不老不死を断った女王へ、前世緩和ケア看護師の私は痛みを小さくして「今日の朝」を返す
女王様は、不老不死の杯を見て、静かに首を横に振った。
「母上、どうして生きようとなさらないのですか」
王太子エドガー殿下の叫びが、白い病室の水差しを震わせた。
金色の杯には、聖女様が神殿から運んだ秘薬が満ちている。
一口飲めば病は消え、老いた体は若返る。二度と年を取らず、刃にも病にも命を奪われない。
その奇跡が、今まさに女王様から拒まれた。
「お願いです、女王様。これは確かな奇跡です」
聖女様は杯を両手で支え、涙をこぼしていた。
「お苦しみも、すべて消えます。ですから、どうか……」
「要りません」
女王様の返事は穏やかだった。
けれど、その声は途中で細く切れた。
女王様の右手は杯へ伸びていない。胸元の寝間着を固くつかんでいる。呼吸は浅く、息を吸うたびに肩が持ち上がった。乾いた唇がわずかに開いている。
痛いのだ。
息も苦しい。
けれど部屋にいる誰も、その手を見ていなかった。
「母上。これは国に二つとない秘薬で――」
「殿下、三十数える間だけ、お静かにしてください」
気づけば、私は口を挟んでいた。
部屋中の視線が、王立治癒院の看護係でしかない私に刺さった。
「看護係が、誰に命じている」
エドガー殿下の声は低い。
怖くないわけがなかった。けれど、もっと怖いものを私は前世で何度も見ていた。
治療の話をする声が大きくなるほど、寝台にいる人の声だけが小さくなっていく光景だ。
前世の私は、緩和ケア病棟の看護師だった。治せないときや、治療を望まないときにも苦しさを和らげ、その人の言葉を守る仕事だ。
転生前、白い部屋の窓口で、凡人枠担当のツクヨに会った。ずれたとんがり帽子、星柄のマント、目の下のクマ。手にした「MAGIC」の杖だけは、本人いわく小道具だった。
「行き先は、治せないときや、治療を望まないときに、皆さま途方に暮れてしまう国です」
「チートはお付けできません」
「では、両手だけ空けておいてください。枕を直しますから」
ツクヨは少しだけ笑い、私の書類へ「凡人枠」の判を押した。
「ええ。あなたには、その方がよさそうです」
そうして私は、この国でリナとして生まれ直した。
成人後、王立治癒院の洗濯係として働き始めた。寝具を整え、食べた量や眠れた時間、痛がる仕草を書き留め、宮廷医へ伝え続けた。
その記録が治療に役立つと認められ、病人のそばで経過を見る「看護係」という役目を任された。女王付きの看護係としてこの病室へ呼ばれたのは、三日前のことだった。
今、私の手に杖はない。けれど、女王様のためにできることはある。
「女王様は、今、お話を続けること自体がおつらい状態です。杯のお話の前に、息を整える時間をください」
「一口飲めば、その苦しみも消える!」
「その一口を決めるためにも、女王様ご本人のお声を聞ける状態にする必要があります」
私は声を張らなかった。
殿下の向こうにいる女王様だけを見た。
「女王様。今、一番つらいのは何ですか」
「……息と、胸の痛み」
女王様は小さく息を継いだ。
「それから、皆が私の上で争う声です」
その一言で、部屋が静まった。
「リナ、と申したわね。そばへ来てください」
「はい」
私は寝台の脇へ進んだ。
まず、女王様に触れてよいかを尋ねた。うなずきを得てから、背中の枕を一つ高くした。
横腹には丸めた柔らかな布を差し入れ、重い掛け布を胸から外した。
「こちらの方が、息はしやすいですか」
「ええ。少し」
少しでいい。
その少しが、次の言葉の居場所になる。
水を飲み込む力は弱っていた。私は水差しの水で清潔な布を湿らせ、許しを得て唇に当てた。
宮廷医に、用意されていた痛み止めの薬草液を今使えるか確認した。許可を得ると、女王様は飲み込める量を確かめながら、ほんの少しだけ口に含んだ。
