流れ着くはダマスクス
焼けつく大地に人々が額をこすり付けていた。つい先ほどまで賑わっていた大通りはぴたりと動きを止め、一様に同じ方角を向いて五体投地で祈りを捧げている。
そこを、小走りで突っ切る五人の男がいた。
「いやいやごめんなさいね。急いでるもんで。いや申し訳ない」
先頭の男は言い訳をするように何度もそう呟いて、群衆の絨毯の隙間を縫っていく。五人とも似たような恰好をしていたが、中央にいる男は縄で腰を縛られていた。手足こそ自由だが縄に引っ張られるままに着いていき、何故かずっと両目を閉じている。
五人は脇道に入り、しばらく進んで歩みを緩めた。強烈だった日差しは家々の影に遮られ、途端に熱さが和らぎ汗ばんだ肌が瞬く間に乾いていく。
「そろそろだ。奴隷の確認をしろ。汚れや怪我はないな?」
先頭の男が言うと、最後尾の二人が中央で縄に繋がれた男の検分を始めた。服に付いた砂があれば払い落とし、ターバンに乱れがあればそれも直す。最後に顔や手足を布で拭いてやり、「大丈夫です」と答えた。
「良し。もうすぐアル=アッタール様の屋敷に着く。粗相のないようにな。ハリル、お前は言わなくても大丈夫だろうが、大人しく言われた通りにするんだぞ」
やがて、薄暗い路地の先に邸宅が見えてきた。
煉瓦作りの二階建ての邸宅は大きくも地味だった。ほとんどが煉瓦の茶一色で構成され、積み木を組み合わせたような簡素な外観をしている。唯一色味の多い入口も最低限の色遣いに抑えられ、ささやかな態度で客を出迎えていた。
先頭の男が扉を叩く。中から男が出てきて短く会話をし、しばしその場で待たされる。その間に先頭の男は振り返り、ハリルと呼ばれた奴隷の見た目を指をさして一つ一つ確認する。そうしていると、邸宅の扉が再び開かれた。
「待っていたよ。いや、待ち侘びていたよ」
伸びやかな声をした男が出てきた。やせ細った躰に白衣を纏い、銀製の帯で留めている。垂れた目に長い髭は老人を思わせるが、黒々とした毛色は生気に溢れていた。
「お久しぶりですアミール(将軍)。ご希望の奴隷を連れて参りました。盲目で去勢され、しかも心身ともに頑強な若者です。それと急いだあまりご挨拶の品が遅れておりまして、もう少しすれば到着──」
「──そんなことより彼の縄を解いてあげなさい」
男たちは大急ぎで奴隷の縄を解いた。それをアミールと呼ばれた男は微笑んで見守り、自由になった奴隷に歩み寄る。
「私の名はクトゥブ・ナイール・アル=アッタール。今日から君は我が家の奴隷となるが、それはアル=アッタール家の一員になるという事だ。住む場所も食事も用意するし、給料も払う。何も心配はいらないよ」
無言が続く。先頭の男が奴隷を肘で突き、ややあって奴隷は口を開いた。
「……まだこの国の言葉が上手く喋れないんです」
「気にしなくていい。言ったろう? 今日から君は私の家族だ。家族に形式ばった口調は必要ない。それで君の名前は?」
「ハリル」
その名を口にした瞬間、奴隷の脳裏に遊牧民だった頃の記憶が過った。父カラジャを殺し、攻めてきたヤクブを殺し、そしてボズクルトに見切られた。
あの時、ハリルという名の男は役目を終えた。カラジャの息子ハリルはもういない。
「……ただ、その名前の男は死にました」
クトゥブは穏やかな表情のまま眉尻を下げた。
「そうか。君が望むのなら新しい名前を決めよう。そうだな、サービトというのはどうかな?」
「それでいいです」
「よしサービト、早速家を案内しよう。さあ全員入ってくれ」
クトゥブは振り返ろうとしてサービトに向き直った。
「眼が見えないと新しい場所は不安だろう。腕を貸そう。遠慮なく掴まりなさい」
「足音で分かるんで大丈夫です」
「それは素晴らしい。では改めて、全員入ってくれ」
