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『婚約者が浮気して、浮気相手の子を身籠りました!』もう最悪です!後悔しても知りません。悔しさをバネに大成功してあなたたちを見返します!

作者: 山田 バルス
掲載日:2026/08/24

第一話 婚約者から、毎日「婚約破棄してください」と言われます



「ラインヒルズ様。今日も、どうして私のところへ来たのですか?」  


 学院の廊下。  

 朝の鐘が鳴ったばかりだというのに、マーガレット=バイエルナ伯爵令嬢は、僕を見るなり眉をひそめた。


「……おはよう、マーガレット」

「挨拶なんてどうでもいいです」  


 冷たい声だった。  

 彼女の隣には、アルベルト=シュタイン伯爵令息がいる。  

 最近、マーガレットはいつも彼と一緒だった。


「今日の放課後、時間はあるか?」

「ありません」

「そうか……」

「アルベルト様と約束がありますから」  


 そう言って、マーガレットはアルベルトの腕に自分の腕を絡めた。  

 周囲から、ひそひそとした声が聞こえる。


「また始まったわ」

「ラインヒルズ様も大変ね」

「でも、婚約者なのにあんな扱いをされて……」  


 聞こえないふりをした。  

 もう慣れている。  

 マーガレットは、僕の婚約者だ。  

 両家の親同士が決めた婚約だった。  

 幼い頃から顔を合わせてきたし、僕は彼女を大切にしたいと思っていた。  

 だから――。


「マーガレット」

「何です?」

「昨日、君が欲しがっていた本を見つけたんだ」  

 

