第4話 鏡が映す「別の絶望」
炊き出しの翌日から、王宮の視線はさらに露骨になった。
「姫殿下が民に粥を……」
「奇跡だ」
「いや、裏がある」
「でも、倉庫の腐敗を当てたのは事実だ」
囁きは毒にも薬にもなる。私はそれを噛み砕いて飲み込んだ。
問題は別にある。
鏡だ。
私は毎晩、扉に鍵をかけ、寝台の上に鏡を置き、息を殺して覗き込む。
処刑の未来が消えたかどうか、それを確かめるために。
ギルバートを拾った。毒を未遂にした。炊き出しで民の暴動を潰した。
「破滅のトリガー」を一つずつ折っている。なら――未来は変わるはず。
その夜。
鏡の表面が、ふ、と曇った。
灰色の空。広場。断頭台。罵声。
見慣れた最悪が来る――と身構えた、次の瞬間。
映ったのは、私の部屋だった。
天蓋付きの寝台。薄闇。揺れる燭台。
けれど、空気が違う。甘い香の匂いが濃すぎて、息が詰まるような――閉じ込められた匂い。
私は寝台に座っている。手首には細い鎖。鎖の先は寝台の柱に繋がれている。
そして、膝元に跪く男。
漆黒の髪。灰色の瞳。
ギルバート。
「……は?」
声が出ない。喉が固まる。
鏡の中の私は、恐怖で固まっているのに、頬が赤い。怒りと羞恥と、混乱が混ざっている。
ギルバートが私の手首の鎖に口づけ、低い声で囁く。
『生き延びましたね、姫殿下』
その声は優しい。優しすぎて、背筋が凍る。
『だから、もう逃げなくていい。俺から』
私は鏡を落としかけた。
割れる音がする前に、両手で抱え込む。心臓が暴れて、肋骨を叩く。
――処刑は消えた。
確かに消えた。
その代わりに、もっと意味の分からない地獄が来た。
「……何よ、これ」
私が目指したのは、生存。
なのに、生きているだけで檻の中なんて、冗談じゃない。
扉の外で足音がした。私は慌てて鏡を布で包み、枕の下へ押し込む。
「姫殿下」
低い声。
扉の向こうの影が揺れる。鍵を開ける音はしない。私は鍵をかけたままだ。つまり――彼は、許可を待っている。
私は深呼吸し、声の調子を整えた。
「入っていいわ」
鍵を外すと、ギルバートが静かに入ってきた。夜の黒がそのまま人の形を取ったような男だ。
彼は部屋に入るなり、自然に扉の位置を把握し、窓の位置を見て、逃げ道と侵入経路を確認する。生存のための癖。刃の癖。
「……眠れませんか」
「少し考え事を」
私は笑みを作った。鏡の映像を思い出さないように。
思い出せば、表情が歪む。
ギルバートは私の顔をじっと見た。見抜く目。毒の匂いを嗅ぎ分ける鼻みたいな視線。
「嘘ですね」
即答。
私は扇を取って、口元を隠す。
「あなた、最近遠慮がないわ」
「姫殿下が遠慮を許さない」
返しが正しいのが腹立たしい。
私は扇の骨を指先で鳴らし、言った。
「あなたは私の騎士よ。忠誠を誓った。なら、主の心配事を詮索するのは失礼でしょう」
「主が死にそうなら詮索します」
「死にそうじゃない」
「……では、危ない」
その言い方に、私の背中がじくりと痛んだ。
鏡が映した鎖の冷たさが、手首に蘇る。
私は、彼に悟られたくない。
あの未来を知れば、彼はどうする?
怒る? 笑う? それとも――「当然」だと言う?
