幼年期の終わり④
メリアは、痛みを忘れていくのがとても怖かった。
いつか必ず、この人たちを殺してやろうと思っていたからだ。
今は手も足も、全部鍵を掛けられて、薬も打たれて、いろんなことが不自由の内側に閉じ込められているけど、他のエンブリヲのみんなのように、死んでやる気はさらさらなかった。必ず生きて、この暗く湿っぽい施設を抜け出して、この白衣を来た人間たちなんかどうでもよくなるくらい、破壊の限りを尽くそうと決めた。パーシヴァルを殺す。きっと奴を殺そうとすれば、それを守ろうとしてこの白衣の人間たちも邪魔をしてくる。その時は、容赦なく殺そう。みんなが悲しい涙を流しながら死んでいった、その気持ちを晴らしてあげよう。いや、ただわたしが――わたしがただそうしたいだけだから、そうするだけなんだ。
だから、痛みを忘れたくなかった。
ずっと痛かったけれど、施設の人間は時折痛み止めを打って、痛覚を鈍くしては、いろいろな魔法を宛がった。黒い壁に繋がれて、教師と思しき人たちの炎や雷、あるいは水、時には風を一心に受け続ける。施設で一番最初に死んだのは、炎魔法を食らい続けて死んだ男の子だった。わたしたちが連れて来られて、すぐのことだった。それから計画は変更され、あまり魔法を浴びせ続けると死んでしまう、それでは意味がない、きちんと生かし続けて、極限状態を維持するのがいいのではないか。そう誰かが言った。それからわたしたちは魔法を浴びても、死んでしまうその寸前で止められて、無理やり食事を詰め込まれ、死なないようにするための薬を何度も盛られた。もちろんすぐに、死んだ。食事の時に慰め合った女の子も、次の日には、水魔法を浴び続けて溺死した。舌を出して、だらりと垂れさがった四肢を見てしまった。悲しくはなかった。痛みが強かったのだ。本当の痛みは、どんな感情もすり減らしてしまうと知った。ハヴェンの腕がちぎれたこともあった。その時は初めて、施設の人間に反抗したけれど、クリスティン――あのあまりにも冷たい瞳で子どもたちを見下す女は、わたしを一撃で沈めた。彼女は言った。「安心なさい。彼の腕は治ります。治癒魔法は素敵なものです」――教師の中にいた治癒気質の人間が、ハヴェンの腕と肩をくっつけた。それから眠り続けて、ハヴェンは再び、同じように実験され続けた。雷を受け続けて目玉がどろりと溶けてしまった友達を見ても、自分の腕にある切り傷と、頭を中からがんがんと殴り続ける鈍痛が、怒りもすり減らして行った。
仲間が減っていく。治癒気質のために、剣で貫かれた子どももいた。痛そうだけど、自分はその痛みの痛みを知らない。私の痛みはわたしの痛み。だからそれを忘れないようにした。一週間くらいすれば、また一人減る。風魔法でかまいたちを全身で受ける子どもは、体をばらばらにされる。治らないと一蹴される。痛くない。だけど、わたしはわたしの痛みに集中した。そしてそれは少しずつ、箱に詰められたように溜まっていって、いつか殺してやろうと歯を食いしばるようになった。ハヴェンも同じだろうと思った。今も優しいけれど、目が変わった。睨みつける瞳、刃も連想させる、冷たさ。
痛みを忘れない。忘れてはならない。体の傷も、心の傷も。
そして、手に宿ったのは炎と雷。
脱出の機会。
やっと。
やっと――。
■
目の前からやってくる誰かの顔が見えないまま、すぐに剣を引き抜き、相対するその人の刃と相殺した。硬質な音が響いて、地面に降り立って、いったい誰と相まみえたのか後ろを向いて確認する。メリアとハヴェンもその場に降り立った。上からゆっくりと降りてきたのは、なんとアーニィさんだった。金髪が柔らかく揺れる。
「アーニィさん」
「アリサちゃんじゃない!」
彼女はそっと、こちらに近づこうとした。
私は片手に握った剣の先を、彼女に向ける。その鋭利な輝きに、アーニィさんは歩き出そうとした足を止めて、笑顔を苦笑いに変えた。
