第1章:追放令嬢、大地に立つ
登場人物紹介
◆エリザベート・フォン・クライネルト
本作の主人公。クライネルト公爵家の令嬢で元王太子妃。王太子アルベルトから一方的に離婚を告げられ、王都から遠く離れた辺境の地へ追放される。「高慢でわがままな悪役令嬢」と噂されていたが、その内には前世である日本の農業研究者としての記憶と知識を秘めている。冷静沈着で芯が強く、逆境にもめげない行動力の持ち主。
◆アルベルト・フォン・レグニツァ
レグニツァ王国の王太子。エリザベートの元夫。「政治的理由」からエリザベートとの離婚を決断するが、その裏には側近の策略があった。当初はエリザベートを悪女だと信じ込まされていたが、彼女が追放先で起こす奇跡を目の当たりにし、次第に自らの過ちと彼女の真価に気づいていく。真面目で責任感が強いが、若さゆえの過ちを犯すことも。
◆ハンス
辺境の村の村長。当初は貴族であるエリザベートを警戒していたが、自ら率先して畑仕事に励む彼女の姿に心を打たれ、最初の協力者となる。実直で温かい人柄。
◆ゲルトナー侯爵
アルベルトの側近の一人。エリザベートを追い落とし、自らの娘を王太子妃にしようと画策した策略家。本作における敵役。
「エリザベート・フォン・クライネルト。お前との婚約を破棄し、王太子妃の座を解任する。そして、我が王国辺境の地、グラウ領への追放を命じる!」
玉座の間。磨き上げられた大理石の床に、王太子アルベルト・フォン・レグニツァの声が冷たく響き渡った。彼の隣には、今にも泣き出しそうなか弱い少女――男爵令嬢のリーナが寄り添っている。いかにもな構図に、私は内心でため息をついた。
集まった貴族たちの視線が、針のように私に突き刺さる。侮蔑、嘲笑、そしてわずかな同情。誰もが「悪役令嬢エリザベートの末路だ」と囁き合っているのが聞こえる。私がリーナ嬢をいじめた、嫉妬に狂って彼女に害をなそうとした、と。すべて、根も葉もない噂だというのに。
「理由は、お前の度重なるリーナへの嫌がらせ、そして王太子妃としての品位に欠ける振る舞い。我が国の未来を鑑み、政治的判断として下した結論だ」
アルベルト様は、氷のように冷たい瞳で私を見下ろす。かつては優しく私の名を呼んだその唇が、今は私を断罪する言葉を紡いでいる。
「……謹んで、お受けいたします」
私は背筋を伸ばし、完璧なカーテシーと共に頭を下げた。予想外だったのだろう、アルベルト様が一瞬だけ目を見開いた。貴族たちも、私が泣き喚き、見苦しく取り乱すと思っていたのか、ざわめきが大きくなる。
(ああ、やっと解放される)
それが、私の偽らざる本心だった。
エリザベート・フォン・クライネルト。公爵令嬢として生まれ、物心ついた時から王太子妃となるべく教育されてきた。窮屈なドレス、息の詰まる作法、腹の探り合いばかりの社交界。そのすべてが、私には苦痛でしかなかった。
なぜなら、私には前世の記憶があるからだ。
日本の、とある大学で農業を研究していた、しがない研究員の記憶が。土にまみれ、作物の成長に一喜一憂し、より良い収穫を目指して論文と格闘する日々。そちらの方が、よほど私らしい生き方だった。
この世界に転生し、「エリザベート」として生きなければならないと悟った時、私は絶望した。だが、同時に決めてもいた。いつか必ず、自由を手に入れてみせると。だから、わざと「高慢でわがままな令嬢」を演じた部分もある。社交界での面倒な誘いを断るため、興味のない殿方の求婚を退けるため。その結果が「悪役令嬢」という評判なのだから、皮肉なものだ。
まあ、アルベルト様との婚約は国同士の約束。こればかりはどうにもならないと諦めていたが、まさか向こうから破棄してくれるとは。リーナ嬢を利用した誰かの策略なのだろうが、私にとっては好都合でしかない。
「馬車を用意してある。今すぐ王都を去れ」
「はい、アルベルト殿下。長きにわたり、お世話になりました」
私はもう一度、深く頭を下げた。殿下、と他人行儀に呼んだ私に、彼の眉がぴくりと動く。もはやあなた様の妃ではない、という意思表示だ。
振り返ることなく、私は玉座の間を後にした。背中に突き刺さる視線も、今は心地良い風のように感じられた。
数日後、揺れる馬車の中で窓の外を眺めていた。王都の華やかな街並みはとうに消え、緑豊かな田園風景も次第に寂しくなっていく。やがて、道は険しくなり、木々はまばらになり、乾いた風が吹き付ける荒涼とした大地が広がった。ここが、追放先のグラウ領らしい。
「ひどい土地だ……」
お付きの騎士が思わず呟く。彼の言う通りだった。土は赤茶けてパサパサに乾き、申し訳程度に生えている草も枯れかかっている。こんな場所で農業などできるのだろうか。
村に着くと、痩せた土地と同じように、人々もまた疲弊しきっていた。家は粗末で、畑にはろくな作物が育っていない。私たちを見る目は、警戒心と絶望に満ちていた。貴族が来たところで、重税を課されるだけだと思っているのだろう。
与えられた館は、かつて代官が使っていたという古びた屋敷だった。最低限の家具はあるが、掃除もろくにされておらず、埃っぽい。お付きの侍女は泣き出しそうだったが、私は構わなかった。
「皆さん、長旅ご苦労さまでした。今日はゆっくり休んでください」
そう言って侍女や騎士たちを下がらせ、私は一人、屋敷のバルコニーに出た。
眼下に広がるのは、どこまでも続く荒れ地と、貧しい村。夕日が、そのすべてを物悲しい赤色に染めている。
周囲から見れば、これは「悪役令嬢の末路」なのだろう。すべてを失い、見捨てられ、こんな不毛の地で朽ち果てていく運命。
けれど。
私の胸は、かつてないほどに高鳴っていた。
(痩せた土地、か……)
前世の知識が、頭の中で高速回転を始める。土壌分析、酸性度、アルカリ度、有機物の含有量、水はけ。この土地に必要なものは何か。どんな作物が適しているのか。改良の余地は、無限にある。
(貧しい農民たち……)
彼らは、正しい知識がないだけだ。輪作、堆肥、緑肥、灌漑。私の知識を伝えれば、彼らの生活は必ず豊かになる。この土地は、きっと変わる。
「ここを変えてみせる」
私は、乾いた風に向かって強く呟いた。
ざまぁ? 没落? とんでもない。
ここからが、私の本当の人生の始まりだ。
エリザベート・フォン・クライネルトではなく、一人の農業研究者としての、最高の舞台が。
私は拳を握りしめ、眼下の荒れ地を睨みつけた。その瞳には、絶望ではなく、燃えるような希望と決意の光が宿っていた。




