第10章 光秀の刃 ― 歴史を守るための涙
(……ここは――)
湿った土と薬草の匂いが、鼻の奥を刺した。
光秀がゆっくりと目を開けると、薄暗い幕舎の天井が見えた。
「……目を覚まされたか。」
かすれた声に、視線を横に向ける。
布団の上、包帯にぐるぐると巻かれた男が横たわっていた。
血の滲んだ白、その隙間から覗く痩せた首筋。
明智光秀――“本物”の光秀だ。
額には汗。肩と脇腹には分厚い包帯。
呼吸は浅いが、瞳だけは冴え冴えとしている。
「……そなたか……安田。」
「明智様……!」
光秀は慌てて膝をついた。
明智は、ゆっくりと手を伸ばし、光秀の袖を掴む。
「不思議なものよ……。 そなたと話すと、胸のつかえが少し晴れる。」
(俺が未来人だからじゃない。
この人は、人を見る目が鋭いだけだ……)
光秀は、傷口に目を落とした。
「……明智様。 もう、戦場には立てないんですよね。」
問いかけると、明智は微かに笑った。
「この体では……上様のもとへは行けまい。 だが――」
その目が、真っ直ぐに安田光秀を射抜く。
「軍は、止められぬ。 誰かが、“光秀”として立たねばならぬ。」
喉が、きゅっと鳴った。
(それって……)
「安田。」
明智は、はっきりと名を呼ぶ。
「そなたが行け。 この軍を率いる“光秀”として。」
胸の奥で、何かがひび割れた気がした。
(安田光秀としてじゃなくて……
“光秀”として――)
「……分かりました。」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「この名で。 あなたの軍を、本能寺へ。」
明智は細い笑みを浮かべて、目を閉じる。
「……頼んだぞ。 光秀。」
その呼び方が、呪いにも祝福にも聞こえた。
まだ夜が明けきらない。
濃い霧の中に、鎧のきしむ音と、馬の鼻息だけが低く響いている。
「安田様……いえ、光秀様。 全軍、進軍の支度、整いました。」
家臣の一人が緊張を滲ませた声で報告した。
その目には、不安と期待が入り混じっている。
(そりゃそうだ。
本物の明智様は寝所で重傷。
代わりに、どこの足軽とも知れない俺が“光秀様”として立ってるんだから。)
でも、もう引き返せない。
光秀は馬上からゆっくりと周囲を見渡した。
信長と過ごした安土の一日。
市場での、ささやかな優しさ。
炎の中で見た背中。
清玉の忠告。
秀吉の笑み。
明智の、静かな瞳。
何度も繰り返した一週間の、すべてがここに集約されている気がした。
(……今日で終わらせる。
どんな形でも――ここでケリをつける。)
喉が乾く。
それでも、しっかりと息を吸い込み、声を張った。
「――聞けぇぇ!!」
霧の中で、無数の視線が一斉に集まる。
「我らが進む先は――本能寺だ!」
ざわめき。
緊張が、空気をきしませる。
光秀は刀を抜き、馬上から天へと突き上げた。
「敵は――」
胸が痛んだ。
(本当は“敵”なんかじゃない。
でも、歴史はそう呼ぶ。
この言葉を、誰かが言わなきゃいけないんだ。)
歯を食いしばり、叫ぶ。
「敵は本能寺にあり!!」
霧を裂いて、その一声が駆け抜けた。
一拍の静寂――
続いて、地鳴りのような鬨の声が爆発する。
「うおおおおおおおおおッ!!」
槍が掲げられ、旗が揺れ、足軽たちが一斉に前へ踏み出す。
(言っちまった……。
歴史に残るはずの言葉を、俺が。)
胸の奥がじんと熱くなった。
恐怖と、悲しみと、少しの誇らしさがごちゃ混ぜになっている。
「進軍――!」
号令とともに、明智軍は霧の中を、本能寺へと動き出した。
京の街に着く頃には、空は白み始めていた。
本能寺の周囲では、すでに小競り合いの火花が散っている。
塀の前で織田方の残兵が必死に防戦していた。
「押し返せぇっ!」
「本堂に近づけるな!」
光秀は深く息を吐き、柄を握り直した。
(何回、ここに来た?
何度、炎を見て……何度、何も変えられなかった?)