「えっと、……アリサちゃん? どうしたの?」
「アーニィさんは、なぜここに?」
彼女は私の横に立つメリアとハヴェンをちらちら見ていた。それから息を吐き、冷静に答える。
「パーシヴァル学院長から命令があったのよ。子どもを二人――捕まえてこいって」
「子ども」
ハヴェンは舌打ちした。
「けっ、あの野郎から見りゃまだまだ子どもか。まあそりゃそうだろうな。けど、これからそのガキに殺されるなんて、皮肉なもんだぜ」
アーニィさんは並々ならぬ空気を感じ取り、腰の剣の柄に指を添えている。
「写真を見せてもらったわ。子ども二人。あなたたちのこと――ね。なぜ、アリサちゃんが一緒にいるの?」
「利害の一致です。彼女たちは今から、パーシヴァルを殺しに行きます」
「殺――殺すの? 学院長を?」
「はい」
「アリサちゃんも、パーシヴァルを殺したいわけ?」
「そう、言いませんでした?」
「パーシヴァルは強いわ。あなたたちで、勝てるっていうの?」
メリアが一歩前に出た。
「わたしたちは子どもじゃないんだ。みんなが子ども扱いするけど。でも、もう子ども時代は終わったんだよ。子どもだからって人を殺さないわけじゃない。理由があったら、別にかまわないと思うけど」
「理由――意味が分からない。あたしたちは、あなたたちを捕まえるように言われただけ。だけど、あまり乗り気じゃなかったわ――だって、意味が分からないもの。演習中だったのに、わざわざリーグヴェンから北都にまで駆り出されるなんて。それが来てみれば、子どもを捕まえなさいだなんて。あなたたちは何? パーシヴァルを殺す理由って、何?」
どうやらアーニィさんは話を聴いてくれるみたいだ。無駄な争いはしたくなかった。でも、話から察するに、他の都市からもメリアとハヴェンを捕まえるように言われて学院生が集められているようだ。アーニィさんがいるのは東都リーグヴェン。あざわざ北都に呼び寄せるなんて、パーシヴァルも本気で二人を捕まえようとしているようね。
「お姉ちゃん」
メリアが私に目配せした。
「――――いいわ。私がアーニイさんと話をする。あなたたちは先に行って」
「いいの? パーシヴァルとお話したいんじゃないの」
「話せるくらいにはしておいて。必ず後は追うわ」
「めんどくせーな……」
「ハヴェン。お姉ちゃんの言うことは、逆に言えば、パーシヴァルを苦しみながら殺すことが出来るって意味だよ。ゆっくりゆっくり殺せばいいんじゃないかな」
メリアが穏やかにそう言った。穏やかな言葉にしては、重たい言葉だった。
「ちっ、わあったよ。早く来いよ」
二人は森の奥へ飛び立っていった。
私は剣を下げる。
アーニィさんも静かに、剣の柄に添えた手を緩めた。
■
「ヘイガーさんは……」
「来ているけど別行動。この森はあたしたちの班だけど……ヘイガーはあっち」
反対側を指さした。
「じゃあ、さっき私たちが気絶させてしまった上級生も、アーニィさんたちの班の人かもしれないですね」
「気絶させたの? やるわねえ」
「あまり笑い事じゃないと思いますが……」
悪いことをしてしまったので、先ほど気絶させた数人の上級生の元へ歩くことにした。
私が何も言わなかったら、殺されていたかもしれない。
メリアとハヴェン。
二人は、闇を抱えている。
私だって、殺したい人がいる。
憎い人も。
だけど、彼女たちの復讐には及ばない。
私は泣いただけ。
この体には、一つの痛みもない。
もちろん、ハイブリッドを殺すために、いろいろな苦労をした。師匠の下で、血の滲むような努力をして、今、認められるくらいの力は手に入れた。それこそ、自由に都市を巡ることができるような、一般的な基準で見れば優れている程度の力を。だけどその力は、誰かを殺すために手に入れた力だ。頑張る必要があって、目的があって、やりたいことがあって、殺したい人がいて――そんな目的のために手に入れた物だ。だからこそそれは誇りに近いものだし、だからこそここに辿りついた。自分で、ハイブリッドを殺すための力を求めて、自分で痛みを望んだ。
