第1章 戦国の鼓動、ざわめく教室
時は戦国。 槍と槍がぶつかり合い、鉄と鉄がきしむ音が空気を切り裂く。 土煙、血の匂い、怒号と悲鳴。
――ここは、戦場だ。
安田光秀は、荒い自分の息の音で我に返った。 肺が焼けるように苦しい。 右手には、見慣れた竹刀じゃなく、黒く鈍く光る“刀”が握られている。
(……え? ちょっと待て。俺、さっきまで――)
頭のどこかで、白い天井と黒板、日本史教師のだるい声がよみがえる。
――「じゃあ次は、本能寺の変についてだな」
そう。 ついさっきまで、自分は 教室で授業を受けていたはずだった。
「おい、新入り!! なに突っ立ってやがる!! 殺されてぇのか!!」
怒鳴り声とともに、背中をドンッと押される。 よろめいた光秀は、反射的に前を向いた。
目の前には、槍を構えて突進してくる敵兵たち。 鎧兜の列、地鳴りのような足音。 その後ろには、翻る旗印――
(織田木瓜……? ってことは、これ……織田軍!? 本物!?)
いやいやいやいや、待て。 さっきまで日本史の授業でノート取ってたんだが?
「来るぞおおおッ!!」
誰かが叫ぶ。 敵の一人が槍を突き出して跳び込んでくる。
反射的に、光秀の体が動いた。
(間合い、三歩。踏み込み一歩。相手の重心は――)
剣道で叩き込まれた“型”が、頭より先に筋肉を動かす。 光秀は土を蹴り、一気に間合いを詰めた。
「はあああッ!!」
“面”のつもりで振り下ろした刃が、
槍の穂先と交差して甲高い音を立てる。
キィンッ!
光秀はその勢いを利用し、刀の側面で槍の柄を強くはじいた。
敵兵の腕が大きく揺れ、足元がぐらりと乱れる。
(崩れた……!)
すかさず一歩踏み込み、 光秀は刃を立てたまま敵の肩口――鎧の継ぎ目に向けて、力を抑えた一撃を打ち込んだ。
ゴンッ、と甲冑越しに重い手応えが腕に乗る。
敵兵の体がのけぞり、そのまま後ろに倒れ込んだ。
(……っ! 今の、本気で振ってたら……)
吐き気がせり上がる。
けれど、敵は待ってくれない。 次の槍が、迷いなく突き出されてくる。
「ボサっとすんな、新入りィ!!」
さっき背中を押した大柄な足軽が、横から体当たりしてきた。 槍の穂先が光秀の肩すれすれを掠め、ヒュッと風を切る。
「なに固まってんだ! 死にたくなきゃ斬れ!」
「……っ、すみません!!」
反射で謝ってから、自分でもツッコみたくなった。
(いや、誰に謝ってんだ俺。これ、部活じゃねぇぞ。)
それでも足は動いていた。 剣道の踏み込みで土を蹴り、 槍兵の懐に潜り込む。
(槍の突きは強いけど、内側に入れば怖くない――!)
「せぇいっ!」
腰を切りながら、しかし刃を振り抜きすぎないように意識して、
刀を横に払う。狙うのは鎧そのものではなく、槍の柄。
ガンッ!
横一文字に払われた刀が槍の柄を叩き、 敵の腕から武器がはじき飛ぶ。
手から槍が抜け、敵兵の体勢が一気に崩れる。
光秀は続けざまに一歩踏み込み、 刀の“峰”で相手の胸元の鎧を打ちつけた。
ドンッ!
「ぐっ……!」
男は息を詰まらせ、その場に崩れ落ちる。 土煙だけがふわりと舞い上がった。
「……っは、っ、は……!」
肩で息をしながら、光秀は自分の震える手を見下ろす。 怖い。 足も手も震えているのに、体はまだ動けと言っている。
(どうなってんだよこれ……
ついさっきまで、教室だったろ……?)
「新入り、名前は!」
「えっ!?」
戦場のど真ん中で、さっきの大柄な男がいきなり聞いてきた。
「名だ、名! 死んだら墓標にでも刻んでやる!」
「や、安田……安田光秀です!」
「よし、光秀! 死ぬなよ、まだ働いてもらうからな!」
(いや、さらっとひどいこと言ってるぞこの人。)
そんなツッコミが、心の隅でかろうじて動いている。 でもそれで、少しだけ現実感が戻った。
(とにかく、今は――生き残る!)
