噂(うわさ)――誰よりも近くにいるのは私だと思ってたのに――
アイゼンは城の騎兵たちの溜まり場となっている練兵場脇の屋根しかない休憩所で、深々とため息をついた。
濃い蜜のような髪は額に張り付き、浅海の色の目は憂鬱に伏せられている。
兵たちの中でも体格は良いが、顔立ちだけ見れば深窓の貴公子のようだと、よく揶揄われる。
王族列席の閲兵式に備え、早朝から何度も動きの確認を繰り返し、さきほど解散したところだ。体力自慢の王国兵たちも口数少なく、兵舎へと戻っていく。
それを横目に、兜と手甲を外して傍へ置いたまま、アイゼンは組んだ足に頬杖をついた。
婚約者に、会えない。
作法通りに手紙でデートに誘っても、いつも軽い風邪で出かけられないと言い、見舞いは遠慮される。屋敷への訪問伺いは、偶然にも三度、ほかの来客と重なるからと断られた。では都合の良い日を聞き出そうとしても、うっかり忘れたように日付の知らせがない。
そのくせ、もらう手紙は長く、丁寧で、いつもアイゼンの近況を問う楽しげなものだ。
柔らかな白金の髪を揺らし、藍色の目を細めて微笑む、婚約者ビーシャのやさしい姿が思い浮かぶ。それだけで、心が温まった。
嫌われているわけではない。そのはずだ。
だが、なまじ手紙のやり取りがあるからこそ、屋敷に押し掛けるという力技に出るのは躊躇われて、もう二月も会えていない。
閲兵式への招待状にも、はっきりした返答がないまま。
今日という大きな総合練習の日に、他の兵たちの恋人や家族が見学に来ているのを見ては、さすがに気持ちが沈んだ。
ビーシャも催しは知っているはずだ。頑張ってくださいと、手紙に書いてくれていたから。
できれば応援に来てほしい、という願いには、返事は返らなかったけれど。
嫌われてはいないはずだ。
だが、もしかして避けられているのかもしれない。
「なんでだよ」
思い当たる原因が何もなくて、アイゼンは項垂れた。
「暗いなー! どうしたどうした!」
同じ騎兵のシャーリー・ハマナルがどん、と肩を遠慮なく小突いてきた。
「ちょっとな」
「ちょっとって顔か? 話してみればいい。気が楽になるぞ」
「ああ……」
とは言われても、気持ちの整理がついていないことを喋る気にもならない。
だが、肩に肘を置いたシャーリーは、すぐにやってきた他の騎兵たちに、アイゼンが落ち込んでるから飲みに行こうと誘い始めた。
「いや、俺は今日はいい」
「えー、なんだよ、付き合い悪いな。飲んだら気が楽になるって。なあ?」
「おー、いいね、飲みか」
盛り上がり始めた仲間が今は煩わしくて、アイゼンは立ち上がった。
だがシャーリーがその袖を掴んだ。
「明日も早いだろ? 俺はいい」
「アーイゼン、腐るなよ。なんなら、二人で行く?」
「またお前らは抜け駆けかよ」
あとから来た騎兵の二人がシャーリーの肩を左右から抱いて、ついでのようにアイゼンにぶつかりながら歩き出した。
「あ、ちょっと。アイゼンを誘ってたのに」
「いいだろ、アイゼンは行かないってさ。そいつは放っておけよ。疲れてるから早く行って呑もう」
「いいけど、それならもう兵舎で食べよう。明日は早い、だろ?」
「はあ? なんだよつれないな」
なぜか男たちに睨まれて、アイゼンは首を傾げた。
つれないのはシャーリーという文脈のはずだ。それとも、アイゼンを連れて行けばいいとでも思ったのだろうか。
「あんたらで好きに呑みに行けばいい。俺は」
「アイゼンはさ、気分の晴れることを考えたら? こないだ、主演女優と伝手があって巷で人気の劇を見に行ったんだけど、面白かったよ。騎士である主人公が、某国の王女を探す密命を受けてついにたどり着いたら、ずっと自分を支えてた健気な女騎士でね。反対にずっと自分を密かに裏切っていた婚約者を捨てて、秘めるべき恋を成就させるっていう」
再び体重をかけてくるシャーリーを、アイゼンは兜と手甲を掴み取るのに合わせて振り解いた。
悪いとは思ったが、婚約者、裏切り、捨てる、そんな言葉だけがぐるぐると頭の中を回って、一気に気分が悪くなっていた。
「帰る」
「えっ、じゃあ一緒に兵舎に行こう。ほら、みんな行こう」
「いや、行かな」
「そんなこと言うなよ、ほら〜」
腹に拳を打ち込んで来るシャーリーは、常よりしつこかった。もしかすると自分も何か参っていて、仲間に話を聞いてもらいたいのかもしれない。
だが、今は諦めてほしい。
アイゼンはシャーリーの腕を掴むと、冷静に押し返したが、これに目を釣り上げたのは二人の男たちだ。
「てっめ、調子に乗るなよ?」
「調子に乗るとは、何の話だ」
真剣にわからないが、今はもうビーシャのことで頭がいっぱいで、何もかもが時間の無駄に思えた。
受け流すか、実のない謝罪をして面倒ごとを避けるか、それとも受けて立って倒して行くか。さっと検討したとき、少し離れたところから名を呼ばれた。
「アイゼン、日誌担当を頼んでいたよな? 閲兵式の練習期間は提出先が変わるから、提出早めがいい」
「ああ、そうか。すまない、今行く」
きっちりと制服を纏う青年は、明らかに士官クラスの人間だからだろうか。それとも職務の邪魔はしないということか、それ以上は引き留められなかった。