聖女様が杯を抱えたまま、私の手元を見つめている。
「灯りを一つ減らしていただけますか。女王様がまぶしそうです」
「あ……はい」
聖女様は杖を振らなかった。
自分の手で窓際の灯りを消した。
エドガー殿下はまだ立ち尽くしていた。握りしめた拳が、わずかに震えていた。
「殿下。椅子へお掛けください」
「私は――」
「見下ろされると、女王様は首を上げなければなりません」
殿下は唇をかみ、寝台の隣の椅子に腰を下ろした。
看護係用の低い木椅子だったので、長身の殿下が座ると、膝が妙に高くなった。
「ずいぶん小さな椅子だ」
「あなたが七つの頃は、それでも足が床に届かなかったでしょう」
「母上、それは今、関係が」
「あります。座れば、私と同じ高さです」
殿下は反論しかけて、口を閉じた。
それだけで、部屋の中から一つ、王命が消えた。
残ったのは、病む母と、そのそばにいる息子だった。
「女王様」
私は呼吸が少し落ち着くのを待ってから尋ねた。
「杯について、お話しできますか」
「できます」
「秘薬を飲めば、病が治り、老いも止まると理解しておられますか」
「ええ。一度飲めば、二度と元には戻れないことも」
女王様は聖女様を見た。
「あなたの奇跡を疑っているのではありません。本物だから、断るのです」
「なぜです、母上」
先ほどより小さな声で、殿下が尋ねた。
「私は長く生きたから、もう十分だと言っているのではありません」
女王様は胸元から手を離した。
「今日も生きたい。明日の朝も見たい。できるなら、その次の朝も」
女王様の視線が、一瞬だけ金色の杯へ戻った。
「けれど、千年先の朝まで、今ここで決められたくはないのです。終わりのない体になることは望みません。私の終わり方を、私に選ばせてほしい」
「それは、死を選ぶのと同じではありませんか」
「いいえ、エドガー。残っている時間を選ぶのです」
「今の苦しさが、母上にそう言わせているのではありませんか」
殿下の問いに、女王様はゆっくり首を横に振った。
「この杯の話を初めて聞いたのは、去年の春です。まだ庭を歩き、食卓で皆と同じものを食べていた頃でした」
女王様は聖女様へ目を向けた。
「神殿から効き目も、元に戻れないことも教わりました。私は七日考えて、それでも断ると書き残しましたね」
「はい」
聖女様が、涙にぬれた顔でうなずいた。
「お心は、あのときから変わっておられません」
「今日、痛みに追いつめられて思いついた答えではないのです」
女王様はエドガー殿下を見た。
「痛みは小さくしてほしい。病も、治るものなら治したい。でも、永遠だけは望まない。それが私の答えです」
女王様の指先が、私の整えた布の上でゆるんだ。
「まずは、静かに息がしたいわ」
それが、杯ではなく女王様自身が選んだ、最初の願いだった。
◇◇◇
人が減った病室は、驚くほど広かった。
大臣も近衛兵も退出し、宮廷医は隣室で待機していた。残ったのは女王様とエドガー殿下、聖女様、そして私だけだった。
金色の杯は、寝台から離れた小卓へ置いた。
女王様から見える場所にある。隠してはいない。けれど、誰の手にも握られていない。
私は紙を一枚取り出し、縦と横に折り目をつけた。
「何をしているの」
「四つ、教えていただきたいことがあります」
最初の欄に、私は書いた。
――今、一番つらいこと。
「胸の痛み。息苦しさ。口の乾き。それから、大勢に囲まれること」
次の欄は、今してほしいこと。
「苦しくない姿勢にしてほしい。夜も一人にしないで。明け方には窓を開けて、朝を見たいわ」
三つ目は、会いたい人。
女王様は、隣の椅子へ視線を向けた。
「もう、ここにいます」
エドガー殿下の拳が、膝の上でほどけた。
「聖女様にも、いてほしいです。奇跡のためではなく、あなた自身に」
「私、ですか」
「泣いてばかりでは、顔がよく見えませんよ」
聖女様は慌てて涙を拭った。