光秀は歯を食いしばり、再び刀を構えた。
どれだけ時間が経ったのか、正確にはわからない。 太鼓の音が遠くなり、怒号が消え、 かわりに「勝ちどき」の声が上がる。
「終わったぞー! 敵、総崩れだあ!」
辺り一面には、倒れ伏した兵たちの姿があった。
折れた槍や落ちた兜、踏み荒らされた土が、激しい戦いのあとを物語っている。 土のあちこちが暗く湿り、靴の裏にねっとりとした重さを伝えてきた。
あまりの光景に、光秀は思わず膝をつきそうになった。
(俺……本当に、生きてる……)
ギリギリで踏みとどまり、深く息を吐く。 汗と土でぐちゃぐちゃになった自分の手。 まともに動かしているだけで精一杯だ。
「おい光秀! こっちだ、殿のお出ましだぞ!」
さっきの大男に腕を引っ張られ、 光秀はふらふらと本陣の方角へ歩き出した。
天幕の向こうから、よく通る、燃えるような声が響く。
「よく戦った! 我が兵よ!!」
その声を聞いた瞬間、 光秀の背筋に電流が走った。
(この声……)
なにかに吸い寄せられるように、 人の波の隙間から前を覗き込む。
そこにいたのは、一人の男。
派手な陣羽織、炎のような眼差し、 周囲の空気を支配するほどの存在感。
教科書で何度も見た名前が、光秀の頭をよぎる。
(織田、信長……)
だが、紙の上の肖像画とはまるで違う。 そこに立っているのは、 冷酷な“魔王”ではなく、全身から熱を放つ生身の男だった。
「……あれが、信長……」
思わず漏れた独り言を、隣の大男が笑う。
「そうだ。俺たちが命張って支えてる、天下一の殿様よ。」
「天下一の、殿……」
光秀が呟いた、そのときだった。
「そこの、お前。」
信長の視線が、こちらをまっすぐ射抜いた。
(えっ、俺!?)
心臓が跳ねあがる。 光秀は反射的に背筋を伸ばした。
「その面、覚えがあるぞ。さきほど前線で何度も斬り込んでおったな。」
「あ、あのっ、自分はただ、死にたくなくて……!」
正直すぎる返答に、周囲の兵がドッと笑う。 信長も一瞬目を丸くし、それから愉快そうに笑った。
「ハハハ! よい、よい! 死にたくないというのは、立派な理由よ。
生への執着が強い者ほど、よく戦う。」
笑いながらも、その瞳の奥は鋭く光っていた。
「名は?」
「や、安田光秀と申します!」
「光秀、か。」
その名を、信長はどこか楽しげに繰り返した。
「よい名だ。覚えておこう。」
数日後、光秀は兵たちと歩く。
音が一瞬消え、次に押し寄せたのは――熱。
頬が焼ける。
耳の内側が、じりじりと煮える。
肺が焦げるみたいな臭いが喉に貼りつく。
(息……できない……)
足元にあったはずの床が、石になっている。
硬くて冷たいのに、表面が薄く熱を持つ 石畳。
目を開いているのに、視界が濁っている。
煙だ。
たっぷりと水分を含んだ煙が、目の奥を刺す。
その向こうで――寺が燃えている。
燃える、という言葉では不足だ。
炎が“寺という形をまとったまま”立ち上がっている。
屋根が落ちる瞬間、火柱が夜に跳ね上がる。
そこに風が噛みつき、火の粉が空に散る。
火薬と血と鉄の匂いが、同じ温度をしている。
――本能寺。
教科書の文字の横に載っていた写真は、どれも冷たかった。
だが、目の前の寺は熱いまま歴史を始めている。
(嘘だろ……なんで……)
耳が破れる寸前の轟音。
空気が震えて、鼓膜が痺れる。
「撃てェ!!!!!」
誰かが裂けるような声で叫ぶ。
同時に、轟ッという爆発音。
火縄銃の炸裂音は、ただの破裂音じゃない。
胸を内側から叩く衝撃がある。
熱い風の塊が、腹、喉、耳にまで入り込む。
弾丸が石を砕き、石片が頬を切る。
血の味が、煙と混ざって金属臭になる。
人が倒れた音は、想像より静かだ。
ドサでもバタでもない。
服と地面が擦れる、短い音。
光秀は足が動かない。
動こうとしても、膝が地面に根を張っている。
視界の端、炎に包まれた堂の入り口から人影。
よろめいて出てきた男が、両手から刀を落とす。
柄が石畳を叩いて、カァンッと響く。
その音だけが現実で、周囲のすべてが夢のようだ。
熱が痛い。
肌の表面じゃなく、骨まで焼かれる痛み。
空気そのものが敵だ。
(ここ……本当に……本能寺?)
