第60話 お姉ちゃんは、笑う
朝の光は、薄く冷たかった。
佐藤家のリビングには、まだ夜の気配が少し残っている。カーテンの隙間から差し込む光が床に細い線を作り、テーブルの脚を長く伸ばしていた。窓の外では、近所の庭木が風に揺れている。小さな葉がこすれ合う音は、ガラス越しにはほとんど届かない。ただ、光の揺れだけが部屋の中へ入ってきて、壁に掛かった家族写真の上をゆっくり撫でていた。
家の中は静かだった。
妻と子どもたちは、まだ眠っている。
冷蔵庫の低い音。壁時計の針が進む音。どこか遠くで走る車の音。
その全部が、朝の静けさを壊さない程度に薄く重なっていた。
誠司は食卓に座り、ノートパソコンの画面を見つめていた。
昨夜から、まともに眠れていない。
身体は疲れている。目の奥は重く、肩には鉛のようなだるさが沈んでいた。鼻の奥にはまだ、ツクヨミの端末の前で流した血の違和感が残っている。
それでも、画面から目を離せなかった。
コトリが整理した公開情報が、時系列で並んでいる。
星野ミナ。
ダンジョン探索配信者。
高危険度領域への進入頻度が高い。
配信収益、案件、支援サイトへの誘導。
どれも公開されている情報だった。誰でも探せば辿り着ける。だからこそ、そこに悪いことをしている感覚はなかった。
だが、画面を読み進めるほど、誠司の胸の奥には重いものが溜まっていった。
『誠司』
耳元の小型端末から、コトリの声がした。
家族を起こさないよう、音量は抑えられている。それでも、その声は静かな部屋にまっすぐ届いた。
「わかったのか」
『はい。公開情報の範囲で確認できる内容を整理しました』
誠司は画面の下部へ視線を落とした。
そこに、短い項目があった。
【家族構成】
誠司の指が止まった。
『星野ミナさん。両親は他界。弟が一人います』
「弟……」
声が、思ったよりかすれた。
画面に表示された記事は、数年前の地域ニュースだった。事故の概要。残された姉弟。支援を呼びかける短い文。顔写真はない。実名も一部伏せられている。それでも、時期と公開された配信内の断片を照合すると、星野ミナに繋がっていた。
誠司は、記事の本文を最後まで読んだ。
短い文章だった。
だが、読み終えるまでに何度も息が詰まった。
『弟さんは現在、重い病気を患っています』
コトリの声が続く。
『詳しい病名は公開情報からは断定できません。ただし、治療と入院が長期化していること、高額な費用が必要であることは、本人の過去発言や支援ページの記載から確認できます』
誠司は何も言えなかった。
部屋の中が、急に広くなったように感じた。
食卓の向こう側にある椅子。昨夜、娘が置き忘れた髪留め。妻が畳んでくれたハンカチ。どれも見慣れたものなのに、少し遠く見える。
『ミナさんは、弟さんの実質的な保護者です』
その一文が、静かに落ちた。
誠司はパソコンの画面を見つめたまま、息を吸った。
肺の奥まで空気が入らない。
星野ミナの笑顔が、頭に浮かぶ。
配信画面の中で、両手を振っていた明るい少女。
危険な探索から戻ったばかりなのに、視聴者に心配をかけまいと笑っていた顔。
S.Sを探すと言ったときの、弾むような声。
その全部の裏に、病室の白い壁があったのかもしれない。
弟の寝息があったのかもしれない。
支払いの数字があったのかもしれない。
誠司は、両手を組んだ。
指先が冷たい。
「だから、あんなに無茶を……」
『可能性は高いです』
「再生数のためだけじゃなかった」
『はい』
答えは淡々としている。
コトリは断定しすぎない。余計な感情を乗せない。
だが、その静けさが、かえって誠司の胸に重く響いた。
弟を生かすため。
その言葉が、口の中で苦く溶ける。
誠司はミナの最新配信を開いた。
画面の中に、いつものように明るい部屋が映る。棚にはぬいぐるみが並び、配信用ライトが白く彼女の顔を照らしていた。ミナは髪を整え、コメント欄を見て、軽く笑っている。
『みんな、今日も来てくれてありがとー!』
明るい声。
少し高めの、よく通る声。