最後の欄は、残したい言葉。
女王様は少し考えた。
「それは、痛みがもう少し小さくなってからにしましょう」
「はい」
「消えるとは言わないのね」
「約束できないことは申し上げられません」
私は紙から顔を上げた。
「痛みをゼロにできなくても、小さくすることはできます。言葉を持てる余地が残るくらいに」
女王様は、かすかに笑った。
「それで十分です。私にはまだ、言いたいことがありますから」
私は宮廷医と、痛みが強くなったときの対応を相談した。薬を使った後も女王様に効き方を尋ね、医師へ伝える。
眉を寄せたら声を掛ける。返事を待つ。触れる前にも声を掛け、許しを得る。眠っているなら、必要のない儀式のために起こさない。
どれも、奇跡と呼ばれるようなことではない。
けれど王宮では、その当たり前が儀式の陰へ押しやられていた。
「リナ」
「はい」
「あなたは、私が死ぬのが怖くないのですか」
まっすぐな問いだった。
「怖いです」
私は嘘をつかなかった。
「これまで何度立ち会っても、慣れたことは一度もありません」
「そう」
「ただ、怖いからこそ、女王様の今日を私たちの恐怖で埋めたくありません」
エドガー殿下が顔を上げた。
「私たちの恐怖、だと」
「はい」
「母上を救いたいと願うことが、間違いだと言うのか」
「間違いではありません」
私は即座に答えた。
「杯を選ぶ方もいるでしょう。その選択も守られるべきです。けれど、女王様の答えは別です」
「そなたは、母上を見殺しにする気か」
その言葉だけは、やはり鋭かった。
白い部屋の空気が張りつめる。
「その治療を選ばないことと、何もできないことは違います」
私は殿下を見た。
「私は女王様の命を終わらせません。終わりを早めることもしません。今ある苦しさを小さくして、生きている時間をご本人へお返しします」
「数日のために、永遠を捨てるというのか」
「それを決めるのは、私ではありません」
「ならば私が――」
「エドガー」
女王様の声が、殿下の言葉を止めた。
「私の体を、あなたたちの戦場にしないで」
殿下の顔から、怒りが抜け落ちた。
その下にあったのは、母を失いたくない息子の顔だった。
「私は、母上に死んでほしくないだけです」
「分かっています」
「父上が亡くなったときも、私は何もできなかった。あなたまで失えば、私は……」
殿下の喉が鳴った。
「あなたのいない国を治めるのが怖い。迷うたび、正しい答えをくださったのは母上でした。私は、まだ一人で王になれる気がしない」
殿下は続きを言えなかった。
女王様が手を伸ばす。けれど、その手は殿下まで届かない。
私は何も言わず、椅子を寝台へ少し近づけた。
殿下は母の手を取った。
「私だって、死ぬのは怖いのですよ」
女王様が言った。
聖人のような笑みではなかった。眉尻には不安があり、殿下の手を握る指にも力が入っている。
「痛いのも、息ができないのも怖い。あなたと話せなくなるのも怖いわ。でも、死にたくないことと、不老不死を望まないことは、両立するのです」
「あなたの代わりに、いつまでも答えを出すこともできません」
女王様の親指が、殿下の手の甲をゆっくりなぞった。
「でも今夜は、母としてあなたの怖さを聞けます。だから怒鳴らず、ここへ置いていきなさい」
「私には、まだ分かりません」
「今日、全部分からなくていいの」
女王様は息を一つ整えた。
「ただ、杯を押しつける代わりに、私に尋ねてください」
「何を、ですか」
殿下が私を見る。
私は、四つに折った紙を指した。
「今、してほしいことです」
殿下はしばらく黙っていた。
やがて、母の手を両手で包んだ。
「母上。今、私にしてほしいことはありますか」
「そうね」
女王様の目元が、初めて柔らかくなった。
「座っていて。王太子としてではなく、私の息子として」
「……はい」