 僕は鞄から一冊の本を取り出した。


「王都ではもう売り切れていたから、少し遠くの店まで探しに行った」

「……」  


 マーガレットは本を見た。  

 しかし。


「いりません」

「え?」

「そんなもの、アルベルト様が買ってくださいましたから」  


 アルベルトが得意そうに笑う。


「昨日、彼女に贈ったんです」

「そうか……」  


 僕は本をしまった。


「ごめん」

「何がです?」

「いや……」  


 なんでもない。  

 そう言おうとした。  

 けれど。


「ラインヒルズ様」  


 マーガレットがため息をついた。


「あなたは、本当に鈍いですね」

「……」

「私が何度も言っているでしょう?」  


 彼女の青い瞳が、僕を冷たく見つめる。


「婚約を破棄してください」  


 胸の奥が痛んだ。


「マーガレット……」

「私はアルベルト様を愛しています」

「それでも、僕たちは婚約者だ」

「だから困っているのです」

「僕に何か悪いところがあるなら、直す」

「そういうところです!」  


 マーガレットが声を荒らげた。


「何でも私に合わせようとするところ! 私に嫌われているのに、どうしてまだ婚約者でいようとするのですか?」

「嫌われたいわけじゃない」

「私は嫌っているのです」  


 その言葉が、胸に刺さった。  

 周囲の生徒たちは、気まずそうに目を逸らしている。  

 僕は小さく息を吐いた。


「……分かった」

「では――」

「でも、今すぐ婚約破棄するわけにはいかない」  


 マーガレットの顔が険しくなる。


「どうしてです?」

「両家の正式な手続きが必要だからだ。それに、卒業まではあと少しだ。せめて、それまでは――」

「あなたは本当に私を苦しめるのが好きなのですね!」

「そんなつもりは……」

「なら、私の前から消えてください!」  


 マーガレットはそう言うと、アルベルトと一緒に歩き去っていった。  

 僕は、その背中を見送るしかなかった。  

 ――どうして、こうなったんだろう。  

 以前のマーガレットは、こんな人ではなかった。  

 一緒に庭を散歩した。  

 本を貸し借りした。  

 僕が試験で一番を取ったときには、自分のことのように喜んでくれた。  

 あの頃の彼女は、どこへ行ってしまったのだろう。


「……ラインヒルズ」  


 声をかけてきたのは、友人のハーブルだった。


「大丈夫か?」

「大丈夫だよ」

「嘘をつくな」  


 ハーブルは眉をひそめた。


「お前は、いつまで我慢するつもりだ?」

「……分からない」

「マーガレット嬢は、お前を婚約者として扱っていない」

「分かっている」

「なら――」

「それでも、僕は彼女を嫌いになれないんだ」  


 自分でも情けないと思う。  

 それでも。  

 僕はまだ、マーガレットが好きだった。  

 だから耐える。  

 そう決めていた。  

 その日の昼休み。  

 僕が一人で食事をしていると、アルベルトがやって来た。


「ラインヒルズ」

「何だ?」

「マーガレットを解放してあげてください」

「……」

「彼女はあなたとの婚約を望んでいない」

「君には関係ない」

「ありますよ」  


 アルベルトは笑った。


「僕は彼女を愛していますから」

「……そうか」

「それに、あなたより僕の方が彼女を幸せにできます」  


 僕は黙って食事を続けた。


「反論しないのですか?」

「何を言っても仕方ないだろう」

「臆病ですね」  


 アルベルトは鼻で笑った。


「だからマーガレットにも愛想を尽かされるんですよ」  


 その言葉だけは、胸に残った。  

 午後の授業が終わる。  

 僕は荷物をまとめて教室を出ようとした。  

 すると。


「ラインヒルズ様」  


 マーガレットが廊下に立っていた。


「……マーガレット?」

「放課後、少しお時間をいただけますか?」

「何かあったのか?」

「ええ」  


 彼女は微笑んだ。  

 けれど、その笑顔は昔とは違っていた。


「卒業式の前に、あなたにお話があります」

「話?」

「大切なお話です」  


 マーガレットはそう言って、僕の横を通り過ぎた。  

 僕はその背中を見つめながら、胸の奥に妙な不安を覚えていた。  

 ――一体、何を言われるのだろう。  

 そのときの僕は、まだ知らなかった。     

 この「大切な話」が。  

 僕の人生を大きく変えることになるとは。


第二話 卒業式まで我慢すれば、きっと


 放課後。

 人気のない学院の中庭で、僕とマーガレットは向かい合っていた。

 夕暮れの光が、彼女の青い髪を赤く染めている。


「ラインヒルズ様」

「うん」

「今日こそ、はっきり答えてください」


 マーガレットの声には、いつもの冷たさがあった。


「婚約を破棄してください」


 また、その言葉だった。

 胸が締めつけられる。


「……マーガレット」

「私は本気です」

「分かっている」

「なら、なぜ?」


 マーガレットが一歩近づいてくる。


「なぜ私を解放してくださらないのですか?」

「解放って……」

「私はアルベルト様を愛しています」


 何度聞いても、慣れることはなかった。


「アルベルト様と結婚したいのです」

「……そうか」

「ですから、あなたが婚約破棄してくださればいい」

「簡単に言わないでくれ」

「簡単ではありません!」


 マーガレットの声が震えた。


「私だって苦しんでいるのです!」

「苦しんでいる?」

「はい!」


 彼女は僕を睨んだ。


「このまま婚約者でいれば、私は一生、あなたに縛られることになる!」

「そんなつもりはない」

「つもりなんて関係ありません!」


 マーガレットは唇を噛んだ。


「もし、このまま婚約を続けるなら……私はあなたを一生、恨みます」

「……」

「そして、あなたもきっと後悔します」

「僕が?」

「はい」


 マーガレットの瞳が、鋭くなる。


「私と結婚した後、私があなたを愛すると思いますか?」


 胸を刺された。


「……分からない」

「いいえ。分かっているでしょう?」

「……」

「私は結婚しても、アルベルト様を愛し続けます」


 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥に、小さな痛みが走った。


「あなたと夫婦になっても、私はあなたを愛しません」

「……」

「それでも結婚したいのですか?」


 僕は答えられなかった。

 当然だ。

 そんな結婚を望んでいるわけではない。

 だけど――。


「僕は……」


 拳を握る。


「君に嫌われたままでも、結婚したいわけじゃない」

「では?」

「結婚すれば……」


 自分でも馬鹿げていると思う。


「少しずつ、変わるかもしれない」

「……え?」

「僕たちは幼い頃から一緒だった」


 庭を歩いた。

 本を読んだ。

 学院に入ってからも、何度も言葉を交わした。


「今は君がアルベルトを好きでも……」


 僕は苦笑した。


「夫婦になれば、僕を見てくれるようになるかもしれない」

「……そんなの」

「分かってる」


 僕だって分かっている。

 都合のいい希望だ。

 それでも――。


「僕には、それしか残っていないんだ」


 マーガレットはしばらく黙っていた。

 そして。


「……後悔しますよ」

「それでもいい」

「本当に?」

「うん」


 彼女は深く息を吐いた。


「なら、最後に一つだけ言います」

「何?」

「卒業式の日までに婚約破棄をしてください」

「……」

「それができないなら、私はあなたを絶対に許しません」

「マーガレット」

「あなたが私を苦しめたことを、一生忘れません」


 そう言って、彼女は去っていった。

 残された僕は、一人で立ち尽くした。

 空が暗くなっていく。


「……僕は、どうすればいいんだ」


 答えは出なかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 僕には、自分の意思だけで婚約を破棄できる立場ではない。

