第1話 泥の中の死神を拾う
「――いいえ、嫌よ。そんなの、認めないわ」
真夜中の私室。王女アリアーヌは、目の前の姿見に手を伸ばし、叩き割りそうになる衝動を噛み殺した。
鏡の中に映っているのは、豪奢な天蓋付きの寝台でも、金糸のカーテンでもない。
灰色の空。湿った風。人々のうねるような叫び声。
そして――広場の中央にそびえる断頭台。鈍く光る刃。
「……私の首が飛ぶなんて、悪趣味な冗談だこと」
鏡の中の「未来の私」は、今より少し大人びた顔立ちで、髪を無惨に振り乱していた。口元は裂けるほどに歪み、何かを叫んでいるのに音だけが届かない。
その背後に立つ男が、冷酷な手つきで合図を送る。
刃が落ちる。
「……っ!」
映像は霧のように消え、鏡には真っ青になった現在の私が映った。
この鏡を拾ったのは三日前。最初はただの不思議な骨董品だと思っていた。けれど、映し出される光景は数日後に起こる出来事をことごとく的中させた。侍女が落とす花瓶、厨房で起きる小さな火事、父王の謁見の機嫌――些細な未来が、笑えないほど当たる。
つまり、あの処刑は――「確定した未来」。
「理由はわかっているわ」
贅沢。浪費。気まぐれな命令。
民衆が怒るのも当然。私は、王女という立場に甘えすぎた。
だが――だからといって、首を差し出す理由にはならない。
「……私の最期を、他人に決められるなんて。冗談じゃない」
私は鏡の中の男の顔を思い出す。
漆黒の髪。氷のように冷たい灰色の瞳。
名を、ギルバート。のちに革命軍の英雄と呼ばれ、私を断頭台へ送る男。
「殺されるのを待つなんて、死んでも御免だわ。……いいえ、死ぬのが御免なのよ!」
私はガウンを羽織り、扉へ向かった。
「ひ、姫様!? こんな時間にどちらへ……!」
侍女のリネットが眠気を払った顔で駆け寄る。
「散歩よ」
「散歩の格好ではありません!」
「だったら見なかったことにしなさい。これは命令よ」
リネットの口が開いたまま固まる。私はその隙に廊下へ滑り出た。
夜の王宮は静かだ。けれど静けさの下には、常に誰かの監視がある。足音を吸い込む絨毯、遠くで揺れる松明の火――すべてが私を見ている。
鏡が示した「現在」のギルバートの居場所。
それは、華やかな王宮の片隅、誰も見向かない地下の独房だった。
地下へ降りる階段は、湿気が肌に貼りつく。香油の匂いが薄れ、代わりに鉄と黴の匂いが濃くなる。
牢番が二人、眠気に負けそうな瞼をこすっていた。私の姿を見るなり、背筋を伸ばし、慌てて跪く。
「ひ、姫殿下……! このようなところへ……」
「鍵を出しなさい」
即答すると、二人は顔を見合わせた。
「し、しかし……あの者は他国の間諜。明日の朝には処刑が決まっております。姫殿下が近づかれるのは危険で――」
「危険? 私が? この私が、誰に危険だと言うの」
声の温度を落とす。王女が“怒っている”という空気は、それだけで武器になる。
私は冷たく笑った。
「ねえ、牢番。あなたの家族は王都の外にいるのよね?」
二人の肩が震えた。
この王宮では、情報は宝であり、刃でもある。私は自分がどれだけ嫌われているかを知っている。だからこそ、嫌われ者の武器の扱い方も知っている。
「心配しなくていいわ。脅しているわけじゃないの。……ただ、忠告よ」
私は一歩近づき、囁く。
「未来は変えられる。だけど、変えられないものもある。たとえば、今ここで私の命令を拒んだ者の“その後”とかね」
牢番の片方が、喉を鳴らして鍵束を差し出した。
よろしい。恐怖は、最も確実に人を動かす。
「扉を開けるのは私がやるわ。あなたたちは、ここで目を伏せていなさい」
鍵束を受け取り、私は奥へ進む。
鉄格子が並び、暗がりが重なっていく。最奥の独房――そこに、鏡が映した男がいた。
カビの臭いと冷気が漂う地下牢。
鉄格子の向こうで、その男は泥を啜るような生活を送っていた。薄い布切れのような服、手首には擦り切れた縄の痕。
けれど、その姿に惨めさはない。
ただ――静かな殺気だけがある。
「……誰だ。見せ物なら他へ行け」
掠れた声。
男が顔を上げる。灰色の瞳が私を射抜く。鏡の中で、私の首を落とした目と同じ色。
「ギルバート」
その名を呼んだ瞬間、彼の視線が僅かに揺れた。驚きか、警戒か。たぶん両方だ。
「姫殿下が、こんなところへ何の用だ」
礼儀はない。だが、媚びもない。
――良い。扱いやすい。
私はドレスの裾が汚れるのも構わず、鉄格子の前に膝をついた。自分の膝が、こんな場所に触れることを誰も想像しない。だからこそ意味がある。
「あなた、お腹が空いているのでしょう?」
私はガウンの内側から、小さな包みを取り出した。最高級の焼き菓子。バターと砂糖の匂いが、牢の空気を一瞬だけ塗り替える。