青年に歩み寄って、アイゼンは小さな息をついた。相手は顔馴染みだ。馬が合うというほどではないが、幼少時から互いの本質を知っていて、気の置けない相手だ。今はアイゼンのために声をかけてくれたと、わかっている。
アイゼンは今日は日誌の担当ではないが、それくらいは引き受けようと思った。その方が、面倒な仲間の相手よりは気が楽だ。
「助かった」
伸ばした手に、日誌が置かれる。
「もう記入済みだ。着替えてからでいいから、提出だけしてくれ。宵の二刻くらいまでなら、騎兵大隊の本部にラズリ-がいるはずだ」
「え、なんで」
今まさに、アイゼンが意を決して会いに行こうと思っていた男の名だ。共通の友人ではあるが、私的に顔を合わせることは稀である。
何故今、その名を出したのか。
訝しむアイゼンを気にも留めず、青年は眼鏡を押し上げながら淡々と、関係ないことをぽつりと溢した。
「距離が近すぎる。気をつけろ」
「は? 距離? あいつらのことか? あ、おい……」
さっさと背中を向けて振り返ってくれないが、肩越しに手を振られた。
階級も職務も違うが、同じ本部に詰めている。一番大変なのはここまでの準備だっただろうが、参謀副官としていくつか演習の責任者にもなっている青年が、練習期間も気が抜けないということは知っている。
わざわざ落としていった呟きは、何か大事なことなのだろう。
もしかして、騎兵の中でも軽騎兵の彼らとあまりに親密すぎる、ということだろうか。軽騎兵は自分の馬を持たない。平民出身者が多い兵種だ。
対して友人は、れっきとした伯爵家の令息だ。
だが、合理主義の塊のようなあの友人に、身分差へのこだわりは無かったように思ったが。
「だめだ、今は考えられない!」
何を考えようとしても、白金の髪と藍色の目と、ころころと軽やかな笑い声が邪魔をする。
アイゼンはいったん疑問を頭の片隅に追いやって、走り出した。
「アイゼン、それは僕にも無理だ」
深夜、流石に人の少なくなった本部の片隅で、白金の髪に藍の瞳の上官はそう言った。いや、アイゼンの名を呼び、僕と名乗る時は、友人同士の時間だ。友人兼婚約者の兄ラドリー・ヴィルダインだ。
「だってそうだろう。ビシシアン本人に断られてるんだろう? 兄だからともう家を出ている僕が無理を通せるはずもない」
「断られてはいない」
「応じてもらえないっていうのと、何か違う?」
アイゼンはぐっと言葉を呑んだ。
わけがわからない。よくない空気を感じる。
不穏な予感は当たるものだと、アイゼンは知っている。
「まあ、久しぶりに来たんだ。一杯だけ付き合え。近況でも聞かせろ」
「そんな気分じゃない」
「腐るなよ」
「腐るさ。話もできないのに、どうしたらいい? 何かおかしいのに、何がおかしいのか、わからない。こういう時に放っておくと、取り返しがつかなくなるのは、よく知ってる」
ああ、とラドリーが少し目を細めた。
「それで? 知ってるなら、どう動くんだ?」
「だからここに来たんだ。訪問の許可が欲しい」
「だから言ってる。もう家を出ているから、筋違いだ」
じっと見つめ合うが、ラドリーは柔らかい笑みを浮かべたまま、小揺るぎもしない。
似てはいるが全く似ていない無機質な笑顔に、アイゼンは心が冷える感じがした。
だめだ。諦めてはだめだと叱咤する自分を、他人事のように感じる別の自分もいる。
「……なんだ? 俺は何かしたのか? せめて理由を知りたい。全て終わってからではなくて、今」
「ふん」
虚無感を振り払い、絞るように問いかけると、ラドリーは笑みを消し、不機嫌そうに口を尖らせた。
子供の頃と同じ顔をするなとぼんやり思って、それから、ラドリーがやっと素の顔を見せたのだと気がつく。と思うや、ラドリーは立ち上がり、長い足を捌いてアイゼンの掛けていた二人掛けのソファに座った。
つまり、アイゼンの真横。大の男二人には窮屈なソファがぎちりと軋む。
硬い太腿が布越しに擦れて、アイゼンはなんとなく居心地悪く気持ちだけ尻をずらした。
だがラドリーはさらに、こともあろうに太腿を手で撫でたので、咄嗟に立ち上がって反対側のソファへと飛び退いた。
「な、何だ……?」
尋ねる声が自分でも驚くほど緊張しているし、何なら鳥肌も立ってきて、アイゼンは混乱した。
ラドリーはそれを、しらっとした目で見ていた。
「何だ?」
「何だとは何だ。ち、近いだろう。何だあの触り方」
「あれが近いって認識はあるのか」
「はあ?」
人が真剣に悩んでるのに、訳のわからない絡みで揶揄ってるのか、と苛立ったアイゼンの前で、ラドリーは見たこともない乱暴な仕草でそこらのボトルから適当に注いだカップをアイゼンの前にひとつ、ドンと置き、自分は立ったままぐいっと呑んだ。
はああ、と吐かれたため息は、茶がうまいせいではないだろう。本部の茶は気付け薬より効くともっぱらの噂だ。
「何度も言うが、俺には屋敷の権限はない。父をうまく使ったらどうだ。ただ、父だってビシシアンのことを可愛がってるけどな」
ビーシャを可愛がってるから、アイゼンの味方にはならないと言っている。それはつまり、ビーシャがアイゼンに対して思うところありということか。
嫌な予感が止まらない。