槍が突き出される。
足軽が叫び声とともに突進してくる。
光秀は半歩、すっと引いた。
槍先が目の前をかすめる。
その軌道を肩越しに流しながら、相手の懐に踏み込む。
「せいっ!」
剣先は、鎧の継ぎ目ではなく、相手の手首の外側を払う。
槍が弾け飛び、男はバランスを崩して派手に転んだ。
(殺さなくても、止められる。
ここでわざわざ命まで奪う必要はない――)
横から短槍が飛び込んでくる。
光秀は柄同士を軽く打ち合わせ、力の方向をずらし、同時に相手の足元を払った。
「うわっ……!」
男は地面に転がり、そのまま動かなくなる。
「通せぇぇっ!! 道を開けろ!」
背後から明智軍の兵が雪崩れ込む。
光秀は最小限の斬撃と体捌きで、前に立つ敵を次々と崩していく。
刃は鎧の隙間ではなく、武器の柄や足元を叩き、致命傷は避けている。
(ちゃんと当てれば、倒すだけで済む。
何度も死にかけて、ようやく分かった――)
「前衛、下げるな! ここを抜ければ、本堂はすぐそこだ!」
怒号、足音、金属の音。
全てが渦を巻く中で、光秀の意識はむしろ凪いでいた。
(ここから先は――俺と信長様の問題だ。)
本堂へ続く石段が見えた瞬間、光秀は馬を降りた。
刀を握り直し、ひとりで炎の中へと駆け上がる。
本堂の中は、煙と熱で息をするだけでも苦しい。
焦げた木。油。
それに混じる、鉄と汗の匂い。
「はぁっ……はぁっ……!」
袖で口元を覆いながら、奥へ進む。
床には倒れた兵が転がっているが、もう動く気配はない。
そして――
炎の向こう、一人で敵を追い払う影があった。
「……殿!」
振り返った横顔。
炎に照らされてもなお、眼光は全く濁っていない。
織田信長。
「来たか、光秀。」
信長は肩で息をしながらも、いつものように笑った。
(……ああ、やっぱり。
何度見ても、この人は“魔王”なんかじゃない。
前だけを見て立っている、人だ。)
「そなたの軍勢、見事なものだな。 霧の中を進む様が、ここからでも見えたぞ。」
「殿を……お守りするために。」
声が震える。
胸の奥に溜め込んできたものが、一気にこみ上げてきた。
「殿は……悪くありません……! 市場で、小さな子に飴を買ってあげて…… 農民の話もちゃんと聞いて…… この国の先のことを、本気で考えてたじゃないですか……!」
信長の目がすこしだけ丸くなる。
「ふ……そんなことまで覚えておるのか。」
「覚えてます。全部。 なのに歴史では……“残酷な独裁者”なんて書かれて……!」
喉が詰まりそうになって、歯を食いしばる。
信長は黙って光秀を見ていたが、やがて目を細めた。
「歴史とは、後から書く者のものよ。 わしがどう書かれようと――」
一歩、光秀に近づく。
「この時代に生きる者が、少しでも楽に笑えるならば、それで良い。」
胸の奥が、じんと痛い。
「……殿……」
「光秀。」
信長は静かに刀をおろした。
「わしはもう、ここで終わると決めておる。 民のためでも、天下のためでもない。 これは、織田信長という一人の男の“ケジメ”だ。」
そう言って、膝をつき、手の中の刀を握り直しかけて――
力が抜けたのか、刃が床に落ちた。
カラン、と乾いた音が、炎の唸りの中で不自然に響く。
信長は、その刀を視線で示し、光秀を見上げた。
「――そなたが、来ると信じておった。」
足元で、刀が炎に照らされて鈍く光っている。
光秀は、ゆっくりとそれを拾い上げた。
柄を握った瞬間、その重さが腕から肩へとのしかかってくる。
鉄の重さだけじゃない。
背負わされる“役目”の重さだ。
(ここで俺が――
歴史通り、“明智光秀”として信長様を討てば。
教科書の一行は、きちんと完結する。)
――天正十年六月二日、本能寺の変。
――織田信長は明智光秀の謀反により自刃した。
(でも実際は、俺が斬るんだ。
あの教科書の一行の裏側で、“安田光秀”が。)
肩が震える。
呼吸が浅くなる。
信長は、そんな光秀を見上げながらも、穏やかに微笑んだ。
「泣き顔を見せるな、光秀。 そなたの刃なら……心地よいかもしれぬぞ。」
「……そんなわけ、ないでしょう……!」
思わず声が上ずった。
「痛いに決まってるじゃないですか……! 俺だって嫌です……! 殿を斬りたくなんか、ない……!」
視界がにじむ。
それでも、刀を構える腕は下ろさない。
「本当は、一緒に未来を見たかった。 信長様が作る国を、 俺……見たかった……!」
拳を握るように柄を握りしめる。
