第10章:二人が描く未来の地図
エリザベートが農業大臣に就任してから、数年の歳月が流れた。
かつて「神に見捨てられた土地」と呼ばれた辺境のグラウ領は、今や王国で最も豊かで美しい土地へと変貌を遂げていた。
見渡す限りの緑の畑には、黄金色の麦の穂が波打ち、色とりどりの野菜や果物がたわわに実っている。村には活気があふれ、立派な家が建ち並び、子供たちの笑い声が絶えることはない。
エリザベートは、この地に王国初となる「王立農業学校」を設立した。彼女自身が初代学長となり、自らが培ってきた知識と技術を、未来を担う若者たちに直接教えている。学校には、貴族や平民といった身分の区別なく、国中から農業に情熱を持つ若者が集まってきた。彼らはここで最新の農法を学び、やがて故郷へ戻って、それぞれの土地の「緑の改革者」となるのだ。
彼女の執務室は、大臣の部屋というよりは研究室といった方が近かった。壁一面の本棚には国内外の農業に関する書物がぎっしりと並び、机の上には新しい品種の種や土壌のサンプルが置かれている。彼女は大臣として国全体の政策を監督しながらも、一人の研究者として土に触れることを決してやめなかった。
一方、アルベルトは、父王から王位を継承し、国王アルベルトとして国を治めていた。
彼は、エリザベートが築いた農業基盤の上に、様々な改革を打ち立てていった。安定した食料供給が可能になったことで、国民の生活は向上し、商業や文化も花開いた。彼はエリザベートの政策をさらに発展させ、国道の整備や新たな交易路の開拓を進め、王国を史上最も繁栄した時代へと導いた。
人々は、彼を「賢王アルベルト」と呼び、その治世を称えた。
二人は、公には国王と農業大臣という立場だった。しかし、私的な時間には、かつてのように「アルベルト」と「エリー」として、穏やかな時間を共に過ごすことがあった。
王都での公務を終えたアルベルトが、時折息抜きと称してグラウ領の農業学校を訪れるのだ。
「また新しい作物を試しているのか、エリー学長殿?」
麦わら帽子をかぶって畑にいるエリザベートに、アルベルトが軽口を叩く。
「あら、アルベルト国王陛下。ご自分で確かめてみてはいかがです? 新種のトマトですが、驚くほど甘いのですよ」
エリザベートが差し出した真っ赤なトマトを、アルベルトは豪快にかじる。
「うまい! これはまた、輸出の目玉商品になりそうだな」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は夕暮れの畑道を並んで歩く。
彼らは、夫婦ではない。恋人でもない。復縁の話は、あの日以来、一度も二人の口にのぼることはなかった。アルベルトは生涯独身を貫き、後継者には優秀な傍系の甥を指名していた。エリザベートもまた、結婚することなく、農業と研究にその生涯を捧げると決めていた。
周囲の者たちの中には、二人の関係を不思議に思う者もいた。なぜ、これほどまでに想い合っている二人が結ばれないのか、と。
しかし、二人にとっては、これが最良の形だった。
「私たちは、夫婦という小さな器には収まりきらなかったのですよ」
いつかエリザベートは、一番弟子の青年にそう言って笑ったことがある。
夫婦になれば、どちらかがどちらかに合わせなければならない場面が出てくる。エリザベートは王妃として王城に縛られ、アルベルトは夫として彼女を独占したくなるかもしれない。それでは、今の二人のような、国全体を視野に入れた大きな仕事はできなかっただろう。
彼らは、夫婦という枠を超えた、唯一無二のパートナーだった。
互いに自立し、それぞれの場所で全力を尽くしながら、同じ未来地図を描いている。
ある日、農業学校の丘の上で、二人は夕日を眺めていた。眼下には、自分たちが作り上げた豊かな大地が広がっている。
「見てくれ、エリー。我々が夢見た景色だ」
「ええ。でも、まだまだですよ、アルベルト。この地図には、もっとたくさんの未来を描き加えられます」
エリザベートがそう言うと、アルベルトは嬉しそうに笑った。
「違いない」
二人は、決して背中合わせにはならない。かといって、見つめ合うのでもない。
ただ、どこまでも並んで立ち、同じ方角――王国の輝かしい未来を見つめている。
夫婦ではない、特別な関係。それが、二人が選び取った、最高の幸福の形だった。




