第3話 悪女の仮面と、騎士の忠誠
毒未遂の一件は、私が狙われたという事実以上に「王宮の空気」を変えた。
廊下の囁きが増え、視線が刺さるようになり、近衛たちの歩調がどこか落ち着かない。
私はそのざわめきを、恐怖ではなく材料として扱った。
噂は刃。
ならば、握る手を変えればいい。
「姫殿下、父王陛下よりお呼びです」
侍従長の声に、私は扇を閉じた。ギルバートが半歩後ろに立つ。王宮の人間はまだ彼を「間諜上がり」と見ている。だからこそ、彼の存在は効く。私の行動が“異常”に見えるほど、注目は集まる。
謁見の間。父王は高座に座し、重い瞼の奥で私を見下ろした。左右には宰相と貴族たち。近衛隊長が一歩前に出ている。副隊長ローデリクの姿はない。逃げたか、隠れたか。
「アリアーヌ」
父王の声は疲れていた。怒りと、面倒と、失望が混じっている。
「昨夜の件……毒が盛られたという報告は受けた。だが、お前の口から聞こう。何があった」
私は深く一礼し、顔を上げる。涙を浮かべるのは簡単だ。けれど私は泣かない。泣けば“被害者”になれるが、それは弱さの証明にもなる。
「毒が盛られました。ですが、未遂に終わりました」
私は後ろを振り返らず、言った。
「私の騎士が止めたからです」
ざわ、と貴族たちの間に波が立つ。「騎士」などと呼ぶな、という視線が飛ぶ。
ギルバートは微動だにしない。まるで彫像だ。だが私は知っている。彫像の中に、刃が眠っていることを。
宰相が眉を吊り上げた。
「姫殿下、その者は元は牢の間諜。信用に値せぬ。むしろ自作自演で功を立て――」
「宰相」
父王が短く制した。宰相は渋々口を閉じる。
父王は私を見据える。
「犯人の名は」
「近衛副隊長ローデリクが、侍女長に銀盆を渡したと証言が出ています」
それだけで場の空気がさらに重くなる。近衛は王を守る盾。盾が毒を運ぶなら、王宮そのものが揺らぐ。
近衛隊長が硬い声で言う。
「ローデリクは今朝から姿が見えぬ。逃亡の可能性が高い」
私は扇を胸元に当て、静かに頷いた。
「ならば、もう一つ。父上に申し上げたいことがあります」
父王がわずかに身を乗り出す。
「申せ」
私は言葉を選ぶ。これは“反省”ではない。“提案”だ。王に与えるのは謝罪ではなく、利益。
「王都の外で、飢饉が起きます」
謁見の間が凍りついた。
「……何だと?」
父王の声が低くなる。宰相が鼻で笑った。
「姫殿下、今度は占いですかな。王女の気まぐれで備蓄を動かせと?」
私は宰相を見た。視線は柔らかく、言葉は鋭く。
「気まぐれではありません。北の小麦が腐っています。雨が続き、保管庫の湿気が抜けていない。運び出される頃には半分が食えなくなる。価格は跳ね上がり、民は暴れ、暴動が起きる」
私は一歩、前へ。
「暴動が起きれば、革命の火種になります」
その言葉に、貴族たちの表情が変わった。飢饉は遠い話でも、暴動と革命は目の前の脅威だ。
父王は眉間に皺を寄せる。
「根拠は」
「根拠は、今から作れます」
私は即答した。
「北の倉庫を調査させてください。腐敗が見つかるでしょう。見つかったら、すぐ備蓄を王都へ回し、炊き出しを行います。さらに、腐った小麦の責任者を処罰し、改革を示す」
宰相が噛みつく。
「炊き出しなど、王家の威信を損なう行い! 王女が粥を配るなど、道化ではないか!」
私は微笑んだ。
「ええ。道化で結構です。民は道化を笑います。でも、笑いながら手を伸ばし、食べます。腹が満ちれば、石を握る手は緩む」
ざわめきが広がる。
私はさらに続けた。
「そして民は言うでしょう。『我儘な悪女が、今日は粥を配っていた』と」
宰相が顔をしかめる。
「悪女、だと? 自分で言うのか」
「民がそう呼ぶなら、私はその仮面を被ります」
私は扇を開き、ゆっくりと扇いだ。涼しい風が頬を撫でる。
「ただし、仮面は替えられます。悪女の仮面のままでも、行動が聖女なら、呼び名は上書きされる」
父王の目が、ほんのわずかに動いた。
――食いついた。
王は愛より秩序を求める。秩序のためなら、娘の評判さえ駒にする。
なら、私も同じく駒にする。
「許可を」
私は頭を下げた。
