監禁
再び衝撃を受けて、サービトは眼を覚ました。
生きている。それに衰えている。遊牧生活をしていた頃なら背後から忍び寄ってくる敵にも気付けた筈だ。
「起きたか?」
男の声を無視して、サービトは自らが置かれた状況を確認した。
手足を縛られて転がされている。喧噪はやや遠く、風は感じない。床も石材のような感触だ。屋内だろう。サービトの大柄な躰は重く、しかも目立つ。遠くまで運ぶのは難しく、襲われた現場からそう離れてはいない筈だ。
「起きろ!」
腹に、爪先が食い込んだ。サービトの口から息が漏れる。
「こっちの有難い忠告無視してくれやがって、覚悟はできてんだろうなあ!」
また、腹を蹴られた。男がサービトの目の前に座り、ターバンを毟り取る。それから髪を掴み、サービトの躰を無理矢理引き起こした。
「本当に眼潰されてんだな」
笑い、男はサービトの顔を殴った。さらにもう一発、サービトの口の中が切れた。男が髪から手を離し、三発目の拳を振り被る。
別の足音が聞こえた。拳が、サービトの顔を打ち抜いた。勢い余ってサービトは地面に倒れ込み、口の端から血が垂れ落ちる。殴った男の息が少し乱れていた。足音がゆっくり近づいてくる。
「うっす、適当に痛めつけておきました」
そう言った男の横を通り過ぎ、足音が大股で寄ってくる。
棒が、サービトの喉に食い込んだ。軽い突きだ。痛みはそうでもない。棒も細く、サービトは喉を鳴らしながらなんとか呼吸する。すぐに棒が離れた。先ほどの男がサービトの胸倉を掴んで引っ張り起こし、背後に回って首を掴み上体を固定する。
衝撃。棒で肩を殴られた──サービトがそれを認識した時には横腹も殴られていた。こめかみ。硬い音が骨を伝わってくる。ようやく痛みがやってきた。
妙に手緩かった。
痛めつけているようで、決定的な一撃は明らかに避けている。アスワドが今も黙り込んでいるのもそれが分かっているからだ。サービトが常人より遥かに頑丈な事を差し置いても、骨の一本も折れていないのは不自然にも程がある。
不意に、覚えのある匂いが鼻についた。記憶を手繰り寄せようとした瞬間、サービトの意識が飛びかけた。遅れて顎が熱くなる。見えない筈の視界が揺れていた。
やはり不自然だ。男たちの目的が見えない。
まさか憂さ晴らしにサービトを痛めつけているわけではないだろう。見せしめならもっと厳しく暴力を振るう筈だ。拷問なら何かしらの質問があるだろう。それなのに、そのどちらも存在しない。暴力に慣れていそうなだけに違和感が凄まじい。
男たちの正体は以前サービトに忠告し、後にナーディヤといる際に襲ってきた連中だろう。その全ての手口に共通する、一線を越えまいとする配慮はどこから来るのか。
「来ました!」
別の男の声が、離れたところから響いた。サービトを殴打する手が止まる。首を掴んでいた手も離れ、サービトは地面に崩れ落ちた。
腹が熱かった。
サービトがそれを知覚した途端、痛みが膨れ上がった。腹を刺された──理解したと同時にサービトは歯を食い縛る。揺れそうになる意識が安定する。駆け足で二人分の足音が離れていく。
腹の内側で肉が裂け、めくり上がるような痛みが暴れていた。それを感じ取れる余裕があるのは軽傷の証だ。刺されたのは横腹、臓物に寸前で触れない位置だろう。
やはり、手加減されている。
「サービト!」
ナーディヤの金切り声が響いた。大勢の足音がサービトに走り寄ってくる。抱き起されると同時にサービトを縛る縄が切られ、腹の止血も行われる。
「……犯人が分かりました」
言って、サービトは腹の止血に携わる人間以外を押しのける。それで躰に痛みが走るが構わず動いた。
「お嬢様以外の人間は下がってください」
「喋らないで! お腹から血──」
──そこで、ナーディヤは押し黙った。何人かを残して足音が出ていく。サービトの腹の刺し傷を布で押さえた人間は他の傷の具合を確認する。
