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清玉覚書 ― 本能寺の夜より

天正十年六月二日 夜

山中庵にて筆を取る。

これは僧の覚書であり、

ただ目に映った事実のみを記す。

――始まりは炎の色であった。

山を下り、京へ向かう道すがら、

夜空が不自然な赤に染まっているのを見た。

火事と思うたが、色が違った。

風が熱を運び、焦げと血の匂いを含んでいた。

鐘の音ではなく、鉄の音が響いていた。

寺が燃え、人が倒れていた。

何が起きているのか、わしには理解できなかった。

ただ、炎の合間に人の影を見た。

瓦礫の下に、重い鎧を着た武士が倒れていた。

傷は深く、息は細かった。

名は知らぬが、人は人である。

わしは迷いなくその者を背負い、

焼ける堂から引き出した。

山道を登り、庵へと運ぶ間、

その者は何度か薄く目を開いた。

その夜、浅い息のまま、弱く声が漏れた。

「……光秀……」

耳に届いた音はこれだけである。

誰の名かは知らぬ。

主なのか、友なのか、親なのか、子なのか。

ただ、声には涙があった。

わしは衣を掛け、夜通し看病した。

――ここで、筆を止めたい。

一つ、胸の奥にある“違和”を書き留める。

炎を見た瞬間、

わしの心に得体の知れぬ影がよぎった。

それは夢か、前世の断片のようである。

まるで私は――一度、この炎の中で死んでいる。

燃え落ちる柱の下に押し潰され、

息を引き取ろうとしたとき、

不思議な温もりに抱え上げられた気がする。

重い腕を肩に回され、

誰かが背負ってくれた。

あどけない声だった。

少年のような声。

だが顔は見えず、名も知らぬ。

息が落ちる寸前に聞いた声だけが残る。

なぜ生きているのか、

なぜここにいるのか、

理由は分からぬ。

ただ――そのとき“救われた”ことで、

今、わしは“救う側”になれた気がする。

それが夢か幻か、

祈りの影かは分からぬ。

筆を持つ手が止まる。

武士が発した「光秀」の名は、

その影と結びつくようにも思えるが、

憶測で語るべきではない。

名の重さは、名を持つ者のみが背負うものだ。

翌日、武士は意識を取り戻し、

歩けるほどに回復した。

名を尋ねることはせず、

武士もまた名を問わなかった。

互いに、名は要らぬと感じた。

その者は深く頭を下げ、

京に戻る道を歩いた。


――その後、京より噂が流れた。

「本能寺にて、織田信長公が討たれた」と。

「遺骸は見つからぬ」とも。

わしは筆を止め、炎の夜を思い返している。

火の中で背負った武士が誰であったのか、

わしは知らぬ。

ただ、耳に残る声がある。

「……光秀……」

この名の意味を、わしは語らぬ。

語るべきものを持たぬからである。

ただ、

命は拾うとき拾えばよい。

その後は、仏に任せる。

天正十年六月

山中庵にて

清玉


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