 マーガレットの家――バイエルナ伯爵家は、僕のフランクフル家よりも財力がある。

 両家の婚約は、単なる恋愛ではない。

 商取引。

 領地間の契約。

 両家の信用。

 そして、莫大な金銭が絡んでいる。

 僕の家が一方的に婚約を破棄すれば、多額の違約金が発生する。

 それだけではない。

 父上が長年築いてきた信用まで失うことになる。


「……僕一人では決められない」


 だから、卒業式までは待つ。

 そう決めた。


     ◇


 翌日。


「お前、本当に大丈夫なのか?」


 教室で親友で伯爵令息の金髪のハーブルが心配そうに僕を見る。


「大丈夫だよ」

「昨日、マーガレット嬢と話したんだろ?」

「うん」

「何を言われた?」

「卒業式までに婚約を破棄してほしいって」

「……やっぱりか」


 ハーブルは頭を抱えた。


「お前、もう諦めた方がいいんじゃないか?」

「無理だよ」

「どうして?」

「まだ、ほんの少しだけ希望がある」

「希望?」


 僕は窓の外を見た。

 校庭では、卒業式の準備が始まっている。


「結婚したら、変わるかもしれない」

「……お前」


 ハーブルが呆れた顔をする。


「それは希望じゃない。妄想だ」

「ひどいな」

「だってそうだろ」


 ハーブルはため息をついた。


「マーガレット嬢はアルベルトを好きだと言っている」

「分かってる」

「毎日のように婚約破棄を要求している」

「分かってる」

「それなのに、お前はまだ好きなのか?」

「……うん」


 ハーブルは何も言わなかった。

 しばらくして、静かに口を開く。


「なら、せめて傷つく覚悟くらいはしておけ」

「ありがとう」

「礼を言われるようなことはしていない」


 ハーブルは僕の肩を叩いた。


「でも、俺はお前の味方だからな」

「……うん」


 その言葉だけが、今の僕には救いだった。


     ◇


 そして。

 卒業式の日が来た。

 学院最後の日。

 朝から校内は華やかな空気に包まれていた。

 生徒たちは笑い合い、教師たちは最後の言葉を贈る。

 僕も、今日で学院を卒業する。


「ラインヒルズ」


 式場へ向かう途中、ハーブルが声をかけてきた。


「今日だな」

「ああ」

「本当に大丈夫か?」

「大丈夫だよ」


 僕は笑った。


「今日が終われば、両家で正式に結婚の話を進められる」

「……そうか」

「マーガレットも、きっと落ち着いてくれる」


 根拠なんてなかった。

 それでも、そう信じたかった。

 今日を乗り越えれば。

 今日を過ぎれば。

 僕たちは婚約者ではなく、夫婦になる。

 そうなれば――。

 いつか彼女も僕を見てくれるかもしれない。

 僕は、そんな淡い期待を抱いていた。

 だが。

 卒業式が終わった直後。

 学院中に、悲鳴が響き渡った。


「きゃああああっ!」

「何だ!?」

「大変だ!」


 生徒たちが一斉に走り出す。

 僕とハーブルも、声のした方へ向かった。

 そして――。

 そこにいた人物を見た瞬間。

 僕は言葉を失った。


「……マーガレット?」


 彼女は、アルベルトの隣に立っていた。

 そして、その手には――。

 見覚えのある一枚の書類が握られていた。


「ラインヒルズ様」


 マーガレットは、僕をまっすぐ見つめる。

 その表情には、決意があった。


「今日、ここですべてを終わらせます」


 学院中の生徒たちが、僕たちを取り囲んでいた。

 そして。

 マーガレットは、ゆっくりと書類を掲げた。


「私は――」


 その一言で。

 僕の人生は、大きく変わることになる。


第三話 婚約者に裏切られた僕が、初めて恋をした日


「私は――ラインヒルズ様との婚約を破棄します」


 卒業式が終わったばかりの学院。

 大勢の生徒たちが見守る中、マーガレットははっきりと言った。


「……え?」


 耳を疑った。


「マーガレット……今、何と言った?」

「婚約破棄です」


 彼女の隣にはアルベルトがいる。

 その表情には、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


「私は、アルベルト様を愛しています」


 ざわざわと周囲が騒ぎ始める。


「卒業式の日に婚約破棄?」

「でも、フランクフル家との婚約だろ?」

「バイエルナ家から破棄するってこと?」


 僕は何も言えなかった。

 ずっと恐れていた日が、とうとう来てしまった。


「……理由は?」


 ようやく絞り出した声に、マーガレットは顔を上げた。


「私は、あなたを愛していないからです」

「……そうか」


 胸の奥が、静かに崩れていく。

 それでも僕は、彼女を責められなかった。

 僕はまだ、彼女が好きだったから。


「ラインヒルズ」


 ハーブルが隣に立つ。


「もういい」

「……ハーブル」

「これ以上、こいつに傷つけられる必要はない」


 しかし、僕は首を横に振った。


「大丈夫だ」

「大丈夫な顔をしていないぞ」


 そのときだった。


「……実は、もう一つお伝えしなければならないことがあります」


 マーガレットの声が震えた。


「何だ?」

「私のお腹には……子供がいます」


 場が静まり返った。


「……子供?」

「はい」


 マーガレットは、お腹にそっと手を当てた。


「アルベルト様との子です」


 ――時間が止まったように感じた。


「……何?」


 アルベルトも黙っている。

 周囲から息を呑む音が聞こえた。


「まさか……」

「婚約中だったよな?」

「それなのに……?」


