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断頭台(ギロチン)を回避したはずが、処刑人(騎士)の執着から逃げられません  作者: 綾瀬蒼


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第5話 夜会と暗殺者の嫉妬

 王宮の大広間が夜会の灯りで満ちると、昼間の陰鬱は嘘みたいに薄れた。


 シャンデリアの光が金糸を撫で、楽団の音が笑い声に溶ける。香水と葡萄酒の甘い匂い。

 貴族たちの会話は、いつも通りだ。


 ――いつも通りに見せる。

 それが王宮という怪物の呼吸だった。


 私は鏡を開くのを我慢した。今ここで覗けば、顔色が変わる。変われば、相手はそこを刺す。

 だから私は、王女として微笑む。悪女の仮面を、磨き上げたまま被る。


「姫殿下、本日の主役であらせられます」


 侍女長ミレーヌが、薄い声で囁いた。毒未遂の傷はまだ喉元に薄く残っている。彼女は死なずに済んだ代わりに、私の命令に逆らえなくなった。


「主役? 私が?」


「隣国の第一王子殿下が……姫殿下にご挨拶を」


 隣国。第一王子。

 その言葉だけで、背中の皮膚が薄くなる。


 私は横目で、柱の影に立つギルバートを見た。礼装を整えた姿でも、彼の輪郭は戦場のままだ。目が人を数え、出口を測り、刃の気配を嗅いでいる。


 その視線が、ひどく鋭く私へ刺さっていることにも、気づいていた。


「……来たのね」


 遠くから、ざわめきが波のように寄せてくる。

 人の群れが割れる。拍手と囁きが交錯する。


 現れたのは、背の高い青年だった。淡い金の髪。整いすぎた笑顔。装飾の多い軍服。

 その隣に従者が並び、まるで舞台の役者みたいに歩く。


 彼は私の前で立ち止まり、優雅に頭を下げた。


「王女アリアーヌ殿下。お初にお目にかかります。隣国ラグナールの第一王子、リオネルと申します」


 リオネル。

 名は初めて聞く。けれど顔は、鏡の断片で見たことがある。


 鏡が見せたのは、火。黒い旗。王都の門。

 そして、王家の印章を持って笑う男――この男の横顔だった。


 私は微笑みを崩さず、扇を胸元に当てた。


「ようこそ、我が国へ。遠路はるばる、ご苦労さま」


「殿下にこうしてお会いできたことが、何よりの栄誉です」


 王子は言葉を滑らかに紡ぐ。誰もが聞きたいことを、誰もが信じたい声で言う。

 信用してはいけない種類の人間だ。


 彼は私の手を取ろうとした。舞踏への誘いの所作。

 その瞬間、空気が一度だけ重くなった。


 ギルバートが、半歩前に出たのだ。

 ほんの半歩。礼儀の範囲で、しかし明確に距離を奪う動き。


 王子の指先が空を掴み、動きが止まる。


「……失礼。そちらは?」


「姫殿下の専属騎士、ギルバート」


 私が答えるより先に、ギルバートが名乗った。

 声音は平坦。だが、その平坦さの底に、刃が眠っている。


 王子は一瞬だけ目を細め、それを笑みに変えた。


「専属騎士、ですか。王女殿下は随分と大胆なお方だ」


 私は扇で口元を隠し、軽く笑った。


「大胆でなければ、この王宮では生き残れませんもの」


 王子の目が、楽しげに光った。


「その強さに惹かれました。王女殿下。実は私は――」


 周囲の貴族たちが息を呑むのが分かる。

 誰もが察している。次に来る言葉を。


「殿下を、我が国へ迎えたい」


 求婚。

 あまりに早い。あまりに都合がいい。


 父王の側近たちがざわめく。宰相が口角を上げるのが見えた。王家にとって政略結婚は利益だ。民の評価を上書きし始めた私を、外へ出してしまうのは都合がいい。


 けれど鏡は知っている。

 この王子は、いずれ我が国を裏切る。

 そして私を「逃げ場のない形」で追い詰める。


 私は微笑みを深くしながら、言った。


「光栄ですわ」


 王子が勝ちを確信したように微笑む。

 その笑みが完成する前に、私は続けた。


「――ですが、お断りします」


 大広間が凍った。


 音楽が続いているのに、音が遠い。

 周囲の貴族たちの顔が固まる。宰相の口角が引きつる。父王が驚きの目を向ける。


 王子だけは、笑みを崩さないまま、少しだけ首を傾げた。