信長は小さく頷いた。
「わしもだ。 そなたの知る“未来の戦”の話、もっと聞きたかった。」
炎が吹き上がり、天井がきしむ。
崩れ落ちる気配が、そろそろ危険域に達している。
信長は、光秀に背を向けるように、静かに正座を整えた。
「――構えよ、光秀。」
呼吸を整えるように、一度だけ目を閉じる。
「そなたが選ぶのだ。 歴史の名を背負う者として。」
(逃げるな。
ここで目を逸らしたら――
本当に全部、中途半端になる。)
光秀は、刀を両手で握り直した。
腕が震える。
それでも膝は崩れない。
(……ごめんなさい、殿。
でも、俺は――この世界を守りたい。
あなたの血が、“未来に続く”世界を。)
「うああああああああっ――!!」
叫び声とともに、刃を振り下ろした。
金属を打つような硬い音と、
何か厚いものを断ち切ったような、重い衝撃。
腕から肩へ、痺れるような感覚が走る。
(やった……。
俺は今――織田信長を……)
視界が大きく揺れた。
炎、崩れ落ちる梁、揺れる影。
信長の姿は、炎と煙の向こうにかき消されて見えない。
光秀は、その場に崩れ落ちた。
(歴史は……戻った。
本能寺の変は、“明智光秀”の謀反として記録される。
そうなるように、俺が――)
そこまで思ったところで、視界が真っ白にかき消えた。
耳鳴り。浮遊感。
世界が遠ざかっていく。
本能寺裏手。炎と煙をかすめる細い路地。
煤で真っ黒になった袈裟の僧が、よろよろと走っていた。
「……信長様!」
皺だらけの顔。
本能寺の僧、清玉である。
崩れた梁の隙間に、意識を失いかけた男の身体があった。
清玉は必死にそれを引きずり出す。
「しっかりなされませ……!」
男は、微かに目を開けた。
「……また会うとはな……清玉。」
織田信長。
弱々しいが、まだ息はある。
「命……残っております。 これは……天が、まだお見捨てにならぬ証。」
清玉は信長の腕を自分の肩に回し、炎から遠ざかる小径へと足を進めた。
信長は、崩れゆく本能寺を一度だけ振り返る。
「あやつの刃があったからこそ…… わしは“死んだことにできる”。」
清玉は、黙って頷いた。
この瞬間、歴史の表には
> 「織田信長、本能寺にて自刃」
という記録だけが残る。
その裏で、ひそかに生き延びた血筋があったことを、
安田光秀も、現代人もまだ知らない。
その細い線は、何世代も静かに続き――
やがて「織田時斗」という名の高校生にたどり着く。
(……天井、白い……)
光秀は、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた自宅の天井。
蛍光灯。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
「光秀?」
耳に飛び込んできた声に、心臓が跳ねた。
リビングの入り口に、エプロン姿の母が立っている。
「……母さん?」
声が掠れていた。
「なぁに、その声。 熱でもあるの?」
母は眉をひそめて近づき、ひょいっと額に手を当てる。
「ちょっと汗かいてるわね。 昨日、帰ってくるなりひっくり返るみたいに寝ちゃうんだもの。 心配したのよ?」
(覚えてる……。
ちゃんと、俺のことを“息子”として見てる……!)
喉の奥が熱くなる。
「父さん! 光秀、起きたわよ!」
「おお、本当にか。」
ダイニングから顔を出した父が、いつもの調子で笑う。
「よぉ、光秀。 最近顔が暗かったからなぁ。 ちょっとはスッキリしたか?」
(……戻ってきた。
家族だけは――ちゃんと俺を覚えてる世界に。)
視界がにじんだ。
涙が勝手にあふれそうになる。
「ど、どうしたの? 光秀?」
「ううん……なんでもない。」
涙をこぼさないように、少し顔をそらす。
それでも、頬を伝う一筋まではどうしても止められなかった。
父と母は顔を見合わせて、困ったように笑う。
「ま、何かあったらいつでも話せよ。 変に一人で抱え込むな。」
「そうそう。 ……おかえり、光秀。」
その一言に、胸がきゅっと締めつけられる。
「……ただいま。」
ようやく、それだけ言えた。
翌日。
制服に袖を通し、いつもの通学路を歩く。
コンビニも、踏切も、校門も、何もかも見慣れている。
(全部、同じ。
でも――俺だけは、もう“戦国の記憶”を持ってる。)
教室の扉を開ける。
ざわざわと、いつもの朝の騒がしさ。
その中に、聞き慣れた声が混ざっていた。
「お、安田。来たか。」
斜め前の席から顔を上げたのは、