額を押さえて、自分を落ち着かせようと試みた。
「まだ、お部屋にいらっしゃるだろうか」
「もう帰ってるだろ」
「……そうか」
目を開けると、茶色というより黒色の水面に、捨てられた犬のような情けない顔が写っていた。
「手紙では、労ってくれるし、励ましてくれるんだ。猫にインク壺を倒されて困ったことも、毎日自分で庭から選ぶ花が黄色ばかり多くなってしまうことも、大事に使っていたペンの軸が緩んでしまって修理からの戻りが待ち遠しいことも知ってるんだ」
「……ふーん?」
「猫の首輪とビーシャのためのリボンはとても嬉しいと書いてあったし、黄色の花が見頃の丘へ出かけるのも、ペンの工房を見に行くのも素敵だと喜んでた。だけど結局、風邪を引いたからと予定は無くなった。他の予定だって、全部だ」
「それはそれは」
ラドリーは、何故か疲れたような顔をしていた。
その気怠げな様子に、今まで一度だってなかったのに、ビーシャが重なった。まさか。
「なあ、ビーシャは、病などではないよな?」
「ああ、まあ、病ではない。病のようなものかもしれんが」
「どっちだ!」
「健康だよ! わかった! 父には俺からも伝えるから、明日の練習が終わったら部屋に行ってみろ」
急に協力すると言い出したきっかけはわからないが、友人の力添えが嬉しくないはずはない。
アイゼンは安堵が溢れすぎないよう顔を引き締めて礼を言うと、茶を煽った。不味かった。
翌日の練習は気もそぞろだった。訓練日でなくてよかった。集中しているつもりで目の前が見えておらず、怪我をしてもおかしくはなかった。
何とかやり過ごして夕刻、この日は誰より早く着替えを終え、髪を撫で付けながら本城の方へと足を向けたアイゼンは、見つけた、と勢いよく腕を引かれた。
「明日は個別練習以外は休養だ。今日こそ飲みに行くよ」
「シャーリー」
反対側には、いつもの騎兵仲間が追いついて来て並び、肘で腕を小突いて来た。
彼らと絡むときには、いつもぎゅうぎゅうと押し合いへし合いになる。
騎兵の中でも軽騎兵は自分の馬を持たず、平民出身者が多い。気安く体に触れてじゃれ合うような付き合いをするのは、平民に多いかもしれない。
だがふと、二度も耳にした「距離」を思い出して、対抗するように手で押し返した。押し除けられた若い騎兵は、じゃれ合いだと思っているのだろう、ゲラゲラと笑っている。
アイゼンだって、軽騎兵の中で揉まれて鍛えられて来た。気安い付き合いは不快ではない。
だが、そういえば、貴族出身者は互いの体に無用に触れない。もつれ合って戯れるのは、せいぜい10歳ごろまでだ。それも、子息同士に限る。
文化の違いだ。よくあることだ。
貴族と平民だからに限らない。王国軍の中でも兵団によって挨拶の形も違う。それだけだ。
それだけだが。
「何で制服? アイゼンてさ、もしかして」
シャーリーが制服の腕を掴んで袖の刺繍をなぞるように指を滑らせたのを、アイゼンは思わず、振り払った。
「わ、なに?」
「いや……」
撫でる手つきに、昨日ラドリーに太ももを撫でられたことを思い出した、とは言い難い。だが一度意識してしまうと、どうしても、大人同士の適切な距離とは思えなくなった。
「何だよ、喧嘩か?」
「そんなわけないだろ、な、アイゼン」
今度は肩を抱いてくるシャーリーから逃れて、一歩離れた。
「距離が、近いなと思って」
一瞬、シャーリーの顔が引き攣った。
だがすぐに、他の男たちの爆笑で紛れていく。
「今更そんなこと気にするのかよー? 何だそれ」
「照れてるのか? まさか今更? 初心な女の子でもなし」
わっと湧いた笑い声に、普段は絡まない騎兵たちも何事かと集まって来た。事情を聞いて、目を見開く。
「え、今までベッタリだっただろ? どういうこと? 別れたのか?」
「別れたって何だ。特段理由はないが、もうガキでもないし男同士でベタつくのはやめようかな、と」
「男同士?」
奇妙な沈黙が流れて、アイゼンは首を傾げた。いや、だが、どうでもいい。
アイゼンが男同士の触れ合いを控えたからと、誰も不満を持つはずもない。軽騎兵には平民出が多いが貴族もいるし、重騎兵にだって平民出身者はいるし、彼らの間で距離感の問題で揉め事があったなど、聞いたことがない。
早くこの場を去りたい。
だが、アイゼンを詰る叫びが上がった。
「ひどい!」
シャーリーが、顔を赤くして何やら怒っている。
しばらく考えて、ようやくアイゼンは、合点がいった。
「そうか、シャーリーは女性だったな。なら余計に近づかない方がいい。今まで気がつかなくて悪かった」
異性の仲間に、当然の結論と謝罪を述べたところ。
声にならない声を上げて、シャーリーはどこかへ走って行った。いつもシャーリーとつるんでいる騎兵たちも、見開いた目でアイゼンを見た後、どこかよろよろと追いかけていく。
「うわ……、公開処刑だ」
「シャーリーはかなり作為的だったから、堪えただろうな。しかしこれは想定外の鈍さ」
「手強い」
なぜか周囲がさざめいている。
「いきなり拒否したのは俺の勝手だ。シャーリーは誰とでも距離が近いのだろうが、それ自体は否定しない。俺はもう、受け入れないが」
誰とでも? そうか? シャーリーが?
