離れる前に
短編3000文字シリーズ5作目です。
真冬の空の下、寒風を切ってわたしは全力疾走していた。首に巻いたマフラーがスピードに負けて後ろへ流れる。路地を照らす街路灯を次々に通り過ぎ、一歩踏み出すごとに冷たい空気が頬に突き刺さる。息が切れて、裕也にもらったピアスが少し痛かったけど、それでも足は止まることなく、早く、早くとわたしを急きたてた。
今日は何事もない一日だった。
いつものように、朝は寒さに負けて布団から出る事が出来ずに寝坊したし、仕事もいつも通り暇で、時間が過ぎるのが遅かったし、裕也にしても、顔を合わせればいつものように笑顔で、みんなにばれないように目配せをしてくれた。帰りの電車で痴漢にあったのも、それほど珍しい事でもないし、痴漢の手をひねり上げてやったのもいつもの事だし、何事もなくいつもの時間を迎えて、何事もなく一日が終わるはずだった。
わたしと裕也はいわゆる職場恋愛で、付き合っている事はみんなには秘密にしている。別段秘密にする必要もないのだが、恥ずかしいからみんなに知られたくないという、わたしのわがままを裕也は笑って許してくれた。
だからわたし達の時間は仕事が終わって、お互い帰宅した後のわずかな時間。事務職のわたしと違って、忙しい裕也の邪魔をしたくなかったから、わたしの方から1時間だけと決めた。1時間を使って、少しの間デートすることもあれば、1時間電話で話す事もある。
裕也はもっと長い時間一緒に居ても大丈夫だと言ってくれるけど、わたしにはこれで十分だった。たとえ1時間だけでも裕也の気持ちを感じる事が出来れば、幸せだった。だって会社に行けばいつでも裕也の顔を見ることはできるし、目配せを送れば、優しく微笑んでくれる。あの裕也を一人占めしてるんだから、これ以上何も望むものはない。
「もしもし」
午後9時過ぎ、今日も裕也の方から電話がかかってきた。
「もしもし裕也? お疲れ様」
何事もない一日の、いつもと同じわたし達の時間。初めはいつも通りたわいもない会話が続き、わたしはといえば、ネイルの手入れをしながら、痴漢にあった事を裕也に愚痴っていた。
「大丈夫だった?」と心配してくれる裕也の優しい声が嬉しくて、わざと大げさに話してみる。ホントは少しお尻を触られただけだったけど。
「もう最悪。痴漢なんて死ねばいいのに」
「勝手に陽子の体に触るなんて許せないな。俺がいれば警察に突き出してやったのに」
「ねぇ、裕也だってまだ触ったこと無いのにね」
「ホントだよ」
携帯の向こうから裕也の笑い声に交じって車の音が聞こえた。
「あれ……まだ外にいるの? 仕事終わったんじゃないの?」
「仕事は終わったよ」
そこで言葉を区切って、裕也はほんの少し間を開けたのち、急に真面目な声になり「今日は」ときりだした。
「今日は大事な話があるんだ」
裕也の声からただならぬ気配を感じて、わたしは息をのむ。何かあったの?と訊きたいのに言葉が出なかった。
「・・・転勤を言い渡された」やがて裕也の口から零れた言葉は、いとも簡単に何事もない一日を打ち壊した。
「大阪の支店に出向だ。前々から進めていたプロジェクトのリーダーに選ばれた。早くて1年。プロジェクトが長引けば、もっとかかると思う」
「一年……?」ようやく絞り出した声はかすれていて、携帯の向こうにいる裕也に届くことなく、ポロリと床に落ちた。
「今、近くの公園に来てるんだ。少しだけ出て来れないか?」
息も絶え絶え公園にたどり着くと、薄暗い園内に、オレンジ色の明かりの照らされた裕也の姿がうっすらと見えた。
「陽子……走ってきたのか?」
走り寄った勢いで、驚く裕也に思い切りしがみつく。勢いに押された裕也はよろけ気味に2、3歩後ずさったけど、優しく抱きしめ返してくれた。
