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不老不死を断った女王へ、前世緩和ケア看護師の私は痛みを小さくして「今日の朝」を返す

掲載日:2026/07/10

 女王様は、不老不死の杯を見て、静かに首を横に振った。


「母上、どうして生きようとなさらないのですか」


 王太子エドガー殿下の叫びが、白い病室の水差しを震わせた。


 金色の杯には、聖女様が神殿から運んだ秘薬が満ちている。


 一口飲めば病は消え、老いた体は若返る。二度と年を取らず、刃にも病にも命を奪われない。


 その奇跡が、今まさに女王様から拒まれた。


「お願いです、女王様。これは確かな奇跡です」


 聖女様は杯を両手で支え、涙をこぼしていた。


「お苦しみも、すべて消えます。ですから、どうか……」


「要りません」


 女王様の返事は穏やかだった。


 けれど、その声は途中で細く切れた。


 女王様の右手は杯へ伸びていない。胸元の寝間着を固くつかんでいる。呼吸は浅く、息を吸うたびに肩が持ち上がった。乾いた唇がわずかに開いている。


 痛いのだ。


 息も苦しい。


 けれど部屋にいる誰も、その手を見ていなかった。


「母上。これは国に二つとない秘薬で――」


「殿下、三十数える間だけ、お静かにしてください」


 気づけば、私は口を挟んでいた。


 部屋中の視線が、王立治癒院の看護係でしかない私に刺さった。


「看護係が、誰に命じている」


 エドガー殿下の声は低い。


 怖くないわけがなかった。けれど、もっと怖いものを私は前世で何度も見ていた。


 治療の話をする声が大きくなるほど、寝台にいる人の声だけが小さくなっていく光景だ。


 前世の私は、緩和ケア病棟の看護師だった。治せないときや、治療を望まないときにも苦しさを和らげ、その人の言葉を守る仕事だ。


 転生前、白い部屋の窓口で、凡人枠担当のツクヨに会った。ずれたとんがり帽子、星柄のマント、目の下のクマ。手にした「MAGIC」の杖だけは、本人いわく小道具だった。


「行き先は、治せないときや、治療を望まないときに、皆さま途方に暮れてしまう国です」


「チートはお付けできません」


「では、両手だけ空けておいてください。枕を直しますから」


 ツクヨは少しだけ笑い、私の書類へ「凡人枠」の判を押した。


「ええ。あなたには、その方がよさそうです」


 そうして私は、この国でリナとして生まれ直した。


 成人後、王立治癒院の洗濯係として働き始めた。寝具を整え、食べた量や眠れた時間、痛がる仕草を書き留め、宮廷医へ伝え続けた。


 その記録が治療に役立つと認められ、病人のそばで経過を見る「看護係」という役目を任された。女王付きの看護係としてこの病室へ呼ばれたのは、三日前のことだった。


 今、私の手に杖はない。けれど、女王様のためにできることはある。


「女王様は、今、お話を続けること自体がおつらい状態です。杯のお話の前に、息を整える時間をください」


「一口飲めば、その苦しみも消える!」


「その一口を決めるためにも、女王様ご本人のお声を聞ける状態にする必要があります」


 私は声を張らなかった。


 殿下の向こうにいる女王様だけを見た。


「女王様。今、一番つらいのは何ですか」


「……息と、胸の痛み」


 女王様は小さく息を継いだ。


「それから、皆が私の上で争う声です」


 その一言で、部屋が静まった。


「リナ、と申したわね。そばへ来てください」


「はい」


 私は寝台の脇へ進んだ。


 まず、女王様に触れてよいかを尋ねた。うなずきを得てから、背中の枕を一つ高くした。


 横腹には丸めた柔らかな布を差し入れ、重い掛け布を胸から外した。


「こちらの方が、息はしやすいですか」


「ええ。少し」


 少しでいい。


 その少しが、次の言葉の居場所になる。


 水を飲み込む力は弱っていた。私は水差しの水で清潔な布を湿らせ、許しを得て唇に当てた。


 宮廷医に、用意されていた痛み止めの薬草液を今使えるか確認した。許可を得ると、女王様は飲み込める量を確かめながら、ほんの少しだけ口に含んだ。