 僕はマーガレットを見つめた。

 彼女は僕と婚約していた。

 その間に、アルベルトと関係を持っていた。

 つまり――。

 これは、単なる心変わりではない。

 明確な裏切りだった。


「……そういうことだったのか」


 胸の奥が、今まで感じたことのないほど冷たくなった。

 それでも、怒鳴る気にはなれなかった。

 ただ。

 悲しかった。


「ラインヒルズ様」


 マーガレットが言う。


「これで、私たちの婚約を終わらせてください」

「……分かった」


 僕は静かに答えた。


「いや」


 ハーブルが口を挟む。


「違うだろ」

「え?」

「婚約を終わらせるのは構わない」


 ハーブルはマーガレットを睨んだ。


「だが、フランクフル家が一方的に悪いような形にはさせない」


 その後。

 両家の話し合いが行われた。

 そして明らかになった事実によって、状況は完全に変わった。

 婚約者がいる身でアルベルトと関係を持ち、子供まで身ごもった。

 婚約を破綻させた原因は、明らかにマーガレット側にあった。

 そのため、婚約破棄の責任はバイエルナ家側にあると認められた。

 むしろフランクフル家には、違約金を請求する権利すら生じた。

 僕にとっては、有利な決着だった。

 ――なのに。

 何一つ、嬉しくなかった。


     ◇


 数日後。

 僕は部屋の窓から、ぼんやりと庭を眺めていた。


「……終わったんだな」


 婚約はなくなった。

 マーガレットは、もう僕の婚約者ではない。

 これで自由になった。

 好きな人と結婚すればいい。

 そう考えれば、喜ぶべきなのだろう。

 けれど。


「……痛いな」


 胸が痛かった。

 僕は、馬鹿だった。

 結婚すれば、マーガレットが僕を見てくれるかもしれない。

 いつか、昔のように笑ってくれるかもしれない。

 そんな小さな希望にしがみついていた。

 でも。

 最初から、その可能性などなかったのだ。


「ラインヒルズ!」


 突然、窓の外から声がした。


「……ハーブル?」


 ハーブルは半ば強引に僕を自分の家へ連れて行った。


「気分転換だ」

「僕はそんな気分じゃないんだけど」

「だから連れてきた」

「……強引だな」

「友達だからな」


 屋敷の中に入る。

 すると。


「お兄様、お帰りなさい」


 廊下の向こうから、一人の少女が歩いてきた。

 金色の髪。

 透き通るような青い瞳

 そして、柔らかな笑顔。


「……あ」


 彼女は僕を見ると、少し驚いた。


「そちらの方は?」

「友人のラインヒルズだ」

「まあ……」


 少女は慌てて頭を下げた。


「初めまして。エリーゼ=シュタインです」

「こちらこそ、初めまして」


 エリーゼ。

 ハーブルの妹。

 僕より一つ下で、学院では有名な美少女だった。


「兄から、お話は聞いています」

「僕の?」

「はい。学校で一番、魔道具に詳しい方だと」

「……ハーブルが?」

「余計なことを言うな」


 ハーブルが苦笑する。

 その様子がおかしくて。

 僕は久しぶりに、少しだけ笑った。


     ◇


 夕食の席。

 エリーゼは、僕に何度も話しかけてくれた。


「学院はどうでしたか?」

「楽しかったよ」

「好きな授業は?」

「魔道具製作かな」

「私も魔道具、好きです」


 些細な会話だった。

 けれど。

 不思議だった。

 マーガレットといるときは、いつも彼女の顔色を窺っていた。

 嫌われないように。

 怒らせないように。

 振り向いてもらえるように。

 でも、エリーゼは違った。

 僕が話すと、嬉しそうに笑う。

 魔道具についても最後まで聞いてくれる。

 そして、僕が少しでも楽しそうにすると、自分のことのように喜んでくれる。


「ラインヒルズ様」

「うん?」

「今日は来てくださって、ありがとうございます」

「こちらこそ」

「お兄様が、とても心配していたので……」

「ハーブルが?」

「はい」


 エリーゼは小さく笑った。


「お兄様は、大切な親友を放っておけないんです」

「……そうなのか、気を遣わせたな」


 その夜。

 僕は久しぶりに、よく眠れた。


     ◇


 翌朝。

 庭を歩いていると、エリーゼが一人で花に水をやっていた。


「おはよう、エリーゼ」

「あ……ラインヒルズ様」

「手伝おうか?」

「いえ、大丈夫です」


 そう言ったものの。

 彼女は少しだけ困った顔をした。


「……でも、お願いしてもいいですか?」

「もちろん」


 二人で花に水をやる。

 穏やかな時間だった。


「エリーゼ」

「はい?」

「君には婚約者はいないのか?」

「……」


 彼女の手が止まった。


「いません」

「そうなのか」

「はい」


 少し不思議だった。

 これほど綺麗で、性格もいい。

 当然、縁談の一つや二つあると思っていた。


「どうして?」

「……実は、前に婚約解消されて」

「え、婚約解消? ごめん、変なことを聞いてしまって……」

「いえ、もう時間が経ったので平気です」

「でも、悪いことを聞いてしまった」

「いえ、今は、好きな人もできたので……」


 エリーゼは恥ずかしそうに俯いた。


「でも、その人には……きっと、私は必要ありません」

「……」


 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 ――自分と同じだ。


「その人には、好きな人がいるの?」

「……はい」

「そうか」


 エリーゼは寂しそうに笑った。


「だから私は、ずっと一人で好きでいるんです」