「……安心して、全員事情を知っているわ」
不安定さは覗いているが、ナーディヤの声は落ち着いていた。それでいい。サービトは安堵する。腹心の前であろうが人の上に立つ人間が取り乱した姿を見せるものではない。
「犯人は今まで俺たちに警告を送り、襲ってきた連中です。そして、その一人からアンズと小麦粉の匂いがしました」
元々、それらができる人物は一人しかいなかった。ただ、動機が見当たらないから候補から除外していた。しかし犯人からアンズと小麦粉の匂いが香ってしまえば動機の有無は関係ない。
「犯人はズールのカターダです」
アンズを乗せたフブズを売っている店は他にもあるかもしれないが、人を襲い、誘拐までできる人物は、フブズ屋を営むズールのカターダを除いて他にいない。
「この通り手加減された事も証拠です。俺にだけちょっかいを掛けてお嬢様には指一本触れていない。明らかに奴らはお嬢様に気を使っています」
「……嘘よ」
ナーディヤの声が震えた。
「彼らが何の為にそのような事を」
問題はそこだった。
カターダの手口と言葉から考えて、大人しくしろという警告以外の目的は考えにくい。その指示を出せる第一候補はクトゥブだが、クトゥブの立場ならズールのカターダを使う必要はない。直接言って聞かせれば済む話だ。
「ズールに命令を出せる人は旦那様以外に誰がいますか?」
「ヤークートをはじめ数人いるけれど全員同じよ。わざわざズールを使う意味がない」
しかし、現にズールのカターダは警告してきた。
「サービトを助けに来た時、奴らは戦う素振りも見せずに逃げるというより冷静に撤退しました」
ウトバの声がした。離れたところから話している。
「そうなると考えられるのは二つ。一つはカターダが独断で動いた。一つは私たちが把握してない人間がカターダに指示を出した。共通するのはお嬢様に直接言い含める事はできないが、かと言ってお嬢様に危害を加えられない点です」
何にせよ、ズールのカターダがクトゥブの意向とは別の思惑で行動しているのは間違いない。
「……カターダさんを調べましょう」
重苦しい息を吐きながら、ナーディヤは決断した。
「マムルークの不正についてはまだ進展がないから、そちらはクバイバート街区の皆さんに任せて、私たちは」
「ハイサムです」
頭に過ると同時にサービトは声に出していた。
「襲われたマムルークが俺を仲間だと勘違いして、ハイサムに気を付けろと伝えてくれ、そう言っていました」
迷うような間が開いた。
「……いえ、私たちはカターダさんを調べましょう。もし彼らがお父様を裏切っていたならお父様の身が危ない。お父様はこの街の希望よ、万が一があってはいけないわ」
サービトは、ナーディヤに協力を求められた時の事を思い出した。
ナーディヤは父クトゥブを尊敬している。だからクトゥブが良くしようとしているこの街を乱す悪人が許せない。そう言っていた。
元を正せばナーディヤの行動は全て、クトゥブの役に立ちたい、そこから始まっている。理由はどうであれ、父カラジャを殺したサービトとは大違いだ。
羨ましいとは思わない。カラジャは戦士としては傑物だったが、それ以外があまりにも醜かった。殺す以外に道はなかっただろう。それでも、サービトは父を失う気持ちを知っている。
そしてそれは、父親と良好な関係を築いているナーディヤが知らなくていい気持ちだ。
「俺もカターダを調べるのに賛成です」
その結果不都合が出るなら、その時は盲目の宦官奴隷サービトの出番だ。背中を押すなり手を貸すなりしてナーディヤを助けてやればいい。
「でも気を付けてください。カターダが相手なら使用人を通じて情報が漏れるかもしれません。まずはそれをどうにかした方がいいと思います」
ウトバも肯定する。ナーディヤは頷き、サービトの傷だらけの躰を見やった。
「分かった。でもサービトは休んでいて。傷が治るまでは私たち二人でどうにかするから」