 聖女様が杯を抱えたまま、私の手元を見つめている。


「灯りを一つ減らしていただけますか。女王様がまぶしそうです」


「あ……はい」


 聖女様は杖を振らなかった。


 自分の手で窓際の灯りを消した。


 エドガー殿下はまだ立ち尽くしていた。握りしめた拳が、わずかに震えていた。


「殿下。椅子へお掛けください」


「私は――」


「見下ろされると、女王様は首を上げなければなりません」


 殿下は唇をかみ、寝台の隣の椅子に腰を下ろした。


 看護係用の低い木椅子だったので、長身の殿下が座ると、膝が妙に高くなった。


「ずいぶん小さな椅子だ」


「あなたが七つの頃は、それでも足が床に届かなかったでしょう」


「母上、それは今、関係が」


「あります。座れば、私と同じ高さです」


 殿下は反論しかけて、口を閉じた。


 それだけで、部屋の中から一つ、王命が消えた。


 残ったのは、病む母と、そのそばにいる息子だった。


「女王様」


 私は呼吸が少し落ち着くのを待ってから尋ねた。


「杯について、お話しできますか」


「できます」


「秘薬を飲めば、病が治り、老いも止まると理解しておられますか」


「ええ。一度飲めば、二度と元には戻れないことも」


 女王様は聖女様を見た。


「あなたの奇跡を疑っているのではありません。本物だから、断るのです」


「なぜです、母上」


 先ほどより小さな声で、殿下が尋ねた。


「私は長く生きたから、もう十分だと言っているのではありません」


 女王様は胸元から手を離した。


「今日も生きたい。明日の朝も見たい。できるなら、その次の朝も」


 女王様の視線が、一瞬だけ金色の杯へ戻った。


「けれど、千年先の朝まで、今ここで決められたくはないのです。終わりのない体になることは望みません。私の終わり方を、私に選ばせてほしい」


「それは、死を選ぶのと同じではありませんか」


「いいえ、エドガー。残っている時間を選ぶのです」


「今の苦しさが、母上にそう言わせているのではありませんか」


 殿下の問いに、女王様はゆっくり首を横に振った。


「この杯の話を初めて聞いたのは、去年の春です。まだ庭を歩き、食卓で皆と同じものを食べていた頃でした」


 女王様は聖女様へ目を向けた。


「神殿から効き目も、元に戻れないことも教わりました。私は七日考えて、それでも断ると書き残しましたね」


「はい」


 聖女様が、涙にぬれた顔でうなずいた。


「お心は、あのときから変わっておられません」


「今日、痛みに追いつめられて思いついた答えではないのです」


 女王様はエドガー殿下を見た。


「痛みは小さくしてほしい。病も、治るものなら治したい。でも、永遠だけは望まない。それが私の答えです」


 女王様の指先が、私の整えた布の上でゆるんだ。


「まずは、静かに息がしたいわ」


 それが、杯ではなく女王様自身が選んだ、最初の願いだった。


◇◇◇


 人が減った病室は、驚くほど広かった。


 大臣も近衛兵も退出し、宮廷医は隣室で待機していた。残ったのは女王様とエドガー殿下、聖女様、そして私だけだった。


 金色の杯は、寝台から離れた小卓へ置いた。


 女王様から見える場所にある。隠してはいない。けれど、誰の手にも握られていない。


 私は紙を一枚取り出し、縦と横に折り目をつけた。


「何をしているの」


「四つ、教えていただきたいことがあります」


 最初の欄に、私は書いた。


 ――今、一番つらいこと。


「胸の痛み。息苦しさ。口の乾き。それから、大勢に囲まれること」


 次の欄は、今してほしいこと。


「苦しくない姿勢にしてほしい。夜も一人にしないで。明け方には窓を開けて、朝を見たいわ」


 三つ目は、会いたい人。


 女王様は、隣の椅子へ視線を向けた。


「もう、ここにいます」


 エドガー殿下の拳が、膝の上でほどけた。


「聖女様にも、いてほしいです。奇跡のためではなく、あなた自身に」


「私、ですか」


「泣いてばかりでは、顔がよく見えませんよ」


 聖女様は慌てて涙を拭った。


 最後の欄は、残したい言葉。