けれど彼女たちは、その痛みを自分で望んだわけじゃない。
強制的な痛み。
本当はそんなもの要らなかった。
だけど手に入れてしまった。肌に焼き付いてしまったのだ。
彼女たちの復讐は、私よりもずっと価値のあるものだ。
私はハルカの死を。
彼女たちは、自分たちの痛みを。
復讐が理に適っている。
「ウィル君も、あの二人を捕まえる小隊に入ったのよ」
「ウィルも? どこにいるんです?」
「ルクセルグの小隊はお城。捕まえる小隊なのに笑えるわよねえ。まあ護衛じゃない? 普通に考えれば」
「普通に考えれば」
「だって、あの二人は――ラプター騒動の首謀者なんでしょう」
アーニィさんは足を止めた。
「そこまで、知っているんですか」
「知っているわ。あの二人は、何?」
「言えません。私が言うことじゃないですから」
「クレイドールを人間が操ったり、出現させたり――それって、クレイドール研究から見たら大発見も大発見よ。新事実にも程があるわ」
「クレイドールは、まだ現れてから十五年しか経っていませんからね。なんでも大発見でしょうね」
クレイドールは十五年前に現れた。
学院や城の研究機関でも、捕獲していろいろな研究や実験をしたらしく、十五年の間に様々な研究結果が報告されて、公的にもその生態は知られている。しかしまだまだ不明な点は多く、まだそれほど研究の歴史も長くはないため、発見の程度が浅く、少しでも進歩や新しい事実が見つかるだけでも十分に賞賛される。今回学院生を招集する際、二人がラプター騒動の首謀者とパーシヴァルが暴露したなら、それこそクレイドール研究者は大慌てなんだろう。なぜその事実をパーシヴァルが隠していたのか、なぜ知っていたのか、それについて糾弾されたりしているかもしれないけど――。
待って。
パーシヴァルは、なぜ二人が首謀者だと知っている?
二人はハイブリッドになった。そして『誰か』が穴を破壊して、そこから逃げた。それから、操れるわけじゃないけれど、二人につき従うような形で、そしてその意志を叶えようとする形でクレイドールが現れることを知った。ということは、ハイブリッドとクレイドールが関係していると知っているのは、メリアとハヴェンだけのはずだ。二人は別の誰かと接触したわけじゃないし、脱出して以降、自分の力を誰かに話しているはずがない。そもそも、二人がハイブリッドの似姿になったということも、パーシヴァルは知らないはず。
――……いや、違う。考えすぎだ。
ルクセルグで二人がクレイドールを突き従えているところをパーシヴァルが見ただけだ。実際目撃している。あれは誰がどう見ても二人がラプターを操っているようにしか見えなかった。実際は操っているわけじゃないけれど、そのようにしか見えなかった。それに、パーシヴァルはまだ『ハイブリッド』という言葉を一つも出していない。だから、まだ奴が今回のことで何か手を引いているとは限らない。もちろん何か考えているけど、論理的に揚げ足を取ることはできない。
やはり、奴のところへ行かなければ……。
アーニィさんは、微笑む。
「今も、こうして話をしている場合じゃなくて、二人を追いたいって思ってる?」
「はい。すみません」
しばらく歩き、気絶している上級生を一人見つけた。アーニィさんはしばらく名前で呼びかけたけれど、眠ったように目を閉じている。彼を気絶させたのはハヴェンだ。片腕に剣で一撃やったためにできた切り傷ができていて、ローブの裂け目から傷口が覗いていたが、血はすっかり止まっていた。アーニィさんは息を吐く。
「あたしたちが邪魔なのね」
「邪魔――言い方がよくないと思います。私たちはパーシヴァルのところへ行きたかった。皆さんは、私たちを捕まえようとしていた。だから、やってきた皆さんを気絶させただけです」
「パーシヴァル学院長のところへ行って――あの人を、殺すのね」