昨日までなら、誠司はその声を「配信用の明るさ」だと思ったかもしれない。
だが、今は違って聞こえた。
息を吸うタイミングが短い。
笑ったあと、目がほんの少しだけ下へ逃げる。
コメントを読む指が止まったとき、口元だけで笑顔を保っている。
怖さを隠している。
疲れを隠している。
そしてたぶん、泣きたい気持ちも隠している。
誠司は画面に顔を近づけた。
配信中のミナが、視聴者からのコメントに笑って返す。
『無理してない? だって? してないしてない! ミナ、元気だけは取り柄だから!』
嘘だ。
誠司は、胸の中で呟いた。
その言い方を、知っている。
自分も何度も言った。
大丈夫。
疲れてない。
平気。
少し寝れば治る。
妻に心配されるたび、子どもたちに顔を覗き込まれるたび、誠司はそう言った。そう言えば、家の空気が少しだけ保たれる気がした。自分が崩れなければ、みんなの日常も崩れないと、勝手に思い込んでいた。
家計が苦しかった頃の記憶が、唐突に戻ってきた。
冬の夜だった。
会社帰りのスーパーは、閉店間際の蛍光灯が白く眩しかった。床は濡れた靴跡で少し曇り、精肉売り場の前には値引きシールの貼られたパックがいくつか残っていた。
誠司は、豚肉のパックを手に取った。
半額だった。
それでも、戻した。
その横で豆腐を二丁取った。安いもやしと、見切り品の小松菜もかごに入れた。頭の中で、明日の朝食と弁当まで計算した。
家に帰ると、妻が「顔色悪いよ」と言った。
誠司は笑った。
花粉かな。
そう言った。
冬なのに。
妻は何か言いたそうにしたが、子どもたちが走ってきて、その話は流れた。
あのとき、誠司は自分が嘘をついていると思っていなかった。
ただ、家族の前で弱音を置く場所がわからなかった。
画面の中で、ミナが笑っている。
あの子も、置く場所がないのだ。
怖いと言えない。
苦しいと言えない。
やめたいと言えない。
弟のために続けていることを、誰かに責められたくない。自分でも迷わないように、笑っている。
誠司は目を閉じた。
瞼の裏に、ミナの笑顔と、病室の白い光が重なった。
「あの子は——弟のために、笑ってるのか」
言葉にした瞬間、喉の奥が痛くなった。
パソコンのスピーカーから、ミナの声が続く。
『次の探索もね、ちゃんと準備してるから楽しみにしてて! 危なくないようにするし、ミナ、前より強くなったから!』
コメント欄が流れる。
『無理しないで』
『でも次の探索楽しみ』
『S.S探し進展あった?』
『弟さんにも見せたいくらい元気』
『ミナちゃんは笑顔が一番』
その文字の一つひとつに悪意はない。
だが、悪意がないまま人は誰かを押す。
頑張れという言葉で、休めない場所へ追い込むこともある。
誠司は、画面の中のミナを見つめた。
彼女は笑った。
ほんの一瞬、目元が震えた。
それでも笑った。
胸の奥で、何かが静かに決まっていく。
まだ言葉にはならない。
だが、方向だけはわかった。
S.Sを探されるのは危険だ。
正体が知られれば、自分の家族も巻き込まれる。
政府の監視もある。白瀬も、ミラージュも、見知らぬ誰かの手癖も動き始めている。
それでも。
誠司は、画面を消せなかった。
家族のために、必死で笑っている人間を。
かつての自分と同じように、怖さを胸に押し込めている人間を。
ただの危険要素として切り離すことは、できなかった。
キッチンの方で、炊飯器の予約音が小さく鳴った。
朝が、本当に始まろうとしている。
階段の上から、子どもの寝返りの音がかすかに聞こえた。
誠司は顔を上げた。
リビングに差し込む光は、さっきより少しだけ強くなっている。テーブルの上の髪留めが、淡い桃色に光っていた。
自分には、帰る場所がある。
守りたい人たちが、この家に眠っている。
ミナにも、守りたい誰かがいる。
ただ、それだけのことだった。
誠司は、静かに息を吸った。
「コトリ」
『はい』
「あの子が次に危険な探索をしたら、すぐに知らせてくれ」
コトリは、すぐには答えなかった。
短い沈黙。