 女王様は少し考えた。


「それは、痛みがもう少し小さくなってからにしましょう」


「はい」


「消えるとは言わないのね」


「約束できないことは申し上げられません」


 私は紙から顔を上げた。


「痛みをゼロにできなくても、小さくすることはできます。言葉を持てる余地が残るくらいに」


 女王様は、かすかに笑った。


「それで十分です。私にはまだ、言いたいことがありますから」


 私は宮廷医と、痛みが強くなったときの対応を相談した。薬を使った後も女王様に効き方を尋ね、医師へ伝える。


 眉を寄せたら声を掛ける。返事を待つ。触れる前にも声を掛け、許しを得る。眠っているなら、必要のない儀式のために起こさない。


 どれも、奇跡と呼ばれるようなことではない。


 けれど王宮では、その当たり前が儀式の陰へ押しやられていた。


「リナ」


「はい」


「あなたは、私が死ぬのが怖くないのですか」


 まっすぐな問いだった。


「怖いです」


 私は嘘をつかなかった。


「これまで何度立ち会っても、慣れたことは一度もありません」


「そう」


「ただ、怖いからこそ、女王様の今日を私たちの恐怖で埋めたくありません」


 エドガー殿下が顔を上げた。


「私たちの恐怖、だと」


「はい」


「母上を救いたいと願うことが、間違いだと言うのか」


「間違いではありません」


 私は即座に答えた。


「杯を選ぶ方もいるでしょう。その選択も守られるべきです。けれど、女王様の答えは別です」


「そなたは、母上を見殺しにする気か」


 その言葉だけは、やはり鋭かった。


 白い部屋の空気が張りつめる。


「その治療を選ばないことと、何もできないことは違います」


 私は殿下を見た。


「私は女王様の命を終わらせません。終わりを早めることもしません。今ある苦しさを小さくして、生きている時間をご本人へお返しします」


「数日のために、永遠を捨てるというのか」


「それを決めるのは、私ではありません」


「ならば私が――」


「エドガー」


 女王様の声が、殿下の言葉を止めた。


「私の体を、あなたたちの戦場にしないで」


 殿下の顔から、怒りが抜け落ちた。


 その下にあったのは、母を失いたくない息子の顔だった。


「私は、母上に死んでほしくないだけです」


「分かっています」


「父上が亡くなったときも、私は何もできなかった。あなたまで失えば、私は……」


 殿下の喉が鳴った。


「あなたのいない国を治めるのが怖い。迷うたび、正しい答えをくださったのは母上でした。私は、まだ一人で王になれる気がしない」


 殿下は続きを言えなかった。


 女王様が手を伸ばす。けれど、その手は殿下まで届かない。


 私は何も言わず、椅子を寝台へ少し近づけた。


 殿下は母の手を取った。


「私だって、死ぬのは怖いのですよ」


 女王様が言った。


 聖人のような笑みではなかった。眉尻には不安があり、殿下の手を握る指にも力が入っている。


「痛いのも、息ができないのも怖い。あなたと話せなくなるのも怖いわ。でも、死にたくないことと、不老不死を望まないことは、両立するのです」


「あなたの代わりに、いつまでも答えを出すこともできません」


 女王様の親指が、殿下の手の甲をゆっくりなぞった。


「でも今夜は、母としてあなたの怖さを聞けます。だから怒鳴らず、ここへ置いていきなさい」


「私には、まだ分かりません」


「今日、全部分からなくていいの」


 女王様は息を一つ整えた。


「ただ、杯を押しつける代わりに、私に尋ねてください」


「何を、ですか」


 殿下が私を見る。


 私は、四つに折った紙を指した。


「今、してほしいことです」


 殿下はしばらく黙っていた。


 やがて、母の手を両手で包んだ。


「母上。今、私にしてほしいことはありますか」


「そうね」


 女王様の目元が、初めて柔らかくなった。


「座っていて。王太子としてではなく、私の息子として」


「……はい」


「それから、あなたが七つのとき、果樹園の塀から落ちた話をしましょう」


「母上、今それを」