彼女は気絶している仲間に、丁寧に応急処置をした。腰に巻いていた小さなポーチから、簡易の治療器具を取り出して、布を傷口に当てる。私はそんなアーニィさんの背中を、後ろから見守っていた。ハヴェンがこの人を攻撃するのを、私は別に何とも思わなかった。アーニィさんにとっては、仲間が傷つけられたのだ。嫌な気持ちになっているだろう。けれど、仕方がないことだった。私はその程度で、いろいろなものを捨てていいとは思わない。道を途中で止まっていいとも思わない。
「殺します」
「殺したら、学院は……」
「何らかの変化を求められるでしょうね。でも、それが目的ですし……別にどうあれ、私が潰します」
「新しい学院長が現れたら、それでアリサちゃんの気は済まないの」
「済みません。学院は圧倒的な悪です。皆さんは――皆さんはずっと憧れて、予備校にも通って、この学院に入学したかもしれません。だけど、……学院は、否定されなければならない、多くの悪事を企んで、実際に行っていた。私はそれを知っているし、体験した人の話を聴きました。だから皆さんには悪いけど……学院を、壊してみせます」
「そっか。でも、言えないんだ」
「来るべき時が来たら、話します」
「それって、いつなの」
「いつかです」
「あはは、信用されてないのねえ」
「あなたが犯人かもしれないんですよ、アーニィさん」
そう、今目の前にいる彼女の背中。
華奢だけど。
ハルカを殺したかもしれない。
「……疑り深いわねえ」
アーニィさんはゆっくりと立ち上がり、こちらを見た。柔らかな微笑み。
「でも、それは有り得ないわよ」
「証明できますか? 以前お会いした時は、無理でしたよね」
「うん。でも、今はできるかもしれない」
「えっ?」
「あたし、ヘイガーが好きなの」
■
「えっ……」
いきなり繰り出された言葉に、私はたじろいだ。アーニィさんはとても誇らしげに、してやったりな表情で私を見据えている。ハルカ殺しの犯人の話をしていたのに、突然いったい何の告白だろう。自分の中では、さっきまでずっと冷静だったのに、アーニィさんの言葉が堂々巡りして、言葉を失ってしまった。好き。ヘイガーさんが。アーニィさんは上を向く。
「ヘイガーが好きなのよ、あたし」
「そうですか……えっと、それがなんですか」
「だーかーら、それが証明よ。あたしが人を殺したりなんかしない理由!」
「待ってください。どのあたりが証明なんですかっ」
「えー? 十分証明になると思うけど……好きな人がいるのに、人を殺したりする?」
「うっ」
「だって、人を殺すって、その罪をずっと背負って行かなきゃいけないじゃない? で、あたしはヘイガーが好き。ずーっと好きだった。それなのに、わざわざ人を殺すと思う?」
わからない。
人を殺す人間の心理なんて、わかりたくもない。
そもそも、恋ってなんなの。
例え迷ったとしても、いろいろな言葉が喉まで競りあがってくるはずなのに、今は何も湧かなかった。まったく、自分の中で、彼女のヘイガーさんへ向けた好意に、私がどのような考えを言っていいのかも、一つもわからなかった。何も。そういう時はどうだとか、観念的なことは一つもわからない。私は黙ってしまった。それを見兼ねてか、アーニィさんは嬉しそうに続きを話す。空を見上げて、誰かを想うように――思い浮べるように。
「あたしね、予備校の時からヘイガーのこと好きだった」
予備校とは、学院に入学するまでの準備期間に通う、文字通りの学校だ。学院の入学試験を受けることが可能なのは十五歳以上。その試験の合格のために、多くの子どもたちは予備校に通って、魔法や筆記の勉強をする。予備校に入学する時期は自由で、もちろん予備校に通わずに独学で勉強する人もいる。私のように、誰か特定の人に師事して学院試験を通っても構わない。ただ、大抵の子どもたちは街の至る所にあるいろいろな予備校に通って、試験の準備をする。
