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普通に可愛い?

作者: jin kawasaki
掲載日:2026/03/21

「可愛い」という言葉が、いつからこれほどまでに安っぽく、そして義務的なものになってしまったのだろう。

都心にある小洒落たカフェの喧騒の中、佐伯紗香は冷めかけたカフェラテの泡をスプーンでなぞりながら、隣のテーブルから流れてくる会話に耳を立てるともなく立てていた。

「えー、これ見て。昨日買ったバッグ」

「可愛いー!」

「こっちのネイルは?」

「可愛い! 似合ってる!」

反射。あるいは、生存本能に近い社交辞令。

彼女たちの口から放たれる「可愛い」という四文字には、もはや対象を愛でる感情など微塵も含まれていないように聞こえる。それは会話の隙間を埋めるための緩衝材であり、相手との関係を円滑にするための潤滑油だ。

今の世の中、女性同士のコミュニケーションにおいて「可愛い」を拒絶することは、和を乱す行為に等しい。たとえ心の中で「趣味が悪い」と思っていても、あるいは「特筆すべき点がない」と感じていても、差し出されたものに対しては即座に「可愛い」というラベルを貼って返さなければならない。

だからこそ、その言葉はインフレを起こし、価値を失った。

「可愛い」と言われた側も、それが本心からの賞賛ではないことを薄々感づいている。それでもなお、その記号の交換を止められない。

そんな中、最近よく耳にする「普通に可愛い」という表現がある。

ネットの掲示板やSNSでは、この言葉はしばしば批判の対象になる。「『普通に』って何だよ」「上から目線だ」「褒めてるのか貶してるのかわからない」と。

けれど、紗香の考えは違った。

むしろ、逆なのだ。

「……お待たせ。ごめん、会議が長引いちゃって」

不意に声をかけられ、紗香は顔を上げた。

そこに立っていたのは、友人の真衣まみだった。

真衣は、淡いベージュのブラウスにネイビーのテーパードパンツという、いたってシンプルな出で立ちをしていた。髪は後ろでひとつにまとめられ、メイクも派手さはないが丁寧だ。

「全然。私も今来たところだから」

紗香は嘘をついて、微笑んだ。

真衣が向かいの席に座る。彼女がバッグを置き、少しだけ乱れた前髪を直す。その何気ない動作を眺めながら、紗香の脳裏には、先ほどまで考えていた言葉が浮かんでいた。

(真衣って、普通に可愛いよね)

それは、決して妥協ではない。

むしろ、現代における最大級の「誠実な賛辞」だと紗香は思っている。

「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」

真衣が不思議そうに首を傾げた。

「ううん。真衣のそのピアス、似合ってるなと思って」

「あ、これ? 駅ビルの雑貨屋で見つけた安物だよ。でも嬉しい、ありがとう」

真衣は照れくさそうに笑った。その笑顔には、一点の曇りもない。

彼女のような女性を形容する時、巷に溢れる「絶世の美女」だとか「アイドル級」といった大仰な言葉は似合わない。かといって、社交辞令で乱発される空虚な「可愛い」で片付けるのも失礼な気がする。

「ねえ、真衣。『普通に可愛い』って言葉、どう思う?」

唐突な問いに、真衣は注文しようとしていたメニューから顔を上げた。

「え? 普通に可愛い? うーん、あんまり良い意味では使われないよね、最近。普通って言われると、可もなく不可もなくって感じがするし」

「やっぱりそう思うよね。でもさ、私は最近、それが一番の褒め言葉なんじゃないかって思うんだ」

紗香は冷めたラテを一口飲み、言葉を継いだ。

「今の時代、何に対しても、誰に対しても『可愛い』って言うじゃない? 本心じゃなくても、愛想で、儀式みたいに。でも、そういう『嘘の可愛い』が溢れすぎているからこそ、本当に良いと思っているものに対して、差別化しなきゃいけなくなったんじゃないかな」

「差別化?」

「そう。お世辞でも、社交辞令でも、盛った表現でもなく。フラットな視点で見て、事実として、可愛らしい。そういうニュアンスを込めたくて、みんな無意識に『普通に』って言葉を頭につけてるんじゃないかって」

