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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第2部:管理者覚醒編

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第58話 S.Sを探して


 星野ミナの部屋には、昼の光が薄く差し込んでいた。


 カーテンは半分だけ閉められている。白いレース越しの光が机の上に広がり、配信用マイクの金属部分を淡く照らしていた。窓の外では、マンションの前に植えられた街路樹が風に揺れている。細い枝についた葉が、太陽を受けて裏返り、また戻る。そのたびに、壁に落ちる影が小さく震えた。


 部屋の隅には、畳まれていない上着と、充電中の探索用ライトが置かれている。床に置いたリュックのファスナーは少し開いたままで、中から包帯と予備バッテリーが覗いていた。


 配信画面の準備は、いつも通りだった。


 背景に映る棚には、ぬいぐるみが二つ並んでいる。コメント欄の位置を確認し、照明の角度を直し、髪の乱れを指で押さえる。


 ミナは鏡の中の自分に笑いかけた。


 目元の疲れは、少し濃い。


 ファンデーションで隠しきれない影がある。


 それでも、画面に映る星野ミナは、明るくなければならない。


 ミナは深く息を吸った。


 胸の奥に溜まった重さを、笑顔の下へ押し込める。


 配信開始のボタンを押すと、画面の右上で数字が動き始めた。


 視聴者数が増えていく。


 百、五百、二千、八千。


 コメント欄に文字が流れ出す。


『ミナちゃん来た!』

『大丈夫だった?』

『この前の配信やばかった』

『生きててよかった』

『S.Sって何者?』


 ミナは両手を軽く振った。


「みんなー、こんミナ!」


 声は明るく出た。


 よかった。


 まだ笑える。


「心配かけてごめんね。ミナはこの通り、元気です!」


 元気、という言葉を口にするとき、右足のふくらはぎが少し痛んだ。探索中にぶつけた場所だ。椅子の下で足を引き、痛みが表情に出ないようにする。


 コメントはさらに速くなった。


『無理しないで』

『ほんと怖かった』

『あの声の人、誰?』

『S.Sさん神だった』

『救助の誘導、完全にプロだったよな』


 ミナは一瞬だけ、画面から目を離した。


 あの暗い場所。


 足元が崩れ、ライトがちらつき、息の音だけが耳元で大きくなっていた時間。


 もう終わりだと思った。


 そのとき、聞こえた声。


 直接、耳に届いたわけではない。画面越しの通知、誘導の光、細いルート表示。その向こうに誰かがいると、なぜかわかった。


 S.S。


 名前も顔も知らない。


 でも、あの人がいなければ、自分はここに座っていない。


 ミナは笑顔を作り直した。


「みんな、この前の配信で、ミナを助けてくれた『S.S』さん、覚えてる?」


 コメント欄が跳ねた。


『覚えてる!』

『謎の管理者!』

『S.Sさんしか勝たん』

『あれ本当に人間?』

『政府関係者?』

『配信に一瞬表示出てたよな』


 ミナは頷いた。


「ミナね、決めたの」


 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 怖かったことを思い出すより、その人に言いたい言葉を思い浮かべた方が、前を向ける気がした。


「あの人を、絶対に見つけて、お礼を言うって!」


 コメント欄が、一気に流れた。


『S.S探し企画!?』

『神企画きた』

『全力で探す』

『ミナちゃんの命の恩人だもんな』

『情報まとめるわ』

『切り抜き作る』

『特定班、出番だぞ』


 ミナは少し慌てて手を振った。


「あ、でも迷惑かけたいわけじゃないよ? 怖がらせたいとかじゃなくて、本当に、ありがとうって言いたいだけ」


 そう言いながら、ミナは笑った。


 画面の中の自分は、ちゃんと明るい。


 ちゃんと、いつもの星野ミナだ。


「だってさ、命の恩人だよ? 名前も顔も知らないままなんて、ミナ、嫌だもん」


 その言葉に嘘はなかった。


 ただ、全部でもなかった。


 お礼を言いたい。


 それは本当。


 けれど、それだけではない。


 あの人に会えたら、もしかしたら何か変わるかもしれない。自分が今、必死に追いかけているものに、少しだけ近づけるかもしれない。そういう小さな期待も、胸の奥にあった。


 弟の病室の匂いが、一瞬だけ鼻先に蘇った。


 消毒液の匂い。


 白いシーツ。


 窓際の小さな棚に置いた、安いキャラクターのキーホルダー。


 ――お姉ちゃん、また配信するの?