「それから、あなたが七つのとき、果樹園の塀から落ちた話をしましょう」
「母上、今それを」
「王太子殿下にも、泣きながら林檎を抱えて帰った日があったでしょう」
聖女様が、涙の間から少しだけ笑った。
エドガー殿下も、困ったように息を吐いた。
張りつめていた病室に、人が息をするための隙間が戻ってきた。
◇◇◇
夕方、女王様の痛みは再び強くなった。
話が途切れ、胸元へ手が戻る。
私は枕の位置を確かめ、宮廷医を呼んだ。女王様の返事を待ちながら、許可された薬を使い、冷えた指を布で包む。
聖女様は杖を握りしめていた。
「私の光でも、少しはお役に立てるかもしれません」
「命をつなぎ留める奇跡ですか」
女王様が尋ねた。
「いいえ。温めて、体のこわばりを少しゆるめるだけの弱い光です。女王様がお望みなら」
「では、お願いします」
聖女様は初めて、一方的に奇跡を捧げるのではなく、使ってよいかを尋ねた。
淡い光が、女王様の手の上にだけ灯る。
病は消えなかった。
けれど冷たかった指が温まり、女王様の肩からわずかに力が抜けた。
「聖女様」
私は水差しを示した。
「布をもう一度、湿らせていただけますか」
一瞬だけ驚いた顔をしたあと、聖女様は杖を置いた。
「はい。どのくらい湿らせればよいですか」
「水が垂れない程度に。女王様に冷たすぎないか聞いてください」
聖女様はうなずき、両手で水差しを持った。
金色の杯よりもずっとありふれた、白い陶器の水差しだった。
けれど女王様が今選んだのは、そちらだった。
「女王様」
聖女様が、水差しを見つめたまま言った。
「私は奇跡で救うために育てられました。秘薬を受け取っていただけないなら、ここにいる意味がないと思っていました」
「私は、あなたを断ったのではありませんよ」
女王様は温まった手を、聖女様の方へ向けた。
「終わりのない命を断ったのです。あなたは灯りを消し、この手を温め、今は水を持ってくれている。ちゃんと、ここにいてくれます」
「こんな小さなことで、よいのでしょうか」
「今の私が望んだことです。小さいかどうかは、差し出す側ではなく、受け取る側が決めるのでしょう」
聖女様は目を閉じ、それから深くうなずいた。
夜が深まるまで、痛みは大きくなったり、小さくなったりした。
完全には消えない。
それでも、苦しさの波が引くたび、女王様は少しずつ言葉を残した。
「リナ。もし私が眠ってしまったら、朝に起こしてくれる?」
「空が明るくなり始めたら、お声を掛けます」
「朝まで大丈夫だと、約束はしてくれないのね」
女王様の瞳に、隠していた不安が揺れた。
「その約束はできません」
大丈夫だと言えば、今だけは安心させられるかもしれない。けれど、根拠のない安心は女王様を一人にする。
「ただ、眠っている間も、お一人にはしません。苦しそうなら私から尋ねます。朝が来たら、女王様が望まれたことを皆で覚えています」
「そう。では、言えることは今から言っておきましょう」
「紙を」
エドガー殿下が筆を取った。
「公の遺言は、もう済ませてあります」
女王様は言った。
「これは私の言葉です。私が杯を拒んだことで、誰も罰してはなりません。聖女も、宮廷医も、リナも」
殿下の筆が止まる。
「母上は、そこまで私を信じられませんか」
「恐れている人は、誰かを責める理由を探すものです。今日のあなたのように」
殿下は目を伏せ、再び筆を動かした。
「それから」
女王様は少し笑った。
「エドガーは林檎を三つ盗み、一つは服の中で潰しました、と」
「それを残すのですか」
「ええ。立派な王になっても、あなたが私の息子だった証しです」
殿下は笑おうとして、失敗した。
頬を伝ったものを、女王様は見ないふりをした。
私は二人から少し離れ、薬草液の器と水差しを整えた。
前世で、家族の「頑張れ」に埋もれた願いを、聞き取れなかったことがある。本人がようやく「家の犬に会いたい」と言えたとき、もうその時間は残っていなかった。