「予備校にいる時も、そして今も好きだとは言えなかった。予備校にいる時は、ヘイガーとは全然仲良しじゃなかったの。ただ、予備校に入るのが同じ時期で、席番はいつもヘイガーが一つ前だった。ちょっとしか話したことは無くて、だけど遠くから見つめているだけでも、ヘイガーのこと、好きになっちゃったのよねえ。悔しいけどさ」
ヘイガーさんのことを語るアーニィさんは、とても嬉しそう。
私はまだ、口を閉じたままだった。
「学院の試験も、ヘイガーとは席番の関係で同じ部屋だったし、実技の試験も同じ試験場だった。あたしは嬉しかったけど、ヘイガーは澄まし顔だったなあ。『ヘイガー、部屋一緒だねえ』って試験前に言ったけど、全然仲良くなかったわけだから、『そうだな』って言われただけだった。あれはなかなか悲しかったなあ」
そして、少しだけ顔を陰らせる。
「だけど、あの事件があって――――」
私の頭に、想像上の炎が吹き荒れる。
「事件のこと、学院から黙っているようにって言われたの。ヘイガーとは帰り道が一緒で、黙ったままだった」
目の前で、人が燃えたのだ。
ハルカ……――。
私は唇を噛む。
「それから、私たちは一緒にいることが多くなったの。それで、今も思いは引きずっている」
「そう、ですか」
「とにかく、わかってもらえない? ヘイガーのこと、ずっと好きなの。それなのに、誰かを殺したいって思う? 理由なんてないじゃない?」
「ハルカとは、試験より以前に出会ったことはないんですね」
「ない、と思う。あったら名前、憶えているはずだし」
「好き」
私は呟いた。
そんな言葉は、あまり使わない。
食べ物が好き。
色が好き。
あの景色が。
何かが。
そんなことさえ、きっと他の誰しもならありふれているかもしれない言葉も、自分の口と声にあまりにも似つかわしくなかった。幼い頃は、もっと自由にこの言葉を扱えていたかもしれないけれど、でも、そんな必要さえなくなった。いろいろなものが、好きとか嫌いとか、そんな尺度の内側に入れようと思わないところに消えてしまった。もっと大切なものがある。正しいのか、間違いなのか。好き嫌いよりも、そのことばかりだ。自分の行為は正しいのか、間違いなのか。ハイブリッドがハルカを殺したのは、明らかな間違いで、否定されるべきもの。それを殺すために生きた私も、きっと正しく間違いなのだということ――……好きかどうかなんて、もうずっと忘れてしまったようにも思えた。もう私は、自由に好きだ好きだと言えるほど、子どもじゃない。そして、子どもじゃないとわざわざ言わなきゃいけない程度には、わがままな子どもだ。
でも、わがままじゃなければ殺したいなんて思わない。殺すことは間違いだと言って見せるのが大人なら、別に子どものままでも構わないし、殺すために自分の体が成長したのなら、それもまた大人だ。どっちつかずでも、どちらでも構わない。殺しさえすれば。殺すことさえできれば。
だけど、誰かが好きだなんて――……。
自分と照らし合わせられないから、彼女の論理が、わからない。
「好きな人と一緒に試験受けてる途中に、人を殺すなんて有り得ないと思わない?」
それは。
好きな人が――好きな人という概念があまりよく理解できないけど……一緒にいる時に、誰かを殺すなんて、一般的に見れば理解できないことかもしれない。殺人鬼が恋と殺人を優先するか。そういう問題だろうか。いや違う。でも、恋する人と同じ空間にいるというのに、殺人に踏み切るのだろうか? しかも、アーニィさんはハルカとは試験が初対面だったはずだ。となると、殺さなければならなかった動機がその場で生じたことになる。だけど、わざわざその場で殺すメリットがあるのか? 殺したくても、好きな人がいるから今回は殺さないでおこう――そういう思考になるはず。
けれど。
「わかりませんよ。こうして調査にやってきた人間に『好きな人と一緒に試験受けてる途中に、人を殺すなんて有り得ない』と思わせて、容疑者候補から外れようという魂胆だったのかもしれません」