「それは……辛くない?」

「辛いです」


 それでも彼女は笑った。


「でも、好きなんです」


 その横顔を見て。

 僕は、なぜか目を離せなくなった。

 馬鹿だと思った。

 叶わない恋だと分かっているのに。

 それでも誰かを好きでい続ける。

 そんな彼女が――。

 少し前までの自分と重なった。


「……君は、優しいね」

「え?」

「僕なら、そんなふうに笑えないと思う」


 エリーゼは困ったように笑った。


「ラインヒルズ様も……優しいですよ」

「僕が?」

「はい」

「どうして?」

「だって……」


 彼女は少し迷ってから言った。


「好きだった人のことを、悪く言わなかったでしょう?」

「……」


 何も言えなかった。

 彼女は、僕のことをちゃんと見ていた。


     ◇


 それから。

 僕は何度もシュタイン家を訪れるようになった。

 最初はハーブルに誘われたからだった。

 そのうち。


「今日も来るんですか?」

「……迷惑だった?」

「い、いえ!」


 エリーゼが嬉しそうに笑う。

 その笑顔を見ることが、僕の楽しみになっていた。

 一緒に魔道具の本を読んだ。

 庭を歩いた。

 学院の思い出を話した。

 くだらないことで笑った。

 そんな時間が積み重なるたび。

 マーガレットのことを考える時間が、少しずつ減っていった。

 ある日。

 庭のベンチに座りながら、僕は空を見上げた。


「……不思議だな」

「何がですか?」

「前は、胸がずっと痛かったんだ」

「……」

「でも今は、そんなに痛くない」


 エリーゼが僕を見る。


「それは……よかったですわ」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を見て。

 僕は、初めて気づいた。

 僕はもう――。

 この笑顔を失いたくないと思っている。

 マーガレットを忘れたからではない。

 過去を無理やり消したわけでもない。

 ただ。

 新しい誰かが、僕の心の中に少しずつ入ってきていた。

 そして、その人は。

 僕がずっと欲しかったものを、何も求めずにくれていた。

 優しさ。

 安心。

 そして――。

 笑顔。


「エリーゼ」

「はい?」

「……ありがとう」

「どうしたんですか、急に?」

「分からない」


 僕は笑った。


「でも、君に会えてよかったと思ったんだ」


 エリーゼの頬が、ほんのり赤く染まる。


「……私も」

「え?」

「私も、ラインヒルズ様に会えて……よかったです」


 風が吹いた。

 金色の髪が、柔らかく揺れる。

 僕はその光景を、いつまでも見つめていた。

 ――失恋の痛みは、まだ完全には消えていない。

 それでも。

 僕の心には、もう一つの温かな光が差し始めていた。

 このときの僕は、まだ知らなかった。

 エリーゼが長い間、胸の奥に秘めている「好きな人」が――。

 僕自身だったことを。


第四話 こんなはずではなかったのに


 ――婚約破棄が成立してから、三日後。

 バイエルナ伯爵家の執務室には、重苦しい空気が漂っていた。


「……マーガレット」

「はい、お父様」

「座りなさい」


 父、バイエルナ伯爵の声は低かった。

 マーガレットは椅子に腰を下ろす。

 向かいには父。

 その隣には母と兄。

 三人とも、ひどく険しい顔をしていた。


「私は、アルベルト様と結婚します」


 マーガレットが告げる。


「それは認める」

「お父様……」

「お前が身ごもった子供の父親なのだ。今さら結婚を認めないわけにはいかん」

「ありがとうございます」


 ほっとした。

 これでアルベルトと一緒になれる。

 ようやく、自分の望んだ人生が始まる。

 そう思った。

 だが。


「ただし」


 父の声が冷たくなる。


「お前には責任を取ってもらう」

「……責任?」

「今回の婚約破棄で、我が家がどれだけの損害を受けたと思っている」


 マーガレットは黙った。


「フランクフル家との婚約は、両家の長年の取引を支える重要なものだった」

「……」

「お前が婚約者のいる身でアルベルトと関係を持ったせいで、それらの信用をすべて失った」


 兄が吐き捨てるように言った。


「お前は自分が何をしたのか分かっているのか?」

「私は……アルベルト様を愛していただけです」

「愛?」


 兄が鼻で笑った。


「家を傾けかけておいて、よくそんなことが言えるな」

「……」

「もう決めたぞ」


 父が言った。


「アルベルトとの結婚は許そう」


 マーガレットの顔が明るくなる。


「だが――」


 続く言葉に、その笑顔が凍った。


「お前は結婚後、我が領地の中でも最も田舎にある地へ移れ」

「え?」

「そこから一生、出ることを許さん」

「そんな……!」

「これは罰だ」


 父は娘を見つめた。


「お前が自分で選んだ男と、そこで好きなだけ暮らせばいい」

「お父様!」

「ただし、我が家の金を当てにするな」


 母も目を伏せる。


「マーガレット……あなたは、もう王都へ戻ってきてはいけません」

「お母様まで……」

「家族を裏切ったのは、あなたなのです」


 その言葉が胸に刺さった。

 けれど。

 マーガレットには、まだアルベルトがいる。

 彼だけは、自分を愛してくれている。

 そう信じていた。


     ◇


 五年後。

 マーガレットは、田舎の領地で子供を育てていた。


「……これが、私の生活?」


 小さな家。

 質素な家具。

 簡素な食事。

 王都にいた頃とは、何もかも違う。

