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盲目マジュヌーン  作者: ヘベロッチDTK
一章 盲目の宦官奴隷
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新たな生活

「君に任せたいのは娘──ナーディヤの護衛だ。普段は家の中で過ごしているのだが、たまに外出して買い物をすることがある。その時にナーディヤに着いて回って欲しい」


「今まではどうしていたんですか?」

 隠すように小さく、クトゥブは溜息を吐いた。

「ナーディヤはなんというか、人嫌いでね。昔から付き合いのある侍従長と私以外には顔を見せようともしない。今までは離れたところから護衛に監視させて対処していたのだが、最近物騒でね。どうしてもナーディヤのすぐ傍に人を置きたかった」


「それで、俺ですか」

「頼む」

 クトゥブはサービトの手を両手で包み込んだ。

「盲目の宦官である君なら、ナーディヤも傍にいることを渋々認めるだろう。何かあった時、勿論戦えとは言わない。近くにいる護衛が助けに来るまでの僅かな時間だけ、娘を危険から守ってほしい」


 これが、サービトという男の役目なのだろう。

 特段任に努めたいという気持ちはサービトにはない。しかしそれ以上に、断る理由もなかった。

 サービトはかつて存在した両目で見つめるように、クトゥブを正面から見据えた。


「俺は、一度死にました。それからここに来るまでの生活を、良いとも悪いとも思ったことはないです。それはこれからの生活も同じです。何故なら俺は、一度死んだからです。死人にできるのは残された者の幸せを願うことだけ。それ以上は何も求めません。そして、何も求めないということは、頼みを断る理由もないということです。俺の力が必要なら手を貸しましょう」


 サービトの手を包むクトゥブの手に力が籠った。

「ありがとう。でも、君にもいつか新たな生きがいが見つかる。ここで我が家の一員として暮らしていればね」

 クトゥブは笑い、サービトの手を離した。

「さて、娘に会わせよう。話は通してあるから挨拶ぐらいはできるだろう」


 中庭を渡り、何本もの柱がある庇入口を潜って中に入る。中央には広間があり、両脇にそれぞれ部屋があった。

「左が私の部屋で、右がナーディヤの部屋だ」


 目的の部屋の前で止まり、扉越しにクトゥブが声を掛ける。

「ナーディヤ。前に話した新しい護衛を連れてきた。挨拶しなさい」


 返事はない。扉の向こうは無人のように息を潜めている。

「ナーディヤ。この人は盲目の宦官だ。何も警戒することはない」


 声どころか物音もない。路地から聞こえる喧噪が通り抜けてくる。

「ナーディヤ。ダマスクスはこれから危なくなる。護衛なしでは外出を認めるわけにはいかないよ。それは分かっているだろう?」


 答えは返ってこない。クトゥブは重苦しい声を洩らした。

「……他の家なら娘を無理矢理にでも引っ張り出すんだろうが、私にはとてもではないができない。今日は諦めて君の部屋を案内しよう」


「それはなりません、旦那様」

 老人の声が響いた。押し殺したような静かな足音だったが、それを事前に捉えていたサービトは驚くことなく声のした方に振り返る。

「ヤークートか。紹介しようサービト、彼が侍従長のヤークートだ。彼も元々は奴隷でね。今はこうして我が家の一切を取り仕切っている」


 老人の肌は一際黒かった。その黒い肌は深く刻まれた皺をさらに際立たせ、髪や髭に混じった白髪を浮き上がらせ、澄んだ白目を輝かせる。頭に巻いたターバンは白でも黒でもなく、青い色をしていた。


「旦那様、そのような時間はありません。イフラース殿が至急の用とのことです。後はお任せください」

「なんと。サービト、すまないが後はヤークートに案内してもらってくれ。実際これからは私よりヤークートの世話になることの方が多いだろう。困った時はヤークートを頼ると良い」

