第3章 本能寺を囲む影 ― 奈落の笑み
(……背中、いてぇ。)
硬い板の上で寝ていたような痛みで、光秀は目を覚ました。
見慣れた蛍光灯ではなく、
見上げれば竹を組んだ天井と、吊るされた油の行灯。
(あー……またやっちまったか、俺……。
寝たら、戦国。三度目の“おはよう戦国”……。)
上体を起こして周りを見渡すと、
簡素だが妙に整理された野営地だった。
槍は迷いなく壁際に立てかけられ、
甲冑も規律通りにずらりと並んでいる。
なのに、漂っている空気はどこか明るい。
「お、起きたか、新入り!」
近くの兵が、にかっと笑って手を振った。
「顔色悪いぞ? でも大丈夫や、うちは死んでも楽しいで!」
(いきなり治安が悪いというかテンション高いというか……)
兵の背後、
大きな陣幕の上には、金色に輝く瓢箪の旗が風に揺れている。
(瓢箪……千成瓢箪。ってことは――)
「殿のおなりだーっ!」
声が響き、兵たちがざっと道を開ける。
その真ん中を、派手な金色の陣羽織をまとった男が、
笑いながら歩いてきた。
「おうおう! みんな元気にしとるかぁ?
わしがおってもおらんでも、ちゃんと働けよ~?」
軽口を叩きながらも、
周囲の空気を完全に握って離さないカリスマ。
顔はどこか猿に似ていて、
目は細いのに全然笑っていない。
「羽柴様~、今日も景気のええお言葉を!」
「なぁに、わしはいつでも景気ええで?
なにせ“日ノ本一の出世人”、羽柴秀吉様やからなぁ!」
(……羽柴、秀吉。来た。三人目のラスボス候補。)
自分で名乗った。
これでもう間違いようがない。
信長は熱。
明智は冷静。
そしてこの男は――
笑顔の裏に、どす黒い計算を隠している。
(この人が、このあと一気に天下掴むんだよな……
教科書で見た、“豊臣秀吉”になる前の顔。)
秀吉の視線が、ふとこちらをとらえた。
「あれ、新顔やな?」
ニヤリ、と笑う。
「そこの若いの。名前は?」
視線を浴びた瞬間、光秀の背筋に冷たいものが走った。
「あ、安田光秀です!」
口にした瞬間、しまったと思った。
秀吉の扇子がピタリと止まる。
「……光秀、とな。」
その一言だけで、
周囲の空気がわずかに張り詰めた。
兵たちの視線が一瞬集まり、すぐに逸らされる。
(まただ……信長も、明智も、そして秀吉も。
俺の名前にだけ、変な反応する……)
しかし秀吉は、次の瞬間にはにこにこと笑った。
「おもろい名やなぁ。
ええで、覚えたわ。安田光秀。光る秀や。縁起ええやないか。」
(その笑顔が一番怖ぇんだよ……!)
秀吉はくるりと踵を返し、
兵たちに向かって扇子を高く掲げた。
「ええか諸君! 上様がおらん間も、
わしら羽柴軍は抜かりなく“次”の準備しとかなアカンのや!」
「おおおおお!!」
「機会は一瞬! 掴めるもんだけが、天下を取るんやでぇ!」
叫び声と笑い声が入り混じる中で、
光秀はひとり、胸の奥の不安を飲み込んだ。
(この人、多分誰よりも“先の盤面”見えてるんだ……)
日中、光秀は雑兵として、
荷運びや偵察の端っこを任されることになった。
明智軍よりゆるい。
織田軍より騒がしい。
でも、どこか妙に洗練されている。
「安田、こっち来い。」
ある夕方、秀吉がひょいと手招きした。
「は、はいっ!」
心臓が嫌な音を立てながら跳ねる。
秀吉は陣の端、
遠く京の方向が見える小高い場所に光秀を連れて行った。
「お前、剣の筋がええな。どこの出や?」
「えっと……関東の……学校の……」
言いかけて、
これ戦国で言っても通じないわと気づく。
「まぁええわ。時々おるんや、お前みたいに“どこから来たんかよぉわからん奴”が。」
秀吉は笑いながらも、
じっと光秀の横顔を観察していた。
「なぁ安田。
お前、“上様が本能寺で討たれる”っちゅう噂、聞いたことあるか?」
(……え?)
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「い、いえ……」
「せやろなぁ。普通んなもん、知らん。
けどな――」
秀吉は京の空を見上げた。
「世の中には、“まだ起きてへんはずのこと”を知っとる連中がおる。
未来を夢に見るやつかもしれんし、
ただの勘のええ狸かもしれん。」
「……羽柴様は、どっちなんですか?」
思わず出た質問に、
秀吉は声を出して笑った。
「さぁてなぁ? それを見抜けるようになったら、お前も出世や。」
(この人……明智の動きも、“本能寺の変”も、完全に読んでる。)
つまりこの男は――
“歴史の波”を、利用する気満々だ。
秀吉がふと、横目で光秀を見た。
「お前のその名、安田光秀。
この時代では中々に“重い名”や。大事にせぇよ。」
「重い……?」
「せや。光秀という名は、
上様の命運と、わしらの未来と、
この国の行く末を、全部まとめて揺らす名や。」
その時光秀は、
秀吉の笑顔の奥に、底の見えない暗闇を見た気がした。
(俺の名前一つで……
この時代の人間の目の色が変わる。)
ぞわり、とした寒気とともに、
ふつふつと何かが胸の奥で沸き始めていた。
(だったら俺は、この名前で、何を見る? 何をやる?)
