来訪する使者
ようやく穏やかで過ごしやすい夏が戻ってきた。
多くの人間が日が昇る前から家畜たちを連れて放牧に出て、テント群は嘘のように静まり返る。残っているのはテントで寝かされた赤子と念の為戦に備える俺たち若い男だけだ。
ヤクブの部族はいつの間にか消えていた。長を失った遊牧民はいとも簡単に瓦解するものだ。奴らがこれからどうするにしろ、俺たちと戦おうとしていたヤクブが消えた以上、この地に留まり続ける理由はないだろう。
騒ぎ続ける家畜はおらず、赤子の泣き声だけが響いている。平和な喧噪だ。やがてぽつぽつと人が帰ってきて、それ以上に戻ってきた大量の家畜の鳴き声が全てをかき消していく。
俺は狩猟したイヌワシを短刀で解体していた。肉も当然食らうが目的はその羽だ。他の鳥のものでも矢羽根に使えるが、やはりイヌワシが一番好みだ。丈夫なのも良い。
誰かが走り寄ってきた。子供の軽やかな足音だ。犬の鳴き声も聞こえた。
「ハリル! サイード? とかいう人が会いたいって」
この辺りの人間の名前ではなかった。俺は短刀を持ったまま立ち上がる。
「会おう」
遠くからヤギの声が聞こえた。その子供は放牧の途中で帰ってきたのだろう。案内されてテント群の外に行くと、子供の父親が使者たちの相手をしていた。
「何の用だ」
子供の父親に代わって使者たちに話しかける。尖った帽子の上にターバンを巻いているが、首から下の恰好は俺たちとそう変わらない。イルハンの連中か。
「族長のハリルですね? 我が主サイード様の言葉を伝えに来ました」
「誰だ」
「イルハンの将にして、戦死されたヤクブの義理の父。それが我が主サイード様です。一度、遠くからではありますがその軍勢とお会いになられている筈です」
つまり、サイードがヤクブの後見か。直接動いていたのはヤクブでも、裏で糸を引いていたのはイルハンの意を受けたサイードだ。そいつがわざわざ出張ってきた。
嫌な予感がひしひしとした。
「ヤクブの首を取り返しに来たのか」
「ヤクブには子がいました。我が主のお孫様でもあります。まだ赤子ではありますが既に才気煥発にして、ヤクブの後を継いでこの度首長に就任されました」
面白い冗談だった。力こそ全ての遊牧民の世界において、赤子が暫定だとしても首長になれるわけがない。
「まず初めに成すことは父ヤクブの敵討ち。しかしそう勢い勇んでもまだ幼いお孫様にその力はありません。そこで今回、お孫様の雄姿に涙を流された我が主が協力することになりました」
後ろからどよめきが聞こえた。振り返ると残っていた母親たちだけでなく、放牧から戻ってきた奴らも離れたところから様子を窺っている。
「とはいえ、戦いになれば多くの血が流れるもの。お孫様は慈悲深いお方です。敵であるハリルの首を差し出して降伏するなら、他の者は助命すると仰せになりました」
まどろっこしい。本格的にイルハンが介入してきた。それだけの話だ。
「お前たちの兵は千はいたか」
言いながらヤクブの兵がサイードの軍勢に逃げ込んだ時の事を思い出す。確かに大群だった。正確な数は覚えていないが、俺たちが動員できる兵数を遥かに超えているのは間違いない。
「降伏をお勧めします、とだけ言っておきましょう」
言って、使者は笑った。
俺も返事をするように笑みを浮かべ、そいつの頭に短刀を振り下ろした。頭蓋を貫く感触──すぐさま短刀を動かして脳みそをぐちゃぐちゃにする。短刀を抜きながら死体を蹴り倒し、呆気にとられて驚くのも忘れている残りの使者たちに血塗れの短刀を向けた。
「これが答えだ」
弾かれたように使者たちが逃げ出した。俺は死体の服で短刀を拭い、踵を返して仲間たちに宣言する。
「もう一度戦を始めるぞ」
賑やかな夜が戻ってきた。
大量の家畜が集まればただの身じろぎでも騒音の域に達する。そこに鳴き声が加わったものが俺たちにとっての子守唄だ。
「もう寝るのか?」
テントの外からボズクルトが話しかけてきた。俺は床に入ったまま目も開けずに返答する。
「朝早くに先手を打つ」
「ほかに手は打ったのか?」
「まず俺一人で仕掛けて敵の出鼻を挫く。話はそれからだ」
「正気か?」
「今の状況で、お前以外にまともな戦力がいない。また敵の首を持って帰れば奮い立つ奴も出てくるだろう。至ってまともな判断だ」