クラスメイトの一人――織田時斗。
もともと同じクラスにいた。
ただ、これまでまともに話したことはほとんどない。
どこか近寄りがたい雰囲気の、“一匹狼”みたいなやつだった。
「……お前、珍しいな。 朝イチで声かけてくるなんて。」
思わず、本音が漏れる。
時斗は、自分でも不思議そうに首を傾げた。
「んー……なんかさ。 今日はお前に話しかけなきゃいけない気がしたんだよな。」
さらっと、とんでもないことを言う。
「昨日まで、ほとんど喋ったことなかったのにな。 妙に“今さら”って感じするわ。」
(……やっぱり。
歴史が修正された反動で、
殿の血が、俺のほうへ“引き寄せられてる”。)
「安田光秀、だよな?」
「……うん。」
「変なこと言うけどさ。」
時斗は光秀を、じっと見つめた。
「前から同じクラスだったはずなんだけど、 今日が“ほんとの意味での初対面”って感じがすんだよ。」
胸が、ちくりと痛い。
(俺も同じだ。
信長様の面影を、今日になってようやく“ちゃんと”見てる気がする。)
「……そう、なのかもな。」
なんとか、それだけ返す。
時斗は、それ以上深追いせずに笑った。
「ま、よろしくな、安田。 なんか、昔からの相棒みたいな気もすんだけど。」
差し出された手を、光秀はしっかりと握り返した。
一瞬、あの炎の熱と、
刀を交えた時の重さが、指先に蘇った気がした。
放課後。
光秀は、学校の図書室の片隅に座っていた。
机の上には、日本史の教科書と、分厚い史料集が開かれている。
教科書の本能寺のページには、見慣れた一文があった。
――天正十年六月二日、本能寺の変。
――織田信長は明智光秀の謀反により自刃した。
(歴史は、ちゃんと元に戻った。
本の中の“明智光秀”が、信長様を討ったことになってる。
……実際に刀を振り下ろしたのは、俺だけどな。)
苦笑しつつ、史料集のほうに視線を移す。
小さなコラムが目に入った。
> 『本能寺変異聞』
後世に伝わる一説では、「本能寺の僧に匿われ落ち延びた」との伝承もある。
とくに本能寺の僧・清玉上人が、炎上する寺から一人の武将を救い出したという記録が残る。
(……清玉……)
紙面の中の文字が、あの夜の僧侶の顔と重なった。
――「安田光秀よ。 よく見極めよ。」
炎の中で、自分の腕を掴んでいた、あの手の感触。
(もしかして……
本当に、殿を……救ってくれていたのか?)
教科書には、“信長は自刃した”と書かれている。
だが、史料の片隅には、“僧に救われた武将”という別の線がある。
(みんなは教科書の本線だけを知ってる。
けど……俺だけは分かる。)
清玉が救った「一人の武将」が誰なのか。
そこに名前は書かれていない。
(あの夜、あの場所で、救われるべき武将なんて――)
心の中で、そっと結論を置く。
(――殿しか、いないだろ。)
ぱたん、と本を閉じた。
日本の歴史は、ちゃんと「信長は本能寺で死んだ」と教える。
教室で、先生もそう説明するだろう。
でも、その裏側に、別の真実が走っている。
清玉の腕に支えられて炎から消えていった、あの背中。
それを知っているのは――
“安田光秀”という、一人の高校生だけだ。
(この国の歴史は、もう揺らがない。
でも、俺の胸の中には、別の本能寺が、生々しく焼き付いてる。)
史料集のページを指でなぞりながら、光秀は静かに息を吐いた。
図書室を出て、屋上への階段を登る。
夕焼けが空をオレンジ色に染めていた。
フェンスにもたれかかり、光秀は空を見上げる。
(殿。
あなたの未来は、ちゃんと続いてますよ。)
市場で子どもに飴を渡した手。
農民の愚痴に耳を傾けた横顔。
炎の中で、最後まで背筋を伸ばしていた後ろ姿。
全部が、胸の中で静かに息をしている。
(俺は、“光秀”として、あなたを斬った。
でも同時に、“安田光秀”として、あなたの未来を守ったんだと信じたい。)
教室に戻れば、
家で待っている家族がいる。
クラスには、
まだ距離はあるけれど名前を呼んでくれる同級生たちがいる。
その中には――
信長の血を継いでいるかもしれない、「織田時斗」もいる。
「……じゃあな、殿。」
風が、頬を撫でた。
涙は、もう出なかった。
代わりに、少しだけ笑うことができた。
安田光秀は、ゆっくりと屋上をあとにする。
本能寺の真実を知る、ただ一人の証人として。
そして、ごく普通の高校生として。
物語は、静かに――しかし確かに――幕を閉じた。