ざわりとしたが、その場にいた騎兵たちの誰もが、意味深に口を閉じた。
曖昧な沈黙。
「シャーリーさん女性には一切近くないですけどね」
高めの柔らかい声。たまたま通りかかっただけという様子の書類を抱えた女性士官が、場を濁そうとした男たちのど真ん中に、撃ち込むように言い放って歩き去った。
「え?」
「そうですね、私たちも、あまり親しくありません」
手伝いか護衛か、女性の騎兵が重ねて言い置いてから、小柄な制服姿を追っていった。女性兵は数が少ないがために、階級、兵科問わずに情報をよく共有しているという。であれば、その情報には信憑性がある。
「嫌な予感がする……」
アイゼンは気が逸るまま、本城に向けて走り出した。
その背後で、騎兵仲間がめいめいにぼやいているのは、当然聞くことはなかった。
「おい、まさかアイゼン、噂も知らないんじゃ?」
「まじかよ。何馬鹿やってんだ、あいつ。大丈夫か、そんなに疎くて」
「ほら、総合練習も婚約者が来てなかったろ? 分かりやすく落ち込んでたけど、あれってさ……」
「え、えええ、アイゼンさんって婚約者がいるんですか? 平民って聞いたんですけど」
「いるよ、婚約者。とびきりのな」
「入れ」
城の中でも格の高い執務室の前で、アイゼンは呼吸を整えた。
宰相と並ぶ権力を持つ、財務大臣ヴィルダイン侯爵の部屋だ。彼こそが、しがない一騎士であるアイゼンの、婚約者の父親なのだ。
重厚な扉越しに本人の応えをもらえるのは、特別な訪問客だけのはずだ。婚約を成す時にも、直接言葉は交わした。以降、折に触れてさりげない心遣いを受けている。婿としては、歓迎されていたはずだ。
今はどうか、わからない。悪い夢を、みているようだ。
臆している場合ではない。
アイゼンは自分を叱咤して、部屋に足を踏み入れた。
国の贅沢の髄を集めたような、それでいて、財務を預かるにしては清楚な部屋だ。
清き心を示す白色を基調とした調度のせいで、部屋は廊下より明るく感じられた。
「大変ご無沙汰をしております。アイゼン・エッケルトです。侯爵閣下には、ご機嫌麗しく」
「うむ、座るといい」
いつも通りに聞こえた声に顔を上げて、藍色の冷たい視線に背筋が伸びた。
やはり、いままでと目の温度が違う。どこかおかしい。アイゼンの幸せな日々が、狂い始めている。
思わず、座した膝に置いた手が,強く拳になった。
だが、ここまでくると、気になることはたった一つのことだけだ。
「どうぞ教えて下さい。ビー、ビシシアン嬢に、何かあったのでしょうか」
しばらく無言で見つめ合った。
無言。無言だ。
侯爵の厳めしい顔が、徐々に一層厳めしくなり、やがて額を押さえて呻いてしまった。
「侯爵閣下、まさかビーシャはそんなに悪いのですか?」
「違う、いや、そうだ違う。うむむ、アイゼン」
「はい」
「もっと言うべきことが、あるいは、私から反応を引き出すのに言葉を尽くしたりはないのか」
「はい。気になることはお伝えしましたので、お答えを待つだけと……」
それでも少し考え直して、たびたび風邪を引いていたのは大きな病の予兆だったのだろうか、とか、俺のために夜更かしをして刺繍を刺しているのが負担だったのじゃないか、と付け足すと、恐ろしい想像が一層肉薄してきて、喉が詰まった。
「わかった。わかった。アイゼン、娘は健康だ。病を得ているわけではない」
「そうですか。それは……それは、よかった」
心からの安堵が声に滲み出た。
身代わりのように、侯爵は眉間を辛そうに揉んだ。
「なんということだ。大丈夫なのか、この二人は」
「侯爵閣下? お疲れですか。肩でも揉みましょうか」
言葉通り立ち上がったが、侯爵に手で止められた。
「それは思ったままを言っているのだな。いや結構。それはまたの機会でよい」
「はい」
またの機会があるということに、つい声が大きくなった。侯爵の肩が、一瞬揺れた気がした。
「まだ、許してはいない。いくつか確認することがある」
「お尋ねいただけるなら、いくらでも」
「む、シャーリー・ハマナルと、昔付き合いがあったのか?」
「は、シャーリー? どういうことでしょう」
「体の関係だけか? それとも今も付き合いがあるのか」
一瞬、またシャーリーの名が出てきたことに気を取られ、返事が遅れた。
遅れたことに、アイゼン自身が青ざめた。想定外過ぎて返事ができなかったからと、断定されては堪らない。
「ま、ちょっと待ってください。ないです! 古今東西、何もありません!」
「だがハマナルは、そこここの酒の席で思わせぶりに二人のただならぬ関係を吹聴しているそうだ。参加する人間が軽騎兵が多いせいか、娘とお前との婚約を知らぬ者がほとんどで、現在進行形の、公然の恋人同士だと思われているとか」
「な……」
「それに、お前たちの距離がな」
また「距離」だ。
「噂を耳にして、お前たちの様子を見た者は、だいたい、真実だと思うらしい」
「……」
「言い訳はないのか」
「すみません。今日気がついたのです。友人と、ラドリーに教えてもらって。その、シャーリーが女性だと思っておらず、それまで、仲間の騎士とまったく同列に考えていて。それに、私は今後は一切距離を取りますが、私以外の騎兵ともシャーリーは距離が近い」
「体の関係があった男女は近くなりがちだ。無意識に気を許してるのだろう。ハマナルが擦り寄る騎兵たちは、お前以外皆、ハマナルと体の関係がある。これは証言が取れている。同じ距離にいれば、お前も同じそのうちの一人と思われておかしくはない」
「そんな、まさか」
なかなか呑み込めないアイゼンに、侯爵は生温い視線を寄越した。
「まさかと言うほどのことはない。職務に支障をきたさない限りは、咎められない。よくあることだ」
「はあ」
よくあることのはずがない。アイゼンの周りでは、そんな節操のない者はいなかった、と思う。
とはいえ、思い返す端から、思い当たることが湧き出てきた。
シャーリーが戯れかかっていたのは同じ騎兵の中でも若い男ばかり。だが女性には近づかず、むしろシャーリーが避けたり、シャーリーを避けている男たちもいた。そういえば、そんな男たちの一人に、あいつやたらに近くて気にならないか、と言われたことがある気がする。つまりは、シャーリーがベタベタと触れて嫌がった男には近づいていないということか。
アイゼンは、ただ気にしてなかっただけ。それが、嫌がられていないと判断されたのだ。
アイゼンは、不快に顔を顰めた。気安い仲間だと思っていた連中がみんな、知らぬところで別次元の絆を結んでいた。その輪の中に、勝手に入れられていた、衝撃。
どうして、気がつくことができなかったのか。
だが本当に、シャーリーよりもいつも一緒にいる騎兵たちの方が、やたら肩や腕にぶつかったり肘を当てて来たりと、触れることが多かった。
あいつら、シャーリーにひとしきり絡まれた後に、ニヤニヤと見て来たり、調子に乗るなよと謎の悪態をついたりしていたやつら……。
いやいや、まさかあれは兄弟扱いや恋敵扱いだったってことか?