その沈黙の中に、警告が含まれていることを誠司は感じ取った。
『誠司。それは、あなたの立場を危うくする可能性があります』
「わかってる」
誠司は画面の中のミナを見た。
彼女はまだ笑っていた。
まるで泣かないために、笑顔を握りしめているように。
「でも、見なかったことにはできない」
朝の光が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
壁の家族写真が明るくなり、写真の中の子どもたちの笑顔が少しずつはっきりした。
誠司は、その写真を一度だけ見てから、もう一度画面に向き直った。
「正体がバレるリスクがあっても、だ」
誠司の声は、思っていたより静かだった。
言葉にしたあとも、胸の奥が激しく揺れることはなかった。恐怖が消えたわけではない。むしろ、はっきり形になっていた。
佐藤誠司という名前。
家族の暮らす家。
子どもたちの学校。
妻の日常。
それらが、画面の向こうから伸びる無数の指に触れられるかもしれない。その想像だけで、胃の奥が冷たくなる。
だが、それでも。
ミナの笑顔を見てしまった。
弟のために、怖さを飲み込んで笑う顔を。
見なかったことにして、自分だけ安全な場所へ戻ることはできなかった。
『誠司』
コトリの声が、慎重に落ちた。
『あなたは保護対象です。監視も継続しています。星野ミナさんに接近することは、政府側に不審な行動として記録される可能性があります』
「わかってる」
『ミナさんのS.S探しは、あなたの正体露呈につながる危険があります』
「それも、わかってる」
『それでも、守りますか』
誠司はすぐには答えなかった。
窓の外で、風が吹いた。
庭木の葉が揺れ、朝の光が細かく砕ける。カーテンの端がふわりと膨らみ、すぐに戻った。家の中には、まだ家族の眠る気配がある。二階から微かな寝息のような音が降りてきて、炊飯器の蒸気が小さく鳴った。
この家を守りたい。
その気持ちは変わらない。
けれど、家族のために必死で笑っている誰かを切り捨てて守る日常なら、たぶん自分はその日常の中でまっすぐ座っていられない。
誠司は画面を見た。
ミナは、コメントに向かって笑っていた。
ほんの少しだけ肩が強張っている。疲れているのに、それを見せないようにしている。
「家族のために戦ってる人を、見捨てられない」
声が、喉の奥で少しだけ掠れた。
「俺が、そうだったから」
コトリは沈黙した。
長い沈黙ではない。
けれど、その間に誠司は、自分の言葉が部屋の中に静かに広がっていくのを感じた。
誰かを救うということは、きれいなことばかりではない。
自分の身を削ることもある。
誰かに迷惑をかけることもある。
正しい答えを選んだつもりで、別の誰かを危険に近づけることもある。
それでも、目の前にあるものを一つずつ選ぶしかない。完璧な場所に立ってからでは、間に合わない人がいる。
『承知しました』
コトリの声が戻った。
『星野ミナさんの公開配信、探索予定、危険兆候を監視します。異常を検知した場合、即時通知します』
「頼む」
『ただし、誠司』
「うん」
『あなた自身も、帰ってください』
その言葉に、誠司は目を閉じた。
黒瀬の声が重なる。
毎晩、ちゃんと、家族のもとへ。
約束した。
あの待機室で、疲れきった身体のまま、それでも言った。
帰ると。
毎回、ちゃんと。
「……ああ」
誠司は小さく頷いた。
「帰る。そのためにも、見捨てない」
そのとき、パソコンの画面で通知音が鳴った。
ミナの配信タイトルが切り替わっている。
【少しだけ、大事な話】
誠司は眉を寄せた。
配信画面の中で、ミナがいつもより少しだけ姿勢を正していた。背景は変わらない。棚のぬいぐるみも、白い配信用ライトも、明るい部屋もいつものままだ。
けれど、空気が違った。
コメント欄はすでに流れている。
『どうしたの?』
『重大発表?』
『S.S見つかった?』
『無理しないで』
『顔色悪くない?』
ミナはしばらくコメントを見ていた。
いつものようにすぐ笑わない。