 ミナは瞬きをした。


 笑顔を崩さない。


「ということで、今日からミナ、S.Sさん探しをします!」


 コメント欄に、拍手の絵文字が溢れた。


 誰も悪意を持っていない。


 みんな応援してくれている。


 それが、ミナには嬉しかった。


 だからこそ、その向こう側で何が起きるかまでは、考えられなかった。


 配信が終わる頃には、「S.S探し」という言葉は、もうミナの部屋の中だけのものではなくなっていた。


 切り抜き動画が上がる。


 過去配信のスクリーンショットが並べられる。


 ミナが救出された瞬間の画面が何度も拡大され、ぼやけた端末表示の一部が赤丸で囲われる。


 夕方には、SNSのトレンド欄に「S.S」の文字が浮かんだ。


 その文字は、小さな火のように広がっていった。


 夕暮れの街では、帰宅する人々が駅前の横断歩道を渡っていた。ビルのガラスに沈みかけた太陽が反射し、歩道の端を橙色に染める。風が吹くたび、街路樹の葉がざわめき、信号待ちの人々のスーツの裾を揺らした。


 誰かが電車の中でスマートフォンを覗き込み、笑いながら画面を友人に見せる。


 誰かが職場の休憩室で、切り抜き動画を再生する。


 誰かが自宅の机で、救出時刻と過去の配信ログを照らし合わせる。


 善意と好奇心は、区別がつきにくい。


 それは最初、柔らかい言葉で始まった。


『命の恩人にお礼を言わせてあげたい』

『S.Sさん、出てきて』

『ミナちゃんを助けてくれてありがとう』

『政府は何か知ってるんじゃない?』


 だが、夜に近づくにつれ、文字の熱は少しずつ変わっていく。


『深夜帯に活動してるのは確定?』

『東京近郊っぽくない?』

『管理者コードの頭文字?』

『S.S=イニシャル説』

『佐藤? 鈴木? 知らんけど』

『この時間に反応してるダンジョン関係者を洗えば出る?』


 画面上の文字は軽い。


 指先ひとつで流され、次の投稿に押し流されていく。


 だが、その軽さのまま、人ひとりの生活へ近づいていく。


 黒瀬環がその動きを確認したのは、政府庁舎内の監視室だった。


 外はすでに暗くなっていた。


 窓の向こうには、ビルの明かりが無数に浮かんでいる。夜風に揺れる街路樹の影が、街灯の下でぼんやり伸びていた。ガラス越しの景色は静かなのに、室内のモニターだけが落ち着きなく光を変えている。