そして、やはり“その夜”はやってきた。
京の空が赤く染まり、
遠くからでも炎が見える。
「火の手が上がったぞー! 本能寺や!」
秀吉の陣がざわめく。
「さぁて、わしらも動くで。
一歩遅れたら天下は他人のもんや。」
秀吉は軽い口調のまま、
さらりととんでもないことを言った。
「明智殿には明智殿の都合がある。
上様には上様の都合がある。
でもな、安田――」
「……はい。」
「最後に笑う奴が、一番得するんやで。」
光秀は何も言えなかった。
(こいつ……一番怖ぇわ。)
やがて、秀吉軍も京へと進軍する。
と言っても、
本能寺の炎が最高潮に達したころには、
光秀たちはすでに寺の近くにいた。
「おい! あんま近づくな! 火の粉で焼けるぞ!」
「でも、助けを――」
誰かの叫びと、誰かの制止。
光秀は、燃え盛る寺の周囲を走りながら、
何かを探していた。
(前は兵を助けた。じゃあ今回は――)
そのとき、
炎の中からよろよろと出てくる影があった。
年老いた僧侶だった。
頭は白く、
袈裟は煤で真っ黒に汚れ、
足はふらついている。
「誰か……本堂が……上様が……」
倒れかけたその身体を、光秀は咄嗟に支えた。
「大丈夫ですか!?」
「ぬ……ぬしは……?」
近くで見ると、
老人の目は驚くほど澄んでいた。
(この人……ただの雑魚モブには見えない。)
「俺は、安田光秀といいます!」
名乗った瞬間、
老人の顔色が変わった。
「……光秀、じゃと?」
手が震え始める。
「この本能寺で、その名を聞くことになるとは……
これも“天のいたずら”か……」
「本能寺……ってことは、あなたは――」
老人は息を整えながら、自分の胸を指差した。
「わしは本能寺の僧、清玉と申す。
」
(名前、聞いたことある……
教科書の隅っこに、“本能寺の住持・清玉上人”って……)
歴史の中でちらっと見るだけの名前が、
今、目の前で血を流し、煙を吸って咳き込んでいる。
「殿は……殿は、まだ本堂の中じゃ……
あの方は、皆のために動いておられた……
決して、ただの暴君などではない……」
老人の言葉に、
光秀は胸の奥がギュッと締めつけられるのを感じた。
(やっぱり……俺が見てきた信長と、
この僧侶が知ってる信長は、同じ人間なんだ……)
清玉は、光秀の手を固く握った。
「安田光秀よ。」
「はい。」
「お前のその名。
この一夜においては、良きにも悪しきにも働く。“決定の名”じゃ。」
「決定……?」
「この先、何度この夜を見ようとも、
お前は何かを選ばねばならぬ。
見るだけの者には、もう戻れぬ。」
(この人、何……? 未来見えてるのかよ……)
清玉は咳き込み、それからかすれた声で言った。
「よいか。
殿が何者であったか、
明智殿が何を抱えておったか、
よう見極めよ。
そのうえで、お前の剣をどこに向けるか――
それが“この名”の背負うものじゃ。」
その言葉は、
炎よりも熱く、
氷よりも冷たかった。
「今は逃げよ。ここは、もうじき崩れる。」
清玉を安全な場所まで連れていこうとしたその瞬間――
ドンッ!!
耳をつんざくような轟音とともに、
本堂の一部が崩れ落ちた。
「あそこは――!」
清玉の顔が真っ青になる。
光秀は思わず本堂のほうを振り向いた。
炎の隙間から垣間見えたのは、
刀を膝の前に置き、
燃え盛る中で座り込む男の姿。
派手な陣羽織。
炎に照らされてもなお、瞳は消えていない。
(信長……!)
距離はある。
今回は“遠くからの目撃”だった。
近くまで駆け寄ることもできない。
でも――確かに見えた。
刀を構え、
自らの最期を選ぶ男の姿。
炎の中に消える、その直前の横顔。
「殿……」
清玉の声が、燃え盛る音に掻き消される。
光秀の足が、自然と本堂のほうへ動いた。
「行くな!!」
清玉が腕を掴んだが――
その瞬間、足元の床板が崩れた。
「うわっ――」
重力に引きずられ、
光秀は半ば宙に投げ出される。
頭上から、梁や瓦が降ってきた。
(やば――)
ガツンッ!!