戦慄していると、侯爵はため息をついた。
「お前の行状としては、不貞の疑いなど何もなかった。だが過去のことくらい隠さないくらいでよいかと思ったのだ。だが、こうも無頓着なだけとは。娘を任せられるのか、不安になるな」
頭を殴られたような気がした。
「ビシシアン嬢は、もしかしてそのことを気にして……?」
「さて、何も話さないから、私は知らない」
侯爵は父親の顔で言う。
「だが、笑いもせず食べる量も減って、娘が幸せそうには見えない。一方で、お前に宛てた手紙の中の娘は、とても幸せそうだ。さて、どっちが真か」
「どちらが真でも、ビーシャが不幸せなのを放っておくわけにはいきません」
❖ ❖ ❖
眼裏に可愛い娘の姿を見ていた侯爵が目を開けると、娘の傷心の原因は姿をくらませていた。遅れて、重たい扉がゆっくりと閉まった。
屋敷に突撃するつもりだろう。
「……ラドリーの言う通り、見た目に反した脳筋だな」
呟くと、堪えきれずに噴き出した。
「噂にも疎く、人の心の機微にも疎く、求める情報を得るのに小細工もできない」
言いつつ、屋敷へ鳥を放って、娘の苦悩を終わらせる相手を迎え入れてやるよう指示を出す。
「けれど友人には恵まれているし、人の心をいたずらに疑わないんですよ、奴は。一度、嫌というほど裏切られたのに」
話を聞かせろと隣室にいたラドリーが、肩を竦めながら出てきた。
父親である侯爵ですら、これほど親しみを表す息子を知らない。自ら友人と称するなど、一握りの相手にしかしないだろう。
アイゼン・エッケルトは、昔も今も、エッケルト子爵家の次男だ。だが今のところ、軍の上層部以外では、そのことを殆ど誰も認識していないだろう。
母親が兄だけを連れて子爵家を出ていた時期があり、アイゼンはその間、長男として、派閥の貴族家子息の集まりに参加していた。突然戻った母と兄に、その集まりに参加することを禁じられる未来など知らず、屈託なく友人を作り、後継者としての学びを楽しんでいたという。ラドリーらとの友誼もその時結ばれた。
だがある日突然、アイゼンは次男に戻された。
長男が戻ろうが、アイゼンが引き換えに全てを失う必要はなかったはずだ。集まりに兄弟で参加する家もあった。だが子爵家は、不遇だった長男の立場を奪った罰のように、アイゼンの社交を禁じた。友人からも学びからも切り離されたアイゼンは、やがて王国軍に放り込まれて、家族からも切り離された。
くだんの長男は、奪ったアイゼンの立場など早々に投げ捨て、病弱にかこつけて屋敷に篭ったままと聞く。
たった10歳の子どもは、濁流のような変化に呑み込まれ、もみくちゃになったはずだ。
さらに、もともと兵士を志望するような男児は体も大きく、剣の基本もできている。特に体を鍛えていたわけではないアイゼンは、はっきりと落ちこぼれだったそうだ。好きな本の話も分かる相手なく、日常の会話すら小難しいことを言うと嫌われ、陰湿ないたずらのもっぱらの対象になった。
その頃は受け止められなかった、とアイゼンは再び友と呼べるようになったラドリーらに、吐露したことがある。
だがある日、かつて肩を並べて本を読み、大人の政治の話をこっそりと吟味し合っていたラドリーたちを遠目に見たとき、悟ったのだと。
受け止めないでいる限り、つらいのだ。
アイゼンは、もうあそこには行けない。
アイゼンのいる場所は、王国軍の、しかも底辺だ。
まず、そこから認めるしかない、と。
平民出身の見習い兵たちとは、ぶつかって、互いに納得すれば仲間になれた。彼らは、貴族の子息とは違い、表面だけを取り繕わない。その違いに気がつけば、アイゼンだって、気を使う必要がなくなった。
アイゼンは、土に根を張った若木のように馴染んでいき、誰もアイゼンを貴族の子息だなどと思わなくなった。アイゼン自身、ほぼ忘れていたのだろう。正式に騎兵として任命されたときも、子爵家に報告すらしなかったと聞いて、侯爵は親として驚いた。逆に、一切干渉のない子爵家に対しても、思うところは多分にあったが。
だが、少しずつ、幼い頃の環境の差が、周りとの差として滲み出る。
そも読み書き算術ができる者は重用される。アイゼンは仲間の誰より早く騎兵本部の役職に就いた。単なる雑用係の職名であり、釣り合いのためだけに階級を上げられただけだと考えるのは本人だけ。仲の良かった見習い仲間の多くに、遠巻きにされた。
代わりに、士官として騎兵本部に現れたのが、かつての友人だった。元友人だと思っていたのはアイゼンばかり。遠くなったかつての友人たちが、アイゼンのことを忘れずにずっと探していたことを、そこでようやく知ったのだ。
「ようやく会えた消えた友人が、意外に近くで、平民に交じって逞しく騎兵なんかやっていて、僕たちはもっと真剣に探せば良かったと罪悪感に駆られたんですけどね。もっと友を信じれば良かったって逆に礼を言われて、あの時から、僕たちはアイゼンには勝てないんです」