「理由を伺っても?」


「まだ、結婚を考える年ではありませんもの」


「殿下、年齢を理由にするには――」


「それとも、国を理由にしましょうか?」


 私は扇を閉じ、王子をまっすぐ見た。


「隣国に嫁げば、私はこの国の民を見捨てたことになる。炊き出しをした王女が、都合よく逃げたと笑われる。私はそれが嫌ですの」


 王子は、私の言葉の穴を探るように目を動かした。

 そして、優しく言う。


「殿下は民思いでいらっしゃる。ですが、私の国でも殿下は民に愛されます。殿下の慈悲は――」


「慈悲ではありません」


 私は遮った。柔らかく、しかし断ち切る声で。


「私がしたのは、私の国を守るための計算です。あなたが欲しがっているのは『慈悲深い姫』ではなく、『利用価値のある王女』でしょう?」


 王子の瞳が、一瞬だけ冷たくなる。

 それを隠すのも早い。だからこそ厄介だ。


「……手厳しい」


「悪女ですもの」


 私は微笑む。

 わざと、仮面を強調する。聖女と呼ばれ始めた今だからこそ、悪女の刃を見せて均衡を取る。

 王宮は甘い噂だけでは回らない。毒と蜜の両方が必要だ。


 王子は小さく息を吐き、手を胸に当てた。


「分かりました。では、今夜は求婚ではなく――踊りだけでも」


 そう言って、再び私の手へ。


 次の瞬間。


 ギルバートの手が私の腰を引いた。

 強引ではない。けれど、拒否を許さない力。私の身体が半歩、彼の側へ移動する。


「姫殿下はお疲れです」


 ギルバートが言った。


「踊る必要はありません」


 王子が笑う。


「騎士殿、姫君の意思は姫君のものです。あなたが決めることではない」


「姫殿下の安全は俺が決める」


 ギルバートの声が、少しだけ低くなる。

 周囲の貴族たちがざわめく。無礼だ、と。恐ろしい、と。


 私は、ここで彼を止めるべきだと理解していた。

 止めなければ、彼は「縛らない」と言った誓いを破る側に傾く。鏡の鎖へ近づく。


 だから私は、ギルバートの腕に軽く触れた。合図。

 彼は一瞬だけ固まり、私を見る。


「……殿下」


「踊るわ」


 私は王子に微笑み、言った。


「一曲だけ」


 ギルバートの瞳が揺れる。

 それは怒りではなく――不快。いや、もっと直截に言えば、嫉妬の色。


 王子が満足げに私の手を取ろうとした、その瞬間。


 私が差し出したのは、右手ではなく左手だった。

 左手には、指輪がない。王家の儀礼では右手が“許可”に近い。左は“形式”。私は形式だけ渡す。


 王子は気づかないふりをして、手の甲に口づける。


「光栄です、殿下」


 楽団が曲を変える。人々が輪を作り、中央に空間が生まれる。

 私と王子がその中へ入る。


 踊り始めた瞬間、王子は私の耳元で囁いた。


「殿下は、噂以上に魅力的だ。悪女の仮面の下に、牙がある」


「牙がなければ、噛まれて終わるだけですもの」


「噛むのは、好きですか?」


 私は笑って流す。


「どうかしら。相手によりますわ」


 王子の手が、腰に触れる位置を僅かに深くする。

 触れ方が上手い。拒めないぎりぎりを攻める。政治家の指だ。


 私は、足運びを一つだけ速め、距離を戻した。

 微笑みは保ち、距離だけ拒む。王宮の会話と同じ。


「殿下の騎士は、随分と熱心ですね」


 王子が言う。視線が、円の外に立つギルバートへ向く。

 ギルバートは動かない。動かないのに、殺気だけが揺れている。


「忠実なのよ」


 私が答えると、王子は楽しげに笑う。


「忠実? あれは忠実ではない。あれは――」


 言いかけて、王子は言葉を選び直す。


「……執着だ」


 私は、足を踏み外しそうになった。

 鏡の未来。鎖。甘い囁き。

 王子の言葉が、その未来に触れる針みたいに刺さる。


「そんなもの、ありえませんわ」


 私は軽く返した。笑顔のまま。

 否定は早すぎると疑われる。だから、軽く。


「騎士は主を守るものですもの」


 王子は首を傾げる。


「では、主が他の男の手を取ったら?」


「それでも守るでしょう」


「……本当に?」


 王子の声に、ほんの少しだけ試す色が混じった。


 私は答えず、曲の終わりに合わせて一礼した。

 言葉で勝つ必要はない。必要なのは、王子に“深入りさせない”こと。