 それでも。


「アルベルト様と一緒なら……」


 そう思っていた。

 ところが。


「マーガレット」


 ある日の夕食。

 アルベルトが、不機嫌そうに口を開いた。


「何ですか?」

「俺は、こんな生活をするために結婚したんじゃない」

「……え?」

「お前と結婚すれば、もっと贅沢な暮らしができると思っていた」


 マーガレットはスプーンを落とした。


「何を……言っているの?」

「お前は伯爵令嬢だっただろう?」

「そうですが……」

「だから、伯爵家から金を出してもらえると思っていた」


 アルベルトは吐き捨てる。


「それなのに、こんな田舎に閉じ込められて、毎日粗末な食事だ」

「私だって好きでここにいるわけじゃないわ!」

「だったらどうにかしろよ!」

「どうやって?」


 マーガレットの声が震えた。


「父には、もう頼れないのよ」

「なら、お前に価値なんてないじゃないか」

「……!」


 その言葉は、かつて自分がラインヒルズに向けていたものと似ていた。

 けれど。

 あのときの自分は、それに気づかなかった。


     ◇


 夫婦仲は、少しずつ壊れていった。

 会話は減った。

 笑顔も消えた。

 アルベルトは家にいる時間すら少なくなった。

 そんなある日。

 まだ幼い娘の慌てる声が聞こえた。


「お母様!」

「どうしたの?」

「弟が泣いています!」

「わかったわ?」


 マーガレットは慌てて子供のもとへ駆け寄った。

 乳児の世話に追われる毎日。

 そんな中。

 アルベルトは――。

 領地の平民女性と関係を持っていた。


「……嘘」


 その事実を知った瞬間。

 マーガレットは震えた。


「アルベルト……」

「……」

「本当なの?」

「……ああ」

「どうして?」

「別にいいだろ」

「よくないわ!」


 マーガレットの目から涙がこぼれる。


「私はあなたと結婚するために、すべてを捨てたのよ!」

「俺が頼んだわけじゃない」

「……!」

「お前が勝手に選んだんだろ」


 その言葉を聞いて。

 マーガレットは何も言えなくなった。

 そして。


「俺は、彼女と一緒になる」

「……何?」

「ここにはもう、うんざりだ」

「待って!」


 マーガレットはアルベルトの腕を掴んだ。


「子供は?」

「お前が育てればいい」

「あなたの子でしょう!?」

「だから何だ?」


 アルベルトは冷たく言った。


「俺はもう行く」

「どこへ?」

「彼女と一緒に」


 その数日後。

 アルベルトは平民女性と共に、領地から姿を消した。

 残されたのは。

 マーガレットと幼い子供たちだけだった。


「……こんなはずじゃなかった」


 誰もいない家で、マーガレットは呟いた。


「こんなはずじゃ……」


 アルベルトと結婚すれば幸せになれると思っていた。

 愛し合って。

 王都で暮らして。

 華やかな人生を送る。

 そう思っていた。

 なのに。

 何も残らなかった。


     ◇


 ある朝。

 マーガレットは新聞を読んでいた。


「……え?」


 一面に、大きく載っている名前。


『若き天才発明家、ラインヒルズ=フランクフル』


 その下には、王都で大ヒットしている魔道具の写真が掲載されていた。


「魔力をほとんど使わず、室内の温度を一定に保つ画期的な魔道具……」


 記事を読む。

 ラインヒルズが開発した魔道具は王都で爆発的な人気となり、貴族だけでなく商人たちにも広がっているという。


「ラインヒルズ……」


 マーガレットは、昔の彼を思い出した。

 本を探してくれた。

 自分が欲しいと言ったものを覚えていてくれた。

 何度冷たくしても、怒らなかった。


「……そうよ」


 胸の奥に、妙な熱が生まれた。


「彼は、私のことが大好きだった」


 昔。

 ラインヒルズは自分を追いかけてきた。

 どれだけ拒絶しても。

 どれだけ傷つけても。

 それでも、彼は自分を好きだった。


「……なら」


 マーガレットは、新聞を握りしめた。


「今なら……」


 今なら、まだ間に合う。

 そう思った。


「私が戻ってあげればいい」


 自分でも不思議なほど、自然にそう考えた。


「ラインヒルズは、きっと喜ぶわ」


 彼は優しかった。

 自分を愛していた。

 だから。

 自分が戻れば――。


「きっと、また昔のようになれる」


 マーガレットは立ち上がった。

 そして、乳母を呼ぶ。


「この子をお願い」

「奥様?」

「私は王都へ行きます」

「王都へ……?」

「ラインヒルズに会いに行くの」


 マーガレットは鏡の前に立った。

 髪を整える。

 服を選ぶ。

 久しぶりに、王都へ行く準備をする。

 胸の中に、期待が膨らんでいく。


「ラインヒルズ……」


 彼なら、きっと――。

 そう思っていた。

 しかし。

 マーガレットはまだ知らなかった。

 五年前。

 自分が彼の心を壊したあの日から。

 ラインヒルズの人生は、もう動き始めている。

 そして彼の隣には。

 自分が知らない、一人の少女がいることを。


「待っていてね、ラインヒルズ」


 マーガレットは馬車に乗り込んだ。


「私たちはやり直せるわ」


 馬車が王都へ向かって走り出す。

 その先で待っているのが――。

 自分が望んだ「復縁」ではないことも知らずに。


第五話 婚約破棄してくれて、ありがとう


 王都。

 馬車の窓から見える景色に、マーガレットは目を輝かせていた。

 五年ぶりの王都だった。

 懐かしい街並み。

 華やかな貴族街。

 そして――。