探していた、など、口ではいくらでも言うことができる。隠れて笑いものにしたり、もう身分は違うのだと心の底では思われているかもしれない、10歳のあの時のように、信じていると全てを失うかもしれないと、思うはずなのに。
自分からは二度と疑わないと、アイゼンは真っ先に柔らかな心を差し出して見せた。
「不器用極まりないが、学んだことは活かすようだ。私にも、差し出してきたぞ、心を丸ごとそのまま。失う恐ろしさを知っていて、なお顔を背けない心根は、なんだ、その、愛おしいものだ」
柄にもないことを言って、もじもじとした侯爵は、息子のしらっとした視線に気がついて、顔をしかめた。
「なんだ」
「鉄の宰相と並ぶ機械仕掛けの財務大臣と言われるお人がね、と思いまして。愛おしいのは父上もですよ」
「お前こそ、デレデレしていたではないか。棚上げをするな」
「はいはい、愛おしくない息子は仕事があるのでこれで」
「さっさと行け!」
ははは、と楽しそうに笑いながら歩き去る息子に、戻ってきた侍従たちがぎょっとしていた。
あれでも妹のことを気にしていたから、肩の荷が下りたのだろう。
侯爵も、娘が笑顔を取り戻すことをどこか確信している。
破局したらば、親子三人で海辺の街にでも長逗留に出かけるかと、不謹慎にもうきうきと取り寄せていた資料は、ごん、と拳で叩いておいた。
❖ ❖ ❖
日が沈むかどうかという時刻、アイゼンは二ヶ月ぶりに、侯爵家の大きな屋敷に馬を飛ばして駆け込んだ。誰も止め立てはしないが、視線は冷たい。
よほどのことが起こっているのだ。
体は健康だと家族が言うのを疑うわけではないが、それでも婚約者の身が案じられて、アイゼンはいつのまにか、案内も置き去りに廊下を走っていた。
まどろっこしい。
このまま廊下伝いに行けば、取り次ぎが三回は必要になる。下手をすれば扉の前で本人に断られ、会ってもらえないかもしれない。
瞬時に判断して、アイゼンは廊下の窓から中庭に出て、助走をつけて壁に取り付き、スルスルとよじ登って屋根を越え、明かりの漏れる外向きの広いバルコニーへとすたりと着地した。
季節は秋。バルコニーから見渡す壮大な庭園には瀟洒な秋薔薇が咲き誇っているのだろう。もう宵闇に呑まれて見えないが、ここまで香りが漂ってきていた。
前に会った時は、夏もこれからという頃だった。黄色い花咲く丘以外にも、湖にも、川下りにも、水を使った舞台にも誘ったが、会うことができなかった。
振り返ると、会いたさが募る。
なぜもっと早く、こうして忍び込まなかったのだろう。
ごくりと緊張を呑み込んで、窓越しに覗くと。
窓辺の書机に向かう、アイゼンの唯一の女性が見えた。
燭台の灯りに照らされる、手元を覗き込む顔にかかる白金の髪、真珠のような肌に、赤珊瑚の唇。憂う藍色の目に影を落とす、金の睫。
アイゼンの目には、ビーシャが内から輝いて見える。出会ってからずっと、そう見える。
起きあがっている様子に、アイゼンは安堵した。体調を崩しているわけでは、やはりないらしい。
ああ、だが確かに、痩せてしまっている。
頬の柔らかさに翳りを見つけて、身の裡がぎりっと絞られた。
「ビーシャ」
失うのは怖い。恐れていてはみすみす失う。だから次があれば抗うと決めていた。けれど、抗っても抗っても、失ってしまうことはあるだろう。その時は、きっと想像を絶する傷を負う。
だが、彼女を失うことなんて、想像ですら許せない。
いてもたってもいられずに、アイゼンはこつ、と窓を叩いた。
❖ ❖ ❖
窓がこつりと鳴って、帰りそびれた小鳥でも当たったのかとビシシアンは顔を上げた。
外を窺ったが、何もない。不思議に思って窓を押し開けると、大きな影がぬっと出てきて、部屋に押し込まれた。
驚いて身を縮めたが、口を押さえる手以外は紳士的で、そしてとても、好ましい匂いがした。
こんなに近づいたことはないけれど、知っている。誰よりも愛おしい匂いだ。
けれどまさか。
(あっ、まだだめ! まだ会えないのに)
もごもごと口の中で消えたはずの声を、婚約者は聞き取ったらしい。
「会えないってどうして?」
問い詰めらる声が震えているように思えて、驚いた。
「俺は、会いたかった。ずっとずっと、やさしい君に会いたくてたまらなかった」
声が、耳から背から、全身から溶け込んできそうだ。
ビシシアンはきゅっと目を瞑り、嘘……と一言呟いた。
「嘘じゃない。君に嘘なんてついたことはない。会いたいって手紙にもずっと書いてたはずだ。手紙から伝わる君だけをよすがに何とか過ごしたけど、それじゃ足りない」
足りなかったのは、ビシシアンも同じだ。
アイゼンが初めに纏っていた外の空気が立ち消えて、二人の間にこもる空気は温かな匂いに満たされている。初めて抱き締められたのにずっとこの形で生きて来たのだと信じるほど、居心地がいい。全身がアイゼンに溶け込むような、そんな至福にビシシアンは蕩けた。
「でも……でもだめだったの」
「ビーシャ」