「王太子殿下にも、泣きながら林檎を抱えて帰った日があったでしょう」


 聖女様が、涙の間から少しだけ笑った。


 エドガー殿下も、困ったように息を吐いた。


 張りつめていた病室に、人が息をするための隙間が戻ってきた。


◇◇◇


 夕方、女王様の痛みは再び強くなった。


 話が途切れ、胸元へ手が戻る。


 私は枕の位置を確かめ、宮廷医を呼んだ。女王様の返事を待ちながら、許可された薬を使い、冷えた指を布で包む。


 聖女様は杖を握りしめていた。


「私の光でも、少しはお役に立てるかもしれません」


「命をつなぎ留める奇跡ですか」


 女王様が尋ねた。


「いいえ。温めて、体のこわばりを少しゆるめるだけの弱い光です。女王様がお望みなら」


「では、お願いします」


 聖女様は初めて、一方的に奇跡を捧げるのではなく、使ってよいかを尋ねた。


 淡い光が、女王様の手の上にだけ灯る。


 病は消えなかった。


 けれど冷たかった指が温まり、女王様の肩からわずかに力が抜けた。


「聖女様」


 私は水差しを示した。


「布をもう一度、湿らせていただけますか」


 一瞬だけ驚いた顔をしたあと、聖女様は杖を置いた。


「はい。どのくらい湿らせればよいですか」


「水が垂れない程度に。女王様に冷たすぎないか聞いてください」


 聖女様はうなずき、両手で水差しを持った。


 金色の杯よりもずっとありふれた、白い陶器の水差しだった。


 けれど女王様が今選んだのは、そちらだった。


「女王様」


 聖女様が、水差しを見つめたまま言った。


「私は奇跡で救うために育てられました。秘薬を受け取っていただけないなら、ここにいる意味がないと思っていました」


「私は、あなたを断ったのではありませんよ」


 女王様は温まった手を、聖女様の方へ向けた。


「終わりのない命を断ったのです。あなたは灯りを消し、この手を温め、今は水を持ってくれている。ちゃんと、ここにいてくれます」


「こんな小さなことで、よいのでしょうか」


「今の私が望んだことです。小さいかどうかは、差し出す側ではなく、受け取る側が決めるのでしょう」


 聖女様は目を閉じ、それから深くうなずいた。


 夜が深まるまで、痛みは大きくなったり、小さくなったりした。


 完全には消えない。


 それでも、苦しさの波が引くたび、女王様は少しずつ言葉を残した。


「リナ。もし私が眠ってしまったら、朝に起こしてくれる?」


「空が明るくなり始めたら、お声を掛けます」


「朝まで大丈夫だと、約束はしてくれないのね」


 女王様の瞳に、隠していた不安が揺れた。


「その約束はできません」


 大丈夫だと言えば、今だけは安心させられるかもしれない。けれど、根拠のない安心は女王様を一人にする。


「ただ、眠っている間も、お一人にはしません。苦しそうなら私から尋ねます。朝が来たら、女王様が望まれたことを皆で覚えています」


「そう。では、言えることは今から言っておきましょう」


「紙を」


 エドガー殿下が筆を取った。


「公の遺言は、もう済ませてあります」


 女王様は言った。


「これは私の言葉です。私が杯を拒んだことで、誰も罰してはなりません。聖女も、宮廷医も、リナも」


 殿下の筆が止まる。


「母上は、そこまで私を信じられませんか」


「恐れている人は、誰かを責める理由を探すものです。今日のあなたのように」


 殿下は目を伏せ、再び筆を動かした。


「それから」


 女王様は少し笑った。


「エドガーは林檎を三つ盗み、一つは服の中で潰しました、と」


「それを残すのですか」


「ええ。立派な王になっても、あなたが私の息子だった証しです」


 殿下は笑おうとして、失敗した。


 頬を伝ったものを、女王様は見ないふりをした。


 私は二人から少し離れ、薬草液の器と水差しを整えた。


 前世で、家族の「頑張れ」に埋もれた願いを、聞き取れなかったことがある。本人がようやく「家の犬に会いたい」と言えたとき、もうその時間は残っていなかった。


 届かなかった言葉がある。


 だから私は、今ここで聞き逃さない。