「そんな難しいこと、あたしは考えないけど?」
「それも嘘かもしれないじゃないですか」
「疑ったらきりがないじゃない……」
「それも、そうですね」
「伝わった?」
「アーニィさんが犯人ではない、ということが?」
「そう。ヘイガーが横にいたら、言えないことじゃない?」
「……まだ、まだわかりません」
「そっかあ」
「ヘイガーさんには、想いは伝えないのですか」
「うーん……わかんない。どうしよっかなあ。もう出会ってかなり経っちゃったし。まあ、仲良くなってからは五年だけど……」
二人はきっと、あの事件をきっかけに距離が縮まったのだ。想いは伝えてなくても。
「でも、好きなんですよね?」
「ええ、大好きよ。彼と今でも一緒にいられるのはとても幸せ」
言葉通りの笑顔。
リーグヴェンで交わし合っている、二人の会話や表情が頭を過ぎる。
「…………」
「どう?」
「保留です。わかりません、まだ……何も……」
「なーんだ。でもいいや。あたしはやってない。それは言える」
「ヘイガーさんも、やってないと思いますか」
「やってない、って信じたい」
「もし、ヘイガーさんがハルカを殺した犯人だったら――」
なんて残酷な質問。
自分が少しだけ嫌になった。
それでもアーニィさんは、変わらない。
「一緒に、罪を背負ってもいい。好きってそういうものだと思うけど」
■
「私、あの二人を追います」
「パーシヴァル学院長を殺すの」
「殺してもいいですか」
「殺さないでって、言ってもいいの?」
「アーニィさんは、この学院の人ですもんね。ヘイガーさんとずっと過ごしてきた学院が、彼の死で崩壊するかも」
「でも、アリサちゃんの考えなら、ずっと酷いことをしているんでしょう」
「しています」
「アリサちゃん、人殺しは悪いことよ」
「そんな言葉じゃ止まらないって、わかってるんじゃないですか」
「あはは。でも、戦うのは嫌よ」
「危害は出しません。誰にも」
「ウィル君は、怪我したよ」
「ウィル――が?」
そんなことは、初耳だ。
……当たり前だ。ここ数日、ウィルと会っていないから。
「怪我をしたっていうのは」
「あの男の子が、彼を攻撃したのよ」
ルクセルグでの事か……。
そんなことがあったなんて。ウィルの声は、私のずっと傍にあった。この五年間、必ず私の隣にあった。この五年間、彼が怪我をしたことは一度もないし、何日間も会話をしなかったのは初めてのことかもしれなかった。ウィルは何をしているんだろう。怪我をしたって、大丈夫なのだろうか。治癒魔法がすぐに使われたのなら、きっと大事には至らない。だとしても、怪我をしたという事実は本物だ。それは戦いがあったということ。ハヴェン――あなたは、人を攻撃することを厭わないのね。私だって、脅すために誰かに魔法を撃つと手のひらを向けることはあっても、理不尽に誰かを攻撃はしない。
あの二人と利害は一致しているけど、本当の意味では理解できていないのかもしれない。
理解など、できるわけない。
あの二人の痛みは、本物だから。
私のだって本物だ。
だけど、あの二人の復讐は、他の全てを破壊してでも終わらせたがっている。
目的のためなら、手段を択ばないのだろう。
「ウルスラも怪我をしたの。あの男の子の攻撃で」
「……」
「あの二人の味方をしてもいいけど。でも、本当に大丈夫なの。誰も苦しまないの? それが一番いい選択なの……?」
「少なくとも、パーシヴァルは最低の人間です。それだけは――わかるんです」
パーシヴァルは、死んでもまだ足りない最低な人間だ。
それだけはわかる。
「ごめんなさい。アーニィさん、私はあの二人を追います」
「ええ」
彼女は、何かを言いたそうにした。
「あの、何か……?」
「個人的な事、言ってもいい?」
「はい」
「あたし、アリサちゃんに、人を殺してほしくないわ」