「だって私、やさしくない」
イヤイヤと首を振っても、もはや子供の駄々に見えるだろう。だから、会いたくなかったのだ。会ってしまえばこうして、ぐずぐず泣き縋ってしまうだろうから。
「ビーシャ、俺は鈍くて知らなかったんだけど、俺に噂があったんだって。それを聞いた?」
こくり、と頷く。
「嘘しかないから。過去に誰とも付き合ってないし、誰も好きになったことはない。ビーシャだけだから」
もう一度、こくりと頷くと、アイゼンがほっと息をついたので、もやもやを押し込めて唇を窄めた。
抱き締められていて、顔は見えないはずと思ったのに。
「ビーシャ、言いたいことは言って欲しい」
そう促されて、びくりとしてしまった。
あやすように体ごとゆらゆらと揺らされた。
「ほら、あるんだろう。呑み込まないで、教えてほしい。俺は君だけは、何をどうしても失いたくない。諦めない。何とか、するから」
催眠にかかったようだった。ぼんやりとするのに、感情だけは膨らんでいく。
だめだ、だめだと、あんなに苦しんで押し込めて来たのに。
「距離が……近くて、嫌だった」
アイゼンの腕が、ぎゅっと力を増してビシシアンを抱き締めた。
❖ ❖ ❖
「だって二人は他人の距離ではなかった。見たもの」
「ごめん、ビーシャ。本当に他の男たちと同列に見ていて。それはどちらにも申し訳ない」
「あちらの方になんて、謝らないで! どうせ私なんて、身分をかさに押し掛けた悪い婚約者で、仲間としていつも一緒の方の方が気持ちが近くてらっしゃるのだわ。騎士同士ってきっとそうなのよ」
「それって確か、今流行りの舞台の話じゃない? 本当の騎兵連中はもっとガサツで…」
ぎゅうっと袖を腕の皮ごと掴まれて、アイゼンは言葉を止めた。
堰を切って溢れ出したビシシアンの苦悩を聞いていると、アイゼンもまた、胸が苦しい。
ずっとおとなしく腕の中にいてくれるけれど、顔は見せてくれない。どうしていいかわからないまま、柔らかくてキラキラした宝物をゆらゆらとあやしていたが、嫌だっただろうか。
「あなたが舞台を知ってるなんて。前に私が誘っても、あまり面白くなさそうだったのに。――どなたと観に行ったの? その、お仲間の女性?」
首筋に剣を突きつけられても、ここまでの恐怖は感じまい。
絶対に婚約は続けるし結婚もする! そう叫べば通じるだろうか。
実際シャーリーにどこに触れられようと男性として反応しないのだが、さすがに言えない。今は――今はかなり正念場だから、それどころではない。
「聞きかじっただけだよ。ビーシャが一緒じゃないのに、観に行かないよ」
一瞬だけ、ビシシアンが顔を上げてアイゼンを見た。
藍色の目は澱み、底のない、涙の淵のようだ。
けれどすぐに顔は伏せられ、迷子のように頼りない嗚咽が胸に直接響いた。
そうか、と悟る。彼女は、今の悋気を見せたくなかったのだろう。
「ビーシャ、もっと言いたいこと言って。俺は、それで嫌いになったりなんかしないから。むしろ今、そんなに怒ってくれて、嬉しい」
ぎゅうう、と袖を掴む力が強くなった。挟まれた皮もぎりぎりと痛むが、それすら甘美だ。
「やだ、あんな手つき。私の婚約者にそんな触り方しないでって言いたかった」
でも言わなかったのは、何かを思い遣ったのだろう。身分からすれば、ビシシアンの怒りをかえば、一騎兵ごとき翌日には辺境行きもあり得る。それを慮ったのだろうか。
それとも。
「でもアイゼンは、私のこと、優しいって言うから。優しい私が好きなんだと思って。こんな、こんなに毒まみれの私なんて見せたら、き、嫌われ…」
「嫌わない」
自分の言葉のせいだった。気付いて、アイゼンは自分を百回でも殺したくなった。
正直に言えば、そこまで思ってもらえるのは嬉しい。
だが、悲しませたくも、苦しめたくもない。
「ビーシャが優しいのは真実だ。初めて会った時も、友人たちを庇い、励ましていた」
会場の護衛についていた夜会で、不遜な子息に絡まれた友人を庇って堂々と渡り合っていたビーシャを見て、ただ優しいだけの令嬢と思うはずがない。
子息を追い払った後、すぐに令嬢たちが立ち直れないのは経験上わかっていたから、アイゼンは適度な知らん顔で、壁となって彼女たちの側にいた。ひたすら怖かったと泣く友人を必死に宥めるビーシャとて、細かく震えていたのに気付いても、特に何もしなかったのだが。
友人を迎えに来た付き添い侍女が、仕える主人の有り様に動転して、ビーシャを責め始めたから。影に徹するべきところを、一言物申したのだ。迂闊にバルコニーに出た令嬢を、同じくか弱い令嬢が身を挺して庇ったのに、感謝どころか罵倒するのは筋が違う、と。
壁にしか見えていなかったのだろう。俺の存在に驚き逃げるように去っていった。