父王は沈黙し、やがて短く言う。
「北の倉庫を調査せよ。結果が出れば、備蓄を動かす」
宰相が反論しようとしたが、父王が手を上げて止めた。
「だが、失敗すれば――」
父王の視線が鋭くなる。
「お前の好き勝手は、そこで終わりだ」
私は微笑んだまま答える。
「失敗しません」
謁見の間を出ると、廊下の空気が一段と冷たく感じた。
背後で、ギルバートが低く言う。
「姫殿下。今のは賭けだ」
「ええ。賭けよ」
「外したら、姫殿下は終わる」
「だから外さないの」
私は立ち止まり、彼を見上げた。
「あなたは私を守ると言った。なら、私が勝つために必要なことも守りなさい」
ギルバートは一瞬だけ口を結び、やがて頷いた。
「了解」
その一言が、妙に重かった。忠誠というより、鎖の音に似ている。
◇◇◇
数日後。
北の倉庫から報告が上がった。
小麦の腐敗。帳簿の改竄。責任者の横領。
「姫殿下の言った通りだ……」
侍従長が震える声で言った。
私は内心で息を吐く。鏡のおかげだ。鏡が映したのは、飢えた民の群れと、私の名前を叫ぶ怒号。そこから逆算した。原因は飢饉、手段は価格高騰、引き金は備蓄の腐敗。
断片で十分。
必要なのは、そこから最適解を組み立てる頭。
王都の広場に、大鍋が並んだ。湯気が立ち、麦の香りが漂う。
私は豪華なドレスをあえて選ばず、質素な外套を羽織った。けれど髪飾りだけは外さない。王女であることを消さないため。民は「同情」ではなく「権威」から粥を受け取る。
「……王女が?」
「本当に、あの我儘姫が?」
囁きが飛び交う。憎しみと疑いが混ざった声。
私は鍋の前に立ち、柄杓を取った。
「並びなさい。押し合いは許しません」
命令口調のまま。優しくしない。
優しくすれば「媚び」に見える。私は媚びない。私は与える。与える者は、命令できる。
幼い子が震える手を差し出した。母親が怯えた目で私を見る。
私は粥を器に注ぎ、子に渡した。
「熱いから気をつけて」
たったそれだけ。
母親の顔がわずかに揺れる。憎しみの仮面の下に、戸惑いが覗く。
背後で、ギルバートが人波を睨みつけていた。近づく者を選別する目。危険がないか、刃がないか。
彼の存在は民を怯えさせるはずなのに、不思議と秩序が保たれていた。恐怖は人を黙らせる。私はその沈黙の上に、行動を積む。
「王女様……」
老人が震える声で言う。
「……ありがとうございます」
私は一瞬、柄杓を止めた。
礼など、受け取る価値のない人生を私は送ってきた。けれど、今は違う。違うように“見せる”。
「当然よ」
私はそう答えた。
「民が飢えて国が乱れれば、私が困るもの」
あくまで打算。
打算のまま善行をする。そうすれば、誰も私の善意を疑えない。善意は折れるが、打算は続く。
炊き出しが続く中、私への視線が変わっていくのが分かった。
「悪女」から「変わり者」へ。
「変わり者」から「……もしかして」へ。
噂の上書きは、ゆっくりで、確実だ。
その夜、王宮へ戻る馬車の中。私は疲れを隠さず背凭れに体を預けた。
対面に座るギルバートが、黙って私を見ている。
「何よ」
「姫殿下は、民を救った」
「救ってないわ。暴動を潰しただけ」
「結果は同じだ」
彼の声が、珍しく柔らかい。
「……貴女は、思っていたよりずっと」
言いかけて、止めた。
私は扇を開き、顔を隠す。
「ずっと、何?」
ギルバートの視線が、扇の奥まで刺さってくる。
「ずっと、危険だ」
「それ、褒めてる?」
「警告だ」
彼は静かに言う。
「姫殿下みたいな人間は、敵も味方も増やす。守る価値があると見られれば、奪う価値も生まれる」
私は笑った。
「奪う? 誰が私を奪うのよ」
ギルバートの瞳が、ほんの少しだけ暗くなる。
「……俺以外」
馬車の揺れが、一度だけ大きく跳ねた。
私はその言葉を聞かなかったふりをした。聞いてしまえば、何かが決定的に変わる気がしたから。
けれど、鏡がなくても分かる。
彼の忠誠は、義務から別のものへ滑り始めている。
私が上書きしようとしているのは、民の評価だけじゃない。
この男の感情も、同じように――上書きしてしまっている。