私は話題を変えるために、わざと軽く言った。
「最近、あなたの目つきが柔らかくなったわね」
ギルバートの眉が微かに動く。
「そうですか」
「ええ。最初は殺すみたいな目だったのに」
私が笑ってみせると、彼は少しだけ目を細めた。
「最初は、殺す必要があるか測っていただけです」
「嫌な測り方ね」
「正確です」
淡々としているのに、妙に刺さる。
私は椅子に座り直し、姿勢を整えた。王女の背筋。逃げない背筋。
「ギルバート。あなたは……どうして私を守るの」
問いが滑った。
本当は聞くつもりなどなかったのに、鏡の未来が舌を押した。
ギルバートは一拍、沈黙した。
そして、ゆっくりと答える。
「最初は取引でした。命と名誉を与えると言った。だから守った」
「今は?」
私が畳みかけると、彼の視線がわずかに揺れる。
それが、答えそのものだった。
「……姫殿下は」
彼は言葉を探すように、少しだけ息を吐いた。
「俺に、居場所を与えた」
「それだけ?」
「それだけで十分だと思っていた」
思っていた。過去形。
私の指先が扇を強く握る。
この男の感情が変質し始めているのは、分かっている。分かっているのに、鏡が突きつける未来は想像以上だった。
ギルバートが一歩、近づいた。
私は立ち上がらない。退かない。退けば、彼は追う。追われる側になった瞬間、主導権を失う。
「姫殿下」
「なに」
彼の声が低くなる。
「誰かに触れられるのが、嫌です」
空気が止まった。
私は笑いそうになって、笑えなかった。
「……あなた、何を言って――」
「炊き出しで、老人に礼を言われた。子どもに笑いかけた。貴族が姫殿下を褒めた。侍女が泣いた」
ギルバートの目が、暗い。
「全部、嫌だった」
嫉妬。
それを、彼は隠しもしない。
私は扇を閉じ、机の上に置いた。
このまま冗談で流せる雰囲気ではない。
鏡の未来。鎖。囁き。
笑って流せば、それが「許可」になる気がした。
「ギルバート」
私は静かに、名前を呼ぶ。
「あなたは騎士よ。私を守るためにいる。私を縛るためではない」
言い切った瞬間、ギルバートの瞳が僅かに細くなった。
まるで、傷ついた獣が牙を隠したみたいに。
「縛りません」
即答。
けれど、その声は優しすぎた。
「姫殿下が望まないなら」
望まないなら。
条件付きの誓いは、誓いではなく予告だ。
私は冷たい汗を感じながらも、顔色を変えないようにした。
「望まないわ」
「……分かりました」
ギルバートは少しだけ目を伏せる。その仕草が、妙に従順で、妙に恐ろしい。
従順なのは、今だけかもしれない。従順でいる方法を、彼は選んだだけかもしれない。
彼は踵を返し、扉へ向かう。
私はそこで、あえて追い打ちをかけた。
「ギルバート。あなたは自由よ」
彼の足が止まる。
「私があなたを拾ったのは、首輪をつけるためじゃない。あなたが望むなら、いつでも去っていい」
――嘘だ。
去られたら私は死ぬ可能性が跳ね上がる。
けれど、ここで「縛らない」を証明しなければ、鏡の未来に近づく。
ギルバートは振り返らなかった。
背中だけで答えた。
「去りません」
声が、硬い。
「俺は……ここにいる」
扉が閉まる音が、重く響く。
私はその場に立ち尽くした。呼吸が浅い。手首が熱い。鎖なんてないのに、鎖の跡みたいに。
枕の下の鏡が、存在を主張する。
私は布包みを引きずり出し、震える手で開いた。
鏡はもう曇っていない。
ただ、私の顔が映る。
――処刑は回避できた。
そう思った瞬間、背筋が冷たくなる。
私は気づいたのだ。
未来は変わった。確かに変わった。
けれど、変わった先で私を捕まえるのは、革命の刃ではない。
私が拾った暗殺者の、甘く重い執着だ。
「……最悪」
呟いた声が、部屋の静けさに吸い込まれて消えた。
そして私は理解する。
この戦いは、処刑を避けるだけでは終わらない。
生き延びた先で、もう一つの地獄からも――逃げなければならない。