「……本当に、個人的ですね」
「でも、なんだか――あなたは幸せになれない。そう思っちゃうから」
当たり前だ。
復讐者に幸せは有り得ない。
人を殺して、幸せになんて。
「私は幸せになりたいわけじゃありません。そんなの、当たり前じゃないですか」
「アリサちゃんが幸せになれないなんて悲しいけどなあ、あたしは」
「私にとっての幸せを祈るなら、私の目的が果たされるのを祈ってください」
「あはは」
アーニィさんが私のことを想ってくれているのはわかる。
知り合いになって、仲良しになって、それはもう『関係ない』ことじゃない。
その人に、殺人者になってほしいなんて、誰も思わない。
アーニィさんの気持ちはわかる。
だけど。
私はこの胸の痛みも、ハルカのことも、全部終わらせる。
ハイブリッドを殺す。
パーシヴァルも、殺させる。
学院も潰すんだ。
アーニィさんは手をひらひらさせた。
「いつか、いろいろなことを話してね。あの二人がなんなのか。パーシヴァルがやってきたこと。それで納得させてよ?」
「はい……では、失礼しますね」
「ウィル君に、よろしくね」
「また、お会いしましょう」
■
メリアが飛び跳ねた瞬間、目の前で学院生が剣を振るった。
何も恐れることはなかったが、アリサのことは頭を過ぎり、瞬時に腰から剣を抜き取った。実際は剣を振らないで、その剣撃を相手の刃に確実に当てることを考える。次の動き、どうする。簡単な事だった。頭よりもずっと早く、脚が動く。右足で相手の腹部を殴り飛ばす。吹き飛び仰け反りながらのローブのはためきを見つめていると、右前方から火球が跳んでくる。炎魔法か――メリアが地面に落下するより先に、ハヴェンがメリアよりも前に出て火球を魔法で切断した。火球の爆破が煙となって森の中を満たす。そこからハヴェンは息をする間もなく、煙の中に突っ込んでいく。悲鳴。ハヴェンは煙の中で、火球を打ち出した本人のローブの胸ぐらをつかみ、空中の重力を利用して体をねじると、そのまま相手の体を木に叩きつけた。そこから、あまり体に傷を与えない風魔法で一発を与える。次――上。水魔法か――水の流れるような勢いがハヴェンの上に迫った。メリアは声を上げなかった。ハヴェンは何のわだかまりもなく、空中で自分の片側に魔法を発射し、浮遊することで水魔法を避ける。滝のような圧力のある水が地面に流れ落ちた。メリアはハヴェンを制する合図なく飛び立ち、剣の柄で魔法の主の腹部を殴打する。それから回し蹴り、落下する相手に軽い雷撃を与えた。そのまま相手は地面を砂煙を上げながら落下して滑り、がくりと項垂れるのを確認する。次、二人掛かり――メリアは地面に炎を撃ちこみ、太陽の光を遮っていた木の枝よりもずっと高く、空の中へと飛び上がる。木の枝が邪魔なのだから、ここまでくれば――やはり。メリアは無表情のまま、下を見下ろした。二人の学院生が同じように木の枝を抜けて飛び上がり、自分の元へと浮き上がってきた。体が見えるということは、そういうことなのに。メリアは上に向かって炎を逆噴射し、片側の学院生に体当たりする。そして、剣を抜き、相手の足を一回だけ斬りつけると、軽い雷魔法で吹き飛ばす。自分の背中を狙ってくるもう一人の剣を、体を前に回転させて避け、そのまま足で蹴り上げた。ローブのフードを掴み、木の幹に投げつけて気絶させる。
「お姉ちゃんのいいつけを守るのは、難しいね」
「まだ一人も殺していないだけマシだ。面倒くせえ」
「森を抜けよう、ハヴェン」
二人は森を抜けて、平原に出る。森にあるような木の枝や、街の建物もないため、上空に身を投げる魔法浮遊があまり使えなかったが、平原はそれほど長くはなかった。少し歩けば、もう城下町の大きな壁が見えている。そこまではほとんど一直線の道で、穏やかな風はその戦いの空気を少しも感じ取ってはいなかった。メリアは髪を押さえる。
「ハヴェン。パーシヴァルを殺したら、どうする?」