「……ここね」


 馬車が停まった。

 マーガレットは窓から顔を出す。


「……え?」


 目の前にあったのは、巨大な屋敷だった。

 白い石造りの外壁。

 美しく整えられた庭園。

 大きな噴水。

 門には、フランクフル家の紋章が掲げられている。


「これが……ラインヒルズの屋敷?」


 以前の彼の実家とは、比べものにならない。

 まるで侯爵家や公爵家の屋敷のようだった。


「すごい……」


 胸が高鳴る。

 新聞に書かれていたことは本当だった。

 ラインヒルズは魔道具の発明で大成功を収めていた。

 莫大な財産を築き上げ。

 今では王都でも有数の資産家になっている。


「……ふふ」


 マーガレットの唇が緩んだ。


「こんなことなら……」


 最初からラインヒルズを選んでおけばよかった。

 アルベルトなど、何の価値もなかった。

 贅沢をさせてくれるどころか、田舎で文句ばかり。

 そのうえ、平民女性と駆け落ちした。


「本当に、どうしようもない男だったわ」


 それに比べてラインヒルズはどうだ。

 成功した。

 金持ちになった。

 そして――。

 自分を愛していた。


「……私が謝ればいいだけよ」


 マーガレットは自信満々に馬車を降りた。


「きっと許してくれる」


 門番に声をかける。


「マーガレット=バイエルナです。ラインヒルズ様にお会いしたいのですが」

「……マーガレット様?」


 門番が目を見開いた。


「はい」

「少々お待ちください」


 門番は屋敷の使用人に何かを伝えた。

 しばらくすると。


「どうぞ。旦那様がお待ちです」

「まあ……」


 マーガレットは微笑んだ。

 やはり。

 やはりラインヒルズは、自分を待っていたのだ。

 そう思った。


     ◇


「こちらでお待ちください」


 案内された客室は、王宮の一室かと思うほど豪華だった。

 高価そうな絨毯。

 美しい調度品。

 大きな暖炉。


「これが……」


 マーガレットは部屋を見回した。

 ここに住める。

 ここが自分の家になる。

 そう思うと、自然に笑みがこぼれた。


「私が謝れば、きっと全部元通りになる」


 そう。

 ラインヒルズは自分を愛していた。

 五年前まで、ずっと。

 だから――。


「今度こそ、幸せになれる」


 やがて。

 扉が開いた。


「待たせたね」

「……!」


 マーガレットは振り返った。

 そこに立っていた青年を見て、息を呑んだ。


「ライン……ヒルズ?」

「久しぶりだね、マーガレット」


 そこにいたのは、五年前の少年ではなかった。

 逞しい体つき。

 整った顔立ち。

 落ち着いた物腰。

 自信に満ちた青い瞳。

 以前のどこか頼りなかった少年の面影を残しながらも、彼は一人の立派な青年へと成長していた。


「……」


 マーガレットは、思わず見惚れてしまった。

 こんな人だっただろうか。

 胸が高鳴る。


「久しぶりね……ラインヒルズ」

「本当に久しぶりだ」


 彼は笑った。


「来てくれて嬉しいよ」

「……!」


 やっぱり。

 マーガレットの胸に、確信が生まれた。

 彼はまだ、自分を愛している。


「五年間、大変だったわね」

「ああ。いろいろあったよ」

「私も大変だったの」

「そうだったのか」


 ラインヒルズは、穏やかに話を聞いている。

 怒っていない。

 責めてもこない。

 やっぱり優しい。


「でも……もう大丈夫よ」

「?」


 マーガレットは微笑んだ。


「私は今、独身なの」

「……そうなんだ」

「だから」


 一度、髪を整える。


「あなたと結婚してあげてもいいわ」

「…………」


 ラインヒルズが固まった。

 マーガレットは微笑んだ。

 きっと喜んでいる。

 そう思った。


「これで、昔のことは全部忘れましょう」

「マーガレット」

「何?」

「君に紹介したい人がいる」

「……え?」


 ラインヒルズが扉の方を見る。


「入ってきて」

「はい」


 扉が開いた。

 そして。

 一人の女性が入ってきた。


「……!」


 マーガレットは息を呑んだ。

 金色の髪。

 透き通るような青い瞳。

 白い肌。

 上品で柔らかな微笑み。

 そして何より――。

 美しかった。

 自分よりも。

 ずっと。


「初めまして」


 女性は丁寧に頭を下げた。


「エリーゼ=シュタインと申します」

「……シュタイン?」


 マーガレットの顔が強張る。


「ハーブルの妹だよ」


 ラインヒルズが笑う。


「覚えているだろう?」

「……ええ」


 もちろん知っている。

 学院で一つ下だった少女。

 けれど。

 こんなに綺麗だっただろうか。

 いや。

 違う。

 五年前には気づかなかっただけだ。

 エリーゼは美しかった。

 それだけではない。


「ラインヒルズ」

「何?」

「こちらの方は……?」

「僕の婚約者だよ」

「……!」


 マーガレットの顔から血の気が引いた。


「婚約……者?」

「ああ」


 ラインヒルズは、幸せそうに笑った。


「僕たちは来月、結婚するんだ」

「…………」


 声が出なかった。


「どうして……」


 マーガレットの口から、かすれた声が漏れる。


「どうして、そんな……」

「どうして?」


 ラインヒルズは不思議そうに首を傾げた。


「あれから五年も経っているのだ。新しい恋をするよ」


 その笑顔が。

 何よりも残酷だった。


     ◇


「……ラインヒルズ様」


 エリーゼが、そっと彼の隣に立つ。