クトゥブに続き、サービトも邸宅に入った。その後から奴隷商人たちもぞろぞろ着いてくる。
通路を進んだ先に、打って変わって色鮮やかなイーワーン(前面開放広間)があった。天井はどこまでも高く、植物文様が縦横無尽に刻まれ、壁際には白磁器やラスター彩陶器がこれでもかと飾られている。そしてイーワーンはそのまま客室に繋がり、その奥には中庭が広がっていた。
客室に着いたところでクトゥブが足を止めた。
「すまない。私が相手をしなければならないのは分かっているが、今日はサービトの案内を優先したい。申し訳ないが君たちはここで待っていてくれるかな?」
「いえいえ」
先頭の男が大げさに両手を振る。
「いつもアミールには大変お世話になっておりますからどうかお気遣いなく」
「すまないね。すぐに侍従長が来る。さあサービト、行こうか」
中庭に出ると、中央の噴水が穏やかな音を立てていた。地面を埋め尽くすタイルにクトゥブの足音が響く。歩幅が狭く、引きずるような歩き方だ。
「もしかするとサービト、君は事前に知っていた奴隷というものと今の待遇の違いに戸惑っているかもしれない。それどころか今に私の態度が急変して、君をいたぶるのではないかと怯えているかもしれない。まず、それについて誤解を解こう」
ふと、足音が近づいてきた。若い男が声をかけてくる。
「おー、これが例の新しい奴隷ですか旦那様」
「そうだがすまない、挨拶は今度にしてくれ」
「はいはい。ではまた」
足音が離れていくが、入れ違いにまた別の人間が近づいてきた。
「最近ハラーフィーシュ(物乞い)が増えて困っていると街区を纏めるシャイフ(長老)から陳述が届いています」
「それはイフラースに言ってくれ。私は新しい家族の案内が──」
──言い終わる前に、さらにもう一人が走ってきた。
「倉庫に小麦を置く場所がないんですが!?」
「それはヤークートに聞きなさい」
集まっていた者たちが散っていく。クトゥブは微笑をこぼして口を開いた。
「奴隷というのは家畜と同じだ。こう言うと奴隷は酷い扱いを受けている、そう勘違いする者がいる。いや勘違いではないな。残念ながら奴隷を動物以下のように扱っている者もいる。しかしな、自分たちが手塩にかけて育てた家畜をいたぶる者がどこにいる? 奴隷は大切な財産だ。実の子供のように接する事もあれば、子供の教育を任せたり、あるいは財産の管理を任せたり、とにかく私たちの社会では大切に扱われている方が圧倒的に多い」
そこで、クトゥブはサービトの手を取った。
「ここからは階段を上がる。これは流石に助けが必要だろう」
申し出を断る理由はなかった。傾斜の緩い階段を、クトゥブが一歩一歩ゆっくり上っていく。サービトは手すりを握り、段を撫でるように脚を動かした。
「二階は家族、まあ私と娘しかいないが、それと侍従長と女性の使用人だけが入ることを許されている。今日から君もその一人だ」
サービトはクトゥブの腕を、気付かれないよう微かに揺らした。滑らかな動きだ。不自然な筋肉の緊張はない。
「……初対面の俺を、そこまで信用していいんですか?」
「疑問は尤もだ。たが、私は奴隷商人の彼を信頼している。彼は奴隷商人ではあるが、私の手足となって各地の情報を集め、時には私の代理として外交官の任も果たしてくれている。君のことは事前に彼から聞いていてね。君になら娘を任せられると思ったんだよ」
階段を登り終えると、また中庭が現れた。中央には噴水ではなく長椅子が置かれている。喧噪は下から聞こえてくるばかりで二階は静まり返り、日光だけが激しく差し込んでいた。
クトゥブはサービトの手を持ったまま、庇の下に入って足を止めた。
「君に任せたいのは娘──ナーディヤの護衛だ。普段は家の中で過ごしているのだが、たまに外出して買い物をすることがある。その時にナーディヤに着いて回って欲しい」