名前を認めた瞬間、脳が拒否反応を起こす。
理解が追いつかない。
頭蓋に熱が入り込んで、記憶がぐしゃぐしゃになる。
背後から、何かが光秀の足を掴んだ。
「立て!!!!!死にてぇのか!!!」
泥と血に塗れた手。
腕の力だけで、光秀の体を引き起こす。
骨が抜けるほど強い。
引きずられる。
足が言うことを聞かず、石畳を擦る。
炎の前へ。
熱の真下へ。
人が死ぬところへ。
恐怖が思考を潰す。
「助けて」と言いたいのに声が掠れる。
声帯が熱で焼かれ、喉が石になったようだ。
風が吹く。
炎が吠える。
鉄が噛み合う。
教室の騒音はうるさかった。
だが、この戦場は――世界そのものがうるさい。
しかし不思議と、光秀の耳には、剣風だけが鮮明に聞こえた。
ヒュンッ…ヒュオオ……ッ
炎を切り裂く音。
刀身が空気を割る音。
筋肉の記憶が反応する。
(面……いや、防御じゃない。首筋の高さ――)
気づいた瞬間、足が動いた。
刀の方向、火縄の軌道、兵の流れ。
見たこともない戦場なのに、どれも“分かる”。
分かるのに、体が追いつかない。
炎が揺れ、
世界が赤黒く震える。
そして――光秀は自分が「死ぬ」と直感した。
(ここで……終わるんだ……)
その時、炎の奥。
信長と目が合った。
時間が止まる。
信長の瞳は、炎を内側に宿していた。
怒りではなく、恐怖でもなく。
覚悟の色だった。
信長の唇が動く。
「……来たか。」
何のために、とは問わない。
ただ、見ていた。
光秀の背に瓦礫が落ちる。
ズガン!!
骨が軋む。
頭の中で世界が弾ける。
炎が視界を塗り潰し、
音が消え、
闇が落ちる。
光秀の意識は、炎の中で落ちていった。
視界が急速に暗くなり、 次の瞬間、白い光が一気に押し寄せて――
「――殿ぉぉっ!!」
ガタンッ!!
机に額を強打する、鈍い音。 痛みと同時に、光秀は飛び起きた。
目の前には、白い天井。蛍光灯。 周りには、見慣れたクラスメイトたちの顔。 黒板には、大きくこう書かれていた。
《本能寺の変》
(……は?)
「安田ぁ?」
日本史教師・岡山が、半目でこちらを見ている。
「授業中に寝るのはまだ百歩譲って許すとしてだな……
“殿ぉぉっ!!”はやめろ。」
教室中が、ドッと笑いに包まれた。
「マジで叫んでたぞ今!」
「誰だよ殿ってw」
「動画撮っとけばよかった~!」
後ろから身を乗り出してきたのは、親友の佐藤涼太。
「なぁ光秀、お前、ついに夢の中でも戦ってんの? 剣道バカすぎだろ。」
「……夢、か……?」
光秀は、まだじんじんする額を押さえながら、 自分の手のひらを見下ろした。
そこに血はついていない。 刀もない。 ただ、シャーペンと、ノートと、開きっぱなしの日本史の教科書だけ。
――でも。
(あの重さ、あの匂い、あの声……
どう考えても、“ただの夢”ってレベルじゃないだろ。)
隣の席から、工藤美空が心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫? すごい汗かいてるけど。」
「え、あ……いや、ちょっと変な夢見てさ。」
「戦国時代っぽかったよ。
“殿ぉぉっ!!”って、本気で誰か呼んでた。」
ふっと、信長の笑い声が頭の中によみがえる。
――「光秀、か。よい名だ。」
(あれは……)
チャイムが鳴り、授業が終わる。 岡山先生が教科書を閉じながら言った。
「本能寺の変の続きはまた次回な。
いやぁしかし、信長も光秀もろくでもない連中だったわけで――」
その言葉に、光秀の心がチクリと痛んだ。
(ろくでもない……?)
さっき、戦場で見た男の姿が脳裏にちらつく。 命を賭けた兵たちに「よく戦った」と笑いかける、熱い男の背中。
少なくとも、あの瞬間の信長は、 教科書の言う「ろくでもない」だけの人間には見えなかった。
光秀は机の上の教科書を見下ろした。 《本能寺の変》の項目に書かれた、一行の文字。
――天正十年六月二日、明智光秀の謀反により、織田信長は本能寺にて自刃。
(俺は授業中で、気づいたら戦場で。
信長に名を呼ばれて、またここに戻ってきた……)
理解が追いつかない。 でもひとつだけ、はっきりしていることがある。
(――あれは、夢じゃない。)
胸の奥に、冷たい不安と、 どうしようもなく高鳴る鼓動が同時に生まれていた。
安田光秀はまだ知らない。 これが、悪夢の始まりだということを⋯