 黒瀬は画面の前に立ったまま、唇を結んだ。


 複数のSNS解析画面が並び、関連投稿数のグラフが急角度で上がっている。


 S.S。


 星野ミナ。


 命の恩人。


 謎の管理者。


 東京在住。


 深夜活動。


 それぞれの単語が、細い糸のように繋がっていく。


「まずいですね」


 黒瀬は低く呟いた。


 隣の職員が顔を上げる。


「投稿を止めますか」


「今、強制的に止めれば逆効果です。隠していると騒がれる」


 黒瀬は画面を睨んだ。


 星野ミナに悪意はない。


 むしろ、純粋な感謝だ。


 あの子は、自分を救ってくれた誰かに礼を言いたいだけ。その気持ち自体を責めることはできない。


 だが、その善意が佐藤誠司の正体を暴きかねない。


 黒瀬は、昨夜の待機室を思い出した。


 ――俺、帰ります。毎回、ちゃんと。


 彼はそう言った。


 しかし、世界は約束を守る人間ほど見つけ出し、引きずり出そうとする。


「星野ミナの善意が、佐藤さんの正体に近づいています」


 黒瀬の声は静かだった。


 静かすぎて、周囲の職員が言葉を失うほどだった。


「彼女に悪意はない。でも、このままでは——」


 その先は言わなかった。


 言わなくても、監視室の全員に伝わっていた。


 佐藤誠司の名前が世間に出れば、家族も巻き込まれる。


 政府の保護対象になったばかりの男が、今度は世論と好奇心の中心に晒される。


 拘束は回避された。


 だが、別の形の包囲が始まっていた。


 同じ頃、佐藤誠司は自宅の食卓に座っていた。


 湯気の立つ味噌汁の匂いが、狭い台所に広がっている。窓の外には、夜の住宅街が静かに沈んでいた。隣家の庭木が風に揺れ、葉がこすれる音がかすかに聞こえる。遠くで自転車のブレーキが鳴り、すぐに消えた。


 家の明かりは、管理棟の照明とは違う。


 少し黄みがかっていて、眩しすぎない。


 子どもたちの箸が茶碗に当たる音。妻が鍋の蓋を閉める音。テレビの音量は小さく、誰も深夜の出来事を知らない。


 誠司は、その普通の音を聞いていた。


 帰ってこられた。


 それだけで、胸の奥が少し緩む。


 だが、スマートフォンが震えた。


 机の端で、短く二度。


 誠司は箸を置き、画面を見た。


 黒瀬からの通知だった。


【至急確認してください】


 リンクがひとつ。


 誠司は、家族に気づかれないように画面を開いた。


 そこに表示されたのは、星野ミナの配信切り抜きだった。


 明るい声が、小さな音量で流れる。


『ミナね、決めたの。あの人を、絶対に見つけて、お礼を言うって!』


 コメント欄のスクリーンショット。


 トレンド欄。


 S.S探し。


 謎の管理者。


 誠司の指が、画面の上で止まった。


 味噌汁の湯気が、ゆっくりと上がっている。


 子どもが何かを笑っている。


 妻が「おかわりいる?」と聞く声がする。


 そのすべてが、少し遠くなった。


「……俺を、探してる?」


 誰にも聞こえないほど小さく、誠司は呟いた。



「お父さん?」


 娘の声で、誠司は顔を上げた。


 食卓の向こうで、下の子が箸を止めてこちらを見ている。頬にご飯粒がひとつついていた。いつもなら笑って取ってやるところだったが、誠司の指はスマートフォンの画面から離れなかった。


「どうしたの?」


「いや」


 誠司は画面を伏せた。


「なんでもない。ちょっと仕事の連絡」


 妻が台所から振り返る。


「また?」


 責める声ではなかった。


 心配の混じった、柔らかい声だった。だからこそ、胸に刺さった。


「すぐ終わる」


 誠司はそう言って、椅子を引いた。


 床が小さく鳴る。


 その音が、妙に大きく聞こえた。味噌汁の湯気。子どもたちの箸の音。テレビから流れる明るい笑い声。ついさっきまで、帰ってこられたことに安堵していたこの場所が、急に薄い膜の向こうにあるように感じられた。


 廊下へ出ると、家の明かりは少し暗くなった。


 洗面所の扉の隙間から、白い蛍光灯の光が漏れている。壁に掛けた家族写真が、夜の廊下で静かに浮かんでいた。休日に公園で撮った写真。子どもたちは笑っていて、妻は少し眩しそうに目を細めている。


 誠司は、その写真の前で足を止めた。


 今、この名前が世の中に出たら。


 佐藤誠司。


 S.S。


 管理者。


 その文字が、家族写真の上に重なる。


 知らない人間が、この家を探すかもしれない。子どもたちの学校を調べるかもしれない。妻の顔や名前まで、興味本位で拾われるかもしれない。


 胃の奥が冷たく縮んだ。


 誠司は洗面所に入り、扉を閉めた。


 換気扇の低い音が天井から降っている。鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。目の下は黒く、鼻の下にはまだ薄い傷のような赤みが残っている。