届かなかった言葉がある。
だから私は、今ここで聞き逃さない。
「リナ」
殿下に呼ばれ、私は顔を上げた。
「母上の痛みは、なくなったのか」
「いいえ」
「では、そなたのしたことに意味はあるのか」
責める声ではなかった。
本当に知ろうとする声だった。
「女王様に聞いてみてください」
殿下は母の顔を見た。
「母上。まだ、痛みますか」
「ええ。でも先ほどまでは、痛みが私の全部でした」
女王様はゆっくりと言った。
「今は、痛みのほかに、あなたの顔も、聖女様の温かい手も見える。林檎の話もできる。それが、リナの作ってくれた余地なのでしょう」
殿下は四つに折った紙を手に取った。
「一番つらいこと。今してほしいこと。会いたい人。残したい言葉……」
読む声が震えている。
「私は、何一つ聞いていなかった」
「今、聞いてくれました」
女王様が答えた。
「遅すぎますか」
「いいえ。私はここにいます」
その言葉に、殿下はとうとう顔を伏せた。
「母上」
女王様は返事をしない。
「……母さま」
幼い呼び方だった。
女王様の指が、殿下の髪に触れた。
「はい、エドガー」
それ以上の言葉は要らなかった。
聖女様は水差しを胸に抱き、窓の方を向いていた。
私は灯りをさらに落とした。
夜は、別れを急がせるためにあるのではない。
眠れる人が眠り、泣く人が泣き、言葉が戻るのを待つためにもある。
◇◇◇
明け方前、女王様は浅い眠りから目を開けた。
「朝は、まだかしら」
「もうすぐです」
私は窓辺の厚い幕を開いた。
空はまだ群青色で、東の端だけが薄くほどけ始めている。
冷たい風が直接当たらないよう窓を細く開け、衝立を寄せた。女王様の背中と首に枕を足すと、視界に空が入った。
「見えますか」
「ええ」
女王様は目を細めた。
「今日の朝ね」
「はい。今日の朝です」
最後の朝とは言わなかった。
生きて迎えた朝は、いつでも今日の朝だ。
エドガー殿下は一晩中、椅子を離れなかった。女王様の手を握ったまま、窓の外を見る。
聖女様は杖ではなく、水差しを持っていた。
東の空が淡い薔薇色に変わる。
庭園の木々が、暗がりから一つずつ形を取り戻していった。
その向こうに、昨夜話した果樹園の低い塀も見える。
「あの塀は、昔より小さくなりましたね」
エドガー殿下がつぶやいた。
「あなたが大きくなったのですよ」
「私は、落ちたとき泣いてなどいません」
「では、林檎をぬらしたのは朝露だったのかしら」
殿下はしばらく考えるふりをした。
「……泣きました。とても痛かったので」
「やっと正直になりましたね」
二人の小さな笑い声が、開けた窓から入る風に混じった。
「痛みは、いかがですか」
私が尋ねると、女王様は少し時間をかけて自分の体を確かめた。
「あります」
「はい」
「でも、小さくなりました。私の言葉を押しつぶさないくらいに」
聖女様が布を湿らせ、女王様に温度を確かめてから唇へ当てた。
「ありがとう」
その一言を受け取った聖女様の顔は、奇跡を成し遂げたときよりも静かだった。
「聖女様」
女王様が呼んだ。
「はい」
「これからも、救える命には奇跡を届けてください」
「もちろんです」
「けれど、誰かが奇跡を断ったとき、その人があなたを拒んだとは思わないで。こんなふうに、そばにいる道もあります」
聖女様は水差しを両手で持ち直した。
「忘れません。次は、杖を上げる前に尋ねます」
「ええ。それで十分です」
女王様は次に、エドガー殿下を見た。
「あなたも、私の選択を国中の正しさにしてはいけませんよ」
「母上の選択を、ですか」
「ええ。ここから先は、あなたが考えるのです」
殿下は、四つ折りの紙を胸元から取り出した。
しばらく見つめてから、顔を上げる。