 言ってクトゥブは小走りで去っていく。ヤークートが自然な動作でサービトの腕を手に取った。


「では貴方の部屋に案内しましょう」

「足音で分かります。手を持つ必要はありません」

「それは失礼しました」

 ヤークートはサービトの腕を丁寧に下ろしてから手を離した。

「聞きたいことは山ほどあるでしょうが、部屋についてからにしましょう」


 一度中庭に出て向かいにある部屋に入った。必要なものは置かれているが飾り気はない。掃除こそされているが使われた形跡は一つもなかった。

「気に入らなければ遠慮なく言ってください。空いている部屋はまだまだありますので」

「ここでいいです。どこでも一緒ですから」


 ヤークートは常に機嫌が良さそうな老人だった。クトゥブよりは弱い微笑みが絶えず浮かび、どこか子供のように全てを楽しんでいるような無邪気さが声音に表れている。


「それはよろしいことです。こちらの椅子に座ってください。新しいターバンを巻きましょう。話はそれをしながらということで」

 サービトは言われた通りにした。背後に立ったヤークートはのんびりとした動作でサービトの頭に巻かれたターバンを解いていく。


「お嬢様は難しい人なんですか?」

「私と旦那様以外から見れば、そうでしょうね。使用人でも声すら聴いたことのない者も多いでしょう。世の女性以上に部屋から出ることは少なく、日々お一人で過ごされています」

「何かあったんですか?」

「私の口から話せることではありません。それに当時、私は別の家で働いていましたから正確なことは知りません」


 ターバンが外れた。ヤークートは解いた布を脇に置き、今まで巻いていたものよりかなり長い布を手に持った。


「ターバンで目を覆い隠してもよろしいですか? どちらにせよ注目されれば目立つでしょうが、アル=アッタール家の者がハラーフィーシュに間違われるわけにはいきませんから」

「そうしてください。自分で巻く時もそうします」


 ヤークートはこれまたゆっくりとした動きで真っ白なターバンを巻いていく。


「そんなお嬢様が新しい護衛を受け入れますか?」

「お嬢様は聡い方です。受け入れざるを得ないことは理解されているでしょう。それに旦那様がお嬢様を思う気持ちも理解されています。時機にお嬢様の方からお声を掛けてきますよ。それまでは屋敷の中を確かめてはどうですか?」

「仕事はしなくていいんですか?」

「サービト。貴方の仕事はお嬢様が外出する際の身辺警護です。他の事はしなくても問題ありません」


 あまりにも好待遇だった。

 サービトは奴隷についてほとんど知らない。カラジャの時代、戦いに敗れた者たちが奴隷として売り飛ばされていたのは知っているが、その後どうなったかは噂も流れてこなかった。しかし、戦に敗れた者たちの待遇は想像するに難くない。


 それなのにアル=アッタール家の待遇は気味が悪いほど素晴らしい。今まではつい躰が動くことはあっても無意味だと抑えていた警戒心が、どうにも鎌首をもたげてきた。


「それなら勝手に外に出ていいですか?」

「はい。手が空いていれば私が案内しましょう」

「逃げ出しますよ」

 ヤークートが声を上げて笑った。

「アル=アッタール家より良い場所はありません。必ず望んで帰ってくる事になりますよ」


 意味がない。サービトは改めてそう思った。

 去勢はともあれ盲目となった今の自分が見知らぬ地で生きる術はない。そもそも一度死んだ身だ。騙されて畜生のように扱われようとも死体を弄ばれるようなものだ。させたいようにさせておけばいい。


「言ってみただけです。しばらくは衰えた躰を鍛え直そうと思います」

「それはよろしいことです。ですがサービト、そう時間は掛かりませんよ。お嬢様は本がお好きな方なのですが、事前に新しい本が入荷したとお伝えしておきました。なので数日以内にお出かけになる筈です。さあ、できました」


 ターバンが巻き終わった。通常のものより一回りは大きく、サービトの眼から上に綺麗な球体が出来上がっている。

「何か問題があれば遠慮なく言ってください。すぐに対処しますから」


 この気遣いにどう答えるべきか。何を求められようと全てを受け入れるのみ、望むことは何一つない。当然、気遣いも不要だ。

 悩んだ末に、サービトは曖昧に返事をして言葉を濁した。

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