ヤクブ程度を怖がっていた連中だ。イルハンの大軍を相手にすると知った時の仲間の顔は、思い出したくもない。血の気の多い若い奴らですら心のどこかに恐怖を抱えていた。
ボズクルトの溜息が聞こえた。
「分かっているなら戦い以外の手を考えるべきだ。援軍を呼ぶつもりはないのか? 南の奴隷たちはイルハンと対立している。手を組むだけでも抑止力になる筈だ」
ボズクルトが他の長たちの意見を代表して伝えにきたのは分かっている。それでも降伏や逃亡だけでなく、援軍を呼ぶのも論外だ。
「それで生き延びてどうする」
テントの外で砂を噛む足音が鳴った。
「なに?」
「どれだけ栄えようが全てのものはいつかは滅びる。かつての大帝国しかり、父カラジャしかり。故にこそ、いかに誇り高く行動するか、それが重要になってくる。生き死には全て後から付いてくるものだ。そんなくだらないものに囚われるなと言っておけ」
「援軍はそんなに不名誉か?」
「自らの力で解決できません、そう言う奴のどこに誇りがある。人として最低限のものを忘れて生き残るぐらいなら、死んだほうがマシとは思わないか」
誇りを失った人間が行き着く先は、強者ならカラジャになり、弱者ならヤクブになる。仲間たちをそんな醜く汚れた人間にさせるわけにはいかない。
「もう一度聞く。降伏や逃亡はしないんだな?」
「あり得ない」
「援軍も呼ばないんだな?」
「呼ぶわけがない」
「……分かった。話を纏めておく」
ボズクルトの足音が離れていく。それでいい。俺が戦果を挙げるまで待たせておけ。
そもそも仲間たちは戦う前から怖がりすぎだ。敵が俺たちより多かろうが、一人ひとりの質が圧倒的に違う。しかもその精兵を率いるのは俺だ。敵の首をあっさり取ってくれば、そんな単純な事実に仲間たちも気付くだろう。首を見せられた若者たちは奮い立ち、戦力にならない老人たちは口を閉じるしかない。
それからどれだけ眠っていたのか。テントに人が入ってくる気配で目が覚めた。相変わらず騒がしい子守唄が響いている。
「ボズクルトか、どうした」
長い付き合いだ。誰が入ってきたかぐらいは気配だけで分かる。目を開けても暗闇で人影しか見えない。夜明けはまだ遠そうだ。他に二人いるのに気付くが、共に馴染みの奴らだった。
「ああ……起きたか。そろそろ時間だろうと思ってな。流石に一人で行かせるわけにはいかないから人を用意してきた」
余計なお世話、とは言わないでおいた。少し早いが準備を始めよう。躰を起こして立ち上がろうとして、ボズクルトが何かを構えていることに気付く。
弓。俺に矢を向けている。
「大人しくしろ、ハリル。意味は分かるな?」
ボズクルトが言う。他の二人が剣を片手に慎重に近づいてくる。
声を出そうとした。躰を動かそうとした。
だが、何一つ思い通りにいかない。感覚が切り離されたように全てが漠然とし、暗がりに浮かぶボズクルトの影がどんどん大きくなる。
二人に縄で縛られる。抵抗はできた筈だ。戦いになっても勝てた筈だ。それでも、自分の意思では指一本動かせなかった。
俺は、見切られたのか。
俺は、父カラジャと同じだったのか。暴虐の限りを尽くし、全ての人間に恨まれようとも圧倒的な力で支配していたカラジャは、醜かった。人として堕ちるところまで堕ちた奴だった。
だから、俺はカラジャを討った。
その跡を継いだ俺は、当然カラジャの二の舞になるまいと仲間を率いて誇り高くあろうと生きてきた。カラジャと同じように醜いヤクブを討ち倒し、奸計を仕掛けてきたイルハンとも戦おうとした。
だが、行き着いた先はカラジャと同じだった。
「その男の始末はお前がしろ、ボズクルト」
テントの外から聞き覚えのない男の声がする。どこか訛りのある喋り方だ。ボズクルトはイルハンに対抗する為に、外部勢力と手を組んだらしい。
俺に着いてこられない奴がいるのは分かっていた。しかしそうか。ボズクルトですら俺を見切ったのか。
俺には他に方法がなかった、そうのたまう気はない。また同じ機会があったとしても、俺は同じように振舞うだろう。そしてまた、信頼していた男に見切られる。
赤々とした光りが闇に点る。熱された鉄の串が俺に向けられる。その先端が眼球に迫ってくる。
痛みなんてどうでもよかった。熱さなんて感じなかった。家畜の鳴き声は聞こえなくなり、心臓の鼓動さえも静まり返る。
ボズクルトに裏切られた。
ただ、それだけが俺の中でぐるぐる回っていた。