうか。ウィルは結局それに手を付けないで、部屋の窓際に立っている人を見た。

 腰まで届くなだらかな金髪が、外の陽光にふわりと煌めいて麗しい。その佇まいには少しも余分なものがなく、誰もが認めるような存在感がそこにあった。彼女の周りだけいろいろなものが切り取られているような気さえした。ウィルはもう何度も会って少しずつ慣れたものだったが、彼女のそこにいるというだけの威圧感は、きっと多くの人間から言葉を奪うのだろう。

「飲まないのか?」

「特製の紅茶作りが趣味なのはわかりますが、実験台にするのはやめてください」

「やはりバレてるか。どうにも綺麗な色が出ない。コツを教えてくれないかウィル」

「残念ながらそういった知識は皆無です。というか、俺はこんな話をしにきたわけじゃないんですよ、ヒストリカさん」

 彼女はウィルの前に座り、自分に用意したもう一つカップを口に運んだ。

「まあそう言うなよ。お前が堅苦しい顔をしているから緊張をほぐしてやろうと思ったんだ。うっ……不味いな」

「…………」

 ヒストリカ・スウィートロード。

 ヘルヴィニア城下町の辺境の小さな一軒家で暮らしている女性である。

 そして、アリサの師匠であった。

 ヒストリカはアリサと同じくヘヴルスティンク学院に特待生として入学した。何十年の逸材とも呼ばれ、学院内でも指折りの成績と魔法を誇っていたらしい。飛び級で卒業し、ちょうど二十歳で卒業。当時からすでにクレイドールの出現は報告されていたので、そうしたクレイドールを狩るための精鋭部隊、西大陸の大都市カルテジアスの討伐隊に入隊する。入隊の時点ですでに隊でもトップクラスの実力を誇り、クレイドール討伐のスペシャリストとして大陸中に名を馳せていた。

 しかし、今は過去の話である。

「さて、今日は何用だ? その様子だと余裕があるとは思えないが」

「その通りです。ヒストリカさん、アリサが学院に捕まりました」

 ヒストリカは不味いと罵った紅茶をコースターに置き、息を吐いた。それから視線を落とし、何も言わないまま数十秒考え込む素振りを見せた。ウィルはそのじわりとした静寂に息を呑んだ。それからヒストリカは腕を組み、きっぱりと言った。

「そうか」

「そうか……じゃありませんよ」

「いや、確かに切羽詰った話ではある。あの学院だ。何をするかはわからない」

「そうなんです」

「だが、アリサのような人間をすぐに殺すことはないだろう」

「そうでしょうか」

「どういう状況で捕まったんだ。あのアリサがみすみす学院にしてやられるとは思えない。まさか、先日のルクセルグの事件が関係しているんじゃないだろうな?」

「その通りです」

「やはりか。お前が付いていながらなぜそんなことになった」

「それなんですが……」

 ウィルはルクセルグでの一連の流れを説明した。

 ルクセルグにパーシヴァルが向かったこと。それを追って二人は都外研修の申請を出して後を追ったこと。しかし初日に学院の北都支部が襲撃され、そのままルクセルグがクレイドールに溢れたこと。アリサがいなくなったこと。二人の子どもを捕まえるようにパーシヴァルが命令を出し、小隊が編成されたこと。三日後、再びクレイドールが街を襲い、子ども二人と戦闘し、二人は撤退していったこと。そして、アリサは学院に拘束されたということ。――長い話ではあったが、ヒストリカは表情を崩さないまま、不味いと罵った紅茶を何度か飲み、話を聴いていた。

「なるほど。混迷を極めているようだな。さっぱりわからない」

「俺だってそうです。それに、その子どもたち――アリサの言葉通りならば、メリアとハヴェンという名前のようですが、二人は二種類の魔法を使えるんです」

「二種類……まさか、ハイブリッドか?」

 ここで言うハイブリッドとは、一人一気質を凌駕した固有名詞としてのハイブリッドではない。ウィルたちの中では、『ハルカを殺した犯人』のことを『ハイブリッド』と呼んでいるのである。当然ヒストリカもそのことは知っていた。