 スマートフォンを開く。


 黒瀬から、追加のメッセージが来ていた。


【現時点では氏名特定には至っていません】

【ただし、投稿の分析速度が想定以上です】

【不用意な発信、外部接触は避けてください】


 誠司は短く息を吐いた。


「外部接触なんて、するわけないだろ……」


 言った直後、画面の中のミナの笑顔が目に入った。


 切り抜き動画は、自動で停止している。


 静止したミナは、両手を軽く上げ、明るく笑っていた。命の危険に遭ったばかりの人間には見えない。画面の中では、怖さも疲れも、全部きれいに隠れている。


 あの子は、ただ礼を言いたいだけだ。


 誠司は額に手を当てた。


 責められない。


 責められるわけがない。


 自分を助けてくれた相手に会いたい。ありがとうと言いたい。それは、人として当たり前のことだ。むしろ、その気持ちまで危険扱いしなければならない今の状況の方が、どこか歪んでいる。


 だが、正体は明かせない。


 明かせば、自分だけでは済まない。


『誠司』


 耳元の小型端末から、コトリの声がした。


 食卓では出ないように設定していたはずの声だった。おそらく、緊急度を上げて通信している。


「コトリ」


『はい。星野ミナさんが、あなたへの感謝から、正体を探しています』


「礼を言いたいだけ、なんだよな……」


『現状の発言からは、その可能性が高いです』


「なら、止めろって言うのも違うよな」


『ですが、このまま拡散が続けば、あなたの生活圏に迫る情報が出る可能性があります』


 生活圏。


 その言葉が、洗面所の白い壁に冷たく響いた。


 誠司は鏡を見た。


 自分の後ろに、閉めた扉が映っている。その向こうには家族がいる。自分の知らないところで、世の中の指先がじわじわと近づいてくる。その感覚に、背中の皮膚が粟立った。


「黒瀬さんは」


『監視班と対応中です。強制的な遮断は逆効果と判断されています』


「だろうな」


 隠したものほど、見たくなる。


 誠司にも、それくらいはわかった。


 SNSの熱は、こちらが触れれば触れるほど形を変えて燃え上がる。善意の火に水をかけたつもりが、油になることもある。


 画面をスクロールする。


 投稿が流れる。


『S.Sさん、出てきてあげて』

『命の恩人なんだから名乗ってもよくない?』

『政府が隠してる説』

『深夜勤務の関係者?』

『動画の反射に男の声入ってない?』

『年齢高めっぽい誘導だった』


 年齢高め。


 誠司は苦く息を漏らした。


 そんなところまで、勝手に拾われている。


 画面の光が手のひらに当たり、指先だけを青白く照らしていた。洗面所の水道から、水滴が一つ落ちる。陶器に当たって、小さな音が跳ねた。


 その音のあと、短い沈黙ができた。


 誠司は、もう一度ミナの動画を開いた。


 明るい声。


 軽い身振り。


 コメントに合わせて笑う間。


 最初に見たときは、ただ若い配信者だと思った。怖い目に遭っても人気のために笑っている、危なっかしい子だと。


 だが、何度か見ているうちに、違うものが見えた。


 笑う前に、一瞬だけ目が泳ぐ。


 コメントを読む指が、ほんのわずかに急ぐ。


 冗談を言ったあと、息を吸うのが浅い。


 明るさが自然に溢れているのではない。


 崩れないように、必死に支えている。


「この子……」


 誠司は動画を止めた。


 ミナの笑顔が画面に残る。


 その目元には、疲れがある。照明で飛ばしているが、隠しきれていない。


「無茶な探索を、繰り返してる」


『はい。星野ミナさんの公開配信履歴を確認すると、通常の配信者と比較して高危険度領域への進入頻度が高いです』


「再生数のため、にしては——必死すぎる」


 言葉にした瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。


 ミナは怖がりではないのかもしれない。


 だが、怖くないわけがない。


