第6話 雨の日の誓い
雨が降っていた。
王都の石畳は黒く濡れ、馬車の轍に溜まった水が街灯の光を歪める。夜会の熱はとうに冷めたのに、王宮の中はまだざわついていた。隣国の王子リオネルが残した言葉が、香水みたいに廊下に染みついて離れない。
私は私室の窓辺に立ち、雨の線を目で追っていた。
鏡は開かない。開けば、また“別の絶望”が映る気がして。
背後で扉が静かに開く。
「姫殿下」
ギルバートの声。いつもと同じ低さ、同じ落ち着き。なのに、音の底にほんの僅かな乱れがある。私は振り返り――そこで、息を止めた。
彼の肩口が濡れている。雨だけではない。暗い赤が布に滲み、礼装の黒をさらに重く染めていた。
「……何、それ」
「少し掠っただけです」
掠っただけ。そう言う声ほど信用できない。私は彼の足元を見る。水滴が落ちている。雨と、血と。
「誰に」
「影が一つ。城門の外で」
彼は短く答え、壁にもたれた。ほんの一瞬、体重が抜ける。その瞬間だけ、暗殺者ではなく“負傷者”だった。
私はすぐに決めた。迷っている時間はない。未来を変えるのは、いつだって最短の判断だ。
「リネットを呼ぶ。医師も」
「呼ぶな」
ギルバートが即座に止めた。強い否定。痛みを隠すためではなく、別の理由だ。
「医師は口が多い。噂が増える。刺客がいることがバレる」
「もうバレてるわよ。あなた、血を垂らしてる」
「それでも」
彼は唇を薄く結ぶ。守るための理屈。正しい。正しすぎる。
私は一歩近づき、彼の襟元を掴んだ。
「黙りなさい」
王女の命令の声。
彼の瞳が僅かに揺れ、反射で抵抗しかけ――止まる。命令に従う訓練が、私の“教育”の成果として働く。
私はギルバートを椅子に座らせ、外套を剥ぎ取った。布が肌に貼りつく感触に、彼の喉が小さく鳴る。
「……姫殿下、手が汚れます」
「私の手は元々綺麗じゃないわ」
口から出たのは、皮肉だった。
でも本当は、綺麗なままでいられないと知っている。生き残るなら、どこかで必ず血に触れる。
私は机の引き出しから消毒用の酒と布を引っ張り出す。王女の部屋には大抵、こういう物がある。毒殺を心配する家系だから。
肩口の布を裂くと、傷が見えた。刃が入ったのは浅い。だが、その浅さが怖い。浅い傷は油断させる。油断が死ぬ。
「……本当に掠っただけね」
「言ったでしょう」
ギルバートはいつもの調子に戻そうとしている。私はそれを許さない。許したら、彼はまた一人で血を飲み込む。
私は酒を布に染み込ませ、傷口を拭った。ギルバートの肩が微かに強張る。痛みに耐える癖。歯を食いしばる癖。
「誰が来たの」
「分からない。腕は悪くない」
「王弟?」
ギルバートの瞳が、少しだけ鋭くなる。
「可能性は高い。ローデリクが消えた後、動きが増えた」
私は布を替えながら考える。毒、王子、刺客。点が線になっていく。敵は、私が変わり始めたことを察している。だから刺す。早い段階で。
「ねえ、ギルバート」
私は傷口に新しい布を当て、包帯を巻き始めた。手つきが慣れていないのが腹立たしい。王女は包帯を巻うべきではない。けれど、今は私がやる。意味があるから。
「あなたが倒れたら、私は死ぬわ」
ギルバートが小さく笑った。
「姫殿下は大げさだ」
「大げさにするの。現実は、いつだって大げさより残酷だから」
包帯を結んだ瞬間、彼の体がわずかに揺れた。汗が額に浮いている。痛みと出血と、雨の冷え。ここで眠らせたら危ない。
私は彼の顎を掴み、顔を上げさせた。
「見て」
灰色の瞳が私を捉える。近い。近すぎる。
鏡が映した“甘い囁き”が、背中を冷たく撫でる。
「姫殿下」
彼の声が低く震える。痛みのせいか、それとも別の何かか。
「あなたは私の盾。刃。……そして、今は患者」
私は言葉を選ぶ。甘さを与えすぎない。与えれば、彼はもっと欲しがる。欲しがった先が、鎖だ。
「休みなさい。ここで」
「ここで?」
「私の部屋で。雨がひどい。廊下で倒れたら面倒でしょう」
面倒。打算。そう言えば、彼は過剰に意味を取らない――はずだった。
ギルバートは黙ったまま、私の手首に視線を落とす。
そこには何もない。鎖も痕も。
でも彼の目は、そこに“印”を探しているみたいだった。