「ですが、アリサは二人と協力してパーシヴァルを殺そうとしていました。そうなると、アリサは二人の魔法のことを知らないまま協力していたはずがありませんから、そうなると、二人がハルカを殺した犯人ではないということをアリサはきちんと理解していて協力したんでしょうね」

「二人のどちらかがハルカ・フレイザーを殺した犯人という可能性は否定されたというわけか……だろうな。何らかの事情があったとしても、アリサはハイブリッドだと分かった時点でそいつを殺すだろう」

「そうです。だから、あの二人はハルカを殺したハイブリッドではありえません。それに、五年前の試験にあの二人が紛れ込んでいたとは思えない。先輩にも訊ねてみましたが、やはり覚えはないそうです」

「試験場は七人しかいなかったわけだからな。まあ当然だ」

「では、その二人はなんなのでしょう」

「二種類の魔法を使うことのできる子ども。興味はあるが」

「ヒストリカさんでもわかりませんか」

「私が何でも知ってる物知り博士だと思ったら大間違いだぞ」

「そんな雰囲気醸し出してるじゃないですか」

「いや、自分ではそんな気全然わからないからな」

 ヒストリカは傍にあったスプーンを手に取って、その先をウィルに向ける。

「パーシヴァルはその子ども二人を捕まえろとお前たちに命令した。ということは『パーシヴァルにとって、その子どもたちは自分の手元に置いておかなければならない理由』があったということになる」

 それはそうだろう。彼は二人の写真を持っていた。その写真を自分たちに見せなければ、いったいどの二人を捕獲すればいいのかわからなかったからだ。しかし、その写真をどうやって手に入れたのかはわからない。あの二人は学院生のローブを着ていたけれど、学年を示すリボンが付いていない。一年生にしては少し幼すぎるもする。第一あの二人が学院生なら、捕獲する必要なんてないじゃないか。捕獲しなくても、自分の学院に属しているのだから。ということは、あの二人は学院生ではない。だからこそ捕獲しなければならなかった。理由があったのだ。

「理由はなんだと思う?」

「それは二種類の魔法が使えるからでは?」

「その通りだ。そして、二人はそれに対抗する形でパーシヴァルを殺そうと考えていた。その理由は?」

「……」

 ウィルはあの時を思い出す。『――二月六日』そう切り出したメリアの口元と瞳を。『何の日付か、わかるかな』『わかりませんよ』クリスティンは彼女の問いかけに冷たく返した。そして。『エンブリヲ』の仲間が、死んだ日だよ――そう言ったのだ。仲間と。ウィルはヒストリカにそのことを伝えた。ヒストリカは少しだけ考え込むように唸った。

「クリスティンか。嫌な奴だな。あいつはパーシヴァルのためなら平気で嘘を吐く」

「知り合いだったんですか」

「同級生だ」

 二人とも若くしてエリートだったんだな、とウィルは思った。一方はカルテジアス討伐隊の最強魔導士。一方は大陸最大の魔法学院の副学院長。同い年ということはクリスティンもまだ二十代半ば。優秀だったのだろう。しかしヒストリカが眉を一瞬寄せるような、そして冷たいと吐き捨てるように評価するような。クリスティンはそんな人間なのだろうか。

「今はどうでもいいことだ。しかしエンブリヲか……聞いたことがない」

「そうですか。でも、メリアがそれを『エンブリヲの仲間』と言っているのだから、彼女が所属する団体でしょうね」

「レジスタンスかもしれないな。それとも元々あった集団か何かか。その仲間が死んだ、そしてクリスティンに――つまりパーシヴァル側にそれを告げるということは、パーシヴァルたちが理由で仲間が死んだのだろう」