「マーガレット様には、お礼を申し上げなければなりませんね」

「え?」

「私……ずっとラインヒルズ様のことが好きでした」


 エリーゼは少し恥ずかしそうに笑った。


「でも、彼には婚約者がいて、私は婚約解消された過去があるので、諦めていましたの」

「……」

「兄から、ラインヒルズ様が婚約破棄されたと聞いたとき……」


 彼女は胸元に手を当てた。


「本当に、嬉しかったんです」


 マーガレットの胸が、ズキリと痛んだ。


「もちろん、ラインヒルズ様が傷ついていることは分かっていました」

「エリーゼ……」

「だから、すぐには想いを伝えませんでした」


 エリーゼはマーガレットを見る。


「でも、少しずつお話をするうちに……」


 頬を赤らめる。


「ラインヒルズ様も、私を大切に思ってくださるようになって」

「……」

「今では、私のことを誰よりも愛していると」


 ラインヒルズが優しく微笑む。


「エリーゼの言う通りだよ」


 二人の視線が重なる。

 その光景は。

 マーガレットが、認めたくない現実だった。

 互いを見つめる目。

 自然に寄り添う距離。

 相手を思いやる言葉。

 それは、愛し合っている二人の姿だった。


「……嘘」


 マーガレットは呟いた。


「そんな……」

「マーガレット」


 ラインヒルズが静かに口を開く。


「僕は君に、どうしても伝えたいことがある」

「……何?」

「ありがとう」

「……え?」

「僕と婚約破棄してくれて、ありがとう」


 マーガレットの瞳が見開かれる。


「君に婚約破棄されたから、僕は自分の人生を見つめ直すことができた」

「……」

「魔道具の研究にも、本気で取り組めた」

「……」

「そして、エリーゼにも出会えた」


 ラインヒルズは、隣にいる彼女の手を取った。


「君が僕を捨ててくれたから、僕は今、こんなに幸せなんだ」

「……っ」


 マーガレットの唇が震えた。


「だから、本当にありがとう」

「……やめて」

「え?」

「そんなこと……言わないで」


 聞きたくなかった。

 感謝なんて。

 そんなものが欲しくて戻ってきたわけではない。

 自分が欲しかったのは――。


「私は……」


 マーガレットは拳を握った。


「私は、あなたのことを……」


 愛している。

 そう言おうとして。

 言葉が止まった。

 なぜなら。

 ラインヒルズの隣にいるエリーゼが、幸せそうに笑っていたから。

 その笑顔を見れば分かる。

 彼女は本当に、ラインヒルズを愛している。

 そして。

 ラインヒルズもまた。

 彼女を愛している。


「……どうして」


 マーガレットの目から涙が落ちた。


「どうして私じゃないの……?」


 ラインヒルズは、悲しそうに彼女を見つめた。


「マーガレット」

「……」

「僕はもう、君を必要としていない」


 その一言が。

 マーガレットの最後の希望を打ち砕いた。


「君には君の人生がある」

「……」

「僕には、僕の人生がある」


 ラインヒルズはエリーゼの手を握る。


「そして僕は、これからエリーゼと生きていく」

「……はい」


 エリーゼも嬉しそうに頷いた。


「マーガレット様」


 彼女は最後に、丁寧に頭を下げた。


「ご安心ください」

「……」

「ラインヒルズ様は私が大切に守りますわ」


 マーガレットの顔が歪んだ。

 あの日。

 自分が勝ち誇って言った言葉。


『婚約を破棄してください』


 その結果。

 ラインヒルズは自分を失った。

 けれど。

 彼は代わりに。

 自分よりもずっと素敵な女性と出会った。

 そして。

 自分よりもずっと幸せになっていた。


「……そんな」


 マーガレットは震える声で呟く。


「こんなはずじゃ……」


 豪華な屋敷。

 莫大な財産。

 逞しく成長したラインヒルズ。

 すべてを見て。

 自分がその隣に立てると思った。

 父や母や兄を見返せると思った。

 もう一度、昔のように戻れると思った。

 けれど。

 現実は違った。

 ラインヒルズはもう、自分のものではない。

 いや。

 最初から――。

 人は誰かの「もの」ではなかったのだ。


「……帰ります」


 マーガレットは、ふらつきながら立ち上がった。


「送ろうか?」

「いりません!」


 思わず叫んでしまう。

 ラインヒルズが目を伏せる。


「……そうか」


 マーガレットは俯いた。

 涙が止まらなかった。


「……さようなら」

「うん」


 扉が閉じる。

 一人、廊下に出たマーガレットは、その場で立ち尽くした。

 屋敷の中から、二人の笑い声が聞こえてくる。

 幸せそうな声だった。

 自分が捨てた男。

 自分をずっと愛してくれていた男。

 その愛を踏みにじった結果。

 彼は、自分の知らない場所で。

 自分よりも大切な女性を見つけていた。


「……私、何をしていたの?」


 答える者はいなかった。

 ただ。

 馬車へ向かうマーガレットの背中を、王都の冷たい風が追いかけていった。

 ――婚約破棄してくれて、ありがとう。

 その言葉だけが。

 いつまでも、彼女の胸に残り続けた。

 最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。感謝です。(*- -)(*_ _)ペコリ

 また次の物語でお会いできる日を、心より楽しみにしております。


 山田 バルス(*^_^*)

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