「リナ」


 殿下に呼ばれ、私は顔を上げた。


「母上の痛みは、なくなったのか」


「いいえ」


「では、そなたのしたことに意味はあるのか」


 責める声ではなかった。


 本当に知ろうとする声だった。


「女王様に聞いてみてください」


 殿下は母の顔を見た。


「母上。まだ、痛みますか」


「ええ。でも先ほどまでは、痛みが私の全部でした」


 女王様はゆっくりと言った。


「今は、痛みのほかに、あなたの顔も、聖女様の温かい手も見える。林檎の話もできる。それが、リナの作ってくれた余地なのでしょう」


 殿下は四つに折った紙を手に取った。


「一番つらいこと。今してほしいこと。会いたい人。残したい言葉……」


 読む声が震えている。


「私は、何一つ聞いていなかった」


「今、聞いてくれました」


 女王様が答えた。


「遅すぎますか」


「いいえ。私はここにいます」


 その言葉に、殿下はとうとう顔を伏せた。


「母上」


 女王様は返事をしない。


「……母さま」


 幼い呼び方だった。


 女王様の指が、殿下の髪に触れた。


「はい、エドガー」


 それ以上の言葉は要らなかった。


 聖女様は水差しを胸に抱き、窓の方を向いていた。


 私は灯りをさらに落とした。


 夜は、別れを急がせるためにあるのではない。


 眠れる人が眠り、泣く人が泣き、言葉が戻るのを待つためにもある。


◇◇◇


 明け方前、女王様は浅い眠りから目を開けた。


「朝は、まだかしら」


「もうすぐです」


 私は窓辺の厚い幕を開いた。


 空はまだ群青色で、東の端だけが薄くほどけ始めている。


 冷たい風が直接当たらないよう窓を細く開け、衝立を寄せた。女王様の背中と首に枕を足すと、視界に空が入った。


「見えますか」


「ええ」


 女王様は目を細めた。


「今日の朝ね」


「はい。今日の朝です」


 最後の朝とは言わなかった。


 生きて迎えた朝は、いつでも今日の朝だ。


 エドガー殿下は一晩中、椅子を離れなかった。女王様の手を握ったまま、窓の外を見る。


 聖女様は杖ではなく、水差しを持っていた。


 東の空が淡い薔薇色に変わる。


 庭園の木々が、暗がりから一つずつ形を取り戻していった。


 その向こうに、昨夜話した果樹園の低い塀も見える。


「あの塀は、昔より小さくなりましたね」


 エドガー殿下がつぶやいた。


「あなたが大きくなったのですよ」


「私は、落ちたとき泣いてなどいません」


「では、林檎をぬらしたのは朝露だったのかしら」


 殿下はしばらく考えるふりをした。


「……泣きました。とても痛かったので」


「やっと正直になりましたね」


 二人の小さな笑い声が、開けた窓から入る風に混じった。


「痛みは、いかがですか」


 私が尋ねると、女王様は少し時間をかけて自分の体を確かめた。


「あります」


「はい」


「でも、小さくなりました。私の言葉を押しつぶさないくらいに」


 聖女様が布を湿らせ、女王様に温度を確かめてから唇へ当てた。


「ありがとう」


 その一言を受け取った聖女様の顔は、奇跡を成し遂げたときよりも静かだった。


「聖女様」


 女王様が呼んだ。


「はい」


「これからも、救える命には奇跡を届けてください」


「もちろんです」


「けれど、誰かが奇跡を断ったとき、その人があなたを拒んだとは思わないで。こんなふうに、そばにいる道もあります」


 聖女様は水差しを両手で持ち直した。


「忘れません。次は、杖を上げる前に尋ねます」


「ええ。それで十分です」


 女王様は次に、エドガー殿下を見た。


「あなたも、私の選択を国中の正しさにしてはいけませんよ」


「母上の選択を、ですか」


「ええ。ここから先は、あなたが考えるのです」


 殿下は、四つ折りの紙を胸元から取り出した。


 しばらく見つめてから、顔を上げる。


「では、答えを決まりにするのではなく、尋ねることを残します。杯を望む人には杯を。治療を続けたい人には、できる限りの治療を。その人の答えを、最初から決めつけないために」