「それが理由ですね? パーシヴァルたちに仲間を殺され、その復讐に――」

 復讐。ウィルはすんなりと言葉に出したそれを、とても馴染み深く思った。

 まだこの世界には復讐に身を焦がす者たちがいるのだ。あの二人もそう。アリサも、そして自分もだ。自分はアリサのように、本当の意味で失ったわけではない。親父は死んだかどうかもわからない。だからアリサほどの復讐の炎が、自分にはそれだけの熱を持っているとは感じない。殺しても構わない。むしろ殺すなら殺すべきだ。それを望んでいる。けれど殺させるなら、きっとアリサに殺させるのだろう。彼女の涙と悲しみと、刻み込まれた傷を一度だけ拭いきるためには、彼女の望むようにさせてやるべきだ。自分の恨みは抑え込まなければならないほど大きなものではない。勝手に死んでいく存在がいれば、それを嘲るだけで構わない。パーシヴァルが無様に死ねば――しかし、親父が生きている可能性も万が一ある。だが生きていたからなんだというのだ。パーシヴァルが何かを隠し、そして殺されるべき存在、ハイブリッドが今もいるということに変わりはない。俺の復讐が終わるだけだ。俺は誰も殺さないでいい。アリサの復讐が終わらなければならない。それが望みなのだ。そして同じように、パーシヴァルに復讐を誓う者たち。同時に、この世界に殺戮をもたらそうとする少年と少女。彼らの内側にある炎は、どれだけの傷によって生まれ出でた物なのだろう。アリサよりも深いのだろうか。アリサよりずっと。

 思考に宛がうより、ヒストリカの芯の強い言葉が続く。

「ウィル、時間はあるか? というかお前、授業はどうした」

「サボリです。アリサ放っておいてそんなの受けていられませんよ」

「そうか。お前らしいといえばらしい」

「時間があれば、なんです?」

「今から学院へ行こうじゃないか」

 





 ハルカの声は忘れたくないけれど、忘れてしまう。仕方がないと割り切っていても、いろいろなものを頭に入れようとして、ひたむきになって、師匠のところで長く血を流した時も同じことを考えた。師匠には何度も頭を撫でられた。

 お前は必死になり過ぎる。師匠の指先が私の髪をふわりと持ち上げ、その感触で遊ぶ。頭を撫でられるのは好きだったけれど、もう嫌いだ。子ども扱いされているみたいだった。昔はハルカの女の人のような細い指でも、きっと満足できたはずなのに。もう私は子どもじゃないのだとはっきり伝えたくて。ハルカはもう死んだことを思い出したくなくて。でも受け入れている。それは確実なことだ。あの悲しみは癒えていないかもしれないけれど、受け入れているのだろう。思い出しても、ハルカのことが浮かぶだけだ。そんな風に、師匠の下で修行した五年間、自分の中にあったものは復讐のために消えていった。ハルカのことはもうあまり思い出さない。忘れていくことを実感した。決して忘れていいとは思っていない。彼の家族は、もうこの世に私だけだからだ。せめて記憶には生きていてほしいと願ったとしても、時間だけは流れて行くのだ。

 ぼく、という一人称だった。決して強い言葉ではなく、もっと柔らかな、受け止めるだけの力を持つ言葉遣いだった。それは誰にでも優しく、限界まで他人のために生きる人だった。だからこそ、私は彼にいろいろなものを背負わせたのだろう。親が死んだ。私はきっと泣いたのだろう。それを慰めたのはハルカだった。私は誰かに死なれてばかりだ。なぜ取り残されてしまうのかわからない。親が死んだ時、とても悲しんだ。そして、同じように髪を撫でた。頬を撫でて。

「アリサにはぼくがいるよ」

 と呟くのだ。そうだ、私にはハルカがいる。ハルカがいるなら大丈夫。この人のような、とてもおおらかで明るい、灯火のような背中にぴったりと寄り添って行こうと、あの泣きじゃくり腫れて見えにくくなった薄い視界の中で思った。私の世界はハルカだけになった。ハルカの傍にいれば全て安心だった。この人がいる世界に、例え不安だけが満ち満ちても、その袖口を掴めば決して惑うことはないのだ。私はハルカに抱きつき、ハルカを抱き寄せ、抱き寄せられ、同じ道を歩もうと思った。