鈍い衝撃が頭を打ち、
世界がひっくり返った。
視界が真っ赤に染まり、
やがてそれすら闇に溶けていく。
最後に聞こえたのは、
誰のものともわからない叫び声だった。
「光秀――ッ!!」
(俺のことか……?
それとも、もう一人の、あの“光秀”か……)
そんなくだらないことを考えたところで、
光秀の意識は完全に途切れた。
「――安田。安田!」
肩を揺さぶられる。
目を開けると、そこはまた教室だった。
(戻って……きた。)
天井。
蛍光灯。
チョークの粉の匂い。
全部が懐かしくて、怖い。
「大丈夫か? 顔色やべぇぞ。」
声の主を見て、光秀は息を呑んだ。
「……誰?」
思わず口をついて出たのは、自分の言葉のほうだった。
そこに立っていたのは、
確かに佐藤涼太――のはずなのに。
髪型も、ノリも、喋り方も同じなのに。
光秀を見る目に、“友達としての距離感”が一切なかった。
「あー、やっぱ怖いな。
いきなり寝てたやつに話しかけると。」
涼太は苦笑いすると、
「悪い、名前なんだっけ?」とさらりと言った。
(……マジか。)
心の奥が、ズキンと痛む。
「安田……光秀。」
「へぇ。
なんか、歴史に出てきそうな名前だな。」
(今まで、お前が散々“光秀ー!”って呼んでたんだよ……)
言いかけて、
光秀は唇を噛んだ。
黒板を見る。
《本能寺の変》
その下の説明文が、また微妙に変化していた。
“本能寺の変に際し、多くの家臣・僧侶が命を落としたが、
一部の記録には、本能寺の住持・清玉上人が生き延びたとの記述も見られる。”
(……さっき助けた、あの老人だ。)
ゾワッ、と鳥肌が立った。
机に教科書を開き、ページをめくる。
前までなかった小さなコラムが追加されている。
『本能寺の変と本能寺の僧たち』
そこには、清玉の名前と共に――
“本能寺より脱出の際、「若き足軽に助けられた」という伝承が残る。”
と書かれていた。
(俺だ……)
笑えない冗談みたいに、
教科書のすみっこに、自分の影が滲み込んでいく。
その一方で。
現実の光秀自身は、
親友からも幼馴染からも、
少しずつ輪郭を失いつつある。
休み時間、
美空の席に近づいてみる。
「工藤。」
「ん?」
顔を上げた美空は、
ほんの少しだけ警戒したように眉をひそめた。
「何か用?」
「いや……なんでもない。」
胸が締めつけられた。
(前は“光秀”って名前を呼んでくれた。
昨日は“クラスメイト”くらいの距離感だった。
今日は、“ただの知らない男子”だ……。)
スマホを取り出し、LINEを開く。
トーク一覧に、
かつては毎日のようにやり取りしていたはずの
“亮太”“美空”の名前は、どこにもなかった。
代わりに、見慣れない名前がいくつか並んでいる。
(俺が戦国で何か選ぶたびに、
“歴史のどこか”は救われて、
“現代の俺”が削れてる……?)
怖い。
心の底から怖かった。
(じゃあ俺は、何をどうするべきなんだ?)
信長を助ける?
歴史を変える?
でも、それをやったら――
今度こそこの世界から、自分の痕跡が一瞬で消えるかもしれない。
何もしない?
ただ歴史の通りに、信長が死ぬのを見ているだけ?
それは――
一度でも、誰かを助けてしまった自分には、
もう耐えられない選択だった。
(信長は悪じゃない。
明智も、多分、悪じゃない。
秀吉だって……単に“したたか”なだけだ。)
誰が悪者でもない世界で、
それでも誰かが傷ついて死んでいく。
その中で、自分だけがループして、
“選べる立場”にいる。
(じゃあ――)
ペンを握る指が震える。
ノートの端っこに、
光秀は小さく書き殴った。
『何を守る?
誰を守る?
歴史か。仲間か。自分か。
全部は多分、両立しない。』
見ているうちに、
文字が涙でにじんだ。
(怖い。でも、考えるしかない。
次の一週間で、
俺はまた“何かを変える決断”をしなきゃいけない。)
チャイムが鳴る。
先生が教室に入ってきて、当たり前のように授業が始まる。
その日常が、
酷く“薄いガラスの上”に乗っているように感じられた。
(次は……どこの陣営だ?
また明智か? また信長か?
それとも、まったく別の誰かか?)
眠るのが怖い。
でも、眠らないわけにもいかない。
目を閉じた瞬間、
火の粉と血の匂いが蘇る。
(逃げたくても、どうせまた一週間分、みっちり付き合わされるんだろ……
だったら――)
光秀は、ゆっくりと目を閉じた。
(次こそ、“何をどうしたらいいのか”のヒントを、
絶対に見つけてやる。)
恐怖と決意をごちゃ混ぜにしたまま、
彼の意識は、静かに暗闇へ沈んでいった。
四度目の“運命の一週間”が、
また近づいてきているとも知らないまま。
黒板には無情な文字。
《本能寺の変まで、あと7日》