唇を一度結び、視線を少し下へ落とす。机の下で手を握っているのだろう。肩が小さく動いた。
『えっと、今日はね……ミナの、大事な人の話、少しだけ』
声が、かすかに震えていた。
それを隠すように、ミナは笑った。
誠司の胸が痛んだ。
『ミナにはね、弟がいるの』
コメント欄の流れが変わった。
『弟?』
『初耳』
『そうなんだ』
『かわいい?』
『弟くん見てる?』
ミナは画面の向こうで、ゆっくり頷いた。
『今、ちょっと、入院してて』
その一言で、コメントの速度が一瞬だけ鈍った。
画面の光が、誠司の顔を青白く照らす。
ミナは続けた。
『詳しいことは、あんまり言えないんだけど。でも、ミナにとって、すごく大事な子です』
笑おうとしていた。
けれど、声の端が揺れていた。
『だから、ミナ、頑張るんだ。その子のために』
誠司は、無意識に拳を握っていた。
爪が手のひらに食い込む。
痛みがあった。
だが、その痛みがなければ、画面の向こうへ引きずられそうだった。
コメント欄が、再び流れ始める。
『知らなかった』
『ミナちゃん……』
『応援する』
『弟くん早く良くなりますように』
『だから無茶してたの?』
『泣きそう』
『S.Sさんにも届いてほしい』
ミナは涙をこらえていた。
目の縁がわずかに赤い。照明で飛ばしても、隠れない。鼻先が少しだけ震え、息を吸う音がマイクに入った。
それでも、彼女は笑った。
『だから、みんな、応援してね! ミナ、もっと頑張るから!』
明るい声だった。
明るすぎるほどに。
その声を聞いた瞬間、誠司は椅子から立ち上がりそうになった。
頑張れ。
そう言いたい。
でも、頑張りすぎるなとも言いたい。
弟を守れ。
でも、お前も壊れるなと言いたい。
画面のこちら側からは、何も届かない。
届かないはずなのに、誠司は呟いていた。
「……頑張れ」
声は、リビングの静けさに小さく落ちた。
「お前の弟、絶対に、お前が守れ」
ミナは画面の中で笑っている。
涙を落とさないように、目を細めている。
その顔が、若すぎた。
背負っているものに比べて、あまりに若すぎた。
誠司は、続けた。
「そのために——お前のことは、俺が守るから」
コトリは何も言わなかった。
ただ、画面の端にミナの配信ログが保存されていく。
朝の光は、部屋の奥まで届いていた。
階段の上で、子どもが起きる気配がした。布団が擦れる音。小さな足音。眠そうな声。
「お父さーん……」
誠司は振り返った。
下の子が階段の途中に立っていた。髪が少し跳ねていて、片手で目をこすっている。
「おはよう」
誠司はパソコンの画面を少しだけ閉じた。
声が震えないよう、ゆっくり言った。
「おはよう。よく眠れたか?」
「うん……お腹すいた」
「すぐご飯にしよう」
子どもは頷き、眠そうにリビングへ降りてきた。
誠司は立ち上がり、キッチンへ向かった。炊飯器を開けると、白い湯気がふわりと上がる。米の匂いが朝の部屋に広がった。
いつもの朝だった。
茶碗を出し、味噌汁を温め、卵を割る。
その一つひとつの動作が、誠司をこの家へ繋ぎ止めていた。
けれど、胸の奥では、別の夜がすでに始まっている。
ミナの正体探し。
政府の監視。
再起動したミラージュ。
見知らぬ天城蓮の手癖。
そして、病室にいる弟のために笑い続ける少女。
それらが、静かに同じ場所へ向かって動き始めている。
誠司は茶碗にご飯をよそった。
白い湯気の向こうで、家族写真が朝日に照らされている。
守りたいものは増えていく。
手の届く範囲は、相変わらず狭い。
それでも誠司は、今できることから始めるしかなかった。
まず、家族に朝食を出す。
それから、次に危険が来たとき、迷わず手を伸ばす。
リビングの隅で、閉じかけたパソコンの画面がまだ薄く光っていた。
そこに映るミナは、涙をこらえた笑顔のまま、視聴者に向かって手を振っている。
画面のこちら側で、誠司は茶碗を置き、静かに息を吸った。
朝は穏やかだった。
だが、その穏やかさの下で、いくつもの糸が音もなく引かれ始めていた。