 だからそれを破壊されて、私の灯火は――殺人者の炎になってしまった。

 その炎を追うためだけの世界になった。自分の立っている地面と同じ地面を奴が歩いていると思うと吐き気がした。同じ炎を身に宿していると考えるだけで、握りこぶしにした指先の爪が手の内側を切り裂くような気持ちになった。それを振り捨てるため、殺すために師匠のところへ行った。彼女のことはウィルに聞いた。大陸で一番すごい魔導士は誰なのか。すると、何年か前に悪魔型のクレイドール――デモンズヘッドを倒した魔導士がヘルヴィニアに住んでいると聞いて、すぐに訪ねた。復讐のために、私を鍛えてください。魔法を教えてください。剣を教えてください。何を言ったのかはあまり覚えていないけど、縋るような気持ちで彼女に頼んだ。師匠は渋ったけれど、髪を撫でて、受けてくれた。

 髪を撫でられる。

 きっと好きだったんだろう。ハルカにそうされるのが。

 そう。

 だけどもういない。

 知っている。

 そうだ。

 私にはもういない。

 ずっと前から。

 親が死んだ時――。

 その瞬間だった。

 浮遊の、中で、何か、確信的な。

 掴み損なったような何かが。

 過ぎったような。







 ヒストリカとウィルはヘヴルスティンク魔法学院に向かった。調査のためだ。二人の子どものこと、パーシヴァルのこと、アリサのこと。わからないことが多くあった。ヒストリカの小さな家で話していてもらちが明かないと判断したのだろう。ヒストリカは久しぶりに職業魔導士のローブに腕を通し学院へと向かった。職業魔導士は皆同じローブを着る。ヒストリカは本来カルテジアスの精鋭隊にいたため普段からこのローブを着ていたが、悪魔型との戦闘以降除隊したため、すでに職業魔導士ではない。有り余ったお金で静かに暮らしているのである。今着ているのは、一応昔もらったものを着ているだけだという。

 ヒストリカは悪魔型との戦闘で相打ちし、魔法が使えなくなったのだ。

 ウィルは極力その話題には触れようとはしなかった。魔法を使えない人間ならこの世にはたくさんいる。しかし、世界でも有数の魔法使いがその力を一切失った。魔力が消えることも珍しいことではない。原因はわからないが、クレイドール出現以降特に認められている。ヒストリカは悪魔型を倒す代わりに魔力を消失し、除隊した。魔導士は引退したのだ。剣の優秀な使い手でもあったが、やはり悪魔型との戦闘で負傷。日常生活に支障はなくとも、剣を振ることはできない体となってしまった。彼女はカルテジアスの精鋭隊から消え、ヘルヴィニアに小さな家を建て、そこで暮らしている。若くして隠居状態なのである。

 そんなヒストリカは陽気な姿勢で学院を見渡した。彼女の母校だ。

「何年ぶりですか?」

「それを訊くのか? およそ六年ぶりだ」

 彼女は二十歳で卒業している。

「私と同級の奴もいるだろう」

「いると思います。クリスティン先生もそうですし、ローズマリー先生もそうでは?」

「ローズマリーとは今でも手紙のやり取りをしている。相変わらずだな」

「リーグヴェンにいらっしゃいました」

「そうか。そのうち顔を出してやるかな」

 ヒストリカとウィルは学院の廊下を歩んだ。今は休み時間で、人の往来が多く。ヒストリカの姿を誰もがすれ違いざまに見た。ウィルは不穏な気持ちになった。――この人と歩くのは気が引ける。目立つのだ。外見が綺麗なのもそうだが、何より存在感、そこにいるだけでとにかく人目を引きつける。きっと多くの肯定観が全身に満ちている、約束された人なのだろう。しかし魔法は失っている。彼女はもうこの学院に来る理由などないはずだった。