ハヴェンはメリアと同じ方向を見た。二人は見つめあうことはなかった。同じ方向ばかりを見ている。ずっと傍にいたが、隣同士で、横並びだった。自分たちの幼心がもう少しだけ大人になるような時期に見つめていたのは、きっとなんにしても似つかわしくない、仄暗い空間の小さな燭台だった。そして、あの鉄格子が開く瞬間の、恐ろしい研究者の冷たい手袋が、自分たちの手錠を掴みあげるのを、怯えながら、恐れながら眠っていたのだ。だからこそ、きっと同じ場所ばかりを見ている。同じ人ばかりを見つめて、その人間が血反吐を吐く瞬間ばかりを夢想している。風は心地が良い。それは、誰もがそうかもしれない。しかし二人にとっての風は、自由であり、そして殺す機会が自分たちに用意されていることでもあった。
「どうするったってな。メリア、お前はどうすんだ」
「さあね。わかんない。ハヴェンのことばを参考にしようと思ったんだ」
「パーシヴァルの無様な死に姿を見たら、もうなんもかもどうでもよくなっちまうかもなあ。それだけで満たされるってもんだ。幸せってやつか? いや、わかんねえけど。でも、誰しもそういうもんだろ。満足出来たらそれでおしまい。普通に生きている奴らは、そんな満足を何回も積み重ねていくんだろうけど、俺は違う。一度でいい、一度っきりで。奴を殺せれば」
「とても、とてもあいまいだなあ」
メリアは小さく微笑んだ。
「お姉ちゃんは――お姉ちゃんはどうするのかな」
「あいつか。さあな。俺たちと違って、殺したい奴が定まってないみてえだからな」
「ハイブリッド。わたしたちの『本物』だね」
「――なぜ、俺たちが二種類の魔法を使えるようになった?」
ハヴェンが問うた。
「わからない。実験が成功したのかもしれないよ」
「成功して嬉しいか、メリア」
実験は過酷で悲惨なものだった。仲間の死体は、まだ瞳に焼き付いている。
「わかっててきいてる?」
「ああ」
「うれしいよ」
「そうだろうな」
「意味がないままだったら、痛みも何の意味もなかったからね」
「そうだな。感謝はしてない。どっちつかずで終わるのなら、これでも構わなかっただけだ」
二人は平原を抜け、街の中を駆けた。学院生が街の中をうろついており、明らかに探している素振りを見せている。二人は路地裏に入り、かなりの速度で魔法浮遊を使った。例え見つかったとしても、追い抜かれないような。
路地裏が終わり、二人は地面を蹴って魔法を下に放ち、思いきり建物の上へと飛び出した。屋根を越えて、青空の元、ルクセルグの城が一望できる地点まで上り詰める。そこから数回、連続で魔法を横に放って、城へと近づいた。その時だった。下から線形の雷魔法が飛んでくる。直線状に、とにかく真っ直ぐに威力を秘めた雷魔法だった。
「ハヴェン」
「こいつぁ、ちょっと手強い奴だな。構わねえ、俺がやる」
「パーシヴァルはまだ殺さないままにしておくね」
「そうかい、そうしてくれるとありがてえな。あいつも早くくればいいんだが」
ハヴェンはゆっくりと地面に降りていく。
メリアは城へと顔を向けた。
■
「ちょいと、邪魔はしてくれない方が助かるんだがな。お兄さんよ」
「お前が例の子どもか。思ったよりも幼げがあって安心したぞ」
「名乗りやがれ」
「ヘイガーだ。そちらから赴いてくれるとは手間が省けた。何の意味があっての捕獲かは知らないが、学院長の言うことならば仕方がない。やらせてもらうぞ」
■
そして、そこに立っていたのは。
少女だった。
扉が破壊された煙が、瓦解していく扉の残骸と共鳴するように、しめやかに空間に立ち込め、やがて透明に同化していく。ウィルたちの手元に、剣の冷徹な感覚が繋がった。当惑が少しずつ、眉間に力が籠る。逆光に姿が明滅し、その姿が長い髪の、小さな、幼い佇まいにゆるりと目が慣れていくと、その場にいた全員が、頭の中にあった少女の姿と重なり合わせる。
「――――パーシヴァルのところへ、案内して」