第6章 交差する縁 ― お市と姫花
(……また、ここじゃない世界か……?)
光秀が目を開けたとき、
鼻に入ったのは湿った土の匂いと、薪がくすぶる香りだった。
天井は粗末な板張り。
外からは馬のいななきと鎧の触れ合う音。
(ここ……野営所じゃない。関所……?)
体を起こすと、入口に立っていた護衛の兵がこちらに気づいた。
「気がついたか。倒れていたところを、お市様の御一行が保護してくださったのだ。」
(お市様……!?)
兵の言葉に心臓が跳ねた。
光秀が外に出ると、
街道沿いに広がる簡素な関所と、
柴田家の家臣と思わしき武士たちが整然と並んでいる。
そして、その中心に――
一人の女性が立っていた。
黒い髪が柔らかく風に揺れ、
気品と強さをたたえた瞳は、まっすぐ先を見つめている。
その姿だけで、光秀は息を呑んだ。
(……これが、信長様の妹――お市……)
お市は護衛の報告を聞き終えると、
まるで引き寄せられるように光秀の前へ歩み寄った。
「あなたが……倒れていた若者ね。」
その声は凛としているのに、どこか優しい。
光秀は深く頭を下げた。
「安田光秀と申します。ご助力、痛み入ります。」
お市の瞳が、微かに揺れた。
「光秀……?」
(やっぱり反応した……)
お市は名を確かめるように小さく繰り返した後、
光秀に近づき、その顔をじっと見つめた。
「あなた……不思議な方ですね。」
「……不思議、ですか?」
お市は静かに頷く。
「どこか……“時の流れとは別の場所”から来たような……そんな気配がします。」
光秀の背筋に冷たいものが走った。
(やっぱり……この人、感が鋭すぎる……)
しかしお市の表情は、恐れでも拒絶でもない。
むしろ――興味と、わずかな慈愛。
「兄上の近くにいたのでしょう?」
突然の問いに、光秀は驚いた。
「信長様の……?」
「ええ。あなたの中に、“兄と同じ熱”が少しだけ見えます。」
お市は言葉を続けた。
「兄は……強くて、正しくて、でも孤独な人。
支えになる者をずっと探していた。」
光秀の胸が熱くなる。
(俺が……支えになれていたんだろうか……)
お市は光秀の手をそっと包んだ。
「あなたは……兄の縁の外から来た人。
だからこそ、兄の未来を揺らす存在になり得る。」
「どうすれば……信長様を救えるのでしょうか。」
光秀の問いに、お市は静かに首を振った。
「未来は見えません。
ただ――あなた自身が選ぶのです。」
その言葉は、不思議なほど深く胸にしみた。
関所から出立する頃、
京の方向に赤い光が立ちのぼっていた。
「……また始まった……」
光秀の体が震える。
本能寺の炎。
お市もまた炎を見つめ、静かに呟いた。
「兄上……」
光秀は思わず叫びそうになる気持ちを抑えた。
(今度も……守れないのか……)
お市は光秀の肩にそっと手を置いた。
「あなたが見ているのは、“運命”ではありません。
あなたが感じているのは、“選びたい未来への悔しさ”。」
光秀は息を呑む。
「兄は……死ぬ運命にあるのですか?」
「私には分かりません。
ただ、あなたが誰よりも兄を想っていることだけは分かる。」
お市は炎を見つめたまま言った。
「もし……未来を変えたいのなら。
あなたの選択が、誰かの命を繋ぐことになります。」
光秀は拳を握った。
(もう、逃げられない……
俺は、この時代と――信長様と、お市さんの想いに向き合わないといけないんだ……)
炎の照り返しが頬を熱く染めた。
光秀はハッと目を開いた。
(……戻ってきた……)
教室のざわめきが耳に戻る。
だが――
誰も、光秀に気づいていない。
(また……薄くなってる……)
席を立つ生徒たちの視線が、光秀を素通りする。
まるで透明人間みたいだ。
そんな中。
「……あの、安田くん?」
柔らかい声が後ろから聞こえた。
光秀は振り返る。
そこに立っていたのは――
長い髪と凛とした瞳が印象的な女子。
市原姫花。
(……お市……?
いや違う……でも、でも……雰囲気が……似てる……)
姫花は光秀をじっと見つめ、首をかしげた。
「変なこと言うけど……
今日、あなたに話しかけなきゃって……ずっと思ってて。」
光秀の心臓が跳ねる。
姫花は続けた。
「あなたを見てると……何だか懐かしい感じがするの。
会ったこと、あるよね……? 夢で……かな……?」
光秀は言葉が出なかった。
(お市の“縁”が……
姫花に流れ込んでるのか……?
俺がこの時代で薄れていく一方で……
Eの人たちだけは、逆に俺を“感じる”ようになる……?)
姫花は胸の前で手をぎゅっと握りしめた。
「なんでだろ……
あなたが苦しそうに見えるのが……すごく気になって……」
光秀は視線を落とした。
その瞬間――黒板に文字が浮かぶ。
《本能寺の変まで、あと4日》
光秀の喉が音を立てて鳴った。
(残り……4日……
信長様も……明智も……お市さんも……
何もかもが変わる4日間……)
姫花が小さく問いかけた。
「安田くん……なにを抱えてるの……?」
光秀は静かに答える。
「……選ばなきゃいけない未来があるんだ。」
姫花の瞳がかすかに揺れる。
光秀は胸の奥で強く誓った。
(絶対に……間に合うようにする。
信長様を……お市さんを……
そして、俺自身を……失わないために。)