「それで、ここに来てどうするんですか? 何か当てがあるんですか」

「クリスティンに会いに行こう」

「えっ!? いきなりですか」

「それ以外ないじゃないか。だって、その二人はクリスティンとも会ったことがあるし、クリスティンに対しても殺意を覚えていた節があるんだろう? だったら直接会いに行く方がいい」

「会えるんでしょうか」

「さあ。私の名前で通してもらえないだろうか?」

「そりゃ、ヒストリカさんは有名人ですが」

 彼女の名前は世界的に十分に轟いている。悪魔型を倒した討伐隊だが、実質彼女がほとんどの面で対応したのだ。英雄である。きっと名前だけでもいろいろなところで十分に有利であろうし、きっと多くの人が驚くのだろう。ウィルも実質、彼女とこうして話をすることができているという事実にいつまでも慣れない。話している最中は決して感覚はなくとも、会話を終えた後にその凄さを実感する。アリサはウィルの許可を取らないで、勝手にヒストリカの元へ行き、魔法と剣を教えてほしいと請うたという。あいつの無謀さもそうだけど、まさか了承するとは。こんな形であのヒストリカと会うことになろうとはウィルはまったく想像していなかった。今も気後れしてばかりである。同じように、この学院にもヒストリカの名前は知れ渡っているのだろう。彼女が名前を言うだけでどこにでも入れる気さえする。

「逆に、私だから会ってもらえないかもしれないな」

「クリスティン先生とは仲が良かったんですか」

「いや? よく一緒にはいたが、仲良しではなかった」

「それ、仲良しというのでは」

「どうだろう」ヒストリカは懐かしむような、微笑み混じりだが目を細めて、とらえどころのない表情をした。「わからないな。あの頃のことは。クリスティンは学院の副学院長になった。私たちの歳を考えると、あいつは優秀だった。入学の時からパーシヴァルにとても心酔していた。今はきっと、私がここに来れば、学院の秘密が暴かれるかもしれないと敢えて拒絶するのだろう」

「学院の秘密ですか」

「そう。きっとハルカ・フレイザー殺しの犯人を学院は庇っている。その存在が公になることを恐れているのかわからないが。けれど、善意によってひた隠しにしているとは私には思えない。パーシヴァルは今までずっと何かを企んで、これからも企み続けるのだろう。今度の殺人は、彼にとって非常によいものだった。何かに利用するのか、きっと自分のためになると考えたんだろうな」二人は廊下を歩きながら話をする。「ハイブリッドの存在が、学院のため、そしてパーシヴァルのためになるんだ」

「だとしたら、クリスティン先生は当然、俺たちの行動を阻止するにきまっていますね」

「だからアリサは捕えられたんだろうな」

 二人は廊下を曲がり、慣れた動きで階段を上がった。下の階では何人もの学院生とすれ違ったが、階段を上がっていくにつれてすれ違うことは少なくなっていった。それもそのはずだった。上は学院長室と副学院長室が存在する。普段そこに用事のある学院生はほとんどいない。二人は学院に関わってはいるが、実質的に二人に話を通す必要があるというのはごく稀だからだ。喧騒が耳にざわついていたのに、階段を少しずつ上がっていくにつれて、静寂に足音だけが響きだすようになった。二人は話をしなくなった。それからほとんど何の示し合いもしないまま、副学院長室へと向かった。

 大きな廊下は窓がひしめき合って、広大な土地を上から一望できる。校庭とたくさんある演習場が見える。寮が見える。ウィルはこの階までやってくるのは久しぶりだった。窓とは反対側にその扉はあった。向こう側を見れば、学院長室に入るためにもっとも大きな両開きの扉があったが、あそこへ行くかどうかはまだ不明だった。まずはクリスティンだとヒストリカの瞳が囁いた。二人は大扉に比べて極めて小さな扉をノックする。中から男の人の声がした。

