第7章:裏切りの刃と王太子の盾
エリザベートの農園が目覚ましい成功を収め、アルベルトの農業改革政策が少しずつ成果を上げ始めると、最も強い危機感を抱いたのはゲルトナー侯爵だった。
彼は、自らが追い落としたはずのエリザベートが、辺境の地で「緑の改革者」として名声を高めていることに我慢がならなかった。それだけではない。彼女の成功がアルベルトの政治的地位を磐石なものにし、自分たち保守派の権力が削がれていくのが目に見えていたからだ。
「あの小娘……生かしておいては、いずれ我らの破滅に繋がる」
ゲルトナー侯爵は、もはや手段を選んでいられなかった。彼は密かに凄腕の暗殺者を雇い、エリザベートの命を奪うよう命じた。政治的な策略が通用しないなら、物理的に消すしかない。そう考えたのだ。
その頃、アルベルトは政策の視察という名目で、再びグラウ領を訪れていた。すっかり様変わりし、豊かな緑に覆われた領地を見て、彼は改めてエリザベートの手腕に感嘆していた。
「素晴らしいな、エリー。本当にここを楽園に変えてしまった」
「これも、殿下の支援と、村の皆の努力のおかげです」
農園を二人で歩きながら、自然と笑みがこぼれる。元夫婦ということを忘れさせるほど、穏やかで満たされた時間だった。
その夜、視察の報告書をまとめるアルベルトを手伝い、エリザベートも館の執務室に残っていた。夜も更け、村が寝静まった頃、それは起こった。
何の前触れもなく、執務室の窓ガラスが音を立てて砕け散る。同時に、黒装束をまとった影が、短剣を手にエリザベートへと襲いかかった。
「!?」
エリザベートが反応するより早く、彼女の前にいたアルベルトが動いた。
彼は咄嗟にエリザベートを突き飛ばし、自らが盾となるように彼女の前に立ちはだかった。
「ぐっ……!」
鈍い音と共に、アルベルトの呻き声が響く。暗殺者の短剣が、彼の肩口に深く突き刺さっていた。
しかし、アルベルトは怯まなかった。彼は負傷した腕で暗殺者の腕を掴むと、もう片方の拳で相手の顔面を強かに打ち据える。不意を打たれた暗殺者が体勢を崩した隙に、物音を聞きつけて駆けつけた護衛の騎士たちが部屋になだれ込んできた。
暗殺者はすぐに取り押さえられ、騒ぎは収束した。だが、アルベルトはその場に崩れ落ちていた。
「殿下! しっかりしてください!」
エリザベートは、震える手で彼の体を抱きかかえる。アルベルトの肩からは、おびただしい量の血が流れ出し、彼のシャツを真っ赤に染めていた。幸い、すぐに村の薬師が呼ばれ、応急処置が施された。傷は深いが、命に別状はないとのことだった。
エリザベートは、侍女たちと共に、意識を失ったアルベルトを文字通りつきっきりで看病した。血に濡れた服を脱がせ、傷口を清め、新しい包帯を巻く。その間、彼女の頭の中は混乱していた。
(なぜ? なぜ、私を庇ったりしたの?)
彼は王太子だ。この国の未来を担うべき存在。一介の、しかも自らが追放した女を守るために、その尊い体を危険に晒すなど、あってはならないことだ。迷惑だ。そう思うはずなのに、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
数時間後、アルベルトはうっすらと目を開けた。
「……エリー……?」
「殿下! お気づきに……」
ベッドのそばで彼の顔を覗き込んでいたエリザベートを見て、彼は安心したように微かに微笑んだ。
「……無事か」
「はい。あなたのおかげで」
エリザベートは、こみ上げてくる感情を抑えきれなかった。
「なぜ……なぜ、あんな無茶をしたのですか! あなたは、この国の王太子なのですよ!? 私のような者のために、命を落とすところだった!」
涙声で問い詰める彼女に、アルベルトは静かに答えた。
「君は、『君のような者』ではないだろう」
彼は、熱に浮かされた瞳で、まっすぐにエリザベートを見つめた。
「エリー……お前がいない王国に、未来などないからだ」
その言葉は、計算も建前もない、彼の心の奥底からの本音だった。
政治的なパートナーとしてではない。盟友としてでもない。ただ、一人の人間として、エリザベートという存在が、彼にとってどれほどかけがえのないものになっているか。その真実が、彼の口から漏れ出た瞬間だった。
エリザベートは、息をのんだ。
彼の瞳に宿る熱が、その言葉が嘘ではないと告げていた。
今まで築いてきた、冷静で理性的な関係。それが、この一瞬で崩れ去りそうな予感がした。彼の剥き出しの感情を前に、エリザベートはただ、言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。




