第7話 鏡の消失と絶体絶命
雨が上がった翌朝、王宮の空気は妙に澄んでいた。澄みすぎていて、逆に不吉だった。
私は昨夜ほとんど眠れなかった。長椅子で目を閉じていたギルバートの気配が、ずっと部屋に残っていたからだ。守られている安心より、逃げ場を測られている息苦しさのほうが勝つ。
――考えすぎ。
そう言い聞かせて、いつもの手順で鏡を取り出した。
枕の下。布包み。指先で結び目を解く。
鏡面は冷たく、何の変哲もない銀色の板に見える。けれど私は知っている。これが未来を映す。私の命綱だ。
私は息を整え、覗き込んだ。
……何も起きない。
曇らない。揺らがない。
私の顔が、ただ映るだけ。
「……え?」
もう一度。
鏡に指を当て、魔法が動く感覚を探す。いつもなら、皮膚の下が微かに痺れるみたいな、嫌な感触があるのに。
今日はない。
「……嘘、でしょ」
背筋が冷え、胃が沈む。
こんなことは初めてだ。的中率は百に近かった。私は鏡の“機嫌”に合わせるように、夜の静けさで覗き込むようにしてきた。なのに。
扉が叩かれる。
「姫殿下。朝の支度を」
リネットの声。私は返事ができず、鏡を見つめたまま固まった。
未来が見えない。
それはつまり――私の優位が消えるということ。
毒未遂も、炊き出しも、王子の求婚も。私は断片の未来から逆算して、最適解を選んできた。鏡がなければ、私はただの“評判の悪い王女”に戻る。運が悪ければ、処刑の未来だって戻る。
私は拳を握り、無理やり声を出した。
「……入って」
リネットが侍女を連れて入ってくる。支度の道具が並べられ、普段なら単なる雑音のはずの動きが、やけに大きく感じる。
「姫様、顔色が……」
「平気よ。昨夜眠れなかっただけ」
嘘。嘘は上手くなった。
私は鏡を布で包み、机の引き出しの奥へ押し込む。何も映らない鏡を見せたくなかった。見せた瞬間、私は弱みを晒す。
支度を終え、私は謁見の予定を確認した。今日は王弟が来る。父王の弟。私に優しい言葉をかけながら、目だけがいつも冷たい男。
――あの男。
毒の糸も、近衛の犬も、そこへ繋がっている。なら、鏡が動かなくなったのも。
嫌な予感が、確信に変わりかけた時だった。
部屋の扉が開き、侍従長が青い顔で飛び込んできた。
「姫殿下……! お部屋に、侵入の形跡が……!」
「侵入?」
「窓の鍵が一度外され、また戻されています。今朝の見回りで……」
私は即座に立ち上がった。心臓が強く鳴る。窓の鍵は昨夜確かめたはずだ。ギルバートもいた。なのに。
背後から、低い声がした。
「昨夜、風向きが変わった。匂いが……薄い」
ギルバートだ。いつの間にか部屋の隅に立っている。彼の視線が窓へ刺さり、次に床へ落ちる。痕跡を読む目だ。
「侵入者は、訓練されてる」
「あなたがいたのに?」
言った瞬間、自分の声に棘が混じるのが分かった。責めたくないのに、責める言葉が出る。鏡が動かない恐怖が、私の余裕を削っている。
ギルバートは反論しなかった。表情も変えない。ただ、淡々と言う。
「姫殿下が傷つかなかった。それが結果です」
結果。
結果だけが大事。そう言って、他のことを全部切り捨てる人間の声。
私は息を整えた。
「……私の部屋から何かなくなってる?」
侍従長が首を振る。
「目立った盗難は……」
私は引き出しの奥を開けた。布包みを掴む。
指が震える。ほどけ。ほどけ、と命令するみたいに結び目を乱暴に解いた。
鏡が出てくる。
――割れていた。
蜘蛛の巣みたいな亀裂が全面に走り、中心から砕けたように欠けている。鏡面はもう私を映さない。歪んだ断片が、光をバラバラに反射するだけ。
「……っ」
喉が鳴った。息が吸えない。
未来が、砕けた。
私は膝から力が抜け、椅子に手をついた。視界が白くなる。鏡がない。予知がない。逆算ができない。次に来る毒も刃も、見えない。
――どうする。
――どう生きる。