「この声はどこかで聞いたことがあるな」

 ヒストリカは間髪入れず扉を開いた。本棚と書類棚が左右にひしめき合い、中央に業務のための机が置かれ、机の手前に来客と対話するためのソファが向かい合わせに置かれてあった。そのソファにクレイン先生が座っていた。

「クレインじゃないか。何をしているんだ」

「ヒ、ヒストリカ先輩!」

 クレイン・エクスブライヤ先生。

 雷気質の教師でまだ着任して少しの若い先生である。学院を卒業してそのままここの教師となった。非常に真面目で律儀な風貌で、今もきちんとした身なりである。ウィルはまったく予期していなかったので逆に驚いた。いつか話を聴きに行こうと思っていたからだ。

 ――彼は、演習場でハルカ・フレイザーの炎上を目撃した教師その人なのである。

 しかし、先輩? ウィルはきょとんとした。

「クレインは後輩だったんだ」ヒストリカはウィルに言った。「私は炎気質でクレインは雷気質だが、研修で一緒になったことがある。そうか、クレインはここの教師になったんだな」

 ウィルは納得の目で二人を見た。しかしクレイン先生は明らかに怯えているというか、気後れしている。怯えているというのは少し違うのかもしれない。驚いているというか、やはりその存在の大きさにとても控えめになっているように思える。

「ヒストリカ先輩はどうしてここに……」

「クリスティンに会いに来たんだ。そうだ、クリスティンはいないのか。ここは彼女の部屋のはずだ」

「そうです。僕はクリスティン先生に呼ばれたんですよ」

「ここに? それで、会えなかったのか」

「はい。だから待っていたんですが、そこに二人が来たんです、ええと君は」

「ウィルフレッド・ライツヴィルと言います」

 クレインの顔が強張った。ウィルは何とも思わなかった。ヒストリカは不穏な様子を読み取った。

「ライツヴィル君」

「はい」

「というと、ターナー先生の」

「そう……そうです。やはりご存知ですね?」

「ああ。ターナー先生にはよくしてもらっていたよ」

「過去形? 先生は、親父がどこにいったのかご存知ではないのですか」

 ここの教師はきっと全員、ハルカ・フレイザーの事件について知っているはずだ。ウィルは思考する。だとすれば、親父が一人でその調査に乗り出したことを知っている人もいるのだろう。どのくらい調査をしたのだろうか。それに、本当に一人で動いたのだろうか。親父がどのような動きをしたのかわからない。クレイン先生なら知っているかもしれないが、あまりタイミングがよくなかった。ヒストリカさんが傍にいるのだから、彼女と一緒だからできることを優先すべきだ。クレイン先生に個人的に話をすることならば、一人でもできるだろう。

「ごめん、僕にはわからない。いつの間にか姿が見えなくなっていたんだ」

「なぜいなくなったのか、クレイン先生は知っているでしょう」

「『僕が知っている』と、どうして思うんだい」

「俺は親父から手紙をもらいました。ハルカ・フレイザーの死とその犯人ついて、親父は調査をすると」

 クレインは見るからに驚いた表情をする。それから息を吐き、納得した素振りを見せた。

「……そうか、ターナー先生はやはり」

「お話はまた聞かせてください。それで、ヒストリカさん」

「ああ。クレイン、クリスティンはいったい何のためにお前をここに呼んだのかわかるか」

「わかりません……何か僕に用があるのかも」

 ここに揃っている全員が、ハルカ・フレイザー事件の関係者であるというのが、まったくどうして上手く行き過ぎている。ウィルは唇を噛み締めた。俺の親父はあの事件の調査に一人で乗り出し、おそらく何かに巻き込まれた。ヒストリカさんはそのハルカの妹の師匠として魔法と剣術を叩きこんだ。クレイン先生は事件の目撃者の一人で、もうすぐここに来るであろうクリスティンもその処理をして、何か学院の裏で暗躍している張本人だ。彼女は何か用があってここにクレイン先生を呼んだ? ――『ハルカ・フレイザー事件に関することで』ここに呼んだのではないのか。もしくはアリサのことだ。