外で雷が鳴った。窓が一瞬白く光る。
その光に合わせて、ギルバートの表情が変わった。いつもの冷たさが剥がれ、底にあった感情が露わになる。
「姫殿下」
「なに」
「怖かった」
言葉が落ちた。
暗殺者の口から出るには、あまりに素直で、あまりに危険な言葉。
「俺が刺されたのが、じゃない」
彼は喉を鳴らし、続ける。
「姫殿下に刃が届く可能性があった。それが――腹の底から、嫌だった」
嫌。
それは、護衛の言葉ではない。
鏡が映した未来の匂いがする。
私は一歩引きたかった。でも引かない。引けば、彼は追う。追わせない。私は主導権を握る。
「だから、もっと周囲を洗う。王弟の動きも、リオネルの動きも」
「違う」
ギルバートが、私の言葉を切った。
「策略じゃ足りない時が来る」
私は眉をひそめる。
「何が言いたいの」
ギルバートは、ゆっくりと立ち上がった。負傷しているのに、立つ。それだけで意思が分かる。彼は痛みより強い何かに引っ張られている。
彼が近づき、私の前で膝をつく。
騎士の礼。忠誠の形。
けれど、空気は礼儀ではなかった。
「誓います」
彼は私の手を取り、指先に口づけようとして――直前で止めた。私が嫌がると知っているから。知っているのに、欲が消えていないから。
「俺は、姫殿下を守る」
それはもう聞いた。
けれど彼は、そこで終わらなかった。
「誰にも渡さない」
胸の奥が、冷たく締まった。
「ギルバート」
「死すらも」
彼は淡々と言った。淡々としているのが怖い。熱がないのではない。熱が、体の奥で圧縮されている。
「死すら、姫殿下を奪えない。俺が奪わせない」
私は息を呑んだ。
鏡の中の鎖。囁き。逃げるな。
全部が一つの線に繋がってしまう。
「それは守るじゃない。監禁よ」
私が言うと、ギルバートの目が一瞬だけ細くなる。怒りではない。理解した、という目だ。私が何を恐れているかを、彼はもう嗅ぎ取っている。
「監禁しません」
即答。
そして、同じ口で言う。
「姫殿下が望まないなら」
また条件。
条件付きの優しさは、刃より鋭い。
私は彼の頬に触れそうになって、やめた。触れたら、彼はそれを“許可”にする。
代わりに、私は命令の形で距離を作る。
「なら、言葉を変えなさい。私を守る。そこまで」
ギルバートは黙った。
雨の音が、沈黙を埋める。
やがて彼は、ほんの僅かに首を垂れた。
「……分かりました。姫殿下を守る」
言葉は短くなった。
でも、瞳の奥は短くならない。
私は彼の肩に手を置き、傷に触れないように押し戻した。
「休みなさい。倒れたら本当に面倒よ」
「面倒」
彼が小さく繰り返す。
その声に、妙な笑いが混じる。
「姫殿下は、優しいな」
「優しくない。計算よ」
私は即座に訂正した。訂正することで、自分にも言い聞かせる。
私は救済者じゃない。生存者だ。生き残るために、彼を必要としているだけ。
ギルバートは立ち上がり、私が指した長椅子に腰を下ろした。背もたれに頭を預け、目を閉じる。
その横顔は、雨に濡れた獣みたいに静かだ。
私は燭台の火を少し落とし、窓の鍵を確かめた。
扉にも鍵。いつもより丁寧に。
振り返ると、ギルバートが目を開けていた。
「姫殿下」
「なに」
「今夜、姫殿下が眠るまで起きてます」
「いらないわ」
「必要です」
必要。
その言葉の重さが、胸に落ちる。
私は言い返したかったのに、喉が動かなかった。
代わりに、できるだけ平坦に言う。
「……好きにしなさい。ただし、私の許可なく扉は開けないで」
ギルバートの口角が、ほんの僅かに上がる。
「命令、承りました」
雨が強くなる。
王宮の外は冷たく濡れているのに、私の部屋だけは奇妙に息苦しい。
私は寝台に腰掛け、布団を整えるふりをした。
鏡は枕の下で、黙ったまま重い。
生き延びるために拾った暗殺者が、傷つき、誓いを立てた。
その誓いは、盾になる。
同時に――檻にもなる。
燭台の火が揺れる。
その揺れの中で、ギルバートの声が、もう一度だけ落ちた。
「姫殿下。俺は、絶対に失敗しない」
失敗。
それは刺客を逃がさないという意味か。
それとも――私を逃がさないという意味か。
答えを確かめる勇気は、今の私にはなかった。