「では、答えを決まりにするのではなく、尋ねることを残します。杯を望む人には杯を。治療を続けたい人には、できる限りの治療を。その人の答えを、最初から決めつけないために」
女王様は少し驚いたように目を細めた。
「それは、あなたが出した答えですね」
「はい。あなたの息子として。そして、次の王として」
女王様は、安堵したようにゆっくりとうなずいた。
「リナ」
「はい」
「あなたは、私の病を治したわけではありませんね」
「はい」
「それでも、この部屋を私に返してくれました」
私は言葉に詰まった。
枕を直した。口を湿らせた。痛みを尋ね、医師へつないだ。灯りと人を減らし、窓を開けた。
「小さなことばかりです」
「人は、小さな時間を一つずつ生きるものですよ」
女王様は朝の光の中で笑った。
「永遠でなくても、これは私の朝です」
エドガー殿下が母の手を握る。
聖女様が水差しを置く。
私は女王様の背中の枕を、ほんの少しだけ直した。
誰も、杯を勧めなかった。
誰も、別れを急がせなかった。
朝の光が満ちるまで、女王様はご自分の言葉で、息子と話し続けた。
その声は、ときどき細くなった。
それでももう、誰の声にもかき消されなかった。
女王様は、死に負けたのではない。
死に勝ったのでもない。
死を受け入れた、というのとも少し違う。
ただ、自分の今日を、死に明け渡さなかったのだ。
◇◇◇
四日後、王宮の旗が半ばまで下ろされ、鐘が一度だけ鳴った。
新王エドガー陛下は、女王様が残した一文を自ら読み上げた。
――私は自分で選び、その選択を守られた。誰も責めてはならない。
王立治癒院ではそれから、治療や奇跡の前に、まず本人へ尋ねる習慣が根づいた。窓辺には、四つ折りの紙と白い水差しが置かれた。
四つの問いは、答えをそろえる規則ではない。声を聞き始めるための目印だ。
聖女様は今も多くの命を救っている。ただし、杖を上げる前にひざを折り、寝台の人と同じ高さで話す。
エドガー陛下は私を「リナ殿」と呼び、看護係の報告を最後まで聞く。
私は今日も、誰かの枕を直し、乾いた口を湿らせ、聞こえにくくなった声へ耳を寄せている。
不老不死の杯は、誰の唇にも触れないまま神殿へ戻った。
けれど、王立治癒院の白い水差しは、今も窓辺で朝の光を受けている。
あの方が見た朝と同じ光だ。けれど、同じ朝ではない。
今日の朝は、今日ここにいる人のものだ。
私は枕を直し、声の届く高さまで身をかがめる。
そして、急がずに尋ねる。
「今日は、どう過ごしたいですか」
お読みいただき、ありがとうございました。
女王は、死に負けたのでも、勝ったのでもありません。
ただ、残された時間の主語を、最後まで自分のままにしました。金の杯より白い水差しを選んだのは、命を諦めたからではなく、自分の「今日」を生きるためです。
病が治らないときや、治療を選ばないときにも、できることは残っています。痛みを尋ねること。枕を直すこと。乾いた口を湿らせること。会いたい人を呼び、言葉が戻るまで待つこと。そうした一つひとつが、その人の時間を、その人へ返す仕事なのだと思います。
医療、看護、介護、福祉など、病や老いのそばに立つ現場の方々へ。大きな成果としては見えにくい小さな手当てと、誰かの声を聞き逃さない日々の仕事に、敬意を込めて書きました。
そして今、病や痛み、不安と向き合っている方、そのそばで迷いながら見守っている方へ。この物語の選択は、誰にとっても同じ正解ではありません。治療を続けることも、変えることも、休むことも、迷い続けることも、その人自身のものです。
どうか、あなたの「今日」が、あなたのものでありますように。
本作の医療・看護表現は物語上のものであり、現実の治療手順を示すものではありません。現実の病状や治療については、信頼できる医療者へご相談ください。
冒頭のツクヨは、「凡人枠」シリーズの転生窓口担当です。今日もあの白い窓口で、誰かの履歴書をめくっています。