「それとクレイン。アリサがどこにいるか知らないか?」

「アリサ? アリサ・フレイザーですか?」

「そうだ」

 あいつが拘束されているとは明言しない。

「いや、僕は知りませんよ。彼女がどうしたんですか? というかヒストリカ先輩がなぜ?」

 クレイン先生が知らないのか? ウィルは疑う。

 ルクセルグでの一件の犯人としてアリサが捕まったのではないのか。もちろんあいつが捕まっているという事実は公にはされていない。学院生たちは何も知らない。だからこそ教師たちがアリサを何らかの形で利用しようとしているのだと思われた。だがこの様子だと――もしかすればあれは教師全体には伝わっておらず、クリスティンとパーシヴァルしか知らないのかもしれない。となると、ますます怪しい。何もかもクリスティンとパーシヴァルばかりが動きすぎている。あの二人だけが怪しい動きをし過ぎているのだ。となれば、ハルカ・フレイザーの一件も、ほとんどクリスティンとパーシヴァルだけが何かをたくらんでいて、学院全体や教師陣はほとんど関与していない? 事件自体は知っているとしても、その後の経過にはほとんど関わっていないのだろうか。さすがにアリサの入学式での一言は何らかの一撃になったとは思うが……。もちろん嘘を吐いている可能性もある。まだ判断するには早い。ヒストリカは穏やかに言った。

「クリスティンに話があったんだ。そしてアリサを探しに来た。クレインをここに呼んだというのなら、まあしばらく待っていればクリスティンは来るだろうが――まあ時間があるなら話をしようじゃないか、クレイン」

 ヒストリカは強い口調で言った。

「一から話すんだ。試験が始まったその瞬間から、ハルカ・フレイザーと一緒に受けた人間のこと。そして彼が殺されたその瞬間と、その後のこと。パーシヴァルが何を語ったのか、クリスティンが何を語ったのか。ターナー先生の手紙には書かれていなかったことを全て、教えてもらおう」






 私は冷たい独房のような、まったく何もない、立方体のような形をした部屋にいた。眠りから覚めた後、嫌な違和感ががんがんと頭を何度も穿っていたが、その声に誘われるようにしてゆっくりと牢を出て、この部屋に連れてこられた。手錠はついているけれど、こんなものはなんの意味もないと知っている。私の炎で一発で引き千切ることだってできる。向こうだってそれを知っているのに、敢えてつけているのだろう。これは拘束の意味合いではない。『破壊しない』ということに意味があるのだ。今はまだ、学院の拘束に大人しく従っているということを示すためのものでしかない。そうしてここに連れてこられ、私は小さな椅子に座らされた。中央にテーブルがあり、それを挟んで彼女は向かいに同じようにして座る。

「まさかこうして、向かい合って話ができるとは思わなかったわ――クリスティン」

「そうですか。あなたなら無理やりにでも機会を作ったのでは?」

 クリスティン。冷徹な瞳が真正面にあった。

「そうね。いつかはあなたとパーシヴァルの企みを暴いて見せると考えていた」

「ハイブリッドを殺すだけでは、駄目なのですか」

「駄目かもしれない。あなたたちのやったことを考えれば」

「随分とご立派です」

「……皮肉はどうでもいいの。こうして向かい合って話す場を作ったのは、なぜなの」

「あなたがどこまで『知っているのか』を確かめるためです」

「――――」

 やはり。

 この人は。

「それはこっちの台詞よ」

 全部知っているのは、あなたの方のくせに。私は奥歯を噛み締め、そして、ゆっくりとその力を解く。

「クリスティン、あなたは……ハルカを殺したハイブリッドがいったい誰なのか――知っているのね」

 彼女は私の言葉に、少しも動揺しなかった。彼女の動揺というのを、いつか見ることが出来るのか。私は叩きつけたいのだ。あなたたちのやっていることなど、全て私とウィルが見抜いてやったと、その顔に動揺と困惑をつきつけたいのだ。けれど今の段階では、私の情報など彼女には遠く及ばない。掌握しているのは全て彼女とパーシヴァルでしかない。

「……そう。では『あまり知らない』のですね」

「なっ――」

 あまり、あまり知らない?