真衣は目を丸くして、紗香の言葉を咀嚼するように黙り込んだ。

「つまりさ」と紗香は続ける。「『普通に』っていうのは、『(あなたのことが好きだからとか、場を盛り上げたいからというバイアスを抜きにして、客観的な事実として)可愛い』っていう意味なんだよ。可愛くない人にお世辞を言う時は、みんな単に『可愛いー!』って語尾を伸ばす。でも、本当に可愛い人を見た時、思わず漏れちゃう本音が『あ、普通に可愛い……』なんじゃないかなって」

真衣は、ふっと吹き出すように笑った。

「紗香の考え方、相変わらず独特だね。でも、そう言われると、なんだか救われる気がするかも。もし誰かに『普通に可愛い』って言われたら、それは嘘がない言葉だってことだもんね」

「そう。それは『事実』に対する降伏宣言みたいなものだよ」

二人はその後、他愛のない世間話に花を咲かせた。

仕事の愚痴、最近見た映画、新しくできたパン屋の話。

紗香は、目の前で楽しそうに笑う真衣を観察し続けた。

真衣の可愛さは、ノイズが少ない。

流行りのメイクで顔を塗りつぶしているわけでも、過剰な自意識で武装しているわけでもない。ただ、彼女としてそこに存在していることの心地よさが、外見に滲み出ている。

それは、毎日を丁寧に生き、他者に誠実であろうとする彼女の内面が、造作としての「顔」と幸福な調和を遂げている結果のように見えた。

これこそが、「普通」という言葉の持つ真の豊かさではないだろうか。

特別な魔法をかけなくても、加工アプリで歪ませなくても、そのままの状態で「可愛い」という価値が成立していること。

夕暮れ時、店を出て駅へと向かう道すがら。

街灯が灯り始めた歩道を歩きながら、真衣が言った。

「あ、見て。あの野良猫、ブサかわいくない?」

路地裏のゴミ箱の横に、ふてぶてしい顔をした三毛猫が座っていた。

「……本当だ。でも、あれは『普通に』可愛いね」

紗香がそう言うと、真衣は「またそれ?」と笑った。

別れ際、改札の前で真衣が振り返った。

「ねえ、紗香。さっきの話、嬉しかったよ。私、紗香に『普通に可愛い』って思ってもらえるような人間でい続けたいな」

「もう、なってるよ」

紗香は短く答えた。

真衣の姿が人混みに消えていくのを見送った後、紗香はスマートフォンの画面を点けた。

SNSを開けば、相変わらず「可愛い」の弾丸が飛び交っている。キラキラしたエフェクト、計算し尽くされた角度、そしてそれに対する無感情な賞賛の嵐。

それらは、夜空に打ち上がる花火のようなものだ。

一瞬だけ派手に夜空を彩るが、熱が冷めれば何も残らない。

けれど、紗香が今日感じた「普通に可愛い」という感情は、足元を照らす小さな街灯の明かりに近い。派手さはないけれど、確かな実体を持って、そこにあり続けるもの。

(普通に可愛い、か……)

紗香は心の中でその言葉をもう一度反芻した。

それは決して、対象を平凡な枠に押し込める言葉ではない。

むしろ、氾濫する嘘の中から「真衣」を掬い上げるための、現代人が編み出した最後の防衛線なのだ。

可愛くない人にも「可愛い」と言わなければならない窮屈な世界で。

せめて、本当に心を動かされた時くらいは、言葉に責任を持たせたい。

「普通」という飾り気のない、しかし揺るぎない土台の上に置かれたその賛辞は、何よりも贅沢な真衣の告白なのだから。

家路につく紗香の足取りは、心なしか軽かった。

明日、職場の鏡の前に立つ自分に対しても、いつかそんな風に思えたらいい。

特別じゃなくていい。盛らなくてもいい。

ただ、そこにいる自分が「普通に可愛い」と思えるような、そんな実直な日々を積み重ねていこう。

空を見上げると、三日月が昇っていた。

誰が褒めようと褒めまいと、ただそこにあるだけの、凛とした月だ。

それは、ひどく「普通に」綺麗だった。

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