「こんなに息を切らして・・・ほっぺたなんか真っ赤じゃないか」
「そんなのどうでもいい。さっきの話は本当なの?」
裕也はわたしの赤くなった頬をそっと撫でながら、小さく頷いた。
「陽子……」背中に回った裕也の手に力が入る。覆いかぶさるようにしてぐっと体を押しつけられて、耳元に裕也の吐いた息が温かかった。
「これは俺のわがままだ。だからただ聞いてくるだけでいい。」
わたしは黙ってうなずく。
「もう転勤は決まったんだ。東京と大阪じゃ離れ過ぎてるから、逢いたいって言っても逢えないし、今以上に忙しくなるから、電話だってそんなに出来ないかもしれない。でも俺、絶対1年で終わらせて帰ってくるから」そこまで言って裕也は背中にまわしていた手を離して肩に置き、わたしの目をまっすぐに見据えた。「だから、待っていて欲しい」
そう言った裕也の目は力強く、自信に満ちていて、これから離ればなれになるというのに、なぜかわたしはすごく安心した。
答えの代わりにもう一度抱きつく。裕也の胸に顔をうずめると、裕也の心臓がすごく速く動いていて、ちょっと可笑しかった。
顔を上げればすごく近くに裕也の優しい目と唇があったので、首に手をまわして思い切り引き寄せる。裕也の唇は、ちょっと乾燥しててガサガサだったけど、やわらかな喜びが溢れていた。
それから裕也が出発するまでの1カ月間は、時間の許す限り甘く過ごした。「逢えなくなる前に1年分逢っておこう」なんて言ってたけど、逢えなくなると寂しくなるのはお互いに分かってたから、出来るだけ一緒に居て、出来るだけくっついて、出来る限り距離を近づけた。
「じゃ、行ってくるよ」
14番線で体を休めていた新幹線が大きく開けた口の中に裕也を飲み込む。発車の時刻が近づき、ホーム内に予告音が大きく響き渡った。
「わたしホントはね、裕也が別れようって言うんじゃないかって心配だったの」
「どうして?」
「だって、逢えなくなっちゃうから。寂しさに負けちゃうんじゃないかなって」
目頭が熱くなって、溢れそうになる涙と必死に闘いながらわたしは懸命に笑顔を作る。
「バカだな、陽子は。俺がそんなこと言うわけないだろ」
裕也はそう言って笑った。
わたしの立つホームと新幹線の入り口に立つ裕也との距離はほんの一歩の距離なのに、新幹線は無感情にドアを閉めて、一瞬でわたしの手は裕也に届かなくなってしまった。
ゆっくりと動き出した新幹線はぐんぐんスピードを上げて裕也を大阪へと連れて行く。
わたしは小さくなる新幹線を見えなくなるまで見つめていた。
アパートに帰ってくると、だめだと思いつつ居るはずもない裕也を探してしまう。出向前の最後の休みで朝までこのアパートに居たのに。昨日一緒にご飯を食べたテーブル、一緒に座ってテレビを見たソファ、裕也が入ったお風呂、その後裸で抱き合ったベッド。いないと分かっていても、微かに残った裕也の香りが、余計に寂しさを掻き立てた
力なくベッドに腰を下ろす。喪失感だけが胸をついていた。
ふと視線をおろすとベッドの脇に隠す様にして置いてある紙袋が目に入った。不審に思いながらも見慣れない袋を取り上げると、急に音が鳴りだすものだから、あわてて手を離す。
呼び出し音のようなものをかき鳴らす袋の中身を恐る恐る中を確認すると、画面に『裕也』と表示したタブレット端末が出てきた。
慌てて画面をタップする。
「気がついた?これがあれば顔見て話ができるし、少しは寂しさも紛れるかと思って、買っておいたんだ」
画面の中で裕也が笑っていた。
「あれ? 陽子、もしかして泣いてた?」
「バカ、泣いてないよ」
笑いながら、画面の上に一粒、涙が零れた。
遠距離をテーマにして書いてみましたが・・・
遠距離が始まる前の話になってしまいました。
usk