 あの暗闇で、足場が崩れ、通信が乱れ、命が画面の向こうへ滑り落ちかけた。それでも次の企画を考え、次の探索へ行こうとしている。


 若さだけでは説明できない。


 承認欲求だけでも足りない。


「まるで、何かに追われてるみたいだ」


 コトリはすぐには答えなかった。


 換気扇の音が、洗面所の天井で低く回り続ける。


 誠司はスマートフォンの画面を消した。


 暗くなったガラスに、自分の顔が映る。


 何かに追われている顔。


 その言葉は、ミナだけに向けたものではなかった。


 自分にも覚えがあった。


 給料が下がった日の帰り道。


 スーパーの精肉売り場で、値引きシールのついた肉を手に取り、結局戻した夜。豆腐なら二丁買える。卵も足せる。子どもたちには、肉が少ないことを気づかれないように野菜を多めにしよう。そんな計算を、ため息の代わりに頭の中で続けた。


 妻に心配されたときは、笑ってごまかした。


 大丈夫。


 花粉かな。


 ちょっと疲れただけ。


 あの頃の自分も、笑っていた。


 笑っていないと、家の空気まで沈む気がしたから。


 誠司はゆっくり息を吐いた。


「……同じ匂いがする」


『誠司』


「あの子、何か抱えてる」


 言い切るほどの根拠はない。


 公開された動画と、配信履歴と、画面越しの表情だけだ。


 だが、誠司には見過ごせなかった。


 追い詰められた人間は、助けてほしいと言わないことがある。言えば全部崩れてしまうから、先に笑う。自分でも大丈夫だと思い込むために、声を明るくする。


 ミナの笑顔は、その種類に見えた。


 洗面所の扉の向こうから、娘の声がした。


「お父さーん、ごはん冷めちゃうよ」


「ああ、今行く」


 誠司は返事をした。


 その声は、思ったより普通に出た。


 普通に聞こえるよう、無意識に整えていたのだと気づく。


 誠司は扉に手をかけたが、開ける前に小さく言った。


「コトリ」


『はい』


「星野ミナのこと、調べられるか」


『個人情報への不正アクセスはできません』


「そこまではしなくていい。公開情報の範囲でいい」


 短い間があった。


『……公開情報の範囲なら、可能です』


「頼む」


 誠司は、もう一度だけ画面を見た。


 ミナの笑顔。


 その向こうで流れ続ける、無数のコメント。


 彼女は自分を探している。


 その善意が、誠司の家族を危険に近づけている。


 それでも、誠司は彼女をただの厄介な配信者だとは思えなくなっていた。


「あの子が、なんであんなに必死なのか——気になるんだ」


『承知しました』


 コトリの声が静かに消えた。


 誠司は洗面所の扉を開けた。


 食卓の明かりが廊下にこぼれている。


 娘たちはまだ話していて、妻は味噌汁を温め直してくれていた。鍋の湯気がふわりと上がり、いつもの匂いが家の中に戻ってくる。


 誠司は食卓へ戻った。


「ごめん。冷めたな」


「温めたから大丈夫」


 妻がそう言って、器を置く。


 誠司は箸を取った。


 味噌汁を口に含むと、温かさが喉を通って胃に落ちた。身体はそれを覚えている。家に帰ってきた人間の食事だと、ちゃんとわかっている。


 けれど、胸の奥の冷たさは消えなかった。


 その夜、誠司が眠るまでの間にも、S.S探しの投稿は増え続けた。


 深夜の街では、窓の灯りがひとつずつ消えていく。住宅街の細い道を、風が通り抜け、電線をかすかに鳴らした。遠くの幹線道路から、途切れ途切れに車の音が届く。


 人々が眠りにつく時間にも、画面の中だけは眠らない。


 誰かが新しい考察を書き込む。


 誰かが過去映像を切り抜く。


 誰かが、冗談半分で名前を挙げる。


 その一つひとつは、小さく、軽く、すぐ忘れられるものだった。


 だが、集まれば網になる。


 善意で編まれた網が、静かに、佐藤誠司の周りへ狭まっていた。


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