頭の中で、処刑台の刃の音が再生される。鏡が見せた最悪の未来が、また現実として迫ってくる気がした。
「姫様……!」
リネットが泣きそうな声を出す。侍従長も唇を噛む。
私は鏡の破片を握りしめた。鋭い縁が掌に食い込み、血が滲む。痛みが現実を引き戻してくれる。現実に戻らなければ、死ぬ。
ギルバートが私の手首を掴んだ。
「離せ」
「……離しなさい」
「切れる」
「切れてるわよ」
私の声は自分でも驚くほど掠れていた。
ギルバートは乱暴に見えて、しかし丁寧に私の指を開かせた。破片を取り上げ、布で包む。血が布に染む。
彼の手が、私の掌に布を押し当てる。圧が強い。止血の圧だ。けれどそれは、同時に逃げられない圧でもある。
「誰がやったの」
私が絞り出すと、ギルバートは即答した。
「王弟」
断言。
迷いがない。
「証拠は」
「証拠はいくらでも作れるが、今は必要ない」
その言い方に背筋が冷えた。作れる。暗殺者の言葉はいつも正確で残酷だ。
侍従長が震える。
「そ、そんな……王弟殿下が姫殿下を害するなど……!」
私は笑いそうになった。乾いた笑いが出そうになって、出なかった。
「害するわよ。私が邪魔になったんでしょう」
炊き出しで評価が上がった。王子の求婚を断った。毒未遂を公にした。
王宮の盤面で、私は“動く駒”になった。動く駒は嫌われる。動かない駒のほうが扱いやすい。
私は深呼吸をした。
泣くな。怒るな。取り乱すな。
取り乱した瞬間、敵は勝つ。
「侍従長。父上に伝えて。私室が荒らされた。鏡が壊された。王弟の関与を疑う、と」
侍従長が顔を上げる。
「姫殿下、それは……!」
「言い方は選ぶわ。断定はしない。でも、牽制はする」
私は立ち上がろうとして、足が僅かにふらついた。
未来がない。足元の地面が消えたみたいに不安定だ。
ギルバートが私の腰に手を添えた。支えるふりをして、距離を奪う手。
「触らないで」
私が小さく言うと、彼の手が止まる。止まるけれど、離れない。
「倒れる」
「倒れない」
「倒れたら、俺が困る」
困る。
打算の言葉に見せかけて、私だけが意味を知っている。彼の“困る”は、私の自由が減る方向に働く。
私は無理やり姿勢を正した。
「……ギルバート。あなたは、これからが本番よ。鏡がないんだから」
ギルバートは私を見下ろした。灰色の瞳は、いつもより静かだった。嵐の前の海みたいな静けさ。
「本番は、最初からでした」
「強がりね」
「強がってない」
彼は淡々と言う。
「姫殿下。未来が見えようが見えまいが、俺は変わらない」
その言葉が、なぜか怖かった。
変わらない、というのは救いにもなる。けれど、鎖にもなる。
私が言い返そうとした時、廊下がざわめいた。侍女が駆けてくる音。扉が開き、ミレーヌが息を切らして入ってきた。
「姫殿下……! 王弟殿下が……これを……!」
彼女が差し出したのは、小さな封書。蝋印は王家のものではない。王弟の私印だ。
私は指先で封を切った。中には紙が一枚。
短い文。丁寧な言葉。毒のように甘い。
――「姪よ。最近のお前は、随分と賢くなった。だが賢さは、時に身を滅ぼす。大人しくしていなさい。そうでなければ、次に壊れるのは鏡では済まない」
私は紙を握りつぶした。
鏡を壊したことを、ほとんど認めている。
呼吸が早くなる。
未来が見えない恐怖と、見えない未来を作られる怒りが、胸の中で絡み合う。
「……脅しね」
声が震えた。悔しい。震えるのが悔しい。
ギルバートが紙屑を見て、静かに言う。
「殺しますか」
あまりにも自然な提案。
一歩間違えれば、その提案に縋りたくなる。敵を消せば楽になる。未来の不確定が減る。私の生存率が上がる。
でも、それは私が目指した生存ではない。
私が欲しいのは、首が繋がった牢獄じゃない。
「殺さない」
私は即答した。即答しないと、揺らぐ。
「王弟を殺せば、王宮が割れる。父上の権威が揺らぐ。民も貴族も疑心暗鬼になる。革命の火種を自分で作るだけ」