「何を言っているの。知っているわ、あなたたちのことは。『エンブリヲ』という子どもたちを地下に集めて、非道の限りを尽くして自分たちの手でハイブリッドを作ろうとしたんでしょう。それに、私の兄のハルカを殺したハイブリッドの存在を公にしなかった。殺人自体を揉み消して、ハイブリッドを匿っている。そうでしょう? そして犯人は、あの六人の中にいる。あなたたちはきっと、何かの利益のためにハイブリッドの味方をしているんだわ」

「それだけ、ですか?」

「――あなたたちは、メリアとハヴェンをもう一度捕まえて、何かをしようとしているのよ! 捕獲作戦までして随分と必死になってね。そして、やっぱり都合が悪かったのか、私をこうして拘束している。このまま外に出さないつもり? 殺すの? 殺すんでしょうね、最終的には。私を拘束したってことは、そのままあなたたちが、私の入学式での宣言を認めたってことになるのよ。やっぱり殺人はあった。ハルカは殺された! あなたたちは、ハイブリッドと手を組んだのよ!」

「……そのような事実を突きつけられたところで、こちらは揺らぎません」

 クリスティンは眼鏡を持ち上げて、とてもささやかな悪意を持った瞳をこちらに向けた。私ははっとした。今、見限った。彼女は私の持っている情報がどの程度なのか、それを見極めるためにここに相対する機会を作った。そして私はその挑戦に載って、彼女に事実を叩きつけた。私たちはあなたたちの陰謀に少しずつ近づいているのだと、教えてやりたかった。けれど違ったのだ。クリスティンにとって、今の私の言葉など、歯牙にもかけない程度のものだったのだ。その程度しか知らないのと、彼女の表情と瞳は雄弁に語っている。まだ、『切り札』があるというの――何か、あなたたちの陰謀に近づくのを戸惑うような――何か恐ろしげな、一撃を――あなたたちは――……。

「では一つ、あなたに情報を教えてさしあげましょう」

「っ……何? 同情ってこと? いらないわ。それとも、余裕のつもり?」

「余裕ではありません。あなたを苦しめるための情報です」

 私を、苦しめる?

 それは。

 何。

「あなたのご両親が亡くなった理由を、ご存知ですか」

 部屋に響く声。

 なぜ、今。

 両親の話題がここに。

「父と母が、死んだ、理由……?」

「はい」

 わからない。

 幼すぎた記憶。

 でも、両親のことが大好きだった記憶もある。顔も、なんとなく憶えている。

 けれど。

 二人は、どのようにして、死んだ?

 悲しみの痛みは、あるのに。

 なぜ、死んだのか。

 わからない。

 私は額を手のひらで押さえる。

 わからない……。

 憶えていない。

 それとも。

 知らない……?

 息が詰まる。その呼吸のための一瞬を詰め切るように、クリスティンは告げた。

「あなたのご両親は――お二人とも殺害されました」

 私の頭に、言葉が水面を叩きつけるような一撃と波紋を弾き飛ばした。

 殺害。

 殺害――……。

 額に汗が滲み出す。

 殺された?

 お父さんと、お母さんが?

 殺さ、れた?

「その犯人は、誰だと思いますか」

 やめて。

 やめて、今は。

 言葉にできるほどの余裕がなかった。

 そんなこと、彼女は憂慮しない。

 時間など。

 ない。

「『ハイブリッド』です。あなたのご両親は、ハイブリッドに殺されました」


 


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