第2章:土と語らう令嬢
辺境での新しい生活は、まず情報収集から始まった。私は公爵令嬢のドレスを脱ぎ捨て、動きやすい村娘のような簡素な服に着替えた。お付きの侍女は卒倒しそうになっていたが、知ったことではない。これから土にまみれるのだから、絹のドレスなど邪魔なだけだ。
「まずは、この土地を知ることから始めましょう」
私は村長のハンスを訪ねた。彼は白髪混じりの髭を蓄えた、実直そうな初老の男性だ。初めこそ、追放されてきた元王太子妃という私を遠巻きに見ていたが、私が本気でこの土地のことを知ろうとしていると分かると、少しずつ警戒を解いてくれた。
「この土地は、昔から『神に見捨てられた土地』と呼ばれておりまして……。水が少なく、土は石ころだらけ。何を植えても、まともには育ちません。麦はかろうじて育ちますが、収穫量は王都の半分以下でございます」
ハンスは、諦めが滲んだ声で語った。私は彼の話を聞きながら、持参した手帳にメモを取る。
「水源はどこにありますか?」
「村の東に細い川が一本。ですが、雨が少ない季節にはすぐに干上がってしまいます」
「土の質はどうでしょう。粘土質ですか、砂質ですか?」
「さあ……? ただ、固くて痩せている、としか……」
専門的な質問に、ハンスは困惑した顔をする。当然だろう。彼らにとって、土はただの土でしかない。
「分かりました。ありがとうございます、ハンス村長。明日から、私がこの土地を調査します」
「調査、でございますか? 姫様が?」
彼の驚きも無理はない。だが、私は本気だった。
翌朝、私は麦わら帽子をかぶり、スコップと袋を手に畑へ向かった。唖然とする村人たちの視線を浴びながら、私は躊躇なく畑の土を掘り返し始めた。
「うーん、これは……思った以上にひどいな」
掘り出した土を手に取り、指で感触を確かめる。砂が多く、有機物がほとんど含まれていない。これでは作物が根を張ることも、水分を保持することも難しいだろう。pHを測るための簡易的な試験薬はないが、おそらく強い酸性土壌のはずだ。
私は領内のあちこちを歩き回り、土壌サンプルを採取していく。最初は遠巻きに見ていただけの村人たちも、私が来る日も来る日も泥だらけになって土を調べている姿に、次第に興味を抱き始めたようだった。
「姫様、一体何をなさっておるのですか?」
ある日、一人の若い農夫が、おずおずと声をかけてきた。
「土の健康診断ですよ」と私は微笑んで答える。「人間と同じで、土にも個性があるんです。この土地の土がどんな性格なのか、何が好きで何が嫌いなのかを知らないと、美味しい野菜は作れませんから」
私の言葉に、彼はきょとんとしていた。
数日間の調査を終え、私は村人を集めて説明会を開いた。
「皆さんの畑の土は、栄養が足りず、酸っぱくなりすぎて病気になっています。まずは、この土にご馳走をあげて、元気にしてあげる必要があります」
私は集めた落ち葉や枯れ草、家畜の糞などを指し示し、「堆肥」の作り方を説明した。微生物の力でこれらを発酵させ、土の栄養にするのだと。さらに、酸性の土を中和するために、石灰岩を砕いて粉にしたものを撒くことを提案した。幸い、この辺りの岩山には石灰岩が豊富にあった。
村人たちは半信半疑だった。これまで、そんなことは誰もやったことがない。貴族の気まぐれな道楽だろうと、訝しむ者もいた。
無理もない。信頼は、言葉ではなく行動で示すしかない。
「まずは、私の畑でやってみます。もしうまくいったら、皆さんも試してみてください」
私は館の裏にある使われていなかった広い庭を、自分の実験農場にすると決めた。
そして、宣言通り、私は自ら鍬を握った。固い土を耕し、石を取り除き、村人たちが訝しげな顔で持ってきた家畜の糞と枯れ草を混ぜ、堆肥作りを始めた。最初は顔をしかめていた侍女も、私のあまりの熱意に根負けしたのか、今では鼻をつまみながらも手伝ってくれるようになった。
そんな生活がひと月ほど続いた頃には、村人たちの私を見る目も明らかに変わっていた。泥だらけで汗を流し、時には村の子供たちと一緒になって虫を追いかける私の姿は、「高慢な公爵令嬢」のイメージとはかけ離れていたのだろう。何人かの農夫が、手伝いを申し出てくれるようになった。
「姫様、そんな細腕じゃ埒があかねえ。俺が耕してやる」
「こっちの石運びは、わしらに任せなされ」
彼らの無骨な優しさが、じんわりと心に沁みた。前世でも今世でも得られなかった、温かい繋がり。私はここで、ようやく自分の居場所を見つけられた気がした。
一方、その頃。王都レグニツァの王宮では、一人の男が深い後悔に沈んでいた。
王太子、アルベルトである。
エリザベートを追放してからひと月。彼は、側近たちが報告してきた彼女の「悪行」の数々に、いくつかの矛盾点があることに気づき始めていた。リーナ男爵令嬢に熱湯をかけようとしたとされる日、エリザベートは公務で別の離宮にいたというアリバイが出てきた。彼女がリーナ嬢のドレスを破いたとされる夜会では、目撃者の証言が曖昧で、リーナ嬢の自作自演ではないかという疑惑さえ浮上していた。
「彼女は、本当に悪女だったのか……?」
執務室で一人、アルベルトは頭を抱えた。
側近のゲルトナー侯爵は、「エリザベート様は巧妙にアリバイを工作していたのです」と主張する。リーナ嬢はただ「あの方が怖くて……」と涙ぐむばかり。
だが、アルベルトの脳裏には、離婚を宣告した時のエリザベートの姿が焼き付いて離れなかった。取り乱さず、恨み言も言わず、ただ静かに、凛としてそれを受け入れた姿。あれが悪女の態度だろうか?
(もし、私が何かを見誤っていたのだとしたら……)
いてもたってもいられなくなったアルベルトは、信頼できる護衛騎士だけを呼び寄せ、密かな決意を固めた。
「辺境のグラウ領へ向かう。身分を隠して、彼女の様子を見てくる」
真実を、この目で見極めなければならない。アルベルトは、誰にも知られぬよう、王都を抜け出す準備を始めた。彼の心には、エリザベートへの疑念と共に、言いようのない不安と焦りが渦巻いていた。