 女王様は少し驚いたように目を細めた。


「それは、あなたが出した答えですね」


「はい。あなたの息子として。そして、次の王として」


 女王様は、安堵したようにゆっくりとうなずいた。


「リナ」


「はい」


「あなたは、私の病を治したわけではありませんね」


「はい」


「それでも、この部屋を私に返してくれました」


 私は言葉に詰まった。


 枕を直した。口を湿らせた。痛みを尋ね、医師へつないだ。灯りと人を減らし、窓を開けた。


「小さなことばかりです」


「人は、小さな時間を一つずつ生きるものですよ」


 女王様は朝の光の中で笑った。


「永遠でなくても、これは私の朝です」


 エドガー殿下が母の手を握る。


 聖女様が水差しを置く。


 私は女王様の背中の枕を、ほんの少しだけ直した。


 誰も、杯を勧めなかった。


 誰も、別れを急がせなかった。


 朝の光が満ちるまで、女王様はご自分の言葉で、息子と話し続けた。


 その声は、ときどき細くなった。


 それでももう、誰の声にもかき消されなかった。


 女王様は、死に負けたのではない。


 死に勝ったのでもない。


 死を受け入れた、というのとも少し違う。


 ただ、自分の今日を、死に明け渡さなかったのだ。


◇◇◇


 四日後、王宮の旗が半ばまで下ろされ、鐘が一度だけ鳴った。


 新王エドガー陛下は、女王様が残した一文を自ら読み上げた。


 ――私は自分で選び、その選択を守られた。誰も責めてはならない。


 王立治癒院ではそれから、治療や奇跡の前に、まず本人へ尋ねる習慣が根づいた。窓辺には、四つ折りの紙と白い水差しが置かれた。


 四つの問いは、答えをそろえる規則ではない。声を聞き始めるための目印だ。


 聖女様は今も多くの命を救っている。ただし、杖を上げる前にひざを折り、寝台の人と同じ高さで話す。


 エドガー陛下は私を「リナ殿」と呼び、看護係の報告を最後まで聞く。


 私は今日も、誰かの枕を直し、乾いた口を湿らせ、聞こえにくくなった声へ耳を寄せている。


 不老不死の杯は、誰の唇にも触れないまま神殿へ戻った。


 けれど、王立治癒院の白い水差しは、今も窓辺で朝の光を受けている。


 あの方が見た朝と同じ光だ。けれど、同じ朝ではない。


 今日の朝は、今日ここにいる人のものだ。


 私は枕を直し、声の届く高さまで身をかがめる。


 そして、急がずに尋ねる。


「今日は、どう過ごしたいですか」

お読みいただき、ありがとうございました。


女王は、死に負けたのでも、勝ったのでもありません。


ただ、残された時間の主語を、最後まで自分のままにしました。金の杯より白い水差しを選んだのは、命を諦めたからではなく、自分の「今日」を生きるためです。


病が治らないときや、治療を選ばないときにも、できることは残っています。痛みを尋ねること。枕を直すこと。乾いた口を湿らせること。会いたい人を呼び、言葉が戻るまで待つこと。そうした一つひとつが、その人の時間を、その人へ返す仕事なのだと思います。


医療、看護、介護、福祉など、病や老いのそばに立つ現場の方々へ。大きな成果としては見えにくい小さな手当てと、誰かの声を聞き逃さない日々の仕事に、敬意を込めて書きました。


そして今、病や痛み、不安と向き合っている方、そのそばで迷いながら見守っている方へ。この物語の選択は、誰にとっても同じ正解ではありません。治療を続けることも、変えることも、休むことも、迷い続けることも、その人自身のものです。


どうか、あなたの「今日」が、あなたのものでありますように。


本作の医療・看護表現は物語上のものであり、現実の治療手順を示すものではありません。現実の病状や治療については、信頼できる医療者へご相談ください。


冒頭のツクヨは、「凡人枠」シリーズの転生窓口担当です。今日もあの白い窓口で、誰かの履歴書をめくっています。

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― 新着の感想 ―
面白かった。 「不老不死」を病気の治療に使うかどうかの問題で若返りは特に意識してなくて、年齢明示は殿下7歳の過去話だけだから 「殿下10台、陛下40台」「殿下50台(王太孫成人してる)、陛下70台」ど…
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