彼は怪訝そうに細めた目でそれを見た。
「毒か」
「そんな手間をかけるくらいなら、牢番に命じてあなたの喉を切らせるわ」
嘘ではない。王女の権限なら簡単だ。
私は包みを開け、一つ取って自分の口に放り込んだ。甘さが舌に広がる。
「ほら。毒は入ってない」
ギルバートはしばらく私の指先と口元を観察し、ゆっくりと手を伸ばした。
菓子を口に運ぶ動作に、獣が餌を確かめる慎重さがある。
――飢えている。けれど、屈しない。
だからこそ、私に必要だ。
「あなたをここから出すわ」
菓子を噛み砕く音が止まる。
灰色の瞳が一段と冷えた。
「……条件は」
「話が早いわね」
私は微笑んだ。侍女が見たら卒倒しそうな“善良な笑み”を作る。
その笑みの内側で、私は計算を回す。
彼は未来で私を殺す。
なら、未来の刃を今、握りつぶす。
殺される前に手懐ける。――いいえ、飼い慣らす。
「私の騎士になりなさい、ギルバート」
彼の眉が僅かに動く。
「俺を、騎士に?」
「名誉も、居場所も、あなたが望むものを与えてあげる。……命もね」
言い切ると、彼は低く笑った。乾いた笑い。牢の壁に吸い込まれて消える。
「俺が欲しがると、なぜ分かる」
「分かるのよ」
私は鏡のことを言わない。
未来を知っていると告げれば、彼はそれを奪うか、壊すか、私を殺す。
だから、別の答えを用意する。
「あなたの目を見れば分かる。飢えているのは食べ物だけじゃない。……世界に対して、何かを証明したい顔をしてるわ」
彼の視線が、少しだけ私の顔の上を滑った。
私は続ける。
「あなたの力は、ここで腐らせるには惜しい。私の盾になりなさい。私の刃になりなさい。そうすれば、あなたは“使い捨ての駒”じゃなくなる」
「俺を飼うつもりか」
「そうよ」
私は迷いなく肯定した。
否定すれば、彼は私の本気を疑う。
この男は、言葉よりも決断を見ている。
「あなたは狂犬みたいな目をしてる。……私は、その首輪を持てる人間が必要なの」
ギルバートは黙った。
沈黙が長く伸びる。遠くで水滴が落ちる音。
私は、焦らない。ここで焦ったら終わりだ。
やがて彼が言った。
「もし俺が断ったら」
「断れない状況にするわ」
あまりにも平然と言うと、彼は一瞬だけ目を細め――次の瞬間、口角を上げた。
「面白い」
面白い。
その言葉が、私の背筋を冷たく撫でた。鏡の中の処刑人が、今この場で私を見て“面白い”と言っている。
「いいだろう、姫殿下。俺を出せ」
私は立ち上がり、鍵穴に鍵を差し込む。
手が震えそうになるのを、爪を立てて抑えた。
――怖い? ええ、怖いに決まってる。
でも、怖いからこそ、先に手を打つ。
扉が軋んで開いた。
ギルバートがゆっくりと立ち上がる。背は高い。痩せているのに、動きがしなやかで、危険が服を着ているみたいだ。
「まずは風呂に入れなさい。あなた、泥臭いわ」
「命令か」
「もちろん」
私は牢番たちに戻ると、鍵束を投げ渡した。
「この男は私の専属騎士になる。今から侍従長へ通達しなさい」
牢番の顔色が一気に悪くなる。
「ひ、姫殿下! そんな、勝手に――」
私は振り返り、目だけで黙らせた。
「勝手? 私が王女よ。私の意思が、この城の規則なの」
言葉を選ぶ。声を整える。
“我儘”を“権威”に塗り替える。
これは私が生き残るための演技だ。
「それに、あなたたちも助かるでしょう。明日の処刑が消えるのだから」
牢番は言葉を失った。
私は歩き出す。ギルバートが半歩後ろに付く。
――背中が焼けるように熱い。視線を感じる。彼は今、私という檻の形を測っている。
地下牢を出る階段の途中で、彼がぽつりと言った。
「姫殿下」
「なに」
「俺は忠誠を誓う。だが――裏切りが許されないなら、最初に決めておけ」
「何を?」
彼の声が、低く沈む。
「姫殿下が俺を捨てる日が来たら、どうするかを」
胸が、嫌な音を立てた。
鏡が見せた未来。私を殺す手。冷たい瞳。
――この男は、救国の英雄になる前から、既に“終わらせ方”を考える人間だ。
私は笑みを崩さず答えた。
「捨てるわけないでしょう。あなたは私の盾で、刃で、……必要な駒よ」
正直な言葉を選んだ。
愛ではなく、必要。
それなら、彼は油断しない。油断しない男は、私の計画通りに動く。
ギルバートは、何かを確かめるように私を見下ろした。
その視線に、ほんの少しだけ熱が混じる。
「……なら、俺も決める」
「何を?」
「貴女を守る理由を」
その言葉が、夜の廊下に落ちた瞬間。
私は気づいた。
鏡が映していたのは、ただの「殺意」ではない。
もっと根深いものの芽が、今この場で、静かに息をしている。
そして私の生存ルートの第一歩は――
未来の処刑人を、私の傍へ引き寄せた。
逃げ道ごと、抱き寄せてしまったことを。




