【 BL以外 】 ・翅(はね) ・チョコレートを買いに ・キャンドル物語
翅 ―はね―
雪がチラチラと降ってきた。初雪だ。空を見上げると、白い雪は大きな灰色の塊に見える。その一つが自分の上にパサリとかかり、彼女は慌てて早足になると落ち葉の陰にもぐり込んだ。
今いる場所は山間の河原で、木々の梢のサヤサヤいう葉擦れの音と小川を流れる水のサラサラいう音だけが聞こえる静かな場所である。その音も、今は凍て付いた寒さにシンと静まり返っているように思えた。
(寒い……)
彼女はツンと伸びた長い触覚や頭部に付いた雪を前肢で丹念に拭って口に含む。体に付いた雪は尾の先に付いたハサミを振って払った。
(早く見つけなくちゃ……)
彼女の黒色の細長い体は腹の部分がふっくらと膨らみ始めている。腹の中には愛する夫との大切な卵が入っていた。
(あなた……)
彼女の夫は素晴らしいハサミを持ったオスだった。黒光りする体もしなやかで美しかったが、何よりも素敵だったのは内側に湾曲した大きなハサミだった。彼女は、背を反らして自慢のハサミを振り上げた夫の逞しい姿をうっとりと思い出す。夫はスラリと伸びた触覚で優しく彼女の体に触れると、背に生えた黄金色の前翅を美しいと褒めてくれた。
彼らの種族はほとんどが無翅だが、一部の種だけは最後の脱皮で翅を得る。後翅は薄くて大きいが前翅は小さく、先だけが黄色いのが特徴だった。彼女の前翅は特に黄色味が強く、光の加減で黄金色に輝いて見える。二人は出会ったその場で恋に落ちて、そしてすぐに夫婦になった。
(急がなくちゃ……)
この雪が積もれば身動きが取れなくなる。どこかへ移動しようにも、この腹ではもう飛べそうに無かった。
「ここはダメよ! 他を探しなさい!」
良さそうな石を見つけてその下を覗くと、既に別のメスが巣を作っている。彼らの巣は砂地にある平らな石の下などで、わずかな隙間にもぐり込んで内部をきれいに均すのだ。
(疲れた……)
彼女はもう何日も何日も独りで巣を作れそうな場所を探していた。頼りになる筈の夫は交尾した直後に消えてしまった。本当に一瞬のことだった。辺りが急に暗くなったと思ったら再びパッと明るくなり、すぐ隣にいた筈の夫は消えていた。どこかで何かが『ピーヨ』と得意そうに鳴くのが聞こえ、そして彼女はもう夫には会えないのだということを漠然と悟った。
(あなた……)
その時、不意に誰かが『ほら』と囁く。前方を見ると、少し大きめだが平らな石があるのが見えた。上方に大きな木の枝が張り出しているので雨雪もしのげ、且つ日当たりも良いので絶好の場所である。しかし、こんな良い場所ではとうに誰かが巣を作っているかもしれない。彼女は恐る恐るその石に歩み寄ると、そっと下の隙間を覗き込んだ。
(良かった……!)
石の下には誰もいなかった。そこには程好い広さの隙間が出来ており、少し均せばすぐにでも産卵出来そうである。彼女は大喜びで石の下にもぐり込むと、ホッと安堵の息を付いた。
(暖かい……)
平らな石は日光を効率良く受けるので、冬でもほんのりと温かい。その輻射熱で、その下の隙間も外とは段違いに暖かかった。
(ここなら大丈夫……)
巣穴の環境は卵の生育や孵化率に大きく影響する。大切な夫の子だ。ただの一つも無駄にするわけにはいかなかった。
(急がなければ……)
彼女は大急ぎで巣穴をきれいに均し始める。その時、巣穴の奥に埋もれている何かに気付いた。
(これは……)
元は黒かったと思われる色褪せた翅は先の部分だけが黄色く、確かに自分と同じ種族の前翅である。
(そうか……)
ここはかつては誰かの巣穴だったのだろう。そして、ここに翅があるということは、無事に子供たちを巣立たせることが出来たということだった。
(良かった……)
彼女はホッと安堵すると、再び巣穴を整え始める。雪はシンシンと降り積もり、やがて辺りは雪に埋もれた。
卵は全部で五十個ほどだった。白い半透明の卵を見詰め、彼女はうっとりと目を細める。
(可愛い……)
産卵は長時間に渡って大変だったが、宝石のような我が子を見ると癒された。
(あなた、見て。あなたの子よ)
彼女は愛する夫の面影を思い出しながらその卵を手に取る。そして、それをきれいに舐めて部屋の隅に移すと、次の一つを手に取った。こうして一つ一つ丁寧に舐めて、卵が孵るまで世話をするのだ。飲まず食わずの作業は決して楽なものではなかったが、可愛い子供のためなら苦ではなかった。