 拍手が起こる。王子が私の手を放し、優雅に頭を下げる。


「今夜は引きましょう。ですが、殿下。私は諦めません」


「ご自由に」


 私は微笑みを返し、輪の外へ出た。


 その瞬間、空気が鋭くなる。

 ギルバートが近づいてくる。歩幅が早い。音がないのに、圧だけがある。


「姫殿下」


「なに」


「触られた」


「舞踏よ」


「触られた」


 同じ言葉を繰り返す。

 それが、彼にとって“論点”ではなく“痛み”なのだと分かる。


 私は扇を開き、顔を隠した。


「あなた、まるで恋人みたいなことを言うのね」


 冗談の形にして、刃を丸める。

 彼の感情の奔流を、王女の言葉で堰き止める。


 ギルバートの瞳が、濃くなる。


「恋人なら、もっと早く殺してます」


 冗談では返ってこなかった。

 私は背筋が冷えるのに、表情を崩せない。


「……物騒な愛ね」


「物騒じゃない愛が、姫殿下を守れると思いますか」


 彼の声が低い。低すぎて、他人には届かない。私の耳にだけ刺さる。


「姫殿下。あの男は危ない」


「分かってるわ」


「なら、近づくな」


 命令。

 騎士の言葉ではない。所有者の言葉だ。


 私は扇を閉じ、ギルバートを見上げた。

 ここで引けば、鏡の鎖に一歩近づく。

 ここで押せば、彼は爆発する。


 だから私は、真ん中を選ぶ。

 彼の刃を鈍らせず、私の首輪も渡さない。


「近づかない。でも――外交の場で、私は王女として動く」


 ギルバートの喉が動く。


「王女でも、俺の主だ」


「そうよ。主だから、私が決める」


 一瞬、ギルバートの瞳が危険なほど暗くなった。

 殺意ではない。もっと厄介な、押し潰すような静けさ。


 彼はゆっくりと頭を下げた。礼儀の形。

 けれど、その言葉は礼儀ではなかった。


「……承知しました。姫殿下が決めるなら」


 顔を上げた彼が、私だけに聞こえる声で続ける。


「ただし、姫殿下を奪おうとするなら――誰であっても殺します」


 私は息を止めた。

 王子が敵だと鏡が告げている。だから排除すべき。

 けれど排除の手段が、ギルバートの“私情”に染まっていくのは危険だ。


 私は、軽く笑ってみせた。


「頼もしいわね」


 頼もしい、と言えば、彼は報われた顔をする。

 そう思ったのに。


 ギルバートは笑わなかった。

 ただ、私の手首を見た。そこに鎖の跡があるか確かめるみたいに。


「姫殿下」


「なに」


「今日は、部屋の鍵を俺が預かります」


 血が冷える。


「……どうして?」


「夜会は人が多い。毒も刃も紛れる」


 理由は正しい。正しすぎる。

 正しい理由ほど、鎖に変わりやすい。


 私は即答できなかった。

 その沈黙を、彼は“許可”と取りかける。


 ギルバートの指先が、私の掌に鍵を落とした。

 落としたのは“預かる鍵”ではない。私室の鍵ではなく――彼の部屋の鍵。


「姫殿下が預かってください」


 私は瞬きした。


「……は?」


「俺が鍵を持つと、姫殿下は嫌がる」


 分かっているのに、やめない。

 だから、形だけは私に渡す。

 形だけで、実質は彼が守る。


 私は鍵を握りしめた。冷たい金属が掌に食い込む。

 鏡の未来の鎖の冷たさに、よく似ている。


 ギルバートが低く囁く。


「逃げ道は残します。姫殿下が望むなら、いつでも俺を捨てられる」


 言葉は優しい。

 でも、その優しさがいちばん怖い。


 ――捨てられる。

 捨てられるのに、捨てられないように囲い込む。

 それが、彼のやり方だ。


 私は鍵を握ったまま、笑った。


「ええ。覚えておくわ」


 覚えておく。

 それは、彼の愛から逃げるための武器にもなるし、彼を縛る鎖にもなる。


 夜会の灯りの下で、私は確信した。

 隣国の王子は未来の敵。排除すべき駒。

 けれど、今いちばん私を追い詰めているのは――敵ではない。


 私の背後に立つ、忠実すぎる騎士だ。


 そして鏡はきっと、次にこう映す。

 革命の刃ではなく、守ると言った手が――私を逃がさない未来を。


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