「あの後、ビーシャは俺に礼を言ってくれてから、おもむろに言ったんだ。私、自分でも言い返せるようになりたいですって。その頃、俺は自分がいったい何者なのかわからなくて。生まれた家には捨てられたのに、自分で作った居場所も生まれのせいで居心地が悪くて、だからといって逃げるように昔の友人たちにすがるのも勝手じゃないかとか、考えすぎて溺れそうだった。だけどその時のビーシャの笑った顔に、何となく、与えられるものは感謝して受け取っていいんじゃないかって思ったんだ。だから、ビーシャが俺を捜し当てて求婚してくれたとき、心のままに、喜んで受け入れた」
腕の中の嗚咽は止まっている。全身で聞いてくれているのがわかる。
愛おしい。
この温もりを今腕にしているのが、信じられないくらいに。
「ビーシャは、俺を前向きにしてくれる。人の気持ちをやさしく受け止められるようになった気がする。だから、ビーシャはやさしい。やさしい、俺の光だ」
「……言い過ぎよ、アイゼン」
「本心だよ。重過ぎて嫌?」
「嫌じゃないわ。でも急に、罪悪感で潰れそう。私、勝手に思い込んでずっとあなたを避けてた。……ごめんなさい」
「会えてよかった」
ごそり、と身じろぎしたビシシアンが、袖を離し、両手を脇に回した。
それどころではないというのに、アイゼンは幸せに酔って、くらりとしてしまう。
「あなたばかり、頑張ってもらったわ」
「そんなことない。痩せてて、驚いた。ごめん。ごめん、ビーシャ」
「もう謝らないで。私、私ももっとあなたを信じるべきだった。怖くて」
「それが、一番怖いことだと、俺も知っている。ねえ、ビーシャ、勇気を出してくれるなら、今、顔を上げて? 俺の目を見てくれるだけ。それだけでいいんだ」
ビシシアンの動きが止まった。
逡巡が伝わる。
けれどアイゼンはただ、待った。顔が見たくて。
「ん、もう。私いま、酷い顔してるのに。なのにそんなに待たれたら。……困るわ」
照れ隠しを言いながら、ビシシアンがついに、ごそりと顔を動かした。
涙の残る目は予想していた。けれど、抱き合って温まった顔が火照り、乱れた髪から後れ毛がいく筋もまるい額にかかり、唇までいつもより赤く熟れていて。
「ビーシャ」
もう、何も考えずに。
アイゼンはもう一度、二人の距離を縮めて消した。
「だいぶ掃除が捗ったな?」
制服姿の友人が、眼鏡を押し上げながら、いくらか呆れてそう言った。
「公表してからもしつこかったから。さすがに、な」
同じ制服姿で、アイゼンは凝った肩を回した。
シャーリーも、その恋人たちも、もうこの王都にはいない。
流石に距離が近いだけで処分はできないのだが、距離感の見直しを突きつけたところ、自己保身と正当化のために日夜押しかけて喚き散らし、業務妨害で馘首になったのだ。
閲兵式当日の慰労会にて、正式にアイゼンの経歴とヴィルダイン侯爵家令嬢との婚姻の日取り、そして昇進と同時に騎兵本部副官任命が発表され、先日のアイゼンとシャーリーとのやりとりが騎兵のみならず軍内で共有されていたところに、担当の業務すら疎かにして奇行を繰り返せば、庇う者がいなくなるのは当然だ。
処分の際の取り調べでは、女優の友人を通して演劇の内容にまで口出しをしていたらしい。特にそちらに処分はなかったが、いつの間にかその演目は上演されなくなり、今は新しい演目が流行っている。
「もっと早く忠告してくれたら、と思わないのか?」
「それは思うよ。そうすればビーシャが苦しむのは短くて済んだ」
「だが、今だって財務大臣からは、周りが見えてないし無頓着すぎる考えが浅いって酷評されてるんだろ。早く解決しても助言で気づいたんだとなれば、さらに評価は低くなるかもしれないぞ。お前が脱落したら、手を挙げる男はたくさんいるだろうしな」
意味深な発言に、アイゼンは酸っぱいものを食べた顔をした。
「もしかして、お前もか?」
「さあ?」
「あー、迂闊に気を許せないな。でも、それでも教えてくれたんだな、有り難いよ。義父上には確かにすごく酷評されるけど、友人には恵まれてるって言われてる。大事にしろってさ」
今度は、眼鏡の青年の方がむずむずとした顔になった。
「まあでも、悔いは残ってるんだ。夏の間にもっといろんな場所に連れて行けたのに、って……」
「新婚旅行でよろしいのでは?」
はっとした時には、空気のような女性士官は、発言などなかったかのようにさっと退室していた。
「あれは……」
「彼女、前も助言をくれた人だ。どこの部署だろう。同じ女性でも、この距離の違いに気がつけていればな……」
たらればの話は、失わずに済んだ最愛を思い出したら、すぐにどこかへ消えていった。
さあこれを片付けたら今日は彼女に会いに行くんだ、と、意気揚々書類に向かう。
その大本部付きの女性士官こそ、義兄ラドリーの内々の婚約者で、彼女の観察と証言のおかげで、侯爵とラドリーにかろうじて無実を信じてもらえたのだと知ってから、アイゼンは義姉に頭が上がらなくなるのは、また別の話。
侯爵家への婿入りに苦労は避けられなかったが、アイゼンの誰よりも近いところにはビシシアンがいる。
それだけで、彼の人生は、幸せである。