やがて日に日に寒さが和らぎ、そこかしこでピチョンピチョンと水音がし始める。日当たりの良い河原は特に雪解けが早くて、彼女の巣のある石にも春の陽が当たり始めた。
「あ……」
いつものように卵を一つずつ舐めていた彼女は、いつもと違う動きに気付いて目を見開く。すると、今舐めたばかりの卵の殻が破けて、中から白い半透明の子供がピョコンと顔を出した。
「ママー」
「まあ!」
彼女はあまりの愛らしさに思わず声を上げると、目を細めてしげしげと見詰める。産まれたての我が子はまだフヤフヤで、しかし確かにお尻の先にはハサミになると思われる二本の突起があった。
「なんて可愛いんでしょう……!」
彼女は我が子を招き寄せると、その体を丹念に舐める。子供は気持ち良さそうに目を細めると、小さな触覚で彼女の体にチョンチョンと触れた。
やがて次々と卵が孵り、巣穴は子供たちでいっぱいになる。先に産まれた子供たちはだんだん黒味を帯びてきて、動きも活発になってきた。しかし。
「どうしたのかしら……」
二日程で他の卵は全て孵ったというのに、どうしても最後の一つだけが孵らない。内で動いているのはわかるのだが、出てくる気配はなかった。
(疲れた……)
もうずっと何も食べていないので体は限界にきている。しかし、最後の卵から目を離すことは出来なかった。子供たちはそろそろ腹を空かせてきている。卵を食べてしまう危険もあった。
「ママー。お腹が空いたよ、ママー」
子供たちが切なげに訴えながら彼女の周りをウロウロと歩き回る。
「もう少し待ってね。もう少しだから」
彼女はフラフラになりながらも子供たちを代わる代わる舐めると、優しく宥めた。その時、半ばぼんやりしだした彼女の耳に再び誰かが『ほら』と囁く。
「誰……あなたなの?」
必死に意識を繋ぎ止めて目を開けたその時、不意に卵の殻が破けて小さな子供が中からピョコンと顔を出した。
「ママー」
その子はすぐに彼女を見つけると、ヨタヨタした足取りで近寄って来る。
「まあ、なんて可愛いんでしょう……!」
彼女はうっとりと目を細めると、その子を優しく抱き寄せて舐めた。子供は嬉しそうに彼女に擦り寄ると、小さな触覚で彼女の体にチョンチョンと触れる。
「あなた、見て。あなたの子供はみんな元気に孵ったわ」
今は小さくて頼りないが、今に男の子は彼のように立派なハサミを持ったオスに、女の子は彼が綺麗だと褒めてくれた黄金色の前翅を持ったメスになるに違いない。それをうっとりと思い描きながら、彼女は子供たちを見回して言った。
「さあ、みんな。お腹が空いたでしょう。もういいわよ」
彼女はにっこり微笑んで可愛い子供たちに頷き掛ける。その声を合図に、四方八方から子供たちがワッと彼女に群がった。
「お母さん、見て! 石の下から虫がいっぱい出て来たよ!」
男の子の驚いたような声音に、少し先を歩いていた母親が振り返る。まだ五歳くらいと思しき男の子は河原の道端にしゃがみ込み、キラキラした目で足下にある石をそっと持ち上げた。
「わっ、石の下にもっと大きいのがいたよ! でもこの虫、動かないね」
「それはハサミムシよ」
母親が男の子の近くまで戻って来て言う。
「ハサミムシ?」
「そう」
母親は答えると、からからになった母虫の亡骸を見て言った。
「ハサミムシはね、卵から孵るとお母さんを食べてしまうのよ」
「えッ、何でッ?」
男の子が驚いて尋ねる。
「お母さんは逃げないのッ? 痛くないのッ?」
母親は、そうね、と答えると言った。
「でも逃げないの。痛くても我慢して子供たちに自分の体を食べさせるのよ」
「なんで? どうして?」
子供がまるで自分のことのように痛そうに顔を歪めて尋ねる。母親は再び、そうね、と答えると、男の子の頭をそっと撫でた。
「なんででしょうね……」
母親は暫くジッと母虫の亡骸を見ていたが、やがて、帰ろうか、と言って立ち上がる。男の子は驚いたように顔を上げると、自分も慌てて立ち上がった。
「滝は? 滝は観に行かないの? 吊り橋は?」
どうやら滝を観に行こうと誘われてここまで付いて来たらしい。息子の言葉に母親は、また今度ね、と答えると、少し考えてからポツリと言った。
「お母さん……もう少し頑張ってみるわ」
自分に向かって差し出された手を、男の子が驚いたように見詰める。そして慌てて持っていた石を元の場所に戻すと、大急ぎで母親の手を掴んだ。
「また来ようね、お母さん!」
二人の足音と男の子の嬉しそうな声がゆっくりと遠ざかって行く。やがて河原は再び木々の梢のサヤサヤいう音と、小川のサラサラいう音だけになった。
了