ギルバートは表情を変えない。
「では、姫殿下が死にます」
「……死なない」
言った瞬間、声が弱くなるのが分かった。鏡がない。断言の根拠がない。
その揺らぎを、ギルバートは見逃さない。
彼が一歩近づき、私の肩を掴んだ。強い手。逃げ道を塞ぐ手。
「姫殿下」
「なに」
「震えてる」
私は唇を噛んだ。
「震えてない」
「震えてる」
同じ言葉を、今度は彼が繰り返す。第5話のときみたいに。論点ではなく、痛みの繰り返し。
「未来が見えないのが怖い?」
私は答えなかった。
答えたら、弱さを渡す。渡したら、彼はそれを守る名目で囲う。
ギルバートの手が、肩から背へ回る。抱きしめる動き。
私は反射で拒もうとして――拒めなかった。
抱きしめられた瞬間、雨の日の体温が蘇る。血の匂い。湿った布。熱。
そしてそれが、今は私の呼吸を整えてしまう。
悔しい。
悔しいのに、身体が言うことを聞かない。
ギルバートが耳元で囁いた。
「未来など関係ない」
言葉が、背骨を這う。
「……関係あるわ」
私が絞り出すと、彼は即座に返す。
「関係ない。俺が全部斬り伏せる」
その断言が怖い。
未来が見えないからこそ、彼の断言は甘い毒になる。頼れば楽になる。頼れば、鎖になる。
私は彼の胸を押し、無理やり距離を作った。完全には離れられない。彼の手が私の腕を掴んでいるから。
「斬り伏せる、なんて言わないで」
「なら、どう言えばいい」
「……私を守る。それだけ」
ギルバートは私を見つめた。灰色の瞳が、まるで答えを選別している。
やがて、低く言った。
「姫殿下を守る」
短い。
けれど、その短さが、彼の中の獣を隠す布にしか見えなくて、私は背中が冷えた。
「姫殿下」
「なに」
「鏡がなくても、姫殿下は勝てる」
根拠のない励ましなら要らない。
でも、彼の声には根拠があった。私が積んだ行動。炊き出し。毒未遂の公表。王子の拒絶。
盤面は動いている。鏡だけがすべてではない。
私は目を伏せ、血の滲んだ掌を見た。
未来を失った手。
その手で、まだ駒は動かせるのか。
「……勝つわ」
言ってしまった。誓いのように。
ギルバートの目が、ほんの僅かに柔らかくなる。
「なら」
彼が一歩近づき、今度は命令ではなく、提案の形で言った。
「俺を使ってください。姫殿下の知略は、鏡の代わりになる。俺の刃は、その補助になる」
補助。
言葉は控えめなのに、実態は違う。刃は補助ではない。補助が主を呑み込むことがある。
私は息を吐き、頷いた。
「……分かった。でも、条件がある」
ギルバートの眉が微かに動く。
「命令ですか」
「ええ。命令よ」
私は彼を見上げ、はっきり言った。
「私の許可なく、勝手に殺さない。勝手に鍵を持たない。勝手に私を囲わない」
部屋の空気が、薄くなる。
ギルバートの沈黙が長い。
拒否されるかもしれない。
拒否されれば、私は今ここで、鏡と一緒に折れる。
やがて彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知しました」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
けれど同時に、別の不安が生まれる。
承知しました。
それは従う言葉だ。従う言葉は、破る準備にもなる。
私は鏡の布包みを握りしめた。割れた鏡は重い。未来の重さが、そのまま残骸になったみたいに。
鏡はもう何も映さない。
でも、私はまだ生きている。
そして――生きている限り、敵も味方も動く。
未来が見えないなら、私が未来を作るしかない。
隣で、ギルバートの気配がさらに濃くなる。
守ると言った影が、私の背後にぴったり張りつく。
鏡を失った絶体絶命の朝。
私は悟る。
本当の地獄は、予知の消失そのものじゃない。
予知がない世界で、私が頼れる唯一の刃が――私を